京都・奈良辺りの痴犬どもへの破折 6 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2006/03/20(Mon) 16:46 No.3520 [返信]

> 投稿日時:2006/03/20(Mon) 15:12
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> タイトル:おいおい誤魔化すなよ〜ポンポコリン
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>> ●> <信心修行の途上で誰人にも起こりうる法門理解における誤解であって、結局は第六十六世日達上人の御采配によって全て円満に決着している問題である。
>> ▼> ↑こんなんでは答えになってまへんのや誤魔化したらあきまへんで法門理解における誤解は誰がしたんでっか?答えてよ!日達上人の御采配によっていつ、何をもって決着したの?おせーてーや!明確に答えなさい!君も苦しいね〜
>> ―――――――――――
>> ●破門になった創価学会などという派生・寄生虫団体とは違って、今、現に、誰も「破門」にもならず、和衷協力して創価学会が絶対に広めることの出来ない「三大秘法」を広めていることが、何よりの「現証」である。

▼>> ↑おじさん〜答えになっとらんよ いつ、何をもって決着したの?
>> 法門理解における誤解は誰がしたんでっか?はっははははー
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> ●よく精神病者が一日中同じことを繰り返し呟く・喚く・していると聞くが、痴犬の今の様はまさにこれである。
> 京都の会館辺りでは、このような”危ない”犬を飼っているのか?
>
> さ、精一杯背伸びして、法義的に実に重要な問題、上記の詰問へ少しでも反論を企ててみたら如何か。
> それとも反論不能の醜態をまだまだ晒し続けるか。
>
> いよいよ見ものである。
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▼> ↑だめだよオジサン誤魔化したら答えになってませんな返答不能でんがなはっははははー いつ、何をもって決着したの?
> 法門理解における誤解は誰がしたんでっか?「法道院は間違っていた」と明言した黄倉くんの助っ人でシャシャリ出てきてんのやろキッチリ答えてもらいまっせ はっははははー
>
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●痴犬では、もうダメだな。対面対論であれば、完全に会場の笑い者になっている状態である。
御同信の創価学会員からも失笑が漏れる場面である。
所詮、ファミリーコースの緩斜面で滑るのがやっとのレベルの者には、上級コースの急斜面でのパラレルターンは無理だった、と言うことである。
↑そうやっていつまでも、壊れたテープレコーダーをやっていたまえ。
だから、京都・奈良の辺りの青年部は時間が止まっているんだな。なるほど、痴犬を見ていて良く分かった。
そんなことでは世界の時流に取り残されるぞ。

では、こんな無益でしかも瑣末な、成仏出来るか否か、という最重大事と全く縁のない、過去の些事に囚われて猿回しのサルの如くに、同一箇所を回り続けている痴犬をそのまま眺めつつ、先に進もう。

では、こちらからいきましょう。
痴犬は法義的には全くの反論不能状態であるから、さらにそれは宿題として保留し、以下の愚問を粉砕していく。
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▼> A金権腐敗の管長選挙、

以下の慧妙記事で完摧である。
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『資料編』を笑う

 五十八世日柱上人、六十世日開上人の御事につき、
『資料編』は、
▼日開上人のクーデターにより日柱上人が退座させられ、五十九世日亨上人が登座された。日開上人は有元広賀(大慈院)師との間で、権謀術数うずまく管長選挙を展開し、猊座に登った
と疑難している。

 『資料編』はこれを論証するために、当時の一般紙・文書類を用いているが、これについては後に述べる。

 こうした疑難もまた、日蓮宗の悪僧・安永弁哲の受け売りを基礎に、創価学会流にアレンジしたものである。
よって、両上人の御事につき、『悪書板本尊偽作論を粉砕す』より引用し、破折とする。

■「日柱上人は、宗学において漢学において、また信念において、まことに傑出(けっしゅつ)されておられた。
ただしかし、それがためにか、凡庸(ぼんよう)なる人に対して思いやりの心が充分でなかった、ということは僻目(ひがめ)ではないと思う。
日正上人もそのことを憂(うれ)えられたのであった。
日柱上人は、壮年時代より、そのため他の誤解を招かれた事があったが、日正上人はそのつど庇護(ひご)せられたのであった。
しかして、また一方においては、いかがわしい人物に乗ぜられるきらいがあったのである。

 日柱上人は管長に御就任になられるや、宗門の全体的建て直しを断行すべく、宗務院に剛直をもって聞こえた板倉広淳師を登用して、着々計画を実施あそばされたのであった。
しかるに広淳師はその準備を完了する前に逝去(せいきょ)せられたのである。
次いで坂本要道師を登用せられたのであるが、日柱上人の志(こころざし)を遂行するには、必ずしも適当なる人ではなかったのである。
ここに宗門は日柱上人の志における宗門の再建に賛成もあり、反対もあったのであるが、ついに再建には不賛成ということになって、その決議がなされたのであった。
日柱上人も、これではとうてい志を達することは不可能と思し召されたが、この接渉(せっしょう)の間に、日柱上人に帰依する信徒は、日柱上人に対しての反対は絶対許し難いとして、此の信徒達と一般僧侶との対峙という形になったのである。
しかし、まもなくして、日柱上人は辞職をなされて、日亨上人に御相承あらせられたのである。
この御辞職については、信徒には御相談なくなされて、後継の詮衝(せんこう)に移られたので、周囲の信徒は、我々に一言の御相談もなくなされたとして憤慨(ふんがい)したが、この一事をもって万事を察することができよう。

 日柱上人が日亨上人への御代替式に当たって、御影堂における、一山大衆始め宗門信徒に対しての御挨拶は、じつに申し上げようのない立派さで、今日に至っても、その印象が一般の脳裏(のうり)にしみわたっていて、昔話の折(おり)には必ず語り合われている。
これが真実の歴史であって安永君などの遠く想像も及ばぬところである。
(中略)
 日柱上人の御事柄は、爾来(じらい)、宗門人の脳裡にあって、宗門行政の上に常に指針となっている。
日柱上人は、厳然(げんぜん)と宗門の運営の上に生存しておられるのである。
(中略)
 日開上人は、生来(せいらい)、非常に謙譲(けんじょう)な御方であって、むしろ謙譲すぎると、一般から言われていた方である。
この上人が何で日亨上人の地位を奪い窺(うかが)うということをなしえたであろうか。
 まったく事実を誣(し)ゆるも甚(はなは)だしいと言わなければならない。
 日亨上人は、御隠退を決定あそばされるや、御意中、日開上人に御譲りあそばされる御意向があられたであろうが、きわめて理性的な遵法的な御方であるから、宗制に選挙に依って定めることになっているかぎり、それに従うべしとの御意向で(これは吾人の想像である)、自由なる選挙を行なわしめられたのである。
ここに大慈院(だいじいん)との競争が展開されたのである。
当時は宗門の上には、守旧派と進歩派があって(この分け方は必ずしも妥当ではないが)、その数は、ほぼ五分五分であった。
大慈院は進歩派の棟梁(とうりょう)をもって任じておられ、実践的な方であった。
しかも、日開上人は、前述のとおり非常に謙譲な方であったから、対抗してあくまでやるというような御考えはなかったと見るが至当であろう。
むしろ、周囲の者が日開上人の御人格に帰依して、あくまで後継者たらしめねば、との強い意気込みで、その熱に動かされて選挙に臨まれたのである。
もちろん日開上人は、大慈院のあまりにも進歩的なところに危惧(きぐ)を持たれておって、やはり他に人はなく、自分が出なければ、という御考えは深く御持ちあそばされた、と拝察ができる。
ここに、初めての自由選挙が行われたのである。
そして、その過程においては、種々の問題があったのであるが、それは当然、選挙には免(まぬが)れないことである。
これを嫌えば、自由選挙はありえないことである。
一番問題になったのは、有権者を俄(にわ)かに作ったことで、その有権者の資格が問題になって、文部省へ裁断を願い出たのである。
この裁断が下るのが存外(ぞんがい)、暇(ひま)取ったため、選挙が永引いた観があった。
裁断はたとえ資格がないから無効としても、票数を厳密に調べれば、日開上人の方が二あるいは三票多いから当選は日開上人である、ということであった。
これが当時の真相である。
 日開上人は御在職七年にして、御隠退あそばされたが、これに対しては御留任(りゅうにん)を願うというのが、宗門のすべての声であった。
然し上人は断固として御決意をせられたのである。
それは日亨上人の時、管長の年限は七年と規定されたのであって、その宗制の規定によって管長に就任したのであるから、これに従うべきで、今さら自分の手で規則を改正して延長することは断じてできないとの御意見であった。」

 以上が両上人の真実なのである。
以前にも書いたとおり、この『悪書・・』は六十五世日淳上人・六十六世日達上人の御著述である。
すなわち、御自身の目で見られてきた真実を記されているのであって、偏頗な資料しか持ち合せず、妄想によって文を作る学会など遠く及ぶところではない。

 また『資料編』は、当時の一般紙・文書類を並べて疑難しているが、本宗の唯授一人血脈の大事を知らない一般紙に、どの程度のことがわかるであろうか。
事件、事故等の客観的な出来事は取材できても、その信仰上の本質は容易にわかるものではない。

 次に、その当時に配布された文書類についていえば、いずれが正資料であるか、検討も加えぬまま、捏造に都合のよい箇所のみをとりあげているのである。
このようなズサンな宗史探求であるから、当然のこと、各所に矛盾がでてくるのである。
 その矛盾の一例を挙げて、『資料編』の誑惑(おうわく)ぶりを明らかにしておく。
 まず、『資料編』が用いている当時の文書類を挙げれば、
 「正鏡」(※日柱上人反対派)
 「正邪の鏡」(※日柱上人擁護派)
 「上申書」(※日柱上人擁護派)
 「声明書」(※有元派=管長選挙における日開上人の対立候補派)
 「弁駁書」(※日開上人派)
等である。

 この一覧で、日柱上人側とその反対派、日開上人側とその反対派というように、双方の記事を引用しているのがわかるが、その引用の手口は、切り文・ならぬツマミ喰い・である。

 『資料編』では、『声明書』を引用して、次のごとく作文・している。

▼「この御会式の十一月九日の朝、日亨上人の退座の意志を聞いて驚いた有元派のある人物は、日亨上人に対し、『猊下がいま御辞職になっては、せっかく安定した宗門が再び修羅の巷となります。留任をお願いします』と述べたが、日亨上人の辞意はあくまで固く、『乱れるのは承知である。宗門が二分したら終(つい)には落ち着くところに落ち着くのである。君達も大いにやり甲斐のあるわけじゃ、大いにやれ』(有元派『声明書』一部抜粋)と答えられたという。
このとき、日亨上人は阿部派に宗務行政の実権を握られ、完全に浮かされた状態にあった。……」

 当時の資料を用いることで、このように断定的に描いているが、先の一覧表の中の一つ、『弁駁書』は、まったく逆の事実を記しているのである。

 次に挙げるのは、その『弁駁書』のうち、日亨上人のお言葉として紹介されている箇所である。

■「(※右記『声明書』中の日亨上人のお言葉をさして)なんたる曲筆であろう。
某人が、これは法主たり管長たるべき一宗統治の職に在る仁の言語とも思えぬと怪(あやし)んで、事の実否を予に確かめんとしたる由を聞いてをるが、もっともの事であった、『選挙が穏(おだ)やかにいかぬ事があっても、その場だけで、あとは落ち着くから心配はあるまい』といったのを、自分等が騒ぎよいとうに、予が言を矯(た)めたり延(の)ばしたり接(つな)いだりしたのである驚かざるをえぬ。
また、時の拍子でのぼせあげて錯覚でも起こして、声明書に書いたように聞いたのなら、何ゆえにそれは管長たる者の言語か・と念を推(お)さなかったのか。
人並以上に饒舌を弄するくせに、何という不謹慎なことだ」(『弁駁書』昭和三年十二月二十九日)

と、『声明書』中の日亨上人のお言葉は事実でないことが述べられているにもかかわらず、「騒ぎよいように」「矯めたり延ばしたり接いだりした」言葉・を根拠に、「日亨上人は阿部派に宗務行政の実権を握られ、完全に浮かされた状態にあった」と、捏造しているのである。

 『地涌』編集部の手元には、この両方の資料があるにもかかわらず、自らに都合の悪い部分は紹介すらしない、その手口の汚なさには辟易(へきえき)せざるをえない。

 本紙は、この『声明書』と『弁駁書』あるいは他の資料のいずれが正資料であるかを決定するものではないが、『資料編』と名乗る以上は、資料への厳密な検討をしてから記事にしてはどうか。
ただ、いたずらに、資料を羅列するから「資料編」・・というのでは、悲しすぎるというものだ。

 学会は、両上人の御事を挙げて、自らの「法主退座要求」なるものを正当化したいのであろうが、右の『悪書・・』においても、また、御当代日顕上人におかれても、日柱上人が退座せられたのは、自らのお考えによる御辞職であったとせられている。

 すなわち、日淳上人・日達上人・日顕上人と、三代にわたる猊下が御決定あそばされているのである。
 学会の「法主退座要求」を正当化できる余地などどこにもない。