●> <3、■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり
> <@「僧」を謗る痴犬は謗法ではないのか。
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▼> (゜o゜)三宝一体の僧宝を謗った事はありまへんな いつまでも眠たい事ゆーてたらあかんでしかし

●痴犬には御書の御心が読めないのである。

■「次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」

1、四恩を報ずべきことを仰せになられた御文の中で、敢えて「僧の恩」と仰せであるから、当然「僧宝」についての御指南と拝する。

2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。
痴犬は日興上人のみを「僧」と立てる。それでは日興上人御遷化の後は、仏宝・法宝は断絶するということになる。大矛盾である。
痴犬なるが故に、こういう当たり前な道理が分からないのである。

3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。

A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
■仏法と申すは道理なり 道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。

4、であるから、末法今時に、「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。

5、こういう道理が、痴犬のように見えなくなる者が多いから、「僧の恩を報じ難し」なのである。

6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。