▼> まぁ〜現罰で焼け死んだ法主などあんたがいうような僧宝には値せんわな

●こんな言い古された話、今更論ずる必要もない。
痴犬らは相当アナクロニズムである。
以下の書は日達上人・日淳上人のお言葉である。
痴犬は両上人の御指南を引文するのであるから、以下のお言葉も否定できないはずである。
重々その曲がりきった根性へ沁み込ませたまえ。
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 『日蓮正宗布教会編・悪書板本尊偽作論を粉砕す』

次に、日恭上人の焼死の御事について述べておく。
 日恭上人は、昭和二十年六月十七日の夜半、大石寺の庫裡・客殿の焼失の時、管長室において焼死あそばされたのであるが、まず、その出火からいえば、大石寺大奥の管長居室は二階建ての座敷であって、その三間ほど隔てたところに応接室の対面所という建物があった。
 世界大戦もようやく苛烈になってきて、陸軍では、朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめていたが、大石寺もその宿舎となったため、数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊しておった。そして、これを訓練する将校が、二十数名も対面所に宿泊していたのである。
 ちょうど、静岡市空襲の暁に、これらの兵隊がガソリンを撒布して、将校室となっていた、その対面所の裏側の羽目に火をつけたのである。そのため、火は一瞬にして、建物の全部に燃え上がったのである。それがために将校は、身の回りの物をもって、わずか三尺の縁側の外に逃げるのがようやくであったのである。火は、やはりほとんど同時に、管長室に燃え上がったのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破って、これまた、ようやく逃がれたのである。
 この時には、一山の者が駆けつけたが、もはや、手の施しようもなかったのであって、たちまちのうちに二階建ては焼失してしまったのである。

 一同は、それよりも延焼を防ぐべく努力したが、ついに客殿、書院、土蔵を灰塵に帰せしめたのである。この間、兵隊は三門に待機して、将校が監視していたのである。まったく終戦前夜の様相であった。
 夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。
 その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。
 上人は、その日の朝、上井出村の壽命寺(仮寓)から大石寺に御出でになられたが、それを聞いた某老師は、さっそく御訪ねして御機嫌を伺ったが、御話は自然に戦争のことになり、日々の空襲戦火を非常に心配し、『敗戦は免れまい』というようなことを仰せられ、『いつ自分も倒れるかわからない、もしその時には相承のことが心配だが、その用意もしてある』と御洩らしなされ、また『御隠居も御二人健在でいられるから』との御話があった。
 また大石寺に御出ましになったのは、某信徒が登山するとの報があって、その方に御会いなさるためであった。しかし、その方は都合で登山を見合わされたので、上井出の方から迎えの者が来て、御帰りあそばされるよう申し上げたが、『今日は一晩泊ってゆく』と仰せられて使いの者をお帰しになったこと、また出火は十一時で、一山の者は防空のため、オチオチ寝られない状況で、皆、起きている時刻であり、さらぬだに御老体でそう熟睡なさるはずはない(大石寺においては、管長は毎晩夜中の十二時に起きて、丑寅の刻に勤行することになっている)こと、居室の下には所化僧がおり窓から逃げ出していること、また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長として、立正安国の御聖訓を体して国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々、一宗を督励し祈願を込め給いしに、ついに敗戦を眼前に控え、すでに力及ばず、『老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかず』として、自決の道を選ばれたと拝せられる。
 その折の葬送が、一山近隣のみで、全く形ばかりであったことは、まことに申し訳ないことであったが、戦時下、やむをえざることであった。」

 真実は以上のとおりであり、学会の疑難は、安永の『偽作論』と共に、ことごとく粉砕されているのである。
 この『悪書板本尊偽作論を粉砕す』は、大白蓮華第六十五号にも、以下のとおり紹介されているので、学会幹部にも異論はあるまい。

 「板本尊偽作論#j折について
 この醜書については既に聖教新聞二三六號(七月二十二日刊)及び日蓮正宗布教會發行の正宗機関誌大日蓮°繻主j誌上において、徹底的にそのインチキぶりが指摘されている。
 又新たに、その妄説を餘すところなく粉砕した日蓮正宗布教會編悪書『板本尊偽作論』を破す≠ェ單行本として發行されているので、關心を持たれる方は、一讀されたらよろしいかと思います。」


以上で十分であろうが、念のため、池田教信者が現代の御書≠ニ称した『人間革命』からも引用しておく。

 「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔にみずから焼き、端座(たんざ)したままの姿であられたのである。
しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。
そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。
その証拠に、数百人の罹災(りさい))者の中で、負傷者は一人もなかった。客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。
凡庸(ぼんよう)の推察は、さしひかえなければならない。
(中略)彼(※戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を、御一身にお受けなさったものと拝察した。
ありがたいきわみではないか、と思った。」(『人間革命』第一巻)

 戸田会長が「ありがたいきわみ」と拝察した日恭上人御遷化について罵る、今時の学会の狂いぶりに乗せられて一緒に狂う痴犬どもが哀れである。