▼> ●「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(御義口伝P766)
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> 単なる愚かなハゲは僧ではありまへん。

●この御文は、久遠の下種の本仏は末法では凡夫僧の姿で現れた日蓮大聖人様であり、更にその御一身に三宝を具しておられる一体三宝義を表明された明文と拝するのである。
痴犬が言いたい、御法主上人を誹謗する、何の根拠にもならない御文である。
痴犬はただ盲滅法に御文を乱引しているだけで、実に滑稽である。
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▼> 大聖人は誰に何のために御書を書かれたんじゃい!よう考えなはれ
> 事実として嫡々付法でない単なるハゲが判断するとでもいうんかい?
> ●「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」
>                     (御義口伝P765)

●ここも、全く的外れの引文である。
法華経=戒壇の大御本尊
戒壇の大御本尊=大聖人弘法の御本懐
その大聖人の仏法の全てが日興上人へ血脈相承

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が戒壇の大御本尊を究竟として全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことは
■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す』この御文の御心とあわせよくよく拝すれば
ただ日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。
つまり、法華経=戒壇の大御本尊は■「僧によりて住す」のである。

次第=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」とお決めになる、万年の法規を大聖人はお定めになられたのである。

そこに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」の御文のごとくの意義が拝せられ、
仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。

つまり法華経=戒壇の大御本尊の御法魂は、歴代御法主上人とともにおわしますのである。
であるから、
■「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」
とは、御法主上人を離れては成し得ない御文であり、御内証が三宝一体であられる御法主上人に信伏随従することが、まさに大聖人=戒壇の大御本尊に御仕え申し上げる姿となるのである。