京都・奈良辺りの痴犬への破折 再開その3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 329()080335 p2253-ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

▼広宣流布の足でまといになるハゲ魔軍とわかれて1日もかからんとで京まで行けるんちゃうか はよー都の月見れるしラッキー ハッハハハハー 昔は徒歩で今はスーパーカーで行くようなもんですわ。

●やはり、馬鹿丸出しの戯言である。
しかも、御本仏の御言葉である御書の御文を、このように弄ぶなど、全く「信心」を失った、醜怪な悩乱者である。
「広宣流布」とは何を広めることを言うのか、まるで理解できていない、虚け者の痴言である。

1、「広宣流布」とは戒壇の大御本尊の御法魂を御写しされた御本尊を広めることを言うのである。
この御法魂こそ戒壇の大御本尊の御法体であられ、これこそ、まさに唯授一人・血脈相承によってのみ伝持せられているのである。
この御大事は、御法主上人以外の何人が、どう足掻いても、全く知る能わざる御境地・御境界であり、信ある者にのみ拝信せられる究極の御法門である。
また、この御大事(別しての血脈)を深く拝信するが故に、我ら凡下にももったいなくも総じての即身成仏の血脈(総じての血脈)を流れ通わせていただけるのである。
この御大事に邪難を為す者は、上行菩薩へ付嘱された要法を「見たことがないから、文献に書いてないから信じない」と言っている者に等しい。
つまり、御法主上人への唯授一人・血脈相承を否定・侮蔑・軽蔑・不信・・する輩は、取りも直さず、日蓮大聖人の御本仏たる根拠をも否定しているに等しい、愚行である。

であるから、この広められるべき=広宣流布されるべき御本尊は全て歴代上人の御開眼がなされていなければならないのである。
創価学会が販売している本尊に似せた掛け軸状の物は、その点で、全く”本尊の義”を為していない。
身延のみやげ物本尊と目くそ鼻くそ(汚い目やに(=創価学会員)が、鼻くそ(=身延のみやげ本尊)を汚い(=謗法)と言って笑う。自分の欠点には気がつかないで、他人のことをあざ笑うたとえ。)である。
「全然、ダメ!」である。

2、また、「広宣流布」とは、戒壇の大御本尊へ事実の上で、身・口・意の三業が整った形で、参詣できることを”許可された者”を増やすことである。
これは古来より、御法主上人からの血脈正しい正統の師僧より受戒を受けなければ、戒壇の大御本尊を拝すことの出来る”正式な許可”ではないのである。
この”許可”を得た方が正式な信徒であり、この正式な信徒の方が、例えば海外などの遠方の方であったり、あるいは、病弱の方であったり、等で、戒壇の大御本尊へ参詣することが困難な場合もあるが、この場合は、その方の所属寺院への、またはその方のご家庭での御形木御本尊の御前への参詣が、そのまま戒壇の大御本尊への参詣の義に通ずるのである。

創価学会員は最早戒壇の大御本尊への参詣資格を全く失っているが故に、創価学会員が幾ら増えても、それは天理教の信者が増えるのと同じで(と言うより、謗法の度合いが桁外れに深い分、国家にとっても、世界にとっても最悪事である)、間違っても「正法の広宣流布」とは言わないのである。
顕正会員も深く戒壇の大御本尊を渇仰しているが、顕正会員が幾ら増えても「広宣流布」とは言わない、のと同じ理屈である。
創価学会員が、仮に戒壇の大御本尊をどう渇仰しても、それは霊友会の者が仮に戒壇の大御本尊を渇仰している姿と大小同異であり、気味が悪いだけである。

痴犬ら創価学会員は、このままでは「12日」どころか、何億万年も地獄で暮らすこととなり、永劫に「京の月」=即身成仏など、得られないのである。
このように、ふざけている場合ではない。
地獄の業火はもう既に痴犬の足元まで近寄ってきているのである。