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    強仁状御返事 建治元年一二月二六日  五四歳

■ 強仁(ごうにん)上人十月二十五日の御勘状(ごかんじょう)、同十二月二十六日到来す。此の事余も年来欝訴(うっそ)する所なり。忽(たちま)ちに返状を書きて自他の疑氷(ぎひょう)を釈(と)かんと欲す。但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば、暗中に錦を服して遊行し、澗底(かんてい)の長松(ちょうしょう)匠(たくみ)に知られざるか。兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり。貴坊本意を遂げんと欲せば、公家と関東とに奏聞(そうもん)を経て露点(ろてん)を申し下し是非を糺明(きゅうめい)せば、上一人咲(え)みを含み、下万民疑ひを散ぜんか。其の上大覚世尊(だいかくせそん)は仏法を以て王臣に付嘱(ふぞく)せり。世出世(せしゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なり。
(中略)
速々(はやばや)天奏を経て疾(と)く疾く対面を遂げて邪見を翻(ひるがえ)し給へ。書は言を尽くさず、言は心を尽くさず。悉々(ことごとく)公場を期す。

私の問答は事行き難く候か (行敏御返事 472)