現役学会員による学会への疑問

私は男子部として15年ほど熱心に活動、その後、組織から遠ざかり10年ほど出ていないが今も現役の壮年部である。
その間、ほとんど学会の指導を遮断した状態にあった私は、この最近、再び研鑽をしていく中で過去の指導とあまりにもかけ離れた内容に異様なもの感じざるを得なかった。
なぜなら、私が過去から所有していた学会指導集、大聖人御書講義集などの根本教義解釈がまるで違ったものとなってしまったからだ。
以前から学会活動に関しては疑問に思う部分が多く常にすっきりとしない状態で過ごしていたが、教義までも捻じ曲げたたかと言う思いである。
ここまで大転換してしまと、戸田会長やその当時活動してお亡くなりになられた方々は、成仏できなかったことと成ってしまう。

創価学会の今日の発展は、そもそも法華講員から牧口会長が折伏を受け、日蓮正宗へ帰依したことから始まる。
その牧口、戸田の両会長とも最後まで日蓮正宗の信徒として生涯を閉じた。
大御本尊の功徳・法力を我が身に享受するには、正宗に帰依し信行学に励むしか方法は無く、両会長がどこからか御本尊を手に入れて必死に拝んだとしても、功徳を積むことも成仏することも決してできなかった。
大聖人ご入滅以来、護法に献身し功徳の源泉を絶やさず守り続けてきたのが日蓮正宗であることに間違いはない。
我々はそこに帰依する以外に正しい信心は有り得ない。
さらに、正しい信心の絶対条件として、三大秘法、三宝は欠かせない、これをないがしろにして功徳はないことは日寛上人も明確にご教示されている。
その意味で僧宝(ご僧侶)の存在が今日まで途絶えていたら、我々は己心を仏界と開くことが不可能であった。
我々は三大秘法の御本尊に縁しなければ、どれほど頑張っても事実の上で九界の衆生に過ぎない。
その御本尊が間違っていたらこれほど恐ろしいものはない。
この十数年、会館にて下付された御本尊は加筆・修正が行われていることを多くの学会員は知らされていない。
この機会にご自分で調べていただきたい。

結論から言えば「学会はもう一度、宗門へ戻るしか正しい信心は行えない」という一点に尽きる。
「信心の血脈」「信心の二字に御本尊はおさまれり」は宗門に付かずしてあり得ない。
本山不要論などは邪義に過ぎない。
学会は創立以来、度々宗門の存在を軽視してきた歴史がある。
その慢心から信者が僧侶を馬鹿にする、誹謗するという本末転倒へと発展してきたのではないだろうか。
今の学会教義のまま活動するならば全く功徳は無く「悪鬼入其身」「自身の仏種を断つ」という五逆罪にも等しい行為となろう。
現在の学会指導では自分自身に日々起こっている問題を解決できず、多くの活動家全員が悶々として思いを送っているものと思う。
その原因の一つとして、学会は生活に則した教学を教えていないことが大きい。
末端組織においては仏法教義と世法のかい離がはなはだしく、結局は仏法と世法は矛盾するものだと多くの学会員が懐いている。
こんな状態では仏法を修行すること事態無意味である。
学会が昭和27年に宗教法人認可得て独立した教団となった事実は、その後の学会の暴走に大きく関与しているのではなかろうか。
本来の信心は僧俗和合の中でしか生まれない、そこにしか清々しい日々を送れる方法はない。
学会の歴史の中ではこれが永続的に行われたことがない。
つまり、学会は本当の信心を行ったことがないと言える。
今や学会は独自の教義を立て大聖人の仏法を利用し、折伏という大義に名を借りた組織拡大を行う新興宗教教団と成り果てた。
この学会をもう一度元に戻す責任も学会員にある。
自分の周りの狂信的活動家を冷ややかに見て「自分だけは正しい信心を行う」と思っている良識的会員も所詮は救われることはない。
この数年で組織内で学会の疑問を声に出すことは決してタブーではなくなってきている。
間違いを糺すことは大聖人の仏法における基本である。
まずは、心ある同志、話を聞き入れる幹部に疑問を話すことから始めてもらいたい。

学会の問題点

1.戸田家との断絶

二代戸田会長夫人の葬儀に秋谷元会長ほか数人の幹部が出席するが名誉会長は欠席、このような状態で師弟不二とはいったいどんな意義があるものなのか。
戸田家を敵に回しておいて、戸田会長を称えるとは人の理解を超えている。

2.本尊偽造

御本尊に書かれている添え書きを削除、修正を加えたこと知ったことはショックであった。
学会員にあっても創立以来、御本尊の大切さは徹底されてきたものだ。
しかし、この事実は中央からは知らされていない、信徒が勝手に御本尊を偽造して良い道理、証文はどこにあるのだろうか。
このような暴挙を大聖人は許すはずがなく、現にそのようなことをご在世中に信徒に許可していない。
この学会による御本尊下付こそが現在の学会が大謗法である証しだ。

3.学会の邪義・教義矛盾

宗門離脱前の教義解釈と現在の解釈が背反し、これを正当化することは不可能である。
釈尊は滅後2千年を見透し、御本仏・日蓮大聖人は末法万年の為の完璧な正法を残された。
我々の時代にその教義解釈を変えて良いことなあろうはずがなく証文も無い。
仏法は難信難解である。
我々凡夫の教義理解など大聖人の万分の一にも及ばないものだ。
御本仏が言われるがままの修行以外、正しい仏道修行はない。
今になって都合の良い解釈をすることはあってはならないし、それは謗法に他ならない。
名誉会長による御本尊軽視発言が昭和50年代から顕著に見え始めた。
現在の学会教学においては例として、人法一箇を理解していないようだ。
「御本尊は幸福製造機」「大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し・・・」などは私のつたない教学力から見ても余りにも低次元だ。
戸田会長の指導を翻し、名誉会長自身の指導にも反する自語相違は全くの迷走である。

4.学会の呪縛

「脱会すると地獄へ落ちる」「仏法退転者」こんな言葉に私自身も長年縛られていたし、学会員が一様に感じている思いである。
しかし、脱会する人の多くは学会の組織(活動)が嫌で辞めていて、大聖人の仏法に反逆しているわけではありません。
この言葉縛られて、正邪を見極められなくなることこそが恐ろしいことではないでしょうか。

5.選挙活動は大聖人の仏法は関係が無い

釈尊は「法華経」で仏法者は権力に近づいてはならないと説いている。
釈尊も大聖人もいつ国家権力に組みしたのであろうか。
権力と仏法者が安易に結託すれば秩序を乱すことくらい仏が分からないはずがない。
ましてや弟子のなかから退転者、反逆者が続々とでてくることは承知していたであろう。
大聖人は三度国家諌暁したがそれ以上のことはされなかった事実が厳然とある。
学会員は大聖人の仏法を悪しく敬い国家を滅ぼしてはならない。
国民の中には自公連立こそが国家を狂わす元凶と思っている人が少なくない。
また、学会員は世間からうとましく思われていることに気づいていない。
選挙で訪ねてきた学会員に批判の言葉を発しないのは、余計なトラブルを避けたい大人の対応をしているだけだ。
電話で投票依頼されるだけでも嫌な思いをしていることに学会員は気づくべきである。

6.中央幹部の不正問題

学会ではこの10数年で不法行為、お金(不正経理)や異性問題で脱会する者が珍しいことではなくなってきた。
その原点には宮本共産党委員長宅盗聴事件が挙げられるが、刑事事件としてはこれで終わりと思っていたが、現在においても進行中であることに驚いた。
学会はまさか犯罪には関与しないだろうと思っていただけにショックであった。
しかし、その事実を自分の目で検証せずして学会の姿を人へは語れない。
毎日のように聖教新聞に踊る正義や人権・平和の文字の陰で事件が起こっているこの矛盾は何なのであろうか。
つまり学会は自分の都合の悪い情報を隠し続けてきたのである。

7.邪義・師弟不二論

どのような説明をしようとも学会は信徒の団体である。
いくら名誉会長と言えども大聖人のご内証を寸分違わず保っているはずがない。
自身が本仏であるとでも言うのであろうか。
凡夫である信徒と信徒が師弟不二の関係を結ぶとは、どの教義をもっても説明ができない全くの意味不明である。
この十年来の指導の中で戸田会長の指導に反逆したのだから、もはや二代から三代への師弟不二は断絶したことになる。
この学会の中心的教義が僧俗和合を阻み、信心を狂わす大きな要因となっている。

8.宗門批判の嘘

学会はこの十数年、聖教、創価新報などによって宗門を批判してきたが、陰険、愚劣な人格批判ばかりである。
およそ人間に対して使われない醜い言葉のオンパレード、偽造写真を作り上げ僧侶批判。
このような内容を掲載するたびに多くの会員よりやり過ぎとの批判を今もなお受け続けている。
宗門は700年来、根本教義を塗り替えたことはない、学会はわずか数十年の内に180度教義解釈を変えてしまった。
どちらが正しいかは良識を持つ人であれば簡単に分かることだろう。
正邪の判別がつかなくなることほど恐ろしものはあるだろうか。
大聖人の仏法においても然り、世法においてもこの判別は重要である。

9.僧俗一致

現状を言えば、学会は巨大ではあるがつたない信心の集まりである。
学会は会員を増加させることを第一目的としていることに他ならない。
大聖人の教えられた教義を守らないのであるから、この教団は日蓮仏法を教団拡大のための道具としていると言わざるをえない。
学会草創期から宗門離れを画策してきたのだから、おのずとその学ぶ教学も学会の都合の良い部分を重点的に取り入れることとなってしまう。
その結果、学会の教学は偏った浅いものだけが会員に広まった。
これでは個人が知りたい教義も深く学べず、疑問が生まれすっきりとせず悶々としてしまう。
信行学においても明らかに勝っている僧侶から学ぼうとしなかったことは、学会を暴走させ破門に至らせた大きな原因ではなかろうか。
宗門をいかに陥れようかとばかり考えている会員同士が切磋琢磨したところで何の成長ができようか。
醜い命を増長させ、罪を重ねるばかりなのである。
生活に則した教学は、僧俗一致でなければ学べないということを、学会は知らないのだろう。
改めて僧と俗の役割、和合僧の意義を研鑽すべきである。