■阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。(投稿日時:2006/02/09(Thu) 04:13)

この言は紛れもない沖浦さんの発言です。
この沖浦説だと、この世のどんな”阿保”(沖浦言)が書写した文字曼荼羅も”御本尊さま”になってしまう。ということですね。
すると、「阿保」であるかどうかは別として、「かしこ」が書写してもいい。→誰が書写してもいい。ということであり、
以下の思いつくままに列挙した全ての人が書いてもいいことになる。

そこらへんの小学生の洟垂れ小僧
精神病棟の患者
禅宗の僧侶
ローマ法王
沖浦さん(自分で書いて自分で拝めば我見の塊である沖浦さんのこと、さぞやお似合いでしょう。)
沖浦耕治君(息子が書いた曼荼羅をお父上の克治さんが拝む・・これもまたおつなものですね。)
立正佼成会の地域のおばさん。
ヘッドギアを被ったアーレフの信者
今回問題のタリバンの兵士。
サラ金で行き詰まったおじさん。
パチンコ狂のアニキ
麻薬中毒患者
強盗殺人で死刑が確定した死刑囚
・・・・・

まっ、きりがない。

常識として↑このような”もの”が本尊足り得ない事は、誰にでも明白でしょう。
つまり、沖浦さんの本尊観などはこの程度の軽薄・稚拙・愚昧・我意我見・論理破綻・口から出まかせ・荒唐無稽・支離滅裂・・・・で、実は何も分かっていない。ということですね。
こういう滅茶苦茶な思考回路を頭破作七分というのですね。

信仰の根本である「本尊」にかくも迷って、何も分かっていない沖浦さんが、それ以下の法義に、全く暗く、我見を述べ立てるしか道がないのも、確かに頷けますね。
このような沖浦さんが御書を云々するなど、実に愚の骨頂ですね。

日蓮正宗の教義の上っ面を見よう見まねで真似て、さも仏法らしく装っても、それは、サルが人の仕草を真似て、見よう見まねで服を着たり、靴を履いたり、帽子を被ったりしているようなものです。
実に浅はか。
まさに猿真似・猿知恵といえましょう。
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