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こんな有様では正信会に先はない!


正信会報 に 新任教師挨拶 とやらが掲載されていた。
教師≠ニはいっても、日蓮正宗から破門・擯斥された邪門・正信会での認可であり、日蓮正宗からの正式な認証を受けていないいわゆる私度僧=iしどそう)である。

が、その内容たるや、実に道念のない、意志薄弱、将来への不安、先輩現住職等への不満・・・などなど、情けない限りである。


以下、その代表的な者どもの 新任教師挨拶 とやらを挙げてみよう。


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新任教師挨拶 T 平成11年4月1日 教師認証


(中略)

世襲制に対する不安

 これは、私のつまらない心配事ですが、正信覚醒運動を推進していく中で、仕方なく、世襲制になりつつある正信会の体制を、近い将来見直さなくてはならないと考えています。
「自分が僧侶となったら、とにかく住職となってお寺が継げる」などという安易な環境の中で、はたして正信覚醒運動の息吹や仏法を護り伝えることができるかどうか少々不安です。
今現在、自分のお寺から出家している僧侶を批判しているのではありません。
それこそ自己矛盾になってしまいます。
ただ、これから先、百年二百年経ったときに当たり前のように、これが正信会の伝燈法義だと言わんばかりに世襲制が反映されてはどうかと思うだけです。
いまこの世襲制に関しては問題視されてはいませんが、いずれは正信会にとって大きな問題となる可能性をもっています。
 「子供の時からお世話になっている御信者に対しては、息子が一番よく知っている。ほかの僧侶より責任感は強く持っている。だから世襲制が無難ではないか」との意見が大方ではないでしょうか。
僧侶の堕落を招く恐れがあるこの世襲制問題は今後、多くの方々の意見を聞きながら、自分の身に当てて真剣に考えて参りたいと思います。


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新任教師挨拶 K

 この度、平成十一年四月一日付けをもちまして新たに教師の認証を頂戴いたしました。
教師といいましても若輩者ですので皆様方にはどうぞご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

 さて先日正信会報より原稿依頼がありまして、正信会に対して抱いている期待や不安等意見を述べて下さいとの要望がありました。
正直戸惑いましたけれども、自分なりに考えていることを失礼な事かもしれませんが、少々述べさせていただきます。

 正直に申しまして正信会に対する「期待」と「不安」という二つの感情を天秤に掛けるとするならば「不安」という感情の方に比重が重くのしか掛ってしまいます。
なぜならば後二十年も経てば、いま健在である住職方の大半は失礼ですけれども、いなくなってしまいます。
僕たちはこのことを受け入れていかなければなりません。

確かに今の住職方におんぶにだっこではいけないとは思いますが、以前、ある住職に
「いいか、後十年二十年経ったら、俺達はいなくなっちゃうんだよ。
だからあとはお前らのような若い連中がこの正信会を背負って立っていくんだ」と言われました。
この意見は大概の住職方が思っていることだろうと思いますが、実際にその状態になったときに僕たちは果たしてどこまでやれるのだろうか。
いつかは世代交代の時がくることは目に見えております。
では若い連中は何をもって正信会という組織を守っていくのか、それは宗開両祖の御精神であることはわかっているのですが、ただそれだけでは組織は成り立っていかないと思うのです。
確かに組織というものに視点を置くのはおかしいのですが、例えば法門的なことにしろ正信会と宗門との相違点は何かと言ったときに、真っ先に出てくるのは「本尊観」「血脈観」であると言います。
僕は正直に言いましてそういった世界に携わったことがありません。
戒壇本尊と言いましてもその戒壇本尊を見たこともない、血脈といっても猊下がいるようなところで在勤したことがないのであります。
若い世代の人間はこの世界を経験したことがないので住職方が言うのと僕らが言うのでは言葉の重みが全く違ってくると思うのです。
言うなれば今の住職方は大石寺という枠組みの中で生活されていた訳ですから、
「戒壇の本尊は直拝するものではなく、遥拝をもって戒壇の御本尊を拝していくのが正しい」というと説得力があります。
しかし僕らのような若い連中がそれを言ったところで果たして説得力がでるのかどうか、僕はこのことに関しては訴えていくしかないと思っているのでありますけれども、そういう点からも段々と違ってくるのではないかと思います。

以前正信会版の御書を作るという話が出た時に様々な意見がありましたけれども、正直に言いまして作る作らないは別として住職方で話し合いをして欲lしかったというのが本音であります。
そしてその話し合いの結果こういう結果が出た。
ならば若い連中はそれを正信会のビジョンとして行動していかなければならないと思うのです。
正信会は強者、曲者揃いでまとまりがないと言われておりますが、しかし.このまま次にバトンタッチされても、バトンタッチされた方はどこに向かって走ればいいのか、
それは若い連中だけで許し合って決めればいいのかどうかというところに不安を持っているのが本音であります。

 宗門・創価学会・顕正会というような中で大聖人の正しい仏法を護持しているは正信会であるのは十分わかっております。
ですから、せっかく住職方が正信会というなくてはならない組織を作ったのでありますから、
「俺達はこう思っている」ということを、答えは出さなくてもいいのでそういう動きというか、そういう方向に持っていってくれたなら、正信会という団体がより一層輝けるのではないかと思います。
僧侶を首になる覚悟で日達上人の御意志を継いだ正信会を僕らがかっこわるくしてしまったら元も子もなくなってしまいます。

 失礼なことを述べたのはわかっているのですが、事実、同年代の人間と話していても、正信会に対する捉え方が違うなあと思うことが多々あります。
もしこのまま行ったら正信会は将来バラバラになってしまうという恐れがあるのです。
ですから敢えて失礼とは分かりながら、口下手ながら今自分が思っている胸の内をこのように文章にして書かせていただきました。

 いずれにしましても、もしかしたら僕だけがこう思っているのかもしれませんが、僕は今の住職方で正信会の意見を一つにまとめ上げ、正信会のビジョンというものを確立していただければ、正信会の未来というものが段々と見えてくるのではないかと思います。
 以上をもって僕の所感とさせていただきます。


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新教師挨拶  A

(中略)

正直に言えば、数年前までは覚醒運動の重みなど考えることも無くいました。
「若手が台頭してくれないと」の言葉を耳にする度に、自分で喧嘩を売っておきながら
「後は任せた」と言われているような感じきえしました。

もちろん今はそのように思っていませんが、先輩方も本気で覚醒運動の発展を願うならば、せめて若手僧侶に対し土台を残しで頂きたいと思うのです。
道場建立なくしてただ頑張れと言われてもそれはあまりにも酷だと思います。

その上、ある教区を誤解され、非難中傷するような言動を耳にすることがありますが、これでは覚醒運動の発展は望めません。

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新教師挨拶  K

 自分はこの度四月一日付をもって、正信会より教師に認証されました。
自分自身、此度教師に認証されたとはいえ、まだまだ実感もわかず、教師としての自覚というものがない状態であるというのが、現状での自身の正直な気持ちであります。

 そもそも自分が何故僧侶として出家して今に至るのか。
自分の過去に振り返って考えてみると、自分は色々な人達に支えられてきているような気がします。

 自分が出家した当初は師匠と信者さんが互いに信頼して色々と話をしている状況を見て、「自分もいつかはこんな風になれたら」と思いながら、法事について行ったりしていた記憶があります。
又信者さんと接していても自分が信者さんに大事にされているというのを感じ、「もっと一生懸命頑張って、信者さんに大事にされていることに報いたい」とも思っていた事も覚えています。

しかしその反面、出家してから自分の自由だった面とかが束縛される様になって、そのうち他の友達と比較して「何故他の子と一緒の事が出来ないのか」と思い、出家した事に後悔をしたり、不満を待ったりしていた気がします。
しかし、講習会などに出席するようになって、そこで同じ出家したばかりの所化や、又先に出家して何年にもなる諸先輩方などに会ったりするとそれが励みになって、色々な不満などに耐えられたりしたものです。

その後しばらくして、お会式などで師匠について自坊以外の寺院に行ったりする事が多くなると、そこで自分の師匠以外のご僧侶方の話を開くことができ、僧侶として僧道というものをどの様に全うしていけばいいのかという事が色々な視点から聞く事が出来ました。
しかしそれでも、自身がどの様に僧道を全うしていけばいいのかわからないままでいました。
そんな感じで月日が流れて、講習会を卒業して、あっという間に教師に任ぜられまして今に至ります。

 自分自身こんな感じで今に至ってしまったわけで、未だ自分の歩むペき僧道というものに対しての意志というものが確立できずにいます。
しかし自分は今まで多くの人達に支えられてきたのだと感じ、感謝しています。
だから自分が今僧侶として僧道を全うしようとしているのはすべて自分の意志からというわけではなく、自分のまわりにご信者さんがいるから、自分を支えてくれた人がいるからだと思い、その人達に恩を感じ、その恩に報ずる為だというのが今の心境であります。
ですからこんな感じで僧道を全うしようとしている自分自身が他のご僧侶方には大変失礼な感じがします。

 だから教師になったからには、それなりの自身の信念というものを持ちたいと思っております。
自分が僧道を歩んでいく上には必ず信者さんとの関係というのがあります。
自分が信者さんと接する時にどの様な心構えでいたいか。
それは自分が僧侶であるという事を自覚して信者さんと接するのではなく、同じ成仏を目指している同志だという事を自覚して接する事であります。
自分が僧侶であるという事ばかりにとらわれると、信者さんとの間に見えない壁というものが出来ます。
その壁というものを通して信者さんを見ようとすると必ず信者さんの心というものが見えにくくなってしまいます。
その点、同じ目的を持つ同志として接する事は、「僧侶と信者」という見えない壁がなくなりますので心が見えやすくなると思います。
ですから自分は「僧侶と信者」という関係から「同じ成仏を目指す同志」という関係で接したいと思います。
しかし信者さんからしてみれば僧侶としてのイメージというものを持って自分に接して来ると思いますので、そこは自身が僧侶としての恥じない様な態度を持って接したいと思います。
態度では僧侶として心はあくまでも同志としてという気持ちでいたいと思います。

 自分は若輩者であり、わからない事が多々あると思います。
かえって信者さんの方が信心について大先輩である事もあります。
そのような信者さんにはまだまだ自分の信心は及ばないという事を心に感じ謙虚でいる、しかし自身が僧侶であるという事を忘れず恥じない様な態度をとる。
そして同じ成仏を目指す同志であるという事を心におき、共に成仏を願い、精進したいと思います。
僧侶としてはまだまだ未熟な考えであると思いますが、自身がいままで僧道を歩んで来て、信者さんと接して感じた事から此のような信念を持って僧道を全うしたいと思いいます。


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