沖浦君いわく

▼ 仏法は勝負と仰せの御文が書かれてある御書を一度最初から最後までお読みなさい。
 仏教が現証と共に日本に定着したと、明確に事例を引用しながら説かれています。

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「仏法は勝負」 について  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 8月31日(木)10時13分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

 既に以下の論文が発表されており、これで破折され尽くされている。
ここに多少の編集を加え掲載する。
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第三十五回本部幹部会における
    池田名誉会長のスピーチの「お尋ね」以外の問題点
                時局協議会文書作成班1班

一、「勝たねばなりません。仏法は勝負です。勝負には必ず敵がいます。敵がいないようだったら勝負できません。相撲でも、剣道でも、何でも。最後、勝つか負けるかです。」

 池田名誉会長は、「仏法は勝負」ということを、スピーチの中でよく使用している。
 この「仏法は勝負」ということは、おそらく『四条金吾殿御返事』の、
  ■「夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(全集一一六五n)
また、
  ■「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(同一一六九n)
などの文が依拠となっていると思われる。
したがって、「仏法は勝負」ということ自体は、何も間違ったことではない。
ただ、池田名誉会長の解釈が問題なのである。

 御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。
それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。
つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。
したがって、道理の上から一切の教法や思想を見れば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。
このように、様々な教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕れてくる。したがって、特に道理
をもって根本とするのである。
 大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至探して顕された文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、およぴ大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。

 同抄では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界に在っても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。
つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の秩序を無視し、主君と対等に渡り合って勝負を決せよなどというような、低次元の御指南ではない。主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然(えんねん)として現実世界に顕れてくることを説かれたものなのである。

 つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。
さらにいえば、仏道修行における敵とは、正法に背く邪法邪師の邪義であり、それを粉砕して正法を宣布し、平和な国家を建設することにあると知らなければならない。

 ところが、池田名誉会長のスピーチにおける「仏法は勝負」の意味内容は、全く異なっている。
すなわち、上記のスピーチのように、概(おおむ)ね「仏法は勝負であるから、仏法を行ずるには必ず敵がいて、その敵と勝負をする。
そして、勝負である以上、勝つか負けるかであるから、必ず我々は勝たねばならない」というものである。
つまり、相撲や剣道のように、仏道修行にも必ず敵を想定するのである。
そして、「勝つ」という一念のもとに、その敵と戦い、そして必ず勝っていかねばならないと解釈しているのである。
換言すれば、現象世界、すなわち目に見える表面的視野における勝負を意味するのである。

 池田名誉会長は、他のスピーチの中でも、
▼「仏法、信心は、永遠に前進であり、永遠に闘争である」
▼「勝負とは絶対的なものである。勝つか負けるか。中間はない」
▼「勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである」
▼「『仏法は勝負』であり、『勝つ』ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい『歴史』はつくられる」
▼「正義は歴史が証明する」
▼「私は一切に勝った」
などと発言している。

 これらからも判るように、池田名誉会長は、現象世界の一面が、物事のすべてであると考えている。
つまり、池田名誉会長は、精神よりも表面的な事象、心法よりも見てくれの色法(しきほう)を大事とし、また執拗(しつよう)に執着しているのである。
したがって、「仏法と申すは道理なり」との仏法の大前提は、池田名誉会長には全くない。
故に、この「仏法は勝負」をいう場合も、「勝てば官軍」が第一義であって、それによって真実の宗教になると考えているのである。
そのため、一切の事象においては、創価学会として、また池田氏自身として、けっして負けてはならないのである。

 さらにいえば、表面的に勝つためならば、たとえ裏工作であれ、謀略であれ、手段を選ばないという創価学会の思想も、ここに窺(うかが)われるのである。
同時に、小説『人間革命』や様々な著作、スピーチなどでも判るように、歴史の改竄(かいざん)やすり替え、歪曲をすることなども、あえて厭(いと)わない。
すべてが、池田氏自身の、絶対化を指向するための擬装である。

 要するに、池田名誉会長の「仏法は勝負」に対する解釈は、元となる道理を等閑(なおざり)にし、かつ、皮相的な現象面に執(とら)われ、戦闘的に一切を制覇していくことにあるという、全く異質のものなのである。
このような思想は、広範な仏教中に説かれていない。
ましてや、大聖人の文底仏法の考え方であろうはずはない。
まさに池田教の思想であり、それによって歪曲された解釈というよりほかにないであろう。

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以下は、やまいぬ。とかいう痴犬を破折した時の文

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やまいぬ。いわく

▼ 次に御文の引文の仕方が全く為っていないので呵責しておきましょう。

> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。」
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↑「仏法は勝負」 について

 御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。
それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。
つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。
したがって、道理の上から一切の教法や思想を見れば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。
このように、様々な教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕れてくる。したがって、特に道理をもって根本とするのである。

 大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至探して顕された文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、およぴ大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。

 『四条金吾殿御返事』では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界に在っても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。
つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然(えんねん)として現実世界に顕れてくることを説かれたものなのである。

 つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。