沖浦対樋田法論を検証する 103  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年10月21日(日)22時13分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  どれどれ、沖浦君が反論らしい(がまともな反論にもなっていない) 駄文 を書いてきたので、少々弄って見ますか。

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> [投稿日時] 2007年10月21日(日)08時08分31秒
> [題名] 普段は読みませんが、一言注意してあげます
> [投稿者] 沖浦克治

●> >1、そもそも、ただの「電化製品」を作る会社と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。
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▼>  一律に並べて論じる事が正しいのですよ。
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↑沖浦君、想定以上のうつけものですな。

■世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。(立正安国論   文応元年七月一六日  三九歳)

この御文は立正安国論の骨子である。

国に災難が興起するその根本原因は何か?
国中挙って正法に背くが故である。

では正法とは何か。

■一、此の題の三箇に秘法を含む事。
(中略)立正の両字は三箇の秘法を含むなり。(中略)正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり。(中略)立正の両字は即ちこれ本門の本尊なり。(中略)凡そ正とは一の止まる所なり。(中略)但立正の両字に於て三箇の秘法を含むこと文義分明なり。(安国論愚記   正徳五乙未六月二十四日   大貳日寛之を記す 日寛上人)

つまり「正法」とは三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 である。
そしてこの本門戒壇の大御本尊以外は全て邪法である。

であるから、上記の御文の元意は、
「国中挙ってこの正中が正である本門戒壇の大御本尊へ背き、悪しき宗教(現時では、その人数・組織の規模・国政への影響力・三宝誹謗の罪業の深さなどを勘案すれば、取り分け、創価学会がその代表的な宗教団体である。)を信じ行じるが故に(中略)人心が荒廃し、国中に災難が頻発するのである。この事実を言わずにおられようか。この現実を恐れ食い止めないではいられようか。」
との意と拝する。

さて、沖浦説だと、
▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互い干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」
ということである。

だが、■「正とは一の止まる所」であるから、正しい教義(→煎じ詰めれば本尊)は二つと存在しない。
沖浦説など完全に浅はかな邪義である。
いな、邪義以前のただの たわ言 である。
それ以上に、つまり創価学会(中でも沖浦的我見)がもはや教義的に完全に破綻しているが故に、それを追及されたくない一心で苦し紛れに吐き出された言い逃れである。
卑怯憶病の老醜の敗残者が
「お許し下せ〜。もうそれ以上追求しないで下せ〜。」
と哀願する惨めな醜態である。

東芝・SONYなどは世に主に電化製品を送り出し、利潤を生み出す一企業である。
その電化製品を買おうが買うまいが、別に「国が災難に見舞われる」などということはない。
また、どちらの会社の製品を買おうが買うまいが、やはり同様で「国に災難が興起する」などということはない。
つまり、人生の幸不幸(とは突き詰めれば成仏・不成仏に尽きるが)・国家の安泰・衰亡などに直接影響の無い分野を扱う業態である。

沖浦君の例えは、例えば次元を変えて言えば、

@ 人の命にかかわる薬物と毒物の「判別基準」と

A 嗜好品であるコーヒーのどこの会社が旨い不味い、という「選択基準」を

同等に扱っているようなものである。

@では寸分の狂いがあってはならない峻厳な「判別基準」が必要であるが、
Aでは、別に個人の感じ方でどっちでもいい「選択」の問題である。

この@Aを同列に扱うことが如何に幼稚で愚昧であるか、これすらも、沖浦君にはもはや分からなくなっているのである。
実に長年の三宝誹謗の罪過積もり積もって、斯様な、幼児にも劣る知能と成り果ててしまったのである。
これこそまさに 厳罰 であり、謗法の 現証 であろう。
本人、それに気づいていないところがまた世人をして涙を誘う。
実に老醜の敗残者である。