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    崇峻天皇御書  建治三年九月一一日  五六歳  身延曾存

 白小袖一領、銭一ゆ(結)ひ、又富木殿の御文(ふみ)のみ、なによりも、かき(柿)・なし(梨)・なま(生)ひじき・ひ(干)るひじき・やうやうの物うけ取り、しなじな御使ひにた(給)び候ひぬ。

 さてはなによりも上(※江間氏)の御いたはり(所労)なげき入って候。
たとひ上は御信用なき様に候へども、との(殿)其の内にをはして、其の御恩のかげ(蔭)にて法華経をやしなひまいらせ給ひ候へば、偏(ひとえ)に上の御祈りとぞなり候らん。

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★→ 白小袖一枚、銭一結、また、富木殿からのお手紙と、何よりも、柿・梨・生ひじき・干ひじき、その他様々な品物を、御使いに託して、お届けいただきました。
そして、それらの品物を受け取りました。

 さて、何よりも、主君(北条光時殿)の御病氣のことを、嘆き入っております。

 たとえ、主君(北条光時殿)からは、貴殿(四条金吾殿)に対する御信用がないように見受けられますけれども、貴殿(四条金吾殿)は、その一門の内にいらっしゃって、主君(北条光時殿)に対する御恩の陰で、法華経(御本尊)を信行しておられます。

 因って、貴殿(四条金吾殿)の御祈念は、偏(ひとえ)に、主君(北条光時殿)の御病氣を平癒するための御祈念となることでしょう。
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大木の下の小木、大河の辺(ほとり)の草は正しく其の雨にあたらず、其の水をえ(得)ずといへども、露をつたへ、いき(気)をえて、さかう(栄)る事に候。
此もかくのごとし。
阿闍世(あじゃせ)王は仏の御かたきなれども、其の内にありし耆婆(ぎば)大臣、仏に志ありて常に供養ありしかば、其の功大王に帰すとこそ見へて候へ。
仏法の中に、内薫外護(ないくんげご)(※1)と申す大いなる大事ありて宗論にて候。

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★→  例えば、大木の下に生えている小さな木は、直接、雨に当たることはありません。
 また、大河のほとりに生えている草は、直接、大河の水を得ることが出来ません。
 けれども、露が小さな木に伝わっていったり、ほとりの草が大河の水氣を得たりすることによって、繁っていくのであります。

 主君と臣下の関係も、これと同様であります。

阿闇世王は、提婆達多に騙されて、釈尊の御敵となっていました。
 しかし、阿闇世王の臣下であった耆婆大臣は、仏に対する信仰心の志を持って、常に御供養を行なっていたので、その功徳が阿闇世王に帰していったように、見受けられます。

 仏法の中には、『内薫外護』(衆生の内に存在する仏性が薫発されて、自らを外護すること。)という、極めて大事な宗論があります。

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※1 法華経供養の意義を歎たんぜられた法門に内薫外護の教えがあります。
 「内薫」とは、内に薫かおるということです。
正しい仏道修行によって功徳を得るということで、過去遠々劫以来の謗法罪障の消滅をすることです。
しかもこれは自分一人に留まることなく、周囲には善緑、勝緑となって様々な形で助けながら向上するように、内に薫ることによって外からの護り、仏の護り、法の護り、菩薩、諸天、十羅刹等の様々の護りが存することを表します。

 金吾が法華経に帰依し、供養を努めることは、江間氏に仕えることによってなし得ることであるために、主君は不信の者であるけれども、金吾の積む功徳と祈りによって、病気が自然に治っていく姿があるのも内薫外護によるものと言えます。

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法華経には「我深く汝等(なんだち)を敬ふ」と。
涅般経には「一切衆生悉(ことごと)く仏性あり」と。
馬鳴(めみょう)菩薩の起信論には 「真如の法、常に薫習(くんじゅう)するを以ての故に妄心即滅して法身顕現す」と。
弥勒(みろく)菩薩の瑜伽論(ゆがろん)には見へたり。
かく(隠)れたる事のあら(顕)はれたる徳となり候なり。

 されば御内の人々には天魔ついて、前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをさヽえ(障)んがために、今度の大妄語をば造り出だしたりしを、御信心深ければ十羅刹(らせつ)たすけ奉らんがために、此の病はを(発)これるか。

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★→ 法華経常不軽菩薩品第二十には、「我は、深く、汝等を敬う。」と、仰せになられています。

 涅槃経には、「一切衆生には、悉く、仏性が有る。」と、仰せになられています。

 馬鳴菩薩が著した『起信論』には、「真如の法が、常に薫習していく故に、迷いの妄心が滅して、覚りの法身が顕現する。」と、云われています。

 弥勒菩薩が著した『瑜伽論』には、自然に、隠れていた善事が、徳となって現れてくることを示されています。

 であるならば、貴殿(四条金吾殿)の同僚の人々に、天魔が付いて、この法華経(御本尊)の法門を供養する貴殿(四条金吾殿)のことを、以前より知っていたが為に、この度
の大妄語を造り出して、妨げようとしたことになります。
 しかし、貴殿(四条金吾殿)の御信心が深かったので、諸天善神である十羅刹女が、貴殿(四条金吾殿)を助け奉ったのであります。

 それ故に、主君(北条光時殿)が発病されたのでしょう。
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上は我がかたきとはをぼ(思)さねども、一たんかれらが申す事を用ひ給ひぬるによりて、御しょらう(所労)の大事になりてながしら(長引)せ給ふか。
彼等が柱とたのむ竜象(※2)すでにたう(倒)れぬ。
和讒(わざん)せし人も又其の病にをか(侵)されぬ。
良観は又一重の大科の者なれば、大事に値(あ)ふて大事をひきをこして、いかにもなり候はんずらん。よもたヾは候はじ。

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★→ 主君(北条光時殿)は、貴殿(四条金吾殿)のことを、御自分の敵とは思っていないかも知れません。
 けれども、一旦は、彼等(四条金吾殿の同僚)の妄言を用いたことにより、御病氣が重くなって、長引くことになったのではないでしょうか。

 加えて、彼等が柱と頼む竜象房は、既に倒れてしまいました。
 竜象房と一緒に讒言した人も、同じ病に冒されてしまいました。

 極楽寺良観は、また一段と重い大罪の者であるために、大変な問題に遭遇して、大きな事件を引き起こすことでしょう。
そして、如何なることになっても、不思議ではありません。
 決して、ただでは済まないことになります。

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※2 竜象房は洛中(らくちゅう)にして人の骨肉を朝夕の食物とする由(よし)露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起(ほうき)して、世末代に及びて悪鬼国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加へむとて、住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に、自然(じねん)に逃失し行方を知らざる処に、たまたま鎌倉の中に又人の肉を食らふの間、情ある人恐怖(くふ)せしめて候に、仏菩薩と仰せ給ふ (頼基陳状  建治三年六月二五日  五六歳 1126〜)

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 此につけても、殿の御身もあぶ(危)なく思ひまいらせ候ぞ。
一定かたきにねら(狙)はれさせ給ひなん。
すぐろく(双六)の石は二つ並びぬればかけられず。
(※ さいころの目にあわせて二つの石を動かすか、あるいは一つの石を目の合計数進めることができる。あともどりは出来ず、相手の石が二つ以上ある場合にはそこに進めない。)
車の輪は二つあれば道にかたぶかず。
敵も二人ある者をばいぶ(悒)せがり候ぞ。
いかにとが(科)ありとも、弟(おと)ども且(しばら)くも身をはなち給ふな。
殿は一定腹あしき相(そう)かを(面)に顕はれたり。
いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ。
殿の人にあやまたれてをは(在)さば、設(たと)ひ仏にはなり給ふとも彼等が悦びと云ひ、此よりの歎きと申し、口惜しかるべし。
彼等がいかにもせんとはげ(励)みつるに、古(いにしえ)よりも上(かみ)に引き付けられまいらせてをは(在)すれば、(※以前にも増して、主君(北条光時殿)から引き立てられているので、)外のすがた(姿)はしづ(静)まりたる様にあれども、内の胸はも(燃)ふる計(ばか)りにや有らん。

常には彼等に見へぬ様にて、古よりも家のこ(子)を敬ひ、きうだち(公達)まいらせ給ひてをはさんには、上の召しありとも且(しばら)くつヽしむべし。

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★→  従って、平常は、彼等から目立たないようにして、以前よりも、一門の家の子を大事にしてください。
 また、公達(朝廷の貴族)が主君の許を尋ねて来る際には、主君からのお呼び出しがあったとしても、しばらくの間は、同伴を慎んでください。

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入道殿いかにもならせ給はヾ、彼の人々はまどひ者になるべきをばかへり(顧)みず、物をぼへぬ心に、との(殿)のいよいよ来たるを見ては、一定ほのを(炎)を胸にたき、いき(気)をさか(逆)さまにつ(吐)くらん。

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★→ 入道殿(北条殿)に、万一のこと(死去)があったとしたら、貴殿(四条金吾殿)を讒言をした人々は、世迷い人になってしまいます。
 そういうことを顧みずに、分別のない心で、貴殿が益々出仕されるのを見るたびに、必ずや、胸の中に炎を燃やしたり、息を逆さまに吐いたりして、彼等は敵愾心を盛んにすることでしょう。

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 若しきうだち(公達)、きり(権)者の女房たちいかに上の御そらう(所労)とは問ひ申されば、いかなる人にても候へ、膝(ひざ)をかヾめて手を合はせ、某(それがし)が力の及ぶべき御所労には候はず候を、いかに辞退申せどもたヾと仰せ候へば、御内(みうち)の者にて候間かくて候とて、びむ(鬢)をもかヽず、ひたヽれ(直垂)こは(強)からず、さは(爽)やかなる小袖、色ある物なんどもき(着)ずして、且くねう(忍)じて御覧あれ。

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★→ もし、公達(朝廷等の貴族)や重臣の女房たちから、「主君の御病状は、どのような状態ですか。」と問われた時には、相手が如何なる人であったとしても、膝をかがめて手を合わせてから、「私の力では及ばない御病氣であります。そのため、固く、辞退を申し上げました。しかし、厳命を仰せになられましたので、主君に御奉公させていただく者として、治療を行っている次第です。」と、答えなさい。

 そして、髪を梳かさず、直垂も立派でないものを用いて、鮮やかな小袖や色付きの衣服等も着ずに、しばらくの間は、忍耐をして、状況の推移を御覧ください。

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 返す返す御心へ(得)の上なれども、末代のありさまを仏の説かせ給ひて候には、濁世(じょくせ)には聖人も居(こ)しがたし。
大火の中の石の如し。
且くはこら(堪)ふるやうなれども、終にはや(焼)けくだ(摧)けて灰となる。
賢人も五常は口に説きて、身には振る舞ひがたしと見へて候ぞ。
かう(甲)の座をば去れと申すぞかし。

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★→ 返す返す、御心得の上とは思われますが、末法の世の有様を、釈尊は、このようにお説きになられています。

 「末法の濁世には、聖人も、居し難い。あたかも、大火の中の石のようなものである。
 しばらくの間は、堪えられるけれども、最終的には、焼け砕かれて、灰になってしまう
からだ。」と。

 賢人も、五常(仁・義・礼・智・信)を口では説いていますが、実際、我が身に引き当
てて、五常(仁・義・礼・智・信)を振舞っていくことは難しいものです。

 一般的にも、「高い地位に就いたら、早く、その座を去れ。」と、云われています。

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 そこばく(若干)の人の殿を造り落とさんとしつるに、をとされずして、はやか(勝)ちぬる身が、穏便(おんびん)ならずして造り落とされなば、世間に申すこぎこひ(漕漕)での船こぼ(溢)れ、又食の後に湯の無きが如し。

 上よりへや(部屋)を給ひて居(こ)してをはせば、其の処にては何事も無くとも、日ぐ(暮)れ暁(あかつき)なんど、入り返りなんどに、定んでねら(狙)うらん。
又我家の妻戸の脇、持仏堂、家の内の板敷(いたじき)の下か天井なんどをば、あながちに心えて振る舞ひ給へ。

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★→ 何人かの者が、貴殿(四条金吾殿)を讒言によって、陥れようとしました。
 けれども、貴殿は陥れられずに、早くも勝者の身となりました。

 しかし、最後に、些細なことで陥れられたとしたら、世間で云われているように、船の漕ぎ手が目的地の直前でひっくり返ったり、食事の後に白湯が用意されていないことのような、詰めの甘い結末になってしまいます。

 貴殿は、主君(北条光時殿)から部屋を与えられて、居住しておられますので、その場所は、安全で何事もないように思われます。
 けれども、彼等は、日暮れ時や暁の時や出入りの時などを選んで、必ずや、狙って来ることでしょう。

 また、貴殿の家の妻戸(家の隅にある両開きの戸)の脇や、持仏堂(仏間)、板間の下、天井の裏などを、充分に注意しながら、行動してください。
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今度はさきよりも彼等はたばかり賢(かしこ)かるらん。
いかに申すとも鎌倉のえがら(荏柄)夜廻りの殿原にはすぎじ。
いかに心にあはぬ事有りとも、かた(語)らひ給へ。

義経(よしつね)はいかにも平家をばせ(攻)めおとしがたかりしかども、成良(しげよし)をかたらひて平家をほろぼし、大将殿はおさだ(長田)を親のかたきとをぼせしかども、平家を落とさヾりしには頚(くび)を切り給はず。

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★→ 今度は、前回の時よりも、彼等は一段と考慮した上で、対応をしてくるでしょう。

 何と申しても、鎌倉の荏柄(場所 注、現在の鎌倉市二階堂周辺。鎌倉幕府の重臣の館があった。)で、夜廻りをしている弟たちが頼りになります。
 どれだけ心に合わないことがあったとしても、親しく語らってください。

 源義経は、どのようにしても、平家を攻め落とすことが出来ませんでした。
 けれども、田口成良(成能)を味方にすることによって、平家を滅亡させることが出来ました。
(※ 阿波国讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。
(中略)
一ノ谷の戦い
屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父の田口良連、弟の桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子の田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、嫡子教能が投降した事を知った成良は
壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。しかし、『吾妻鏡』には平氏方の捕虜に成良の名が見られ、正否ははっきりしない。)

 また、大将殿(源頼朝)は、長田忠宗のことを、親の仇である、と、認識していました。
 けれども、平家を陥落させるまでは、長田忠宗の頸を切らなかったのです。

(※ 平治の乱 義朝敗走 尾張の国で家人の長田忠宗に匿われた。しかし長田忠宗は義朝を裏切り、湯あみをしている時に討ち取ってしまった。)


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★→ 况んや此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしき(屋敷)を上へ召されたり。
日蓮と法華経とを信ずる人々をば、前々(さきざき)彼の人々いかなる事ありとも、かへりみ給ふべし。
其の上、殿の家へ此の人々常にかよ(通)うならば、かたき(敵)はよる行きあはじとをぢ(怖)るべし。
させる親のかたきならねば、顕はれてとはよも思はじ。
かくれん者は是程の兵士(つわもの)はなきなり。常にむつ(睦)ばせ給へ。
殿は腹悪しき人にて、よも用ひさせ給はじ。若しさるならば、日蓮が祈りの力及びがたし。

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★→ ましてや、貴殿(四条金吾殿)のご兄弟の四人は、遠くは法華経を信じているために、近くは日蓮を信じているために、命を懸けて入手した屋敷を、主君に召し上げられています。
 故に、日蓮と法華経を信ずる人々に対して、以前に、彼等がどのような事をしていたとしても、配慮をしてあげなければなりません。

 その上、貴殿の家へ、ご兄弟がいつも通って来れば、敵は怖れて、夜間に近寄って来ることはないでしょう。
 もともと、親の仇というわけではありませんので、まさか、昼間に正体を顕して、襲って来ることはない、と、思われます。
 また、夜の闇に隠れて、襲って来るような者に対しては、貴殿のご兄弟の四人ほど、勝れた力量を持った兵士はいません。
 そういう意味合いを込めて、常に、ご兄弟とは仲良くして下さい。

 しかし、貴殿は、腹悪しき(短氣な)人でありますので、なかなか、私(日蓮大聖人)の忠告を用いないことでしょう。
 もし、そのようなことになれば、日蓮の祈りの力が及ばないことになります。

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 竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあし(悪)かりつる人ぞかし。
天の御計(はか)らひに殿の御心の如くなるぞかし。
いかに天の御心に背かんとはをぼするぞ。
設(たと)ひ千万の財(たから)をみ(満)ちたりとも、上にすてられまいらせ給ひては、何の詮かあるべき。
已(すで)に上にはをや(親)の様に思はれまい(進)らせ、水の器に随ふが如く、こうじ(犢)の母を思ひ、老者の杖をたのむが如く、主のとの(殿)を思(おぼ)し食(め)されたるは法華経の御たすけにあらずや。
あらうらや(羨)ましやとこそ、御内の人々は思はるヽらめ。
とく(疾)とく此の四人かたら(語)ひて日蓮にき(聞)かせ給へ。
さるならば強盛に天に申すべし。
又殿の故御父御母の御事も、左衛門尉(さえもんのじょう)があまりに歎き候ぞと天にも申し入って候なり。
定んで釈迦仏の御前に子細候らん。

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★→ 竜象房と貴殿(四条金吾殿)の兄上は、貴殿の御為には悪い人でありました。
 しかし、諸天の御計らいによって、貴殿の御心の通りになりました。
 にもかかわらず、何故に、諸天の御心に背くようなことをお考えなのでしょうか。
 たとえ千万の財産に充ち足りていたとしても、主君から捨てられるようなことになれば、何の意味もありません。

 既に、貴殿は、主君(北条光時殿)から、親のように思われています。
 あたかも、水が器に随うように、子牛が母牛を慕うように、老人が杖を頼りにするように、主君が貴殿のことを思っておられるのは、まさしく、法華経の御加護によるものです。
 一門の人々は、「なんと、羨ましいことであろうか。」と、思っていることでしょう。

 一刻も早く、貴殿のご兄弟四人と仲良く相談して、その結果を、日蓮に聞かせて下さい。
 そのようにしていただければ、強盛に、諸天へ申し上げましょう。

 また、貴殿の亡くなられた御父・御母の御事につきましても、「左衛門尉(四条金吾殿)が、たいへん歎いておられます。」と、諸天に申し入れましょう。
 必ずや、釈迦仏の御前で、丁重な扱いを受けることになります

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 返す返す今に忘れぬ事は頚切られんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きて、な(泣)きかな(悲)しみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。
設(たと)ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はヾ、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしら(誘)へさせ給ふとも、用ひまいらせ候べからず。
同じく地獄なるべし。
日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。
暗(やみ)に月の入るがごとく、湯に水を入るがごとく、氷に火をたくがごとく、日輪にやみ(暗)をな(投)ぐるが如くこそ候はんずれ。

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★→ 返す返すも、今でも忘れられないことは、私(日蓮大聖人)が龍口で頸を切られそうになった時、貴殿(四条金吾殿)が私(日蓮大聖人)のお供をして、馬の口に付いて、泣き悲しんだことであります。
 その時のことは、如何なる世になったとしても、絶対に忘れられません。

 たとえ、貴殿(四条金吾殿)の罪が深かったために、地獄に入るようなことになったならば、日蓮に対して、「是非とも、仏に成るように。」と、釈迦仏からお誘いを受けたとしても、そのお誘いを用いるわけには参りません。
 貴殿と同様に、私(日蓮大聖人)も、地獄に入ります。

 日蓮と貴殿が、共に地獄に入るならば、必ずや、釈迦仏・法華経も、地獄に在していることでしょう。

 そのことを譬えると、暗夜に月が入っていくようなものであり、湯の中に水を入れるようなものであり、氷の中に火を焚くようなものであり、日輪(太陽)に闇を投げるようなものであります。

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 若しすこしも此の事をたが(違)へさせ給ふならば日蓮うらみさせ給ふな。
此の世間の疫病はとのヽまう(申)すがごとく、年帰りなば上へあがりぬとをぼえ候ぞ。
十羅刹の御計らひか、今且く世にをはして物を御覧あれかし。

 又世間のす(過)ぎえぬやうばし歎ひて人に聞かせ給ふな。
若しさるならば、賢人にははづ(外)れたる事なり。
若しさるならば、妻子があとにとヾまりて、はぢ(恥)を云ふとは思はねども、男のわか(別)れのお(惜)しさに、他人に向かひて我が夫のはぢをみなかた(語)るなり。
此れ偏(ひとえ)にかれが失(とが)にはあらず、我がふるまひのあし(悪)かりつる故なり。

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★→ これまでに、述べてきたことにつきまして、少しも、違背してはなりません。
 もし、違背するようなことがあれば、後になってから、日蓮を恨んではなりません。

 現在、世間に流行している疫病は、貴殿(四条金吾殿)が仰っているように、年が新たになると、身分の高い人々に対しても、蔓延していくように思われます。
 それは、十羅刹女の御計らいかも知れません。
 今しばらく、在家のままで、世間の物事を、御覧になって下さい。

 また、世間において、過去に辛いことがあったとしても、歎き事を、他人に聞かせないようにしなさい。
 それは、賢人の生き方には、外れた行為になります。

 そして、今、出家をすれば、これもまた、賢人の生き方に外れた行為になります。
 もし、貴殿が出家をしたならば、後に残った妻子が、夫の恥を言うつもりはなくても、夫と別れた悲しさから、他人に向かって、自分の夫の恥を、すべて語るようなことになってしまうものです。

 これは、ひとえに、貴殿の妻子の過失ではありません。
 御自身の振舞いの悪さに、原因があるのです。

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 人身は受けがたし、爪(つめ)の上の土。
人身は持ちがたし、草の上の露。
百二十まで持ちて名をくた(腐)して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。
中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよ(吉)かりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。
穴賢(あなかしこ)穴賢。
蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。
身の財より心の財第一なり。
此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。

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★→ 人間の身を受けて、この世に生まれてくることは、難しいものです。
 あたかも、多くの土を爪の上へ載せた時に、ほんのわずかな土しか残らないようなものです。
 また、人間として生まれてきても、その身を持っていくことは、難しいものです。
 あたかも、草の上の露が、朝日を浴びた途端に、消えてしまうようなものです。

 ならば、百二十歳までも身を持って、名を腐らせて死ぬ事よりは、生きて、一日であっても、名を挙げる事こそが大切であります。

 そして、「中務三郎左衛門尉(四条金吾殿)は、主君(北条光時殿)の御為にも、仏法の御為にも、世間における心根においても、たいへん良い人である。」と、鎌倉の人々の話題になって、誉められるようにして下さい。穴賢穴賢。

 蔵の財(財産)よりも、身の財(健康)の方が勝れています。
 また、身の財(健康)よりも、心の財(人間としての徳性)が第一であります。
 この御文を御覧いただいた後には、心の財(人間としての徳性)を積むようにして下さい。

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 第一秘蔵の物語あり、書きてまいらせん。
日本始まって国王二人、人に殺され給ふ。
其の一人は崇峻(すしゅん)天皇なり。
此の王は欽明天皇の御太子、聖徳太子の伯父(おじ)なり。
人王第三十三代の皇(みかど)にてをはせしが聖徳太子を召して勅宣下さる。
汝は聖者の者と聞く。朕(ちん)を相してまいらせよと云云。
太子三度まで辞退申させ給ひしかども、頻(しき)りの勅宣なれば止みがたくして、敬ひて相しまいらせ給ふ。
君は人に殺され給ふべき相ましますと。

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★→ さて、最も秘蔵の物語があります。これから、書いてさしあげることに致しましょう。

日本の国が始まって以来、二人の天皇が暗殺されています。
その一人は、崇峻天皇であります。
崇峻天皇は、欽明天皇の皇太子であり、聖徳太子の伯父に当たる人でありました。

崇峻天皇は、人王第三十三代の天皇でありましたが、ある時、聖徳太子をお召しになられて、このように勅宣を下されました。
「汝は聖者の者、と、聞いている。朕の相を、占ってみよ。」と。

聖徳太子は、崇峻天皇の勅宣を、三度まで辞退しました。

しかし、崇峻天皇が頻繁に勅宣を下されるので、止むなく、聖徳太子は、崇峻天皇の相を占い奉りました。
その上で、聖徳太子は、「君(崇峻天皇)は、人に殺される相をしておられます。」と、申し上げました。

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 王の御気色(みけしき)かはらせ給ひて、なにと云ふ証拠を以て此の事を信ずべき。
太子申させ給はく、御眼に赤き筋とをりて候。
人にあだ(仇)まるヽ相なり。
皇帝勅宣を重ねて下し、いかにしてか此の難を脱れん。
太子の云はく、免脱(まぬかれ)がたし。
但し五常と申すつはもの(兵)あり。
此を身に離し給はずば害を脱れ給はん。
此のつはものをば内典には忍波羅蜜(はらみつ)と申して、六波羅蜜の其の一なりと云云。

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★→ すると、崇峻天皇の御氣色がお変わりになって、「何の証拠を以って、太子が云う事を、信じるべきであるのか。」と、仰りました。

 聖徳太子は、このように、お答えになりました。
 「陛下の御眼に、赤い筋が通っておられます。これは、人から恨まれる相であります。」と。

 重ねて、崇峻天皇は、「どのようにすれば、この難を免れることが出来るのか。」と、勅宣を下されました。

 聖徳太子は、再び、このように、お答えになりました。
 「残念ながら、この難は、免れがたいものです。
 ただし、『五常』(仁・義・礼・智・信)と申す、強兵の如き教えがございます。
 『五常』を、身から離さずに行動していけば、害を免れることが出来るでしょう。

 この強兵の如き『五常』の教えのことを、仏教では『忍波羅蜜』と申して、『六波羅蜜』(布施・持戒・忍辱・精進・静慮・智慧)における、第一の修行(忍辱)に挙げられております。」と。

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且くは此を持ち給ひてをはせしが、やヽもすれば腹あしき王にて是を破らせ給ひき。
有る時、人猪(い)の子(こ)をまいらせたりしかば、かうがい(笄刀)をぬ(抜)きて猪の子の眼をづぶづぶとさヽせ給ひて、いつかにく(憎)しと思ふやつ(奴)をかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや、あさましや、君は一定(じょう)人にあだまれ給ひなん。

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★→ 崇峻天皇は、しばらくの間、『五常』(仁・義・礼・智・信)の教えをお持ちになっていました。
 しかし、崇峻天皇は、ややもすると、腹あしき(短氣な)天皇であったために、『五常』(仁・義・礼・智・信)の教えを破るようになってしまいました。

 そんなある時、猪の子を献上してきた人がいました。
 すると、崇峻天皇は短刀を抜いて、猪の子の眼をずぶずぶと突き刺しながら、「いつか、憎いと思っている奴を、このようにしてやるんだ!」と、仰せになりました。

 すると、その座にいた聖徳太子は、「なんと、浅ましいことでしょうか。なんと、浅ましいことでしょうか。陛下は、必ずや、人から恨まれることになるでしょう。」と、云われま
した。

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此の御言(ことば)は身を害する剣なりとて、太子多くの財を取り寄せて、御前に此の言を聞きし者に御ひきで(引出)物ありしかども、或人(あるひと)蘇我(そが)の大臣(おとど)馬子(うまこ)と申せし人に語りしかば、馬子我が事なりとて東漢直駒(あずまのあやのあたいごま)・直磐井(あたいいわい)と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ。
されば王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ。

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★→ 聖徳太子は、「このままでは、崇峻天皇の発せられた御言葉が、陛下御自身を害する剣になってしまう。」と、考えました。
 そのために、聖徳太子は多くの財宝を取り寄せて、崇峻天皇の御前で、先ほどの御発言を聞いた人々に、御引出物として財宝を与えました。

 けれども、或る人が、蘇我馬子という大臣に、崇峻天皇の御発言の内容を語ってしまいました。
 すると、蘇我馬子は、自分の事を指しているのであろうと思い込んで、東漢直駒・直磐井という者の子を教唆して、崇峻天皇を殺害してしまいました。

 このように、王位の身であっても、思った事を、たやすく、口に出してはならないのです。

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 孔子と申せし賢人は九思一言とて、こヽのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す。
周公旦(しゅうこうたん)と申せし人は沐(もく)する時は三度(みたび)握(にぎ)り、食する時は三度は(吐)き給ひき。
たしかにき(聞)こしめ(食)せ。
我ばし恨みさせ給ふな。
仏法と申すは是にて候ぞ。
 一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。
不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。
教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。
穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。

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★→ 孔子という賢人は、『九思一言』と申して、九度考えてから、一度発言するようにしていました。

@物事は真っ直ぐ、しっかり見る。
A他人の意見は先入観なく聞く。
B表情は穏やかに、にこやかに。
C言動は常に誠実を貫く。
D発言は注意深く、言ったことは守る。
E目的に向かう時の行動は慎重に。
F疑問点は教えを乞う。
G感情で相手を傷つけない。
H利益は道義的に得る。

 また、周公且という人は、客人が尋ねてくると、入浴中であっても、必ず身支度を整えて出向くようにしていました。
また、食事の時であっても、客人が訪ねて来れば必ず食事を中断して客人と誠意をもって応対した、ということです。

 しっかりと聞いておきなさい。
私(日蓮大聖人)を恨んではなりません。
 仏法を信行する意義は、ここにあるのです。

 釈尊御一代の仏法の肝心は、法華経にあります。
そして、法華経の修行の肝心は、不軽品にあります。
 では、不軽菩薩が人々を礼拝する修行をしたことには、如何なる意味があったのでしょうか。

 教主釈尊の出世の本懐は、人間としての振る舞いのあり方を、お説きになることにあったのです。
(※二義あり。一往は、確かに人間として徳のある振る舞い。再往は、即身成仏)

穴賢穴賢。
 賢く振る舞う者のことを『人』と云い、愚かに振る舞う者のことを『畜』と云うのであります。

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 九月十一日              日 蓮 花押
四条左衛門尉殿御返事