平成六年十月二十日
 神奈川布教区御親教の砌(前)

本日の親教に当たりまして『草木成仏口決』を拝読することにいたしました。
これは実は難しい御書ですが、なるべく解りやすくお話ししたいと思います。
今、御文を拝読しましたけれどもここには妙法の有情と非情、生死の問題について哲学的に非常に高度な内容が示されておりまして、それは寿量顕本の意義の上から説かれておるのであります。   

この御書は非常に大事な意義がありまして、御文の最後に「ニ月廿日」の日付が記してありますが、これは文永九年の二月二十日であります。
これはどういう時期かと申しますしますと、大聖人様が法華経の行者としての大折伏による様々なお振る舞いを示され、法華経の功力を説き執し、また題目を唱えるべくお勧めあそばされた御化専の地がこの神奈川県でありますが、その最後に、文永八年九月十二日に召し捕られて、問注所から引かれて鶴岡八幡宮の前を通られ、竜の口に至り、まさに頸を刎ねられんとされたのであります。
これが有名な竜のロの法難ですが、その時に不思誰な光り物が天空に通り渡って太刀取りの目がくらみ、御頸を斬ることができず、依智に移されました。
そのあと、依智を十月十日に出発されて、佐渡の国においであそばされたのであります。
そして、この二月というのは翌年の二月ということですが、それは佐渡の塚原三昧堂で『開目抄』をお書きあそばされたのと同じ時期なのです。

大聖人様は『開目抄』において末法下種の主師親三徳、法に即する人の本尊をお示しになり、さらに次の年、文永十年四月二十五日に『観心本尊抄』を著されて、人即法の本尊をお示しになられております。
『開目抄』には、久遠の仏様としての法華経のお振る舞いをあそばされた上から、「魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば云云」(御書五六三n)
という御指南があります。
この「魂魄」は久遠元初の仏の魂魄であるということが御相伝の上から示されるところであります。
そこで久遠の本仏の魂たる妙法大曼荼羅御本尊様を佐波の国でお顕しになるという大事な時に当たり草木成仏という大事な御法門においてその御本尊の意義を顕し給うという所以があるのであります。ですから、『草木成仏口決』は大聖人様の御化導の時期と意義の上から、非常に大事な御書と拝せられます。

だいいち、草木が成仏するということは小乗仏教では到底、説かれないことです。
大乗仏教においてもすべての人間が成仏できるとは言わない場合が多い。
だから法相宗では五性各別を立てて、無性という仏性のない衆生があって、その衆生は絶対に仏にはなれないと言っております。

 それから大聖人様は、
 「法相と三論とは人界を立てゝ十界をしらず」(同五二六n)
ということを、これも『開目抄』にお示しになっています。
なぜ人界なのかと言うと、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界のうち、上の菩薩と仏が抜けると八界になります。
結局、法相・三論には本当の中道の意味が説かれていないので、あらゆる衆生に即した成仏の上からの菩薩の修行と仏の結果が顕れていないのです。
したがって、一往、中道とか菩薩、仏とは言うけれども、円教の上における真実の教えとしての実休がないので、法相・三論の二宗は、八界は立てるけれども十界には到達していないということであります。
このように、大乗教とは言っても、ほとんどのものが人間界の成仏すら満足に説かれていないのです。まして草木が成仏するなどということは、さらに草や木ばかりでなく、世の中のあらゆる有情以外のもの、つまりすべての非情が成仏するなどということは普通、
総体的に見て考えられないことです。

皆さん方のなかにも「はたして草木や石でも成仏するのだろうか」と思う人もいるでしょう。つまり成仏する以上は衆生を導かなければならないのだから、石や砂のようなものがどうして仏様に成れるのかと、疑わしく思うのではないでしょうか。
しかし、草木成仏とは妙法蓮華経の深い教理による法界の全体観から来るのです。
すなわち、全体の上からこれを見ると、非常に不可思議な妙法蓮華経の意義において、あらゆる事物の変化と実在の相性体がお互いに融じており、具わり合っておるということが説かれるのであります。

これを空仮中、円融の三諦として理の上において説くのが理の一念三千であり、事の上において、すなわち仏様の常住の上に説かれるのが本門の事の一念三千になります。
そういう妙法の全体観の上から拝してみると、やはり草木にも成仏する素質があるのです。
しかし、実際に草木が成仏するのであるということは、大聖人様の下種の御化導へ入らないとはっきりとは示されてこないのです。『草木成仏口決』のこの御文は、明らかにこのことをお示しであると思われます。

さて、初めの「問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり」との御文が第一問答であります。
草木成仏というのは一体、有情と非情のどちらであるかという質問です。
 この有情と非情という言葉は、この御書を初めて読む方は今、初めてこの言葉を聞いたかも知れませんが、この「情」は普通は「情け」と読みます。
これは「りっしんべん」があることからも解るように、「心」という意味が主なのであり、喜怒哀楽など色々な意味での感性の心が「情Jなのです。
 我々やそのほかの動物はだいたい有情であります。
犬や猫でも怒ったりするのを見ますが、これはやはり情があるということです。
非情というのはそれ以外の心のないもので、草木成仏はこの大きく分けた二つのうちのいずれであるかということです。
そして、それに対する答えとして、草木成仏は非情の成仏であることを示されるのであります。

 草木は一往、生物と言えます。
しかし、石などは現代の科学的な認識では無機質に当たりますから生き物ではないように思えますが、この場合は情があるかないかで分けているのです。

次の「問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり」が 第二問答です。
これは、有情はもちろんであるが、非情もこの法華経において成仏するのであるかという質問に対してまさしくそのとおりであると答えられて、法華経において草木が成仏できるという大断定が下されるのであります。

その次の第三問答では「問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり」
と、まず証文を聞きます。
証文ということは実際の証拠となるところの文が何かということですから、その答えとして「妙法蓮華経である」と答えられるのです。
そして、このあとには問答はないのでありまして、ここからは妙法蓮華軽についての草木成仏の意義を最後までお説きになっているのです。

さて、法華経の品々の一番最初には妙法蓮華経という五字があります。
妙法蓮華経序品第一、妙法蓮華経方便品第ニ、妙法蓮華経譬喩品第三と、ニ十八品のそれぞれに全部、妙法蓮華経という語がついているのです。
その妙法蓮華経の意味は、お釈迦様が法華経を説かれ、その二十八品について経文を編集した弟子がことごとく品々に妙法蓮華経を挙げたのですから、その妙法蓮華経はお釈迦様が説かれたところの序品、方便品、譬喩品、信解品等、一経全体の内容を表す言葉であると言えます。

ところが、この場合の妙法蓮華経はそうではなく、特に寿量品の妙法蓮華経という意味であるのです。
このあとを拝読していくとはっきり出てまいりますが、寿量品の妙法蓮華経とは何かと言えば、『御義口伝』の寿量品の所に、
「此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付嘱是なり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり」(同一七六五n)
という本地無作の三身が「如来」の一番根本の意義であって、その上に神力品において妙法蓮華経を付嘱されておると示されてあります。

これは大聖人様が上行菩薩として霊山会上において、釈尊より結要付嘱と申しますが、妙法蓮華経一部八巻を要に結んで付嘱されたと示されております。
要とは、扇で言えば真ん中の要のことで、これがないと扇はばらばらになってしまいます。
このように、一部八巻二十八品の一切を四句の要法に括られたのです。
その神力晶の結要付嘱の文とは、
「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣旨顕説す」(新編法華経513)
であります。これが本仏の名前と実体と、所作の究竟という意味の宗と、その用きと、それについての内容説明という意味での教、つまり名体宗用教の五つの一切を括ったものを地涌の菩薩に付嘱したと言われるのです。

 けれども、これが何であるか、はっきりした実体について述べた方は、釈尊滅後二千年の間、一人もなかったのです。
天台・妙楽は法華経を本当に広く深く述べた方ですが、この結要付嘱の法体が何であるかということは、はっきりとはお示しになっていないのです。
これが久遠の当初の本仏の究尽による妙法蓮華経であるということを、末法に出現して上行菩薩様としての付嘱の上から結要の大法の解明顕示によって初めてお示しになったのが大聖人様であり、これがまた、日興上人へ付嘱されておる御法門であります。

この寿量品の文の上に示された釈尊の迹門と本門、特に本門においては寿量品が説かれておりますが、その文の上の寿量品に対して、もう一つ深い文の底に久遠元初の仏法の法体が存し、久遠元初の無作三身の仏様がおわしますことを御指南あそばされておるのであります。
それがまた、末法に顕れる本門の本尊の当体であるのですから、そのお立場からここに「妙法蓮華経」とおっしゃっておるのです。
ですから、ただ単に品々の題目を取って妙法蓮華経だと簡単におっしゃっているのではなく、御自身が上行の再建として御出現あそばされて、結要付嘱の妙法の法体として顕されることを、ここに示されておるのであります。

このあとは妙法を二つに分けられております。
「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり」と妙法と蓮華に分けて、妙法とは有情の成仏で、蓮華とは非情の成仏として、一切の成仏は妙法蓮華に存するということを御指南であります。

妙法蓮華経というのは「総在一念」という言葉もあるように、本仏の悟りの一念です。
また、別しては色と心の二つに分けられるというのです。
色とは物質で、心は心のことであります。
このように二つに分かれた形で色々と御指南があるけれども、法界の姿を総じて言えば一心一念において一つなのです。

例えば、ここにおいでになる方々を一つの集まりだと言えば、そうも言えるわけです。
また、それを分けて見れば何百人ということにもなるのです。
これは一人の人間でもそうです。
分けて見れば、たしかに心と肉体の二つになるけれども、実際には心だけの人間もなく、肉体だけの人間もなく、心と身体が一つになって人間としての生命が存するのであります。

だから、その元は一念にあって、別しては色心を分かつということを天台の教えでも言っておるのであります。

この妙という言葉には色々な意味があるけれども、「妙とは不可思議の法」(御書一○八n)とあるように、不可思議な命の在り方を示すものであるが故に、これは有情が成仏をする意義であると言うのです。
そして、蓮華というのは植物ですから、その意味において非情が成仏をする仏の悟りの法であると言われております。

 それがさらに進んで「有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり」と、有情・非情がさらに大事な生と死の問題であると言われております。

 これは、我々が常に考えなければならない問題として、仏教のなかでも生ということが説かれてあります。
世の中には今、うかつに生きている人も多いけれども、生きるということは非常に大事なことであり、そのなかにはなんの意義、目的で生きておるかというような問題も色々とあるのであります。
それから死という問題がありまして、死んだらどうなるのかということも色々に言われます。
最近のテレビなどでは死んだあとに霊魂が幽霊になってあちらこちらをさまよったり、たたりがあったというような報道をやっているようですが、あれも仏法の上からの生死の意義を深く掴んでおれば別に難しいことでもなんでもないことなのです。
すなわち、十如是のなかにもありますが、その因縁果報ということがよく解れは、生や死の色々なことの内容も明らかになってくる意味があります。

 この生と死ということは一往、対立的な問題です。
しかし、生きている人間は必ず死ななければならないのですから、生と死はくっついているものなのです。
くっついて一つのものなのだけれども一往、分ければ生と死というように立て分けられるのであります。

 そこで、有情の成仏は生の成仏だと言うのです。
これはどういうことかと言いますと、要するに、心があるということは生きているということで、皆さんも心があり生きているのです。
死んでしまったら、ものも言わなくなる。
それは心が去ってしまって、心の用きがなくなっているからなのです。
ですから、有情というのは生の上からの成仏の姿なのであり、それが妙法であるのです。
これに対し、非情の石や草木は死の上からの成仏であると言うのです。

そこで成仏を一緒に考えてみれば、それが有情における成仏、非情における成仏ということになるのであるということです。

 迷いの上からのことなのですが、生きているうちは色々な物質等の生活関係のなかで、どうしても心が主体になって身体を支配することがあります。
皆さんも、かゆいときには手でかいたりするでしょう。
それは心が肉体を支配しているわけです。
生きている時の形はそうです。
これが死んでしまうと、心がどこかに行ってしまう意味もありますし、また、そこに残っている場合もあるけれども、要するに肉休が逆に心を支配する意味があります。
ですから、死んでしまったら心の力で肉休を支配するという形がなくなってくるのです。
これは生きているうちの形を考えてみれば解ることであります。

 ですから「其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」と仰せです。
亡くなるまではお題目を唱えられるけれども、完全に亡くなってしまうと自分ではお題目を唱えられなくなってしまいます。
信心をしている人でもそうです。
信心をしていない人はなお色々な過去の業によって心が苦しむのです。
いくら苦しんでいても、それを自分ではなんともすることができない。
その場合は肉体が残っておりますから、その肉体の意味において共通する上の草木によって塔婆を立て、その塔婆をもって名前の上に妙法蓮華経と書き、その妙法蓮華経の功徳をもって仏の心を開くわけです。
それによって亡くなった方の当体が成仏するのであるということです。
それが「死の成仏にして草木成仏なり」ということでありますから、この草木成仏はそのまま塔婆の成仏でもあります。
やはり塔婆を立てて供養するということが、亡くなった先祖あるいは色々な人の成仏を願って追善回向、祈念する上において非常に大事なことと言えるのであります。
このほかにも、大聖人様は『中興入道御消息』などにも塔婆の供養を説かれておるのです。
創価学会は「塔婆など立てる必要はない」と言っているけれども、やはり塔婆をきちんと立てて、盆とか彼岸、特に命日等において供養をするということは大事なことなのです。

次の「止観の一に云はく」からは、天台大師の『止観』の有名な文を引かれて、草木成仏についてお述べになっております。

「止親の一に云はく『一色一香中道に非ざること無し』と」。この「一色一香無非中道」という文は色々な御書のなかに出てきます。
天台大師はこの文が得意で、『玄義』にも『文句』にも『止観』にも、色々な所に「一色一香無非中道」ということをおっしやっておるのです。

このなかで問題なのは「中道」という言葉です。
「中道」というのは、右と左と真ん中があると考えたときに、右でも左でもない所を真ん中だと考えます。
すると、右と左の間にあるから釣り合いは取れているようだけれども、本当の深い考えからいくならば、両辺を否定する狭い見方になるのです。
仏教において、あらゆる事々物々の現実の問題を探求し、その全部を悟っていくというのが仮諦の修行法であり、それから現実の問題に執われている者に対して徹底したところの平等観の上から悟りを開かせていくというのが空諦の修行法であります。
このように空と仮の両面があるけれども、それに対して、空でもなければ仮でもない真ん中の所に本当の仏の悟りとして中道があるというように、左右から離れた意味で考える中道は、まだ方便の中道なのであります。
これは真実の円教に来る前の別教における考え方です。
華厳、方等、般若等の大乗教にはみんな、この別教の方便の教えが入っているので本当の中道にはならないのです。
本当の中道というのは、この「離」ではなくて「即」だと言うのです。
つまり空と仮と中が、中そのものが空、空そのものが仮、仮そのものが中というように、全部違っておりながら即一つのものであるのです。
こう説明されてもよく解らないかとは思いますが、だから不可思議と言うのです。
例えば、畜生は人間とははっきり違います。
これは因縁の上から顕れているもので、過このつたない業によって不幸な畜生の姿が、仮諦の現象として顕れているのです。
それに対して即空であり即中であるということになると、そのままそのに徹底した平等と仏性を具する徹底した尊厳の意味が存するのです。
ですから十界互具という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、一界を挙げれば一界にことごとく十界が具わるというのは円融の中道を意味するわけで、この「一色一香無非中道」の中道は空仮中が全く円融しておるという意味の中道なのです。

 だから、色や香りとは言っても、これは青なら青、赤なら赤という一つの色を言うのではなく、赤も青も黄色も全部含んだ色あるいは香りでありまして、そのなかのどんなものを挙げてもそれがそのまま中道であるということです。

一色一香も、それが中道である以上は、そこに因果が具わっておるのです。
そして因果が具わっているということになると、そこには仏の修行もあるし、仏にも成るということ
が言える、つまり草木もまた、仏に成るという意味が当然あるのです。

「妙薬云はく『然も亦共に色香中道を許す。無情仏性惑耳驚心す』と」。
妙楽大師は天台大師の『玄義』『文句』『止観』をさらに詳しく正しく解釈した方で、天台の法華教学の中枢を顕した方であります。
その方が、今の「一色一香中道に非ざること無し」という天台の言葉を釈して「然も亦共に色香中道を許す」、つまり色と香の如く非情のものにおいても共に中道なのであると言っております。

そして「無情仏性惑耳驚心す」とありますが、この「無情」は先程の「非情」と同じことで、すなわち、心のないもの、情けがないものという意味であります。
ここは、そういうものに仏性があるということを聞いて「惑耳驚心」つまり実に不可解であり、そんな莫迦なことはないと言って、耳を惑わし心を驚かしたというのです。

これはどういう人達が驚いたかというと、天台以前にも仏教家が南三北七のほか、涅槃宗、法相宗、三論宗、華厳宗等、たくさんありました。
華厳宗は非常に法華経に近く、高い教えでありまして、華厳宗の第四祖の澄観という人は、元は天台の僧侶だったのです。

それがいつの間にか頭を狂わせて「天台よりも華厳のほうが良いと思う」といって華厳宗へ移ってしまったのです。

 華厳では、あらゆる事々物々を円の理で解釈するから、真理の上から仏の命が具わっておることが判るとは一往、立てます。
けれども、どうしても別教の方便も入っていますので、理仏性は肯定するけれども、草木などが実際に修行して仏の結果を顕すことは絶対にないのだと行仏性を否定するのが、華厳の澄観などの考えであります。
それに対して、天台が「一色一香中道に非ざること無し」「共に色香中道を許す」ということを示しましたから、みんな「惑耳驚心」したのであります。

 正因仏性、了因仏性、緑因仏性という三つの仏性があるということを聞かれたことがあるでしようが、このうちの正因仏性は理仏性になります。
ところが、了因仏性と縁因仏性は実際の縁を受けながら修行して仏に成っていくのですから、三因仏性を明確に示すのは法華経の義による天台の法門に限るのであります。

「此の一色とは、五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり」。「一色」とは青とか黄色とか赤とか白とか黒とかのすべての色を総合して「一色」と釈したのであって、ここでは一往「五色」とおっしゃってはいるけれども、そのほかの色もみんなそこに入っているのです。結局、その一つの色のなかに、あらゆる諸法実相、十界中道の在り方が具わっているということです。

次に「一とは法性なり」とあります。
法性というのは一つのものに具わっておるところの、法の絶対性を持った真実の婆を言うのです。
そして続いて「爰を以て妙楽は色香中道と釈せり。天台大師も無非中道といへり」と仰せになっております。
天台も妙楽も妙法蓮華経について、一代仏教の教えの全部を通観して説いております。
理論的には『玄義』十巻の全部が妙法蓮華経の解釈です。
けれども、大聖人様が「問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華軽是なり」とはっきりお
つしゃっておるのに対して、天台では「色香中道」「無非中道」とだけ言って、はっきり妙法蓮華経だとは言わないのです。
なぜ言わないのかというと、機がなく、時がなく、「妙法蓮華経の法体はあなたが弘めるのです」ということについての付嘱がないために、天台はそこまではっきり言えないのです。
つまり、解釈はするけれども、法体としての指南ができないから、ここに「天台大師も無非中道といへり」と言われておるのです。

「一色一香の一は、ニ三相対の一には非ざるなり」。
この「一」というのは、一に対してニ、あるいは一に対して三というように相対的な形で一と二と三と考える一ではなく、絶対的な意味があるというのです。
だから「中道法性をさして一と云ふなり」ということです。
つまり、どのような色でも香りでも一つを挙げれは、そのままそれが一切を包含する中道法性なのであるということを「一」と言っておるのであるという意味です。

そして「所詮十界・三千・依正等をそなへずと云ふ事なし」と、ここまでは天台・妙薬も言っておるのですが、大聖人様がさらに重ねてこれを仰せになっております。
つまり、一色のなかに十界が具わっているというのですが本当でしょうか。
これは、部分的に一つずつ見ていくと、最初にも申し上げたような疑問が湧くのです。
しかし、法界全体の妙法という上から考えてみると、たしかに事々物々はことごとくお互いに円かに具わり合っているのですから、そこには十界が具わっておるのです。
妙薬の、「一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」
                     (同六四八n(観心本尊抄)等)
という法門もありますが、草や木、小石や空気中に飛んでいる塵にも「一因果」すなわち正因仏性、了因仏性、縁因仏性が具わっているのであり、また、そこに地獄も餓鬼も畜生も修羅も乃至、仏などの十界が具わっておるのです。

例えば、車で走っているときに小さな石が飛んできて、フロントガラスが割れてしまうことがあります。
もし人間に直接当たったら大変な傷になると思いますが、あれは地獄界の用きに当たるのかも知れません。
そのように、ときによって色々な用きをするでしょう。
とにかく、それらにも十界が具わっておるのであります。

また「三千」という面では、これはあとにも出てきますから簡単にいたしますが、十界が互具して百界、百界に十如が具わって千如、千如に三世間が具わって三千の教量となるわけです。
そういう不思議の法界全体の法相が一色一香にも具わっておるということです。

 そして「依正等をそなへずと云ふ事なし」というのは、「依正」は依報と正報です。
結局、衆生は全部、報いによって存在しておるのであり、我々が人間として生まれておるのは過去の因縁の報いなのです。

皆さん方のなかにはお金持ちの方もたくさんいるでしょう。
これは過去において善いことをしたから今、お金持ちという報いを得ているのです。
もし 貧乏な人がいるとするならば、やはりそういう過去の悪因縁の報いなのです。

 大聖人様は佐渡の塚原三昧堂において、
 「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(同五六ニn)
と仰せになっておりますが、その心の広さ豊かさ深さは実に仏様の境界であります。
皆さん方も信心してお題目をしっかり唱える時には、心が広く深く豊かになって本当の富める方になるのであります。

この正報は有情の報いで、畜生は畜生なりの過去の因縁果報によって今日、そういう報いを受けておる意味があります。
そして、その依ってもって生活するところの国土が依報なのです。
だから我々は今日、こういう国土世間に住んでおるというのが依報であります。

地獄界の衆生は、仮りに私達と同じ所にいたとしても、そこで苦しんでいるわけです。
例えば、一つの水でも餓鬼には火と見え、地獄の衆生は大火と見るわけです。
我々は水を水と見ます。
ですから、その国土が仮りに同じであっても、果報によってその所依の依報の姿、形がみんな違って観じられるのです。

地獄の衆生は実に苦しみの依報によって生活をしておると言えますが、地獄は一往、地面の何百億由旬の下にあるとも言われますけれどもまた百三十六の別処があるとも説かれますから、私達の周りにもたくさんの地獄の衆生がいるのです。
その地獄から仏界までの十界の依正を全部、具えておるということであります。

そして「此の色香は草木成仏なり」、つまり仏に成るということは草木の成仏、非情の成仏という意味なのであるということです。
また「是即ち蓮華の成仏なり」、これは蓮華の意義において成仏するのであるという御指南です。
ですから、妙法蓮華が仏の根本の悟りであり、その妙法蓮華のなかの蓮華という文において衆生の成仏がはっきりと示されておるのであるということであります。

「色香と蓮華とは、言はかはれども草木成仏の事なり」。
結局、色香と言い蓮華と言いますが、蓮華は仏の功徳の結晶ですから、色香は蓮華の語によって即、仏と成るのです。

また、蓮華は能く色香を仏に成さしめるという意味があるのでありまして、ともかく言葉は変わっておるけれども共に草木が成仏するということであるということです。

ここまでは要するに、天台大師の「一色一香中道に非ざること無し」という文の意味から草木成仏を述べられておるのであります。

次の「ロ決に云はく」からは、今度は本門の意をもって大聖人様がお説きになられます。
天台の立場は迹門の化導の上から、迹面本裏と言いまして、迹門を中心にして本門が裏に回っております。
もちろん、天台大師の場合も本門がないわけではありません。
釈尊より一経付嘱を受けていますから、迹門も本門も共に付嘱はされておるのです。
また、化導の上から迹門の諸法実相の法門を表にして本門を裏に回すとは言っても、たとえ裏でも本門の法がなければ一念三千は成就しないのであります。

この「ロ決」は、伝教大師以後の日本天台において本門の研究が進み、そういうところからロ決という形が現れてきたのだと思います。
ですから、これは大聖人様の口決ではなく、当時の天台宗において既に非常に進んでいた本門思想のなかから出てきた言葉を、一往ここでは挙げられておるのです。

ここに「口決に云はく『草にも木にも成る仏なり』云云」とありますが、この御文の「にも」とか「る」とか「なり」を取って読んでみてください。
これを取って漢字だけ読むと「草木成仏」となるでしょう。
つまり、草木成仏という語は「草にも木にも成る仏なり」と読むのだということです。

この前までは、草木が仏に成るということの趣意でしたが、ここの場合は迹の意味であります。
すなわち、「草にも木にも成る仏なり」と仏が主1体になって、仏が草木に成っているのだということです。
そこに、本門の立場の御指南として大きな違いがあるのです。

 次の「此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」は大聖人様のお言葉です。
本門寿量品を開顕された釈尊は、実は久遠以来の仏としての常住の御尊体であると同時に、そのまま草木に成られているのだということです。
 しかし、こう聞くと「なんで仏様が草木なのか」と思われるでしょう。
だから、その次に「経に云はく『如来秘密神通之力』云云」と経文を挙げられておるのです。

 皆さんも毎日読んでいる寿量品の最初のほうに「如来秘密神通之力」とあるでしょう。
 この「如来秘密神通之力」が大変な御文なのです。
この御文について、天台大師が本門の深い意義を『文句』に釈しておりまして、「如来」は、
  「如実の道に乗じ来たって正覚を成ず、故に如来と名づく」
と、真実の道に乗じ来たりて真に正しい悟りを開いたのが如来、つまり仏であると説いております。
そして「秘密」とは、朝晩に行う大聖人様の観念文に「一身即三身・三身即一身」とありますが、その
「一身即三身なるを名づけて秘となし、三身即一身なるを名づけて密と為す」
と示されております。そして
「又昔より説かざる所を名づけて秘と為しJ
 つまり寿量品を説くまでの華厳、阿含、方等、般若の四十余年間の数えには全然このことは説いてないのであり、昔以来、今まで説かなかったことが「秘」の意味だということです。
それから、
「唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す」
と、菩薩以下の衆生には全然解らず、仏だけが深い境界において知っておるということが「密」の意味であるのです。
 
この「秘密」という言葉には二種類の意味があります。
世間の人間が悪いことをしたときに、それを覆い隠そうとして一生懸命「そんなことはありません。私はそんな悪いことはしていません」などとごまかそうとするのを見るでしょう。
調べてみたら、ちゃんと悪いことをしていたなどということが新聞にもたくさん出ております。
こういうのは覆い隠す、つまり「隠密」という意味の秘密です。
しかし、仏様の秘密はそうではありません。
仏様が過去の時の至らざる場合には説ておらず、ただ仏のみがよく知っておって、低い境界の者では知ることができないという意味の秘密です。
これは先程の隠密に対して「微密」と言います。
非常に微妙で、深く細密であるという意味の仏の秘密であります。

この秘密の上からすると、「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す」というのは三身相即と言いますが、即の字が付いているように、一つを挙げれば他の全部が具わっておるのが仏様の命です。

 「三身」というのは法身と報身と応身であります。
法身は常住で動かざる、不思議な法界の真理の身を言います。
真理の身そのものが、あらゆる事々物々に因縁果報の姿をもって現れている意味があるのでありまして、不思議なそれらすべてを生ずるところの、また、それらが帰していくところの法理、十界三千、依正の当体が法身という仏様の身であると言うのです。

そして、その法理を能く悟るところの智慧の身が報身であります。
ですから、報身は智慧身とも言われまして、修行によって報いられたところの身であります。

その法身と報身、すなわち境と智が一つになると、そこに大きな慈悲が起こってきます。
例えば、親が二人いて子供ができる。
そうすると親は自分の子供だけが非常にかわいく思う。
何しろ、よその子供が亡くなったのと、自分の子供がその辺で転んで膝をすりむいたのとが同じぐらい心が痛むというのだから、それほど自分の子供のことを一生懸命にかわいがる。
これも親の、凡夫の慈悲なのです。

それが仏様の場合は、法身・報身が境智冥合したところから起こってくる大慈大悲をあらゆるものに対して向けられるのであり、その慈悲の上から現れてくる仏の命、身体が応身であります。

ですから、法身から報身・応身が起こってくるという意味で法身常住は諸経に鋭いてあるけれども、報身・応身が常住で久遠の昔からの存在であるということは、法華経の寿量品でなければ説かれないのです。

大聖人様も『開目抄』のなかに、
 「法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(御幸五三六n)
と言われているように、寿量品において初めて、法身・報身・応身の三身が常住の仏様として説かれることが示されるのであります。

先程、空と仮と中において、空に仮・中が具わり、中に仮・空が具わり、仮に空・中が具わり、その三諦円融が真の中道だということを申し上げましたが、同じように、仏の身として法身、報身、応身がそのまま一身に即して三身なのです。
つまり、法身にそのまま報身と応身が具わり、報身に法身と応身が具わり、応身にまた報身と法身が具わるという意味の三身相即が、寿量品において体の三身として示されたのであります。
そして、この一身即三身・三身即一身を、天台大師は寿量品の極意として「如来秘密」の文によって説かれておるのです。

そして「神通之力」の「神」は天然不動の理で、すなわち法身如来。「通」は滞りなくあらゆるところに通達していくところの智慧でありますから報身如来。
「力」はあらゆる相手に従って大きな力が現れてくるところの化導の力としての応身如来です。
だからこの「神通之力」の文には用きの上からの三身が示されているのであり、「如来秘密」は体の
三身、「神通之力」は用の三身という意味で、ここに体用の三身が説かれてあるということであります。

先程言いましたように、一身即三身ですから法身と報身と応身は一つであり、法身は法界全部なのです。
これは、草木も何もすべてを含有するのであり、あらゆる因縁果報の上において宇宙全体と考えるぺきです。
それは太陽系だとかなんだとかと区切る必要はありません。

今の科学者によると、この宇宙法界はビッグバンによって生まれたというのです。
このビッグバンという言葉も最近の言葉でありまして、このような考え方は出てきては消えていくもので、天文学者の研究によってまた色々に変わっていくのです。
このビッグバンは、一番の元のマッチ箱ほどの小さなものが、ある時に実然爆発して膨張を起こし、今でも何十、何百億光年という宇宙空間がさらに拡がり続けているというのです。
そのような考えは、ある一面の実相ではあっても完全なものではないと思います。

これは仏経に説かれてある成住壊空ということにおいて無限の存在と転変が存するが、その成住壊空のほんの一部分のところをもって、ビッグバンだとか宇宙の膨張だなどと天文学者が言っておるに過
ぎないのではないかと思います。

さて「法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし」とあります。
つまり、草木が仏に成るということよりももっと根本において寿量品の常住の仏身が顕れた以上は、この寿量品の仏様の一身即三身の法身が一切ですから、その理を仏身の上において見るときは、草木
もことごとく仏様の身として存しておるのであります。

ただそこで、もう一つ申し上げたいのは、報身においては「上冥下契」といううことがあるのでありまして、三身相即だけれども、その中心を強いて取れば、中心は法身と応身に対して報身にあると言われるのです。

これはなぜかというと、結局、法身の法界全体の法理を照らし悟るのが報身の智慧身であり、その意味において智慧は法身と一つになって冥じていくのです。
そしてまた、法・報が合したところに応身が能く顕れてくるが故に、その中心になるのは報身だと言われるのです。

次は「理の顕本は死を表はす、妙法と顕はる。事の顕本は生を表はす、蓮華と顕はる」
と、事理二顕本に約して説かれております。

「事の顕本」「事の顕本」という用語は、天台、妙楽等の原始天台、正系天台の基本のところにはないのでありまして、これが出てくるのは日本天台であります。

つまり、伝教大師が叡山に日本天台宗を建立し、その伝教大師以降において、この理顕本、事顕本という言葉が出てきたのであります。

では、なぜ大聖人様がそのような言葉をお使いになったのかと言いますと、それはやはりその時代その時代において現れてきた言葉を用いて、大聖人様の深い御境界の上から御指南あそばされている意味があるのです。

ですから、それらを自由自在にお使いになるということは全然、構わないことです。
けれども、事顕本、理顕本という言葉は本来、中古天台と言いまして、どちらかと言うと思想的に本門の法を考えるような流れのなかにおいて出てきたものであります。

私はここでは「如来秘密神通之力」と御指南になっておりますから、その本来の在り方において事顕本、理顕本を拝すべきであると思っておるのであります。

それについては寿量品のなかに、
「如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実非虚。
非如非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬」
                  (新編法華経四三ニn)
と説かれており、この御文をよく拝してみますと、それぞれ反対のことをおっしゃっているのです。
 
「無有」の「無」とは無いということです。
「有」というのは有るということです。
だから、無いという概念と有るという反対の概念が説かれております。

次の「生死」というのは生まれる、生活するという「生」と、死ぬという「死」です。
「若退若出」の「退」は生死を解決する仏道より退くこと、「出」は生死の苦しみが表れることです。
「亦無在世。及滅度者」の「在世」というのは迷いの中の生で因に当たり、「及滅度者」というのは
但空方便の小さい悟りで果に当たります。
共に迷いの因果です。
だから「在世」の因と「滅度」の果は反対の意味です。

それから「非実非虚」は「実に非ず、虚に非ず」と読みまして、これは小さい悟りの「実」と生死の泡のような「虚」という反対の概念であります。

それから「非如非異」は平等の「如」と差別の「異」という意味であって、これらは全部対照的になっております。

 この片方はずっと「無」「死」「退」「滅」というような系列になっており、もう一方は「有」「生」「出」「在」というつながりになります。

そしてこの三界の相を如実に正しく知見されておるのが仏様の悟られた寿量品の真如・真理であり、宇宙法界の大生命観であるということから、「如来如実知見。三界之相」はそのすべてを含んだ中道を説かれておるのです。

そして「無」「死」「退」「滅」は空を説いており、「有」「生」「出」「在」は実際に因縁和合の上から現れている形の仮の存在を示しておるのです。

 これを先程の三身に拝するとき、「如来如実知見」は無作の法身、「無」「死」「退」「滅」は無作の報身、「有」「生」「出」「在」は無作の応身であり、報身を中心とした法身、報身の境智冥合に約するならば、「無」「死」「退」「滅」の上から見れば理顕本になります。

これに対して、法身、報身から顕れる応身の意味においては世の中の一切衆生もすべて含むので、主体的な仏の悟りを含む衆生のすべてが現実に生きて活動している姿の常住を説かれたのが、「有」「生」「出」「在」の上からの事顕本であります。

ですから「理の顕本は死を表はす」というのは、このうちの「無」「死」「退」「滅」
になりますから死のほうになるのであり、その不思議な理が妙法と顕れるのであるということです。一方、事の顕本は「有」「生」「出」「在」のほうであり、仏・衆生と現れての活動の上からの常住を示しますから「事の顕本は生を表はす」のであります。
その生の姿にはそのまま因果の形が具わっておるので、原因と結果による様々な形があるのであり、
また、生の姿そのものが因果であり、蓮華についても蓮は因、華は果ですから「蓮華と顕はる」のであると仰せであります。

そして「理の顕木は死lこて有情をつかさどる」というのは、冥伏している法界の理からあらゆるものが現れるのであって、それらは死の位だけれども、その在り方においては逆に実際に活動するところの心の姿、有情の姿を支配しておるというのです。
つまり、法身、報身の理がそのまま応身として現れてきた因果の形の有情を支配しておるということであります。

これに対して「事の顕木は生にして非情をつかさどる」というのは、今度は仏様や衆生の現実の活動、生活の姿は生の位であるということで、その生の立場において、世の中の非情のものをつかさどって支配しておるということです。

これは皆さんもよく解るでしょう。
皆さん方はそれぞれ分々に応じて法界のなかの水や火といったものを支配しているでしょう。
食事の用意をするときには水を汲んできたり、それをガスの火で沸かしたりというように全部、非情のものをあなた方が支配して生活しているのです。
そういう意味で「事の顕本は生にして非情をつかさど」っていると言えるのであります。

次の「我等衆生のために依枯・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり」の御文は、法報応三身中の法身において、この草木国土が衆生の依佑・依託となる、つまり衆生の依り所となるという意味です。そして、これは非情の蓮華が仏と成った姿なのであるということです。
つまり、蓮華は即、仏の悟りでありますから、蓮華が仏と成って我々を利益してくれるのであると仰せであります。

そして「我等衆生の言語・音声、生の位には、妙法が有情となりぬるなり」と、我ら衆生が色々としゃべったり声を出すという生の位においては、妙法蓮華のうちの妙法のほうが有情を支配し、三身中の応身として仏の理を示しておられるのであるとの御指南と拝します。

また、報身は前に述べた如く、上法身に冥じ、下応身に契(ちぎ)って、相即相入するのであります。
ここまでが、事理二顕本に約して有情と非情を示されておると拝されます。

そして次からは、我々衆生の身の上に有情と非情が共に具わっておるという姿を示されるのでありま
す。

まず「我等一身の上には有情非情具足せり。爪と髪とは非情なり、切るにもいたまず、其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。一身所具の有情非情なり」とあります。
このように我々の一身の上にも有情と非情が具わっているのです。
髪の毛や爪は、いくら切っても痛くない。これは、つまり非情なわけです。
だから我々の一身の上にも非情があるけれども、しかしまた、ほかの所を切れば痛いのです。
これは有情の部分であるからで、この一身において有情・非情が共に具わっておるのであります。
この一身に有情・非情が具わっているということの上から、「此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり」と仰せであります。
この十如具には如是相、如是性、如是体から最後の如是本末究竟等まであるけれども、その主体はどこにあるかと言えば、存在としては相と性と体なのです。

「相」は外見をもって分かつべき形で、それによって、これは犬だとか猫だとか、あるいは男だとか女だというように判ります。だから、これは色法の物質の意味になるのです。

それから「性」は性質でありまして、「りっしんべん」がついておりますように、これは心なのです。

そして「体」は相と性が一つになったものであります。
さらに、「相は唯色に在り、性は唯心に在り、体・力・作・縁ま義色心を兼ね、因果は唯心、報は唯色に在り」(御書六四五n)
という妙楽の指南もありますように、結局、相・性・体に対して力・作はあるが、それによって生ずるところの因と果、この因と果は単独では存在しえないから、どうしてもさらに縁と報がなければならないのですが、この因縁果報を簡単に言えば「因果の二法」と言うのであります。
だから、十如是はあらゆる事々物々の因果の法則を説いているのであり、そういう意味から、ここに「十如是の因果の二法」とおっしゃっておるのです。
そして、この因果の二法は有情だけではなく、非情にも通ずるのであるということです。

次の「衆生世間・五陰世間・国土世間」は、いわゆる三世間であります。

「衆生世間」というのは十界を言います。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏という、仏様が御覧になった法界の命の在り方をこの十に束ねられておるのであります。
これを細かく見ていけば、その一つひとつにたくさんの種類があります。
畜生界だけでも、魚の種類も鳥の種類も哺乳動物の種類も大変な数でしょう。
また、この十界を大きく束ねておると言っても、その十界の心は何かと言えば、内面において十界の
一つを挙げればその一つにまた十界が具わっている、
つまり百界が具わっているということがあるのです。その不思議な形が衆生世間なのです。

 次の「五陰世間」の五陰には二つの意味がありまして、一つは「積み重なり」ということです。
大聖人様も、
 「悪積れば地獄となる。善積れば仏となる」(同一ニニ七n)
とおっしゃって、悪いことばかりしていると地獄へ堕ちると仰せです。
もちろん、少しぐらい悪いことをしても、これはいけなかったと思って懺悔すれば地獄へは堕ちません。
ところが、平気で悪いことをして、それがどんどん積もっていくと、しまいには地獄へ堕ちてしまう。
一番明らかなのは正法を誹謗することで、その者は必ず地獄へ堕ちるのです。
宗門の根幹たる血脈の仏法に背逆し、誹謗中傷する大謗法の首魁、池田大作は必ず地獄へ堕ちます。これは、私は確言しておきます。
池田大作にだまされている人達は、これも一緒になって地獄に堕ちるからかわいそうなのです。
是非、救ってあげていただきたいと思います。

ともかく、生死を積み重ねているのが九界の衆生であり、常に楽を積み重ねておるのが仏様であります。

 もう一つは隠蓋といって、善いことを覆って見せないようにするのが陰であります。
仏様も慈悲の上から一切衆生を覆っているという意味がありますが、それもやはり陰なのです。

 このように陰にも色々な意味があるけれども、要するに五つの陰、色受想行識のうちの色は物質で、あとの受想行識はそれぞれ心の用きを言うのであります。

 次の「国土世間」は、先程申し上げた衆生の生活・生存する環境たる依報に当たります。
「此の三世間有情非情なり」。衆生世間、五陰世間、国土世間の三世間はすべて有情と非情であるということを仰せであります。
衆生世間にも有情と非情があります。
これは、先程の爪とか髪などは非情であるということから、有情・非情が共にあると育えるのです。
そして、五陰世間は色法と心法ですから、やはり有情・非情に当たります。
国土世間の場合は心がないとも言えるけれども、三身の実相の上から見るときには、国土世間もまた十種の法を具えておると言えるのであります。
したがって、この三世間が共に有情・非情を具えておる、つまり衆生と我々の一身と国土のすべてが有情・非情であるということをここでお説きになっておられるのです。

 そして、最後に結論として「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり」と仰せであります。

 この前の所で挙げられた衆生世間、五陰世間、国土世間の三世間や十如是は、そのまま一念三千の構成要素であります。
天台大師は、十界互具して百界、百界に三世間が具わって三百世間、それに十如是が具わって三千如是とい開合の仕方と、一心に十界が具わり、その一界に十界が具わって百界、百界に十如是が具わって千如是、千如具に三世間が具わって三千世間という開合の仕方があることを示され、両方とも最後には三千になって一切ことごとくを具えておることを説かれております。

 このように、天台大師の『摩訶止親』の修行法は、まず我々の一心を取って修行法を立てるのですが、心は不思議であると考えて、その不思議の心をもって三千が具わることを悟っていく意味での座禅、観念・観法を示すのであります。
しかし、ここまでの悟りに至るのは大変ですから、十境十乗、ニ十五方便というようなたくさんの準備段階やら、あらゆる修行法が『摩訶止親』のなかにはたくさん説かれてあるのです。

 止親も、漸次の止観と不定の止観と円頓の止観とに分けて説いてありまして、天台大師が一念三千を衆生に示すために鋭いた内容は実に複雑にして広いのです。
ですから、末法の我々が勉強するのも容易ではありません。
そこで、その煩雑な教えを「ふ(振)りすす(濯)ぎたてたる」とおっしゃっておる意味があるのです。
「ふ(振)りすす(濯)ぎ」というのは、振りすすいで、そういった複雑さをすべて捨てて、その本体・本質を顕したということです。

 もう一つは、お釈迦様は法華経の本門という真実の教えを説かれたのですが、ただ一つだけ方便があるのです。
つまり、小乗仏教に対しては権大乗、権大乗に対しては法華経、法華経迹門に対して本門と、従浅至深して本門寿量品の真実の教えが説かれたわけですが、その説かれた仏様の御化導の形が、成仏の根本の種を下ろす化導ではなく、脱益の化導なのであります。
したがって、その化導においては衆生との関係から、どうしても三十二相八十種好というような、仏としての荘厳を示されなけれはならなかったのであります。
すなわち、小乗仏教の応身仏がだんだんと法門を開いていってより高度の法理を示しつつ、最後に寿量品を説かれたのであって、これを専門語で、久遠元初の自受用身に対して応仏昇進の自受用身と言うのです。

 その三十二相等の方便の相を示しておる仏様の説く教えにおいては、三十二相等を具えられるまでの長い長い修行をしなげれば仏に成れないのです。
しかし、それでは特に末法の人々のだれも仏様に成れる人はなくなってしまいます。
また、在世にも三十二相の仏様と全く同じ仏に成った衆生はいなかったのであって、在世の衆生も「等覚一転、名字妙覚」という寿量品の極々の法門によって仏に成ったことが判るのであります。
つまり、一番根本の凡夫の位に立ち返って下種の妙法蓮華経を本当に覚知して仏と成ったわけです。
 そこのところを大聖人様は、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろ
 しめして即座に悟りを開きたまひき」(同一四一九n)
と久遠元初の自受用身のお悟りをお示しになり、妙法蓮華経の本体をお顕しになったのであります。したがって、方便の教えを一切捨てて、三十二相の仏様を拝むのではなく、根本の妙法蓮華経の下種の本法を本尊として立てるのが「ふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり」という意味であります。
ですから、久遠元初の根本の仏様の真の悟りの妙法の当休がそのまま一切衆生が成仏の本懐を遂げるところの本尊として顕されているのです。

 この「たてたる」という意味において、特に独一本門の法体である久遠元初の一念三千について、大聖人様は『経王殿御返事』に、.
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同六八五n)
と仰せであり、ここに種脱、特に草木成仏がはっきりしております。

 すなわち、これは御本仏の久遠元初自受用の妙法の御魂を墨に染め流すということであり、墨というのは草木から作られます。
そして、書くのも紙に書かれるのですから、墨といい紙といい、これは草木なのです。
つまり、御本仏の御魂がそのまま草木に顕れるということであり、草木がそのまま仏と成るわけです。
そしてまた、大聖人様を信じて、十界互具百界千如一念三千の大曼荼羅を妙法の当体であると仰いでお題目を唱える衆生の一身の上には、そのまま御本尊の妙法蓮華仏が顕れるのであります。
すなわち、これは仏様の心法が色法の御本尊と顕れ、その色法の御本尊様を信じ修行することによって、皆さん方の色法がそのまま心法の当体蓮華仏として顕れるのです。
ですから、心法が色法に顕れ、色法がまた心法に顕れ、しかもそれが仏の功徳において顕れるというところが不可思議な草木成仏の原理であり、功徳であるということが拝せられるのであります。

 次に「当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」とありますが「習ひそこないの学者」というのはたくさんおります。
先程も言ったように、華厳の学者の澄観等もそうで、行仏性などを否定しております。
それから、三論の嘉祥だとか、法相の慈恩というような人もいますが、それらはみんな草木成仏を夢にも知らないということです。

 天台宗の人達も、慈覚、智証が弘法大師に誑かされて理同事勝などという狂ったことを言い出してから台密になってしまって、今もそういう流れがありますから、みんな法華の法門を正しく習うことを忘れてしまっておる「習ひそこないの学者」であって、それらには夢にも知らざる法門であるのです。

 真言もそうです。真言でも即身成仏ということを言いますけれども、真言の経典のどこにもそういうことは書いてないのです。
私も真言の法門の本を読んでみましたけれども、結局、三十年も五十年も長い間修行して、様々な印も真言も全部覚えたような高僧でなければ成仏できないと書いてあるのです。
しかし、そのようなものはだれも全部は覚えられません。
結局、即身成仏と言っても実体は何もないのです。

 ところが、大聖人様、日興上人様相伝の法門では、妙法蓮華経に一切が篭もっており、その妙法蓮華経の本仏の魂の功徳によってこれが十界と顕れて、地獄の衆生である提婆達多も御本尊の当体のなかにおいて成仏しておるのです。
つまり、十界の衆生がことごとく成仏できる姿を、血脈相承により御本尊の御当体としてお示しになっておるのでありますから、人間界の皆さん方が成仏できないはずはないのです。
そういう意味で、我々は即身成仏の確信を持って信心修行することが大切であります。

 そして「天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ絵へどもひろめ絵はず。一色一香とのゝしり惑耳驚心とさゝやき給ひて、妙法蓮華と云ふべきを円頓止観とかへさせ給ひき」というのは、先程申し上げましたとおり、天台、妙楽等には付嘱がないものですから、妙法蓮華経としてはっきりと末法の衆生の即身成仏の草木成仏を示すことはできないのです。
したがって、ただ「一色一香」あるいは「惑耳驚心」とだけ言って、理論の上から草木成仏の意義を説いたのであります。
草木が実際に成仏し、それによってまた一切衆生を成仏せしめるというところに、大聖人が「一念三千の法門をふりすぎたてたるは大曼荼羅なり」と仰せになる所以が存するのであります。

 そこで「されば草木成仏は死人の成仏なり」と、これは妙法蓮華経の回向によって一切の死人がことごとく成仏するという意味を、結論として簡単にお示しになっております。

 これは一切の死人ですから、皆さん方が御先祖を回向するのも、妙法蓮華経で回向しなげれはならないのです。
そこに草木成仏があり、それによって衆生の形となって迷っておるあらゆる命、その命は迷っておる形のなかであらゆる色法のなかに冥伏してしまっておるけれども、それを成仏せしめる。
妙法蓮華経をもって回向するところには、妙法蓮華の上からの草木成仏の功徳が存するのであります。

次からは、最後に勧め誠める言葉として「此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ。恐々謹言」と締め括られております。
すなわち、この法門を本当に知る人は少ないのであり、あなただけに説くのであるということです。

大聖人様が文永八年十一月に佐波に流されたあと、翌年の正月十六日に「南無阿弥陀仏を唱えると地獄へ堕ちるなどと言う憎たらしい日蓮はやっつけてしまえ」といって、本間六郎左衛門の指示により佐渡周辺の念仏者の僧達が寄り集まって法論の形になったわけです。
それが塚原問答でありまして、大聖人様はその者達が言うことの一々についてはっきりとその誤りを指摘し、大聖人の法華経の法義の正しい所以を明らかに知らしめたのでした。
そのことは『種々御振舞御書』に明らかにされておりますが、この御書を頂いた最蓮房という人は非常に深い学問のある天台の僧で、やはり佐渡に流されておりまして、おそらくこのころに大聖人の弟子となって御法門を受けられたのであります。
そして、この『草木成仏口決』の少し前にも、ニ月十一日こ『生死一大事血脈抄』という御書を頂いておるという次第であります。
ですから、このなかに説かれた法門は非常に大切な法門であり、それを知る人は少ないのである、と言って勧められるとともに、ほかの人々は一切、妙法蓮華に迷い狂っておって、生死や有情非情の問題を少しも解らないでいるのであるということを仰せになっております。

先程から申しましたとおり、三大秘法の随一たる本門の本尊は草木成仏の意義を顕しているだけでなく、法界の一切がことごとく成仏するという大きな功徳をもって示された御本仏の御化導であります。
皆さん方は縁あってその正法正義の正境たる御本尊を受けられておるわけですから、どこまでも正しい信心をもって今後とも御精進されることをお祈り申し上げまして、本日の法話に代える次第であります。
                    (文責・編集室)