第29回妙相寺支部総会おめでとうございます。
妙相寺支部のM M子と申します。

私は、創価学会二世として生まれました。
私の父は、勤行も教えられずに御本尊様をいただき、母もまた職場の上司に「何か困ったことがあったら南無妙法蓮華経というんだよ」と、折伏はされていたものの御本尊様をいただくまでにはならず、父と結婚しました。
謗法などきちんとおしえてもらわず、おなかの中に赤ちゃんがいるとき父は神社で安産のお守りを買ってきました。
その赤ちゃんはN子お姉さんです。
生まれて二か月後に小児麻痺にかかり、口が麻痺して食事をすることが出来なくなりました。
母は7年間、鼻から管を通してN子お姉さんを育てました。
兄が三つ違いで生まれ、兄と四つ違いで私が生まれました。

三人の子育ては誰も知り合いのいない土地で過酷だったと思います。
でも兄がおなかにいるとき、学会の婦人部の訪問折伏の中でたまたま、母が御本尊様を掛け軸と勘違いして居間の柱にかけているのを見た婦人部の方に「あれ御本尊様じゃない?」と聞かれたこの事がきっかけになり、母も入信しました。
知り合いも増えて母なりに頑張っていたんだと思います。

ある学会の会合があり、障害のあるN子お姉さんと兄の手を引き、私をおぶって会合に行くのが恥ずかしいと思った母は、N子お姉さんを一人家においていったそうです。
会合に行き帰ってくるとN子お姉さんは、御本尊様をくしゃくしゃにしていたそうです。
その後N子お姉さんは肺炎で亡くなりました。

母は、精神的にバランスをくずし、精神病院に入院し、私は一歳から二歳まで乳児院に預けられ、兄は施設に入り、父は一人になりました。
一家離散です。

母が回復しまた、家族で暮らすことになりましたが、今度は兄への母の虐待がはじまりました。
信心しているのに我が家は何かが違うのでした。

父は、仕事が長続きしませんでした。
兄への母の虐待は壮絶なものでした。
兄は自分がされたことを心に刻み込みます。
やがて兄も成長し中学生になったころから兄の家庭内暴力がはじまりました。
母に向かって叫びます。
「おまえ、俺にこうしたよなあ」
毎日のように暴れるわけではありませんが、でも一度暴力がはじまると地獄でした。
私も顔に青いアザを作り学校に行きました。
母がファンデーションを塗ってかくしてくれました。
父と兄の殴り合いに警察を呼びましたが「派手にやったな」と笑っていました。
当時は警察は民事不介入で助けてくれませんでした。

私が中学生になったころから、父の仕事関係でごたごたが続きました。
経済的にも大変でした。
創価学会の壮年の幹部に指導を受けましたが、受けた相手が悪くてその人は父名義で借金させて、そのお金の半分だまし取られてしまいました。
サラ金への借金が30社にも及び、取り立ての電話や、玄関先に出るのは私の役目でした。

「聖教新聞には体験が並ぶのになぜ我が家はこんなに苦しいのだろう?…」と子供ながらに思いました。
兄も大学受験に失敗しました。
でも大学への夢が捨てきれない中、東京で独学だけど働きながらもう一度頑張りたいとの兄の気持ちも強いこともあり、我が家で浪人生活しながら気に入らないことがあれば暴力を振るわれるよりも東京に行ってもらうことを母は望みました。
兄がいなくなることで幸せになると思っていた私たちでしたが、違いました。
さらに経済的に追い込まれました。

私の心の中で「何がダメなんだろう…」といつも思いました。
夜逃げ同然で引っ越しました。
高校に私もなんとか入学しましたがサラ金の取り立ては私の学校にも来ました。
学年主任に父と呼び出され「迷惑だから学校をやめてもらってもいいんですよ」との言葉を言われましたが、7人の先生が校長にかけあい、私は辞めずに通うことが出来ました。
御本尊様のおかげでした。

高校一年のとき兄が東京から戻ってきました。
なんと警察官と一緒でした。
無賃乗車で新幹線に飛び乗ったそうです。

また苦しい生活がはじまりました。
お昼はお金がないので、お弁当もなく水をのみました。
母は兄と生活に追い詰められて、二度目の精神病院の入院となりました。
自分の為にアルバイトをはじめましたが、バス代がなくて1時間半歩いて通いました。
その、バイト代も兄を東京へ戻す新幹線代に消えました。

私は美術部に入っていて女性の顧問の先生が、相談にのってくれました。
今の苦しみも財産になる。
ありのままの自分を受け入れること、今日を精一杯生きることを私に言ってくれました。
が、バイトをレストランの皿洗いに変え、送迎もありましたが夜10時半までのバイトは勤行もおろそかになり学校にも行きたくなくなりました。
美術の先生が励ましてくれたおかげでなんとか卒業し、東京に就職先も決まり私は、平成元年3月13日に玄中寺様で日顕上人様の御本尊様をいただき実家を離れました。

東京では創価学会の方に、恵まれました。
勤行をしっかりやらなければ生活が狂うことを教えてもらいました。

平成3年の宗門問題(*学会問題)があったときも「学会は正しい!」と信じてきました。
その後もずっと信じてきました。
でも創価学会の全国幹部の方の相次ぐ死や、地域での会合で幹部と呼ばれる方たちがあまり御書を通しての指導をされなくなりました。
そんな中、選挙一色になれば「公明に入れるよ」の言葉を聞くためにF活動もしました。
それが正義だと教えられてきましたし、信じていました。

職場で今の主人と出会い平成10年に長野にきました。

平成17年にニセ本尊の特別御形木本尊をいただきました。
私は、個人的に日寛上人が好きでした。
理由はお蕎麦のエピソードに感動したからです。
日々感謝をこめて勤行唱題をしてきました。
でも生活はゆっくりと悪くなっていきました。

御本尊に折伏のことを祈ると、「でもなぁ…」と疑問が浮かぶのです。
「学会に入ったら聖教新聞を取ってもらってさらに、新聞啓蒙にも頑張ってもらって、そして選挙の活動も戦ってもうらうんだよなぁ…」と思うと友人に学会を勧める気持ちが薄れていくのでした。

その頃青森にいる父親が「祈り方が、わからないんだよ」と、私に言いました。
そんな父に「池田先生と呼吸を、合わせたいと祈ればいいんだよ。」
と言うと、父は「そうやって祈ると、とても体が疲れるんだよ」と言うのです。
私はまだ池田先生を信じていましたので、父の言葉が分かりませんでした。
その後長年患ってきた糖尿病が悪化し父は亡くなりました。

また、自分の周りの学会員に幸せそうな人は一人もいない。
一体何がだめなんだろう。
信心の姿勢なのか?行体なのか?

辻副会長の本を読み、学会の打ち出しとは違い、一人ひっそりと五座三座の勤行を始めました。
ネットでもひそかに戸田先生のご指導を聴いていたり、原島喬さん観心本尊抄の講義を聴いていました。

もっと聞いていくと、樋田さんのネットにぶつかりました。
「すごいことを言う人だな」「こんな学会を敵に回して大丈夫なんだろうか?」と思いました。
でも、「命がけなんだ」と思ったことと、「真剣に日蓮大聖人様の御書を読まれる方だなぁ」と感じました。

辻先生のご指導のとおりに祈っても、勤行を正しても、生活は何も変わりませんでした。さらに悪くなっていきました。
私の手元にある辻先生の本には素晴らしい体験がならぶのに、「どうして?」という疑問が頭をよぎります。

樋田さんはネットで『偽本尊!!』と言い切っていました。

夜の勤行のあと唱題をして寝ると体が冷たいのです。
去年の6月頃、「なんでこんなに私は冷たいのかな?」自分の体の冷たさで布団も冷たくなっており、心から恐いと思うようになりました。
生活も「働いても働いても悪くなるのはなぜなんだろう?」と思いました。

ネットで樋田さんの話を真剣に聞くにつれて、学会の教義的なことがどうもおかしいこと、そして遠藤文書など流出もあり、何かが私たち末端会員の知らないところで動いていることを知りました。
確かに真剣に祈れば祈るほど、生活も苦しくなり、お金が出ていき、死にたくなる自分と体が冷たくなっていく自分がいました。

樋田さんにとりあえず、御書講義がすばらしいこと、元気をもらえてうれしいことは伝えたいと思うようになり、8月7日に連絡するとすぐ返事をいただき電話にて1時間ほどお話をしたときに、偽本尊の恐ろしさを語ってくれました。

子供を亡くす学会員が多いこと、実は一年前に地元幹部の息子さんが亡くなり葬儀に行ったこと、さかのぼること8年前にもヤングミセスにうつることを楽しみにしていた女性が結婚して数日後、心不全で布団のなかで冷たくなっていたのを帰ってきたご主人が見つけたことを思い出しました。

「勧誡は早いほうがいいですよ」との言葉に「はい!」と返事をしました。
その日に、日蓮正宗の末寺様で勧誡を受け息子も御授戒を受けました。
御住職様はあたたかくむかえてくれました。
深く感謝申し上げます。
8月30日に同じく日蓮正宗の末寺様で御本尊様をいただき中学二年の娘も強く勧めていないのに自分から「私もママと同じ信仰をする」と言ってくれ、同じ日に御授戒を受けました。

日寛上人の「正鏡に縁すれば功徳なお多し」の御文のとおりに勤行唱題に励むと、布団に入り体の奥からぽかぽかと暖かいのです。
「私、生きている!」と実感した瞬間でした。

『菩提寺』ということを、樋田さんの奥様から教えていただき妙相寺様にて父の御塔婆を立てさせていただきました。
落合御住職様が父の為に真心の読経をしてくださいました。
それまでの父の写真は苦しそうな顔でしたが、その日妙相寺から自宅にもどり父の写真を見ると穏やかになっていたのです。正宗の祈りのすごさを感じました。

しかし、まだまだ正宗になじめずにいる自分がいました。
学会のにぎやかさやお世話になった方々を思うと、「この道は間違っていない・・・」けど変な孤独感と、「もっと早く正宗にもどってもっと早く脱会していればなど…」など、過去を振り返り泣いていました。
落合御住職様に「正宗にもどってきたんだから、もう、くよくよしなくていいんだよ」
と、優しく諭してくださいました。
心の中で何かが解けていくようでした。もう、「くよくよしないで前だけ見て進もう」とその時、心の底から思えました。

私と子供二人が、正宗に入り変わったこと。
息子へのいじめがピタリとなくなりました。
息子のぜんそくがピタリととまりました。
娘の顔色がよくなったこと。
私が朝、らくに起きられるようになったこと。
家のローンも一万1千円安くなったこと。
家の中が暗かったのが、子供がしみじと、「うちってこんなに明るかったっけ?」と聞いてきました。

私は、父と母が正しい信心しているのに、なぜ生活や人生がよくならないのだろうと思って生きてきました。
母は会合から帰ってくると信心している人の悪口を言うのです。
さらに粘り口で一緒にやってもどこをやってるのかわからないような勤行でした。
勤行を欠かさず行っても、人の悪口ばかりを言っていれば生活は何も変わらないのだと今になりわかりました。
貧しさやみじめさの中で、当たり前の幸せなど何もないと教えられました。
真心に感謝することを忘れてしまったときに人は不幸になっていくのだと思います。

「樋田さんに出会わなければ、自分は死んでいたなぁ」とつくづく思うのです。
樋田さんの真心、「なんとしても創価から救い出したい!」との気迫のようなものを電話の向こうに感じたのを覚えています。
そして今年の日如猊下様の新年のご挨拶のなみなみならぬ御決意を読み、私もその心を大切に、創価時代に偽本尊を持たせてしまった、友人を御授戒に導くことができました。
これも妙相寺の樋田さんの奥様はじめ皆さんの祈りのおかげです。

法華講の皆さんとともに月に一度創価破折のビラ配りを去年の12月からはじめました。
大人5,6名子供も参加で十数名でビラ配りです。
学会側はもう話し合いにもならず、電話しても受けてもらえません。
ビラは手に取って考えさせてあげられます。
もう、それしか方法はありません。
法華講の皆さんとともにビラ配りをするたびに心が強くなっていきます。
それとともに、樋田さんの奥様から罪障消滅をしっかり祈っていくことを教えていただきました。
正法を誹謗したこと、日顕上人様を誹謗したことを深くお詫びする毎日です。
一番日顕上人様がご苦労され、この正法を命をかけて守られたのだと今になり分かりました。

二度目の登山の車の中で、こんな自分に何ができるのだろうと悩んでいることを、長野の婦人部の方に言うと
「○○さん、石岡御住職様が言っておられましたよ。この法には力がある。自分に力がなくても、法に力があるから大丈夫。」だと。
それをうかがい、「そうだこの信心にはすごい力があるのだ。大丈夫、大確信で進んでいきたい」と思っています。

落合御住職様を中心に80万構築に向けて皆さんとともに前だけ見て前進していきます。
とても遠回りしましたが、正宗にもどることが出来た喜びとともに信仰は正しい御本尊様と真心で信心に励む以外にないのだと感じています。
兄も母もまだ学会員ですが必ず正宗にもどってこられるように真剣に祈っています。
一番母と兄が苦しんだからです。
そのときは、あたたかく迎えてください。

私はまだまだ、経済的にも大変です。
そんな私のボロボロの車、お寺に来るのも恥ずかしいのですが、駐車場で誘導してくださった、壮年部の方は「尊いですね。よくこられましたね。」とあたたかく励ましてくれました。
これが法華講のみなさんの心なんだなと感謝しています。

■ 「讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」

との御金言の通りに、御本尊様を讃えることの素晴らしさを胸に、でも、大聖人様の誡め

■ 「法華経をば教のごとく持つ人人も・法華経の行者をば或いは貪瞋痴により或いは世間の事により或いは・しなじなの振る舞いによって憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり」

との御金言と

「十四誹謗をおかしてはならないのだ」と強く自分に言い聞かせて信心していきます。

本日は本当にありがとうございました。