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公開破折詰問状

創価学会名誉会長 池田大作殿
会長 原田稔殿  
最高指導会議議長 秋谷栄之助殿
副会長 谷川佳樹殿 
その他、今回の会則改変に関係した全ての創価学会幹部

                          日蓮正宗 法華講員 樋田昌志

今般貴殿ら創価学会が会則改変した件について、公開詰問状を送付する。

そもそも日蓮大聖人が御遷化の直前に

■ 日蓮一期弘法付嘱書    弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬 九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興  

■ 身延山付嘱書    弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
  弘安五年壬午十月十三日   武州 池上   日蓮花押 

 と、明確に唯授一人・血脈相承の次第を決判され、御遺命されてあるにもかかわらず、その日興上人からの正統正嫡である日顕上人・日如上人に背逆している貴殿ら創価学会は、既に大謗法の逆徒に堕ちて幾久しい。

 そのような大謗法団体が今更会則をどう改変しようが、正系門流日蓮正宗信徒の当方としてはさしたる問題事でもないが、しかしその内容が、無知な会員をして末法の唯一の大白法である戒壇の大御本尊から永劫に離反させる大謗法であるが故に、「法華経(=戒壇の大御本尊)の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。」の御金言に任せて創価の邪妄を劈くがために公開破折詰問状を送付する。

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本論

平成26年11月8日聖教新聞誌上での創価学会会長・原田発言

▼ 「会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」

について。

日蓮大聖人曰く

■ 此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年=太歳己卯=なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日  五八歳 平成新編(以下略)1397)

この御文のごとく、御本仏日蓮大聖人の出世の本懐は、弘安二年十月十二日御建立の本門戒壇の大御本尊である。

それは「池田大作監修 創価学会教学部編 仏教哲学大辞典」にも以下の如く定義されている。

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「仏教哲学大辞典」(通称 仏哲) 昭和50年10月12日 第三版

戒壇の大御本尊

◎ 弘安二年九月、熱原の法難においてあらわれた熱原方面の信徒の強信をめでられ、出世の本懐達成の時とされ、同年十月十二日の戒壇御本尊の御建立となった。

聖人御難事  (弘安二年一〇月一日  五八歳)(学会版 一一八九)

■ 去ぬる建長五年=太歳癸丑=四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年=太歳己卯=なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。/P1397

とある。

(中略)

日蓮大聖人の出世の本懐が本門戒壇の大御本尊であることも、明白である。


◎ 弘安二年十月十二日にあらわされた大御本尊こそ本門戒壇の大御本尊であり、これが出世のご本懐であることは一点の疑う余地もない。

◎ いよいよ日蓮大聖人の出世の本懐がなんであるかは明瞭である。
この戒壇の大御本尊は第二祖日興上人、第三祖日目上人と相伝遊ばされ、法灯連綿、今日まで富士大石寺に広宣流布の日を待って厳護されてきているのである。


三大秘法  本門の本尊

◎ 本門の本尊とは、日蓮大聖人の末法下種の本尊であり、仏法の最高究竟の本尊であり、全人類を即身成仏せしむる大本尊である。

◎ 「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に建立された、本門戒壇の大御本尊である。

◎ 本門の本尊が、他の本尊と全く異なり、最高唯一なるゆえんを明かす。


◎ F 本門戒壇の大御本尊。

日蓮大聖人の仏法の根本は三大秘法であり、三大秘法の根本は弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊である。
しかして現在まで日蓮正宗富士大石寺に清純に伝承され本門戒壇建立の時に本門戒壇に安置さるべき御本尊である。

◎ 弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟、本懐中の本懐である。
即ち三大秘法の随一であり一閻浮提惣体の本尊である。
 即ち日蓮大聖人は弘安二年十月十二日、当時ひき起こされていた熱原の法難を機会として、日興上人の指導する熱原地方の信者の強信を讃えつつ、出世の本懐達成の時として、本門戒壇の大御本尊を建立された。
 この本門戒壇の大御本尊は、一機一縁の御本尊とはその意味が異なり、末法万年のほか未来永遠の一切衆生がことごとく帰依して即身成仏の大功徳がえられる大御本尊であり、一閻浮提の衆生に与えられた大御本尊である。

◎ 日蓮大聖人が立宗いらい二十七年、弘安二年にして出世の本懐を遂げられたことを明かされた。
これこそ弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊である。

(仏哲引用以上)

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 これらは戒壇の大御本尊に関するほんの極一部の記述であるが、池田大作氏が明確に「戒壇の大御本尊こそ日蓮大聖人の出世の本懐にして仏法の根本である」と定義して発表してきた創価学会公式見解である。

 今回の原田発言は、この大聖人御一期の出世の御本懐であらせられる本門戒壇の大御本尊を、「受持の対象としない」としたことは=信仰の対象ではない=信仰しない=尊仰しない。と言っているに等しく、それはまさに大聖人の御一期の尊い御化導を否定しているのと同じである。

 尚且つ、不変性・普遍性・妥当性を極めて重要視する「辞典」にまで掲載されている、永遠の指導者・池田大作氏の「永遠の指導」にも反逆する「師敵対」行為であって、社会に大きな影響を及ぼす責任ある大宗教団体として、根本である本尊の定義を180度改変する今回の会則改変は、その正当性を厳しく追及されるべき大自己矛盾である。

▼「今後戒壇の大御本尊を受持の対象としない」というのならば、今まで「戒壇の大御本尊を受持の対象としていた」信仰は間違っていたのか?謗法なのか?謗法でないのか?その文証は?
もし今までが「謗法でない」とするならば今後が謗法となるのではないか?
今までの学会指導との整合性はどうとるのか?
現首脳部に詰問する。巨大宗教団体の責任者として明確に返答せよ。

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日蓮大聖人を利用する宗教的詐欺

■ 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(経王殿御返事 文永一〇年八月一五日 五二歳 684)

■ 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝 1773)

 人法一箇の戒壇の大御本尊こそ、日蓮大聖人の御魂魄であり、御本仏大聖人御自身である。
その戒壇の大御本尊を「信受しない」とは、まさに大聖人様御自身を蔑ろにし、侮蔑し、否定し、誹謗している大謗法である。
 そのような者どもが会則で「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」、などとほざくなど、まことに笑止千万である。

 つまり、形だけ、建前だけ、日蓮大聖人への信仰を標榜して、その実は全く日蓮大聖人を尊仰していない似非新興宗教に他ならない。
「日蓮大聖人」の御名と御遺徳を利用し、無知な会員達の信仰心を煽り、創価学会の指導に盲目的に隷属させる手段とし、創価学会の資金稼ぎ(=聖教新聞啓蒙&財務)と、公明党の議席獲得=票稼ぎ(選挙での公明党への”F取り”)などの”創価労働”へ従事させているに過ぎない。
実に唾棄すべき卑劣で醜悪な指導部どもの所業である。

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地獄の業

■ 善に付け悪につけ法華経(一大秘法=戒壇の大御本尊)をすつるは地獄の業なるべし。(開目抄 文永九年二月 五一歳  572)

 御本仏日蓮大聖人の御魂魄・大聖人御自身である人法一箇の戒壇の大御本尊を捨て去る行為は、この御文に仰せのごとく「地獄の業」である。
現執行部を筆頭に、全会員が無間地獄へ真っ逆さまに堕ちることはこの御文に照らし必定であろう。

 また、現在一分の信を持ち、戒壇の大御本尊への渇仰心のある学会員まで今回の会則改変によって大御本尊への信仰心を削ぎ、悪道へ引導することは極大謗法行為である。指導部の罪業は極限まで深いことを改めて指弾しておく。

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広宣流布について

■ 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬 九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興 
(日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 1675) 

■ 日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし(日興跡条々事 元弘二年一一月一〇日)

■ 三箇の秘法建立の勝地は富土山本門寺本堂なり 乃至 日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり(百六箇抄 1699〜1702)

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

 以上の御文の如く、広宣流布の暁には「富士山本門寺本堂に戒壇の大御本尊を安置せよ」と大聖人が御遺命である。
 仮に”創価学会が日寛上人のニセ本尊を広宣流布”したとして、その時、”事の戒壇”に安置する”本尊”とは戒壇の大御本尊以外でいかなる本尊か?
現時では存在するのか?あるとすればどの本尊か?ないとすれば、その時、どうするのか?
そもそも”事の戒壇”とはどこに建設するのか?

 これらの点も、社会的に責任ある巨大宗教団体として、「日蓮大聖人」を標榜する限り、宗義を明確にすべきであろう。

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日寛上人の御指南との矛盾

 創価学会が3000円で頒布している模造掛け軸(ニセ本尊)(ペンダントタイプは5000円か)は、その元は日寛上人御書写の御本尊である。
多くの日蓮正宗御歴代上人の中からわざわざ日寛上人を選んでその書写御本尊を模造掛け軸にして印刷頒布しているくらいであるから、貴殿等は日寛上人を特に尊信しているのであろう。
その貴殿等が尊仰している(はずの)日寛上人の御指南に、今回の会則改変は真っ向から背いている。

日寛上人曰く

● 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一(※第一)なり。況(いわん)や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

※ 究竟= 究極 事物を徹底的にきわめる → 御本尊を徹底的に極める 絶対
※ 総体(そうたい)=「物事を構成する上での、すべて(総て)」「全体」 
※ 出世の本懐= 仏がこの世に生まれ出た真の目的。
※ 本懐= もとから抱いている願い。本来の希望。本意。
※ 随一= 第一

 戒壇の大御本尊は日蓮大聖人の御一期の究竟中の究竟、本懐の中の本懐、そして三大秘法の中でもその随一であり、(随一とは第一と同義である。)一閻浮提へ授与せられたその全体、すべての根源である御本尊である、との御指南である。
 その戒壇の大御本尊を「受持の対象としない」などと嘯くなど正気の沙汰ではない。大謗法罪極まれり、である。

● 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。(法華取要抄文段)

 大聖人の仏法が広く広宣流布していく事相において、御歴代法主上人が御書写された御本尊が全国各地の末寺や拠点に安置されていくとしても、そこはあくまで「義の戒壇」であって、「事の戒壇」の枝流という意義である。根源・源流ではない。本門戒壇の大御本尊がおわします処こそ「根源」である。仏法を学ぶ者は等しく根源を尋ね求めなければならない。この根源を見失い、迷う者は、増上慢となり、真の成仏の境界など得られようはずはない。日本乃至世界中の仏教を学ぶ者は、なんで根源を尋ね求めようとしないのか。なんと浅ましいことか。

※浅ましい
1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。
2 見苦しく情けない。嘆かわしい。
3 身分や姿形が卑しい。みすぼらしい。

この御指南は、原田発言の、

▼ 「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも"電源と端子"の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります。」

を、一刀両断にされている。
 日寛上人のお言葉により「浅ましい」と叱責されているのである。
しかも今回の原田発言の根拠となる正当な文証はどこにも提示されていない。ただの見苦しい言い訳、言い逃れである。

● 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋(なん)ぞ本山と仰がざらんや。(文底秘沈抄)

 本門戒壇の大御本尊こそが根源である。その戒壇の大御本尊はどこにおわすかと言えば、現時においては富士大石寺の奉安堂である。戒壇の大御本尊まします富士大石寺を「本山」として尊仰しない者は実に愚かである。根性が我慢偏執の者である。結果無間地獄は必定である。

● 未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(寿量品談義・富要一〇―一三一)

 戒壇の大御本尊おわす富士大石寺へ参詣し、戒壇の大御本尊の御許で御題目を唱えなさい。それこそが三大秘法の本門の題目の本義である。信心の志がある者は必ず大石寺へ登山して戒壇の大御本尊に参詣しなさい。と仰せである。

 戒壇の大御本尊を渇仰してその地へ参詣しない今の創価学会員は、首脳陣を筆頭に全て信心の志がない者たち、ということである。
またそのように無知な学会員を洗脳してきた指導者どものためにまさに無間地獄の釜が大きな口を開けて待っているのである。

■ これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。
故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。
譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。
故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。
妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。
これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。」  (観心本尊抄文段・首文)

 戒壇の大御本尊こそ、一切諸仏の能生の根源である。また一切の正統なる曼荼羅御本尊の根源である。
全ての御本尊の功徳は戒壇の大御本尊から生じている。下種仏法の根源の法体である。戒壇の大御本尊を離れて何の功徳もないのである。
それどころかその根源の戒壇の大御本尊を「受持・信行の対象としない」などと大勢の人々を誑惑する者どもは先頭切って無間地獄行きである。

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”永遠の指導者”に対する反逆

▼ 創価学会会則 第3条  牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である。

 この 「永遠の指導者」が為した、「永遠の規範としての指導」として以下のものがある。
この指導は「永遠」に遵守しなければならないはずである。

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【牧口初代会長】

■ 御本尊の中、総与の御本尊と称して、大石寺に伝へられる大御本尊を信じ奉る者が正しい信者である
(第三文明社『牧口常三郎全集』第10巻 P151)

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【戸田会長】

◆ いまのところは、まずまず貧乏と病気です。これを、仏さまがおられてお救いにならないわけがない。われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
 これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
 だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。ありませんから、やってごらんなさい。7年もしたら、どんな顔になるか。いや、いままでやった人の顔をみてごらんなさい。
 ですから、私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです。
(S30.8.24『戸田城聖全集』第4巻343頁〜)



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◆ 電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である
(創価学会発行『折伏教典』339頁)
 

◆ なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている (戸田城聖全集 三―四九〇)

◆ わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。 迷っている人があれば車にのせて、大御本尊様の御もとに案内して行くのが、学会唯一の使命である。 宝の山にはいって、宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。 (昭和24年10月24日 創価学会第四回総会 東京教育会館)

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日蓮大聖人の法門では、拝む対象はただ弘安二年十月十二日御認めの戒壇の大御本尊様あるのみである
(戸田城聖講述『日蓮正宗 方便品寿量品精解』精文館 P100)




日蓮大聖人様はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。
現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊様として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人様の御当体とは気がつかないでいるのである

(戸田城聖講述『日蓮正宗 方便品寿量品精解』精文館 P33)


弘安二年の本門戒壇の大御本尊に帰依し奉る以外に成仏得道の道は絶対にないのである
(戸田城聖監修『折伏教典』創価学会【昭和29年版】P139〜140)


聖人御難事に、予は二十七年弘安二年なりとおヽせある通り、弘安二年十月十二日御出現の本門戒壇の大御本尊を拝ませねばならぬ事は明らかである
(戸田城聖監修『折伏教典』創価学会【昭和29年版】P330)

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補足(折伏教典 昭和43年10月12日 改訂35版発行 337)

■ 聖人御難事(御書1189)にいわく
「諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年=太歳己卯=なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。」
釈尊の出世の本懐は法華経二十八品、天台大師は摩訶止観、いま末法にはいって日蓮大聖人のご本懐は弘安二年であるということは、一閻浮提総与の大御本尊の建立をさしているのである。
この御本尊に対したてまつって唱えるお題目以外の題目は、すべて、仏説に反することは明らかである。

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本門戒壇の大御本尊を信じ奉らない者は、すべて謗法として禁じなければならない
(聖教新聞社『戸田城聖全集』第5巻 所収「立正安国論講義」P156)

◆ 「大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。私たちが家庭へ頂いて一家で信心している御本尊とはその意義が異なるのです」(『大白蓮華』 昭和三二年四月号三一 ※これは戸田会長存命中の創価学会の教義理論機関紙であるから、その内容の責任は当然当時の会長戸田氏にあることは言うまでもない)

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【池田大作名誉会長】

● 社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
  一、三大秘法の大御本尊が一切の根本であると拝していくことだ。
  二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことだ。
(広布と人生を語る 三−二七一)

● 日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである (広布と人生を語る 三―二四六)

● 大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」(聖教新聞 平成5年9月19日付)

● 「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。」 昭和56年1月14日「広布と人生を語る1」

● 「戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」(特別学習会テキスト56・ ※創価学会発行書籍の一切の責任者は池田大作のはずである)

● 「絶対なるものは大御本尊のお力である」(広布と人生を語る3−53)、

● 「日蓮正宗創価学会の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、日顕上人猊下に一切受け継がれているのである」(広布と人生を語る1−131)

■ 信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。(池田大作著『広布と人生を語る3』聖教新聞社 P98)

■ 大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります
(池田大作著『会長講演集』第9巻 創価学会 P218)

■ 大聖人はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。
これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります
(池田大作著『会長講演集』第2巻 創価学会 P56)

■ 大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる
(池田大作著『会長講演集』第8巻 創価学会 P167)

■ 一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐ進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄二三二)です
(池田大作著『会長講演集』第9巻 創価学会 P323)

■ 「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる非難中傷にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せなのである。「無疑曰信(むぎわっしん)」の大信心に厳然とたつべきである
(池田大作著「開目抄に学ぶ」 東洋哲学研究所『講座 教学研究【2】』所収 P12)

■ 日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである
(池田大作著『御義口伝講義(上)』創価学会 P94)

■ 末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである
(池田大作著『御義口伝講義(下)』創価学会 P238)

■ 日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである
(池田大作著『立正安国論講義』創価学会 P771)

■ 末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせになられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである
(池田大作著『日蓮大聖人御書十大部講義 第5巻 報恩抄』創価学会 P274)

■ 「題目肝心」とは、けっして邪宗日蓮宗等のいうように、どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである
(池田大作著『日蓮大聖人御書十大部講義 第5巻 報恩抄』創価学会 P362)

■ 大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです
(池田大作著『会長講演集』第10巻 創価学会 P192)


【その他】

■日蓮大聖人の仏法においては、三大秘法の大御本尊ならびに御書に説かれた法門が、化法にあたります。
これは、仏法の根本原理ですから、絶対に変わりませんし、また、変えられません。ましてや、自分で勝手に作るというわけにはいかないのです
(創価学会「大白蓮華」1966年5月号 P86)

■七百年前に、大聖人の教義はすでに決定され、つけ加えたり、変更したりする何物もない。
それを都合の悪い点をごまかして変更したり、勝手に、我見で教義を作ったりするとはなにごとであろうか
(創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会 批判を破す』鳳書院 P192〜193)


引用以上

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 この「創価学会の永遠の規範としての指導」を今回の原田発言において完全否定した。
これは永遠の指導者・池田大作氏の意思なのか?
それとも現執行部の独断専行なのか?

 もし、永遠の指導者・池田大作氏の意思ならば、かつての「永遠の指導」と今回の会則改変という「永遠の指導」とは大いに矛盾し真逆の内容である。どちらかが正しいのならばどちらかは間違っていることになる。このどちらに従ったらいいのか?

 池田大作氏は、社会的に責任ある巨大宗教団体の”永遠の指導者”であるのだから、その矛盾する点を、発言した本人として公式の場において「御書根本」で正当な御文を引用して説明すべきである。

 これほど根本的かつ重大な教義について、自身の師弟不二の師匠であり、同じく”永遠の指導者”であった戸田会長の言をも覆し、また自らの”永遠の指導”を悉く覆しているのであるから、奥様と御一緒に箱根駅伝ルートの下見に行けるほどの気力・体力があるのならば、池田大作氏自身が公の場に於いて、かつての発言との矛盾を責任持って説明することぐらいできるであろう。
 またそれが正しい信仰をしてきた者には当然備わる、勇気と責任感溢れた人間性であると思うがいかがか?
もし、それができないとなれば、池田大作氏の長年の信仰では、全く「人間革命」していなかった。ということになるのではないか?
とすれば、”永遠の指導者”御自身が体現できないのならば、創価学会の信仰自体に”人間革命”する功徳が全くない。ということになる。

 また、もし現執行部の独断専行であるならば、それは創価学会・永遠の指導者達への反逆行為である。
”永遠の指導者”の”永遠の指導”を穢す者どもであるから、”永遠の指導者”池田大作氏は即刻責任者全員を退任させ、除名し、永久に創価学会から放逐させるべきであろう。

以上 公開での責任ある返答・反論を要求する。

期限は平成27年1月末日とする。

追記

 今回の会則改変にあたっても、「御書根本」と会則に謳っていながら全く正当な文証を引文できてない貴殿らが、本状に、元より反論できようはずもないが、しかし仮にもしこの公開破折詰問状に反論できないとすれば公称世帯数827万世帯(2007年時)推定会員数およそ542万人(“わが国における主な宗教団体名”. 文化庁 (1995年12月31日). 2013年11月1日閲覧。)を擁する巨大宗教団体の指導部としては実に情けなく見苦しい、無信仰・無教学の醜態を晒すことになる。

 更に、創価学会及びその首脳部を破折詰問する当方は、創価学会と貴殿等にとっては間違いなく「法華経の敵」であろう。その当方からの公開詰問状を「見ながら置いて」反論しなければ、「師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。」であり、貴殿等首脳部と創価学会員全員は無間地獄間違いなしとなる。と日蓮大聖人は「御書」に仰せである。「御書根本」を会則に謳う貴殿らはその点よくよく熟慮して応対すべきであろう。


平成26年12月16日


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