樋田さん

こんばんは、○○です。
本日、行きたくもないのに、どうしても逃れられない事情があって、渋々と創価の御書勉強会に参加しましたので、今の創価をかいま見られるところを述べてみようと思います。


今日は、男子部の広宣部による佐渡御書研鑽とのことで、大白蓮華2009年1月号よりP56〜P71にある、「池田名誉会長講義 勝利の教典『御書』を学ぶ」を勉強?してました。

まず、驚愕すべきは
「御書は『勝利の教典』です。私たちが人生に勝利し、社会で勝利し、宿命に勝利し、魔性に勝利する。その一切の原動力が御書です。
(中略)
『佐渡御書』は、いわば『創価学会の御書』と申し上げても、過言ではありません。大聖人が、燃え上がる正義の炎で綴り遺され、弟子達の心に打ち込まれたこの御書を、学会の三代の指定は不惜身命の信心で、色読してきたからです。」
という池田大作の指導です。

御書講義などとは題目ばかりで、中身は実に矛盾ある御書講義であり、まだまだ御書を研鑽していかねばならない私ですら、頭をかしげる物でした。
さらに、講師として指導する広宣部の解釈もまた、何故御書を学んでおきながら、池田大作称賛を行えるのか、理解に苦しむところです。

宗務院発行の「創価学会員への折伏教本」ですでに解説されていることですが、戦中における御宗門が神札を受けたなどという虚言を、
「戦時中、この御本仏の『獅子王の心』を受け継いだのは牧口先生、戸田先生だけでした。
宗門は卑劣にも逃げました。不惜身命の獅子王の血脈は、創価学会だけが受け継いだのです。
大聖人の『獅子王の心』を、寸分も違うことなく受け継ぎ、世界広宣流布の道を開いてきたのが、わが学会です!ゆえに皆様方の功徳は絶大です。
この大いなる確認に燃えて、いよいよ創価の師弟の正義を語りに語り抜いていっていただきたいのです。」
などと書いています。

いわんや、この解釈には大きな誤りがあります。
血脈は創価学会にこそあるなどと書いていますが、そもそもが根拠を出していません。
また、この矛盾は大きな物となることは法華講員であればどなたでもお分りになることです。
血脈が創価学会にあるとすれば、いったい創価学会の誰が血脈を相承したと言うのでしょうか、言わずと知れずそれは池田大作に他ならないのでしょう。
では、池田大作が血脈相承したと解釈するとどのような事が起きるのか、当然の事ながら、池田大作は一般信徒とは違う位置づけになり、それはつまり身延相承書にある、「血脈の次第日蓮日興」であり、僧宝である日興上人から血脈相承遊ばされる御歴代御法主上人と同格であるという事を意味します。
そもそも、池田大作は僧俗和合を悉く否定しており、恐れ多くも御隠尊猊下であられる日顕上人を呼び捨てにして誹謗中傷を繰り返し、御僧侶を「坊主ども」と罵倒しています。
しかるに、池田大作は自身が御僧侶よりも上の立場であり、また日顕上人をも罵倒する以上は日興上人より脈々と血脈を相承遊ばされ、現在御当座遊ばされる日如上人までの全ての御上人を誹謗していることと変わりありません。
つまり、池田大作は自分が僧宝であると言いたい、乃至は三宝論を否定して、独自の教義を繰り広げる大謗法を行っていると言うことは言うまでもありません。
従って、創価学会の主張においては、「僧宝は創価学会において三代会長のことを指している」、そう解釈できます。

恐らくは、創価学会における三宝とは、

 仏宝=日蓮大聖人
 法宝=南無妙法蓮華経
 僧宝=日興上人ならびに三代会長(牧口常三郎、戸田城聖、池田大作)

であり、

また、創価学会において、どうも定説となりつつある三大秘宝の解釈は、

 本門の戒壇=各家庭のニセ本尊を安置した場所であり、事の戒壇
 本門の題目=南無妙法蓮華経
 本門の本尊=各家庭のニセ本尊

と言うことです。

日蓮正宗が護持し奉る本門戒壇の大御本尊は、すでに創価学会にとって御書解釈における不都合が生じており、大御本尊=家庭のニセ本尊 という強硬な解釈をもっていかねば創価学会の教義は破綻してしまうと言う状況にあると察します。
しかるに、大御本尊ましますところ、総本山大石寺であり、それを肯定することが創価学会にとっては不都合であるからです。
なかんずく、佐渡御書が「創価学会の御書」という言葉に、ある意味、賛同できるところもあります、それは「創価学会破折の御書」というべきでしょうが。

「これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮かくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便と申す計りなし」

まさに、池田創価学会の姿こそ、結果して大聖人を諭すが如き増上慢であると思うところです。

本日の創価の御書勉強会は、まさに最後まで苦痛そのもので、謗法の場と化した創価学会の会館に赴くことは邪宗の寺社に参詣することと変わらず、またこのような場で大聖人の教えを違えた講義を耳にすることは大謗法であると感じざるを得ないものでした。
恐ろしいことで、気分は最悪になり、苛立ちが増して修羅界の命になっている自分に気がつきました。
恐らくはこれが大謗法の魔の威力の恐ろしさなのではないか、そう思うところです。
ただ、私は創価学会の会館から逃げ帰るのではなく、如何に創価が大聖人の教えに背反し、また教義を利用して会員を誑かしているか、その実態を見ていく事が肝要であるとも感じており、大謗法の魔力に侵されることのない強い信心をもって挑まねばならないと感じるところです。