七宝

「聞(もん)」 正法を素直に聞くこと。
「信(しん)」 正法をわだかまりのない澄んだ心をもって信じ切ること。疑い無き信をいう。  
「戒(かい)」 悪を捨てて善を勧めること。謗法厳誡を旨とする本門の大戒。御受戒を受ける。
「定(じょう)」 禅定。心を不動にして定めること。修行によって迷いや苦しみがなくなり、真の心の安定を得ること。唱題。
「進(しん)」 精進。懈怠の心や退転なく真っ直ぐ道を進むこと、勇猛精進。勤行・唱題・折伏に励む。
「捨(しゃ)」 惜しむことなく、執着心を捨て去ること。一切のとらわれを無くすこと。 御供養に励むと執着心が薄れてくる。
「慙(ざん)」 慙愧(ざんき)。増上慢を戒め恥じる心。
        自らの悪心、悪業を恥じ、高徳の人の姿や振る舞いを見て自らの不徳を恥じ、正法の道理に照らして己の邪心を恥じること。
        この慙(ざん)、恥じる心が仏道修行を成就する要因となる。

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初めの
「聞」とは、正しい仏法を素直に聞くことが、あらゆる功徳を得る一番の元であり、いわゆる聞法の功徳を最も先とします。

次の
「信」とは、わだかまりのない澄んだ心をもって、聞いた妙法を心に宿すこと、即ち疑いなきを信というのです。

「戒」とは、法を正しく持つ上で、悪を捨て、善に進ませる戒法の徳、即ち防非止悪を旨とする仏道の徳を意味します。仏法には必ずこの戒が具わっています。
 したがって、日蓮大聖人様の御当体である御本尊様の御宝前において、爾前迹門の謗法を捨てて、三大秘法の御本尊様を一生涯受持することを誓う御授戒の儀式が信仰の原点となるのです。

次の
「定」とは、今まで謗法や悪縁によって煩悩が盛んになり、様々な迷いや苦しみが生じ、心が惑乱していたことが、妙法を持つ功徳により、真の心の安定を得る 

次の
「進」とは、懈怠や退転なく、まっすぐに道を進むことです。『方便品』には仏の勝れた行として、

 「勇猛精進」(法華経 八八n)

と説かれています。

この「勇猛精進」とは、総本山第二十六世日寛上人が『依義判文抄』に、

● 「『勇猛精進』は即ち是れ信心・唱題なり」(六巻抄 八九n)

と唱題、折伏に邁進することであると御教示されています。

次の
「捨」とは、誤った考え方に執着する心を捨てることをいいます。

『方便品』に、

 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四n)

と説かれているように、爾前権教への執着を捨ててこそ、正しい仏法を信解できるのです。

次の
「慙」とは「心を斬る」と書きます。
自らを省みて恥じることです。
一つは自身の至らなさを恥じること、もう一つは犯した悪事を恥じることです。
共に、善につけ悪につけ、自らの心を振り返り、妙法受持の功徳をもって、自分自身の慢心を恥じ、正していくことです。
こうして自身を恥じる心があれば、自ずと素直な心になるのです。

そうして素直な心に立ち返れば、また自ら進んで仏法を聴聞するようになり、正しい信心に住し、防非止悪という戒の徳が顕われるといった形で、我が身が聞信戒定進捨慙の七つの宝(七聖財)で荘厳された宝塔となるのです。

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「聞・信・戒・定・進・捨・慙」

@御本尊様の話を聞く事が「聞」、「聞法下種」と言う言葉もあります。信心の一切は「聞く」ことから始まる、ということです。
A御本尊様を信ずることが「信」。智慧
B御本尊様を持つことが「戒」。持戒
C御本尊様の前で唱題をすることが「定」。禅定。
D御本尊様と共に歩むことが「進」。精進。
E御本尊様に御供養をすること、折伏をすることが「捨」。喜捨。舎に法施・財施の二種あり。
F御本尊様の前で自己を見つめることを「慙」。慙は「心にざくりと切りこみを入れられた感じがする」ことを顕す。そこから、恥じる、反省する、悔い改める等の意。自省の意。