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法華講 ●
▼今回は、日顕が主張する「血脈論」、「法主本仏論」「三宝論」等についてお聞きし
たいと思います。
1)日顕は、第41回全国教師講習会で「学会は法体の血脈を除いて、信心の血脈だ
けを論じております。・・・・枝葉のところにとらわれているわけです。」(1992年
8月 第41回全国教師講習会)と主張。
そして日顕は、
「血脈に(1)法体の血脈、(2)唯授一人の血脈、(3)法門の血
脈、(4)信心の血脈の四つがあることを挙げて」それもことごとくは、法体の血脈
が根本であるから、そこから離れて信心の血脈はないんだ」(1994年8月 第44回行
学講習会閉講式)と主張。
この日顕の「血脈論」は、宗祖大聖人と歴代法主の指南に明確に違背。
生死一大事血脈抄 (御書1338)には、「信心の血脈なくば法華経を持つとも無益な
り」。
「化儀抄」で日有上人は、「信と云ひ血脈と云い法水と云ふ事は同じ事なり」と言わ
れています。
また、日亨上人は、「有師化儀抄註解」のなかで「信心と血脈と法水と
は要するに同じ事になり」と書かれています。この様に血脈とは、秘密めいた儀式で
はなく、信心のことであり、強情な信心のみが大聖人の境涯を我が生命に流れ通わす
唯一の方法なのです。
日顕が主張する血脈は、本義をゆがめた法論であり「ニセ血脈論」と判断しておりま
すが、この点どう思いますか?
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● 破折1
①
かつての創価学会論文
今回の貴殿の主張が正しいとすれば、以下の学会の主張は間違っていたこととなり、当時、池田会長を中心に広く会員へ、謗法の教義を広めていたということで、"池田会長を筆頭に創価学会は謗法団体だった"こと。
貴殿自身も謗法与同であったことを、貴殿自らが認めることになるが、いかん?
また以下の主張が正しいとすれば、貴殿の今回の主張はこの学会指導に背く”全くの大謗法”ということになるが、この大矛盾を貴殿はどう説明するのか?
もしこの矛盾が理解出来ないとすれば、それは道理が解らなくなっている”頭破作七分”である。
また、もし、
「当時は宗門へ気遣っての発言だった。」と言うのであれば、
およそ本尊や教義というものは一貫しているが故に信仰の根本尊仰となり、また基軸としていけるのであって、かつての教義解釈を、何の公式謝罪もなく変更するならば、それは正当な宗教団体とは言えない。
それは教義に一貫性がない、ご都合主義で日和見団体、不定見でその場限りのいい加減な似非宗教団体、つまりは邪宗・邪教ということに他ならないが、どうか?
■ かつての学会指導
▼『大白蓮華』
「この(※生死一大事血脈抄の)御文は、別しての『法体の血脈』を大前提としての、総
じての『信心の血脈』について、お述べになったものと拝される。(中略)ゆえに『法体
の血脈』と『信心の血脈』を混同するようなことがあってはならないのである」(昭和五
五年三月号六九㌻)
▼『日蓮大聖人御書講義』創価学会版
「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、
ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(生死一
大事血脈抄講義・30上132)
「今日、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法を正しく信受することができるのも、ひと
えに日蓮大聖人、日興上人以来、総本山大石寺歴代の御法主上人が伝持される法体の血脈
による御指南、御威徳によるものであることを銘記しなければならない。(中略)『総じ
て日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の
血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心
の血脈』について述べられたものである」(三〇上―五九㌻)
▼『大白蓮華』
「よく信心の血脈を問題にする者がいる。生死一大事血脈抄に『信心の血脈なくんば法華
経を持つとも無益なり』とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。誰で
も自由に継承できるなどというのはこれだ。(中略)有名無実の信心をふりまわして、付
属相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざ
ではないか」(昭和四一年九月号三五㌻)
▼『特別学習会テキスト』創価学会発行
「この別しての法体の血脈相承は『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』と仰せのご
とく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持
あそばされるところであります。同抄に『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水
魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云う
なり』の御文は『別して』の法体の血脈を大前提としての『総じて』の信心の血脈を仰せ
なのであります。ゆえに、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持
していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となるので
あります。ゆえに、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、
その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います」(二七㌻)
▼『聖教新聞』
「歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝
持せられていることである。この二つの根本(※戒壇の大御本尊と血脈付法の歴代上人の
ご内証)と、日蓮正宗の三宝、すなわち仏宝=御本仏・日蓮大聖人、法宝=大御本尊、僧
宝=日興上人――とは、同じ意義をもっている」(昭和五四年六月二日付)
② 戸田会長指導・池田大作発言
創価学会の会則には三代会長は永遠の指導者ということが規定されている。
◆第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第2代会長、池田大作第3代会長の「3代会長
」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である。(学会
・新会則)
であるならば戸田会長・池田会長の指導を忠実に厳守しなければ謗法であろう。
以下の指導はまさに、日顕上人の御指南と意を同じくしており、貴殿の主張こそ謗法とな
るがいかん?
●学会版 三宝 血脈論
▼2(「戸田城聖全集」第三巻235)
牧口先生当時から、学会は猊座の事には、一切感知せぬ大精神で通してきたし、今後もこ
の精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部と言えども即座に除名する。信者の精
神はそうでなければならない。昔、関西に猊座の事に意見を振り回して没落した罰当たり
者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなうものは当然そうなる。」
▼2『戸田城聖全集』
「御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大
聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして
大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる」(四―三九九㌻)
▼3『広布と人生を語る』池田大作
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、
法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も
、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと
同じである。外見からみればわれわれ(今ではこれは法華講)と同じようにみえるが、そ
れらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなけ
れば、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(8-228)
▼3『巻頭言・講義集』池田大作
「あくまでも師匠は日蓮大聖人様即御本尊様です。それから『遣使還告』あそばされる代
々の御法主上人猊下です。われわれはぜんぶその弟子です」(三―一一三㌻)
▼3『広布と人生を語る』
「御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ」(3-98)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反し
て、随順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私ど
もは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人
猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴ
と野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字のなき徒輩であり、もはや
それは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかない
のである。皆さまは絶対に、それらを恐れたり、また、騙されたり攪乱されてはならない
」(2-37)
▼3『会長講演集』池田大作
「御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告のお立場
、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会
精神であります」(4-45)
▼3『池田大作発言』
「『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人
猊下であられる」(聖教新聞 昭和53年2月26日付)
▼3 「七百星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、一点の濁りもなく唯授一人
の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました」(6-12)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、
唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、
御法主上人御一人であられる。われわれは、令法久住のための信心を根幹として、広宣流
布に邁進しているのである。しかし、いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなけ
ればできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまい
りたい」(3-256)
▼3『会長講演集』池田大作
「遣使還告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります」(一〇―四三㌻)
▼3『広布と人生を語る』
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順し
ゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。創
価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちが
いないと確信する」(3-32)
▼3 御法主上人猊下の御指南に従わない者は、もはや日蓮正宗の僧でもなく、俗でもな
い。(広布と人生を語る 三巻五三)
▼3今、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧
俗が出た事は、誠に悲しむべき事である。これらは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人
の仏法を信解していない証左なのである。 血脈付法の御法主上人猊下を離れて、正宗は
ありえないのである。」(「広布と人生を語る」第三巻)
▼3『広布と人生を語る』池田大作
「今日、日蓮正宗創価学会がこのように発展し、短期間に正法流布の根を深く広くはるこ
とができたのも、日蓮正宗の伝統の根が深いということにほかならない」(1-62)
▼3「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられ
る血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなけ
ればならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるか
らである」(一―二三○㌻)
▼『巻頭言・講義集』池田大作
「御法主上人猊下様は遣使還告で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のう
えからはっきりしたものです」(3-84)
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▼ 2)1991年、宗門能化から学会への「能化文書」には、法主は「大御本尊と不二の尊
体である」と日顕は主張しています。
更に日顕は、宗門能化から学会への文書の中で自らを大聖人、大御本尊と一体である
と自ら語っている。
日顕は、「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人でありま
す。・・・なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にま
しまするからです。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければな
りません」(1991年7月 宗門能化から学会への文書(1))と主張。そして更に日顕
は、「本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上大
切であります」(1997年8月 第46回全国教師講習会での日顕の説法)と主張。
法主の地位について日達上人は、宗門組織を「管領」「統治」する「座主」という組
織上の責任者の立場であり、「大聖人ではない」と明快に述べられています。(1977
年5月 寺族同心会での日達上人の説法)
日顕は自己を権威づけるため、また法主を絶対のものとして礼拝し、信仰せるために
これまでの日蓮正宗にはなかった仏法を破壊するかってな解釈をしていますが、この
点どうお考えですか?
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●破折
上記の、学会永遠の指導者、戸田会長・池田会長の指導はまさに唯授一人血脈相承の御法
主上人を深く尊仰する指導である。
貴殿は、この永遠の指導者の指導に背く反逆者となるがいかん?
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今、京都です!
ここまで、書きました。
あと、また時間をみて書き続けます。
推敲とか、見直しとかしてないので、不都合な箇所は修正して下さい。
これは内容は低次元ですが、現役創価幹部の妄執としては活用できますので、今後勉強会のテキストとしても活用させていただきます。
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▼ 以下が私の回答の一部です。お答えする前に引用されました原本に目をとうしたく、そのため時間が掛かってしまいました。申し訳御座いません。今回は、引用されました生死一大事血脈抄講義について、また電話での話したときの内容も少々踏まえて簡単に述べさせて頂きます。
まずは、引用されました部分、
「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(生死一大事血脈抄講義・30上132)
のところですが、日蓮大聖人御書講義
第三十巻上・生死一大事血脈抄講義132パージを拝見しましたが、この様な文章は示されたページには記載されておりませんでした。お手元の資料をもう一度ご確認下さい。
● これは失礼しましたね。
昭和62年発行の 30 32~33ページでした。
実際に存在していた文証として、貴殿はこのままこの義を受け止めるべきですね。
つまり、
「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」
この文このままであり、貴殿が「信心の血脈」と声高に主張するものは、その全てが、「唯授一人の別しての法体の血脈」の前提の上での義であるということです。
これほど明確且つ平易な文章が現として存在するのに、その文義を読めず、「総じて血脈」義にのみ囚われている貴殿は、まさに暗愚の徒と云わざるを得ませんね。
。
▼ 次に引用されました部分、
「今日、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法を正しく信受することができるのも、ひとえに日蓮大聖人、日興上人以来、総本山大石寺歴代の御法主上人が伝持される法体の血脈による御指南、御威徳によるものであることを銘記しなければならない。(中略)『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(三〇上―五九㌻)
は、示されましたページにありました。
●そうですね。確かにあります。既製事実です。
ここはこの当時の学会の主張を明確にするために、この段を全文引用してみましょう。(取要な部分は文字を協調して表示しました)
引用文
■ 法体の血脈と信心の血脈
ここで心すべきことは
「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。
すなわち「法休の血脈」についていえば、久遠元初自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。
その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。
一代聖教大意に
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(三九八)
と仰せられ、
日寛上人が観心本尊抄文段で
「故に当抄に於て重々の相伝あり(中略)甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(文段集四四三)
と記されているように、大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならないのである。
このように、今日、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法を正しく信受することができるのも、びとえに日蓮大聖人、日興上人以来、総本山大石寺歴代の御法主上人が伝持される法体の血脈による御指南、御威徳によるものであることを銘記しなければならない。
したがって、第四章における
「総じて日蓮が弟子稚那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は、別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。
「信心の血脈」に関して、
総本山大石寺第九世日有上人は化儀抄で
「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり(中略)高祖巳釆の信心を違えざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず」(富要一巻六四)
と教えられている。
第五十九世日亨上人は、この化儀抄について註解を加えられた「有師化儀抄註解」のなかで
「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・擾乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし(中略)仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人己来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり」(富要一巻一七六)
と述べられている。
更に第六十七世日顕上人は
「法華大法の信心の血脈には、縦に甚深の義と、様に広大の義が同時に具わっております。甚深の義については、宗祖大聖人の甚深の寿量文底の法体に至るまでの一切の仏法を受けきるところの信心の血脈あって、初めて真実の仏道が伝承されるのであります。また、広大の義については、この信心の血脈はけっして法主一人でなく、正義を伝承する僧俗一切が、その信条、法門について一体の信心を保ち、化儀の実践をなすところ、法水相通じて信解得道全く等しく、無量の民衆が即身成仏の本懐を得るのであります」
と、また
「末法万年の衆生救済の仏法においては、僧俗を問わず、この根本の一器より一器への相伝に対する信解が確立するところ、即身成仏の大法とその利益は縦横無尽に開花し、顕現するのであります。いわゆる、信解抜群にして宗祖二祖の信心の血脈を疑わず、勇猛精進するところ、僧にあれ、俗にあれ、僧から僧へ、また俗から俗へ、さらに広くその信心の血脈を伝えつつ展転して衆生を利益することが下種仏法の相であります」(昭和六十二年四月、御霊宝虫弘大法会の御説法・大日蓮第四百九十五号)
と御指南されている。
したがって、総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れるのであり、広宣流布をめざし不惜身命の実践を貫く信心を外れてほ成仏の道はありえないことを心し、自戒していきたい。
引用以上
● 通読してみると、貴殿の主張がいかに的外れで、自分勝手な怪釈かがわかります。
以下、詳細に切り刻んでいきましょう。
▼ 是を貴殿が引用された理由は、貴殿が最重視される『法体の血脈』、所謂血脈相承の御法主上人に随順するのが血脈の根本、と指摘するためと拝借しましたがよろしいでしょうか。
これは、貴殿が電話で話した時に強調されていたことと思います。
●概ねその解釈で結構です。
しかも、それは、私が勝手に言い出しているのではなく、上記の学会指導そのままの理解であります。
何か問題でもありますか?
創価学会が、昭和62年11月3日に、聖教新聞社から発行した御書講義の内容に即して素直に主張しているだけですよ。
むしろ貴殿の主張こそ、この「学会指導」に背く、我見・我意・邪見・謗法ではないですか?
もし、貴殿の主張が正しいとするならば、この昭和62年の御書講義は「謗法の書」であったことになり、学会は「謗法団体」だったことになりますが、いかがか?
この点について、誰が聞いても明確に納得出来る説明を再度要求します。
自分の云いたいことだけをただ闇雲に主張するのではなく、論理的に論を進めていただきたいものであります。
もしかして創価学会に在籍していると、そのような道理が理解出来なくなるのですか?
▼ しかし、生死一大事血脈抄講義・30上56の講義の冒頭にも示されているように、
「生死一大事血脈といっても、強情な大信力を奮い起こして、南妙法蓮華経と唱えること以外にないことを重ねて強調」
とある様に、
『信心の血脈なくんば法華経をもつとも無益なり』
と大聖人は明確に本抄を結ばれています。よって「強情な大信力」が「信心の血脈」であることは、明確です。これを認識した上で、引用されました所を拝読するべきと思います。
● 実に頑迷で苦しい弁明です。まさに我田引水、牽強付会の怪釈ですね。
この貴殿の引用文
「生死一大事血脈といっても、強情な大信力を奮い起こして、南妙法蓮華経と唱えること以外にないことを重ねて強調して、本抄を結ばれている」
と述べている、その2ページ後に上記の引用文があるのですよ。
つまり、この講義で通じて述べてきた「信心の血脈」といっても、それには
学会指導
■ 法体の血脈と信心の血脈 (があり、)
ここで心すべきことは
「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。
■ その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。
■ 大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならない
■ 第四章における
「総じて日蓮が弟子稚那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は、別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。
■ 根本の一器より一器への相伝に対する信解が確立するところ、即身成仏の大法とその利益は縦横無尽に開花し、顕現する
■ 総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れる
● と、指導されているのですね。
つまり、いくら「信心!信心!」と力んでみても、その根底には「歴代御法主上人に伝持されてきた別しての唯授一人の血脈相承」があってのこと。
ということですね。
逆に言えば、この「別しての血脈」=つまり、「御歴代御法主上人の唯授一人・血脈相承を離れての「信心」など、全く功徳のないナンセンスなものということですね。
これは、ただ単に文章読解力の問題であって、中学生の少々賢い子だったら十分に理解出来るかと思いますが?
それとも、創価学会に長いこと在籍していると、そういう単純な理解力が低下してくるのですか?
よく、邪教を信じると、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)が増してくる、と言われますが、この「癡」というのは「道理が分らず・頑迷な様」ということですから、もしや、この「癡」が増してきて、中学生でも分ることすら理解出来なくなってきているのでしょうか?
よくよく自らを省みて見る必要があるでしょう。
▼ 更に大聖人は、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(御書全集p.1337)
と仰せです。
【通解】このように十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。
● ここも全く上記と同等ですね。
どこをどう引用しようが、その最後に、上記のごとく、注意を促している文義が説かれている訳です。
ここも、
【通解】このように十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。
ここも、そういう信心姿勢の元に、「御法主上人への唯授一人・血脈相承」を根本的に信じてこそ成り立つ。という原理でしょう。
ここも、やはり中学生レベルの文章読解力があれば容易に領解できる簡単な事ですね。
まさか、ここもご理解できない?
もし理解出来ないとすれば
いよいよ 「病膏肓にいる」 ですな?(因みにこの意味は分りますよね?)
▼ 末法の御本仏である日蓮大聖人は、衆生(民衆)に対して血脈を継ぐことを願われており。信心の血脈は、ただ一人の「法主」によってのみ継がれるものではないのです。そのことを確然と認識したうえで、「血脈」を考えていかなければならないのは、日蓮仏法の基本中の基本と理解しています。故に「血脈」をかかげて法主を絶対化して礼拝させるなど、大聖人敵対の教えです。
● いやはや・・・
あまりの頑迷さにこちらが赤面しますね・・・
もう一度、昭和62年の学会指導を貼りますので、心肝に染めて読むんですね。
■ 法体の血脈と信心の血脈
ここで心すべきことは
「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。
■ その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。
■ 大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならない
■ 第四章における
「総じて日蓮が弟子稚那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は、別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。
■ 根本の一器より一器への相伝に対する信解が確立するところ、即身成仏の大法とその利益は縦横無尽に開花し、顕現する
■ 総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れる
▼ 一器の水が次の一器に一滴も漏れることなく伝えられるように、一人の「法主」から次の「法主」へ、誰も知り得ない秘密の教えが受け継がれるとする日蓮正宗の現実離れした教義。この妙な幻想に根ざす「血脈」という言葉のゆえに、さまざまな邪義、迷信が日蓮正宗内に横行し、衣の権威をもって民衆の信仰心が左右されるという愚が公然とおこなわれてきたと思います。その影響を学会も受けていたことは、明らかです。しかし、学会は日蓮正宗改善を祈り、共に広宣流布をしていく思いであったのはお解かりだと思います。
● いやはや、実に頑迷ですね。
このように詳細に切り刻んでいくと、ご自分でも恥ずかしくなりませんか?
貴殿の主張は、学会の指導に背いているんですよ?
貴殿ん主張があまりにも頑迷且つクドクドしいので、しょうがありませんね。
もう一度、学会指導を貼りましょう。
目を皿のようにして、よくよく読むんですね。
■ 法体の血脈と信心の血脈
ここで心すべきことは
「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。
■ その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。
■ 大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならない
■ 第四章における
「総じて日蓮が弟子稚那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は、別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。
■ 根本の一器より一器への相伝に対する信解が確立するところ、即身成仏の大法とその利益は縦横無尽に開花し、顕現する
■ 総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れる
▼ 貴殿の主張に「かつての教義解釈を、何の公式謝罪もなく変更するならば、それは正当な宗教団体とは言えない。」又、「それは教義に一貫性がない、ご都合主義で日和見団体、不定見でその場限りのいい加減な似非宗教団体、つまりは邪宗・邪教ということに他ならないが、どうか?」とありますが。
● まさにその通りであり、今回の破折にも少々触れましたが、
現時での貴殿の主張が 正論 ならば
昭和62年の学会指導は 謗法 となりますね。
逆に
昭和62年の学会指導が 正論 ならば
現時での貴殿の主張は 謗法 となりますが、
この大矛盾をどうか暗愚な私どもに分るように説明して下さい。
この命題をごまかして何を言われても、説得力は全くないですよ。
▼ 日顕は、いきなり学会を一方的に破門し、その後学会からの話し合いも拒否し、自己を権威づけるため、また法主を絶対のものとして礼拝し信仰せるために、これまでの日蓮正宗にはなかった、仏法を破壊する勝手な解釈をし、広宣流布など眼中にない権威に狂った姿を現した。
● ここは事実誤認もあり、相当錯乱しておりますね。
順を追って、詳細に切り刻んでいきましょう。
● ここは電話でも話しましたが事実誤認もあり、相当錯乱しておりますね。
今回はまずはここまでです。
最後に私たちの往還は大勢のためにも公表させていただきます。もちろん個人は特定できないようにします。
追って 返答 その2 を送ります。
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▼ まずは2点あげたいと思います。
1.日顕宗では「その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されると
ころである」、と壊れた機械のように貴殿は何度も言われていますが、貴殿は、「法
体の血脈」について理解なさっていない。「法体の血脈」について少々言わせていた
だきます。
2. 頑迷固陋な貴殿の「教義に一貫性がない」という発言についても、少々言わせて
いただきます。この2点を説明する事で貴殿への回答となります。
● まぁ、しかし文が読めないのか、目が開いてないのか、文が理解出来ないのか、
実に、頑迷極まった、高校生にも劣る文章読解力ですね。
貴殿には長文の読解力が欠如しているようなので、以下一段落毎に刻んで教えていきましょうか。
▼ 1. 日蓮大聖人は、「生死一大事血脈抄」 で 「血脈」 について、次のようにご指
導されています。
「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中
にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざ
る血脈なり」(p.1336)
日蓮大聖人の悟り、そして血脈として流れている悟りの法体は、南無妙法蓮華経で
あると仰せられています。
● まず、この冒頭の御文に既に、「別しての血脈相承」の事が表示されている。
この肝心の別付嘱を基底として、全編に「総じての血脈の義」が展開されているのである。
この見解は、創価学会の御書講義の義と全く同轍である。
貴殿はこの冒頭の文を引用していてもその義が読めないのですかね?
実に頑迷で法門未熟ですね。
自分で引用した文で、自分の主張が破折されている。。。という無様(ぶざま)な醜態を演じているのですが、そのこと自体にも気がついてないくらい、愚かですね。
自分の引用文で、自分の首が切り落とされているのに、落ちた首が、落とされたとも気づかず、地面に転がったまま口をパクパクさせている。。。という図ですね。
実に滑稽です。
では頑迷な創価ニセ本尊頭に噛み砕いて解説してあげましょう。
■「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中
にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざ
る血脈なり」
「生死一大事の血脈」とは
「妙法蓮華経」
→末法の法華経
→三大秘法
→一大秘法
=戒壇の大御本尊
ということであり、それはまさに法華経神力品の時、上首上行菩薩に結要付嘱された久遠以来の法体であって、そこれそ
別付嘱の妙法蓮華経
=三大秘法
→一大秘法
=戒壇の大御本尊
である。
しかして、その戒壇の大御本尊の御内証を書写できる方は唯授一人の御法主上人のみであり、貴殿等創価学会も誕生以来その大原則を忠実に遵守してきたのである。
現に貴殿等の模造掛け軸の元となるのは日蓮正宗第26世日寛上人の常住御本尊を写真撮影してそこに種々の改竄・文字の削除・変更を加えたものである。
もし、唯授一人の「別しての血脈相承」を認めないのならば、なぜ、貴殿等が誹謗する宗派のその歴代法主上人の御本尊をわざわざ担ぎ出す必要があるのか?
「『信心』があれば誰でも御本尊を書ける。」ということではないか。
こういう初歩的な矛盾に気がつけない。これこそを頭破作七分というのである。
貴殿のような頑迷な頭破作七分の頭には、一遍に多くを語っても理解できないであろうから、今回からは小刻みに、?んで含めるように説諭してあげましょう。
以降は、引きつづき送付します。
自分の頑迷さが分らないその醜態を切り刻んでいきますのでお楽しみに。
▼「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解り
て妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(p.1337)
日蓮大聖人と三大秘法の御本尊と我等衆生との三つに、全く差別がないと信じて唱
題しなければならない。御本尊と我等衆生の生命に、差別があったならば血脈は伝わ
らないのである。同じ十界互具の生命だから、唱題することによって、仏界の生命が
共鳴しあって、大聖人の血脈を受け継ぐことが出来るということ。
● 思わず、吹き出すような浅薄な怪釈ですね。幼稚です。
ここは、まず、第一義として、
久遠下種の本仏、日蓮大聖人と、法華経=末法の法華経→三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊とが、人法一箇であることを仰せである。
つまり、大聖人の仏法は、釈迦仏法のような法勝人劣の仏法ではない。
法に即して人、人に即しての法 人法一箇が真の本仏であり、真の法体であることを教示されているのである。
その上で、その人法一箇の戒壇の大御本尊(またその戒壇の大御本尊に正統に連なるところの義の戒壇である御本尊も含む)に正しく信行をした場合、必ず御本尊様の境と我ら凡愚の智とが冥合して、即身成仏の境涯を得られる。
そこが、「生死一大事の血脈」ということである。
貴殿のような幼稚な怪釈だと、法体としての本尊の本義も不明瞭であり、一体どういう本尊に唱題してよいのか明確に導き出されていない。
貴殿は、「三大秘法」と言葉だけは簡単に用いているが、その三大秘法とはその体、なにものぞや?
貴殿は、語だけ用いてその義には全く暗いのである。
これは前回の破折で触れ損なったからここで指弾しておくが、
貴殿曰く
「▼ 日蓮大聖人の悟り、そして血脈として流れている悟りの法体は、南無妙法蓮華経で
あると仰せられています。」
これが貴殿の教学の未熟さを見事に露呈してる。
日蓮大聖人の「法体」が「南無妙法蓮華経」としか怪釈できていないのである。
「南無妙法蓮華経」など世界中でありとあらゆる宗派が唱えているのであり、こんな曖昧な怪釈では、正邪の判定が全くできていない。
日蓮大聖人の法体とはまさに三大秘法
三大秘法は一大秘法に合せられる。(貴殿は「三大秘法」と言ったからには、それが具体的に何を指すか知っているはずであろう?
まさか一大秘法を開いたものが三大秘法である、ということを知らないで何となく使ってみた。。という訳ではなかろう?)
これは具体的には
本門の本尊
本門の戒壇
本門の題目
であることは論を待たない。
そしてこの三大秘法も
一大秘法の「本門の本尊」に括られる。包摂されるのである。(初歩中の初歩教学である)
つまり大聖人の「法体」とは「本門の本尊」である。
この「本門の本尊」とは何か?
当然過ぎるほど当然であるが、
「戒壇の大御本尊」である。
ここが曖昧に、「大聖人の法体は「南無妙法蓮華経」だ」などと寝ぼけたことを言っているから、本尊に惑って、ニセ本尊などを印刷して販売できるのである。
まさに、「諸宗は本尊にまどへり」そのままの無様な醜態を晒すのである。
今回の説諭はこのくらいまでにしておこうか。
貴殿の教学的レベルでは、一遍にたくさん言っても理解出来ないだろうからね。
今回はこの三大秘法の初歩的法義を何遍も読んで、心肝に染めることから始めるんだね。
そうでなければ次が理解出来ないよ。
次の授業について来られないからね。
では頑張り給え。
▼「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華
の血脈相承とは云うなり」(同)
一個の生命に伝わる血脈である。三世にわたる信仰の持続の大切さを仰せられてい
ます。ひたぶるに唱題する衆生の生命のなかに、血脈は流れるということ。
● あはっははっは~~。ていう珍回答ですね。
これでは落第です。
進級はできません。
貴殿は「唱題」というが、一体、どういう御本尊に唱題することで血脈が流れるというのか?
一々説明してあげるのも面倒だから、今回は貴殿の精一杯の回答を待ちますか。
さ、「唱題」はどこへ向けてすればいいのか?
予め言っておくが、ただの「御本尊」では不正解ですよ。
身延の御真筆御本尊だって、顕正会だって、あるいは富士興門派だって、創価と同じ様式の御本尊ですからね?
さ、正解をよろしくね。
▼「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(同)
今度は、一人一人が助け合って、仏の大願である広宣流布に進む和合僧団のそのな
かで、南無妙法蓮華経と唱えるところに、御本仏の血脈は流れるのである。
● では、次、貴殿の浅はかな教義怪釈を切り刻んでいきますか。
ここも、馬鹿馬鹿しいほど幼稚な怪釈ですね。
まず、冒頭に「総じて」とある事が読めませんかね?
全く呆れる限りです。
はい、質問です。
1,「総じて」の対語は何でしょう?
この答えを貴殿から聞いてから、その次の教義解釈を教えてあげましょう。
次に、
「日蓮が弟子檀那等」
はい、質問です。
1,何で、わざわざ、「弟子」と「檀那」を別に表記されたのでしょう?
2,「檀那」とはどういう意味でしょう?
3,では「弟子」とはどういう方々を指すのでしょう?
これは御書の他の箇所の例文をよく見てみましょうね。
この質問に正答できたら、次の教義をお教えしましょう。
はい、今回はここまで。
復習を忘れないようにね。
▼ 以上、「生死一大事血脈抄」 のどこを捜しても、「唯授一人の血脈相承」
など書いてない。
● あははっは~~。
では、御書のどこを探しても、「戒壇の大御本尊」そのものの文証はない。
では戒壇の大御本尊は否定されるのか?
だとしたら、創価が牧口・戸田会長、(もちろん池田も含めて)以来ず~~~~~っと、学会員をして「御書に一言も出ていない」戒壇の大御本尊へ参詣せしめてきたことは大謗法となるがいかん?
貴殿はほんと、書けば書くほどに墓穴を掘りますね。
▼ それどころか、大聖人は「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて
仏に成る血脈を継がしめんとするに …」(p.1337)
と仰せです。大聖人のお心は、一切衆生に仏に成る血脈を継がしめんとする、即ち幸
福にしてあげたいという、大慈悲心以外の何ものでもないのであります。
●ここは、今まで何回か送ってきた宿題が解けたら、それを踏まえて破折してあげましょう。
今は、貴殿がどんな怪答をよこしてくるか、楽しみに待っていますか。
っていうか、ここも少し教学的に弄ってみますか。
はい、初歩的な質問です。
1,大聖人が言われる「法華経を信ぜしめて」とは具体的には何を「信ぜしめる」ことですか?
※注 南無妙法蓮華経 では不正解ですので、お気を付けて解答して下さい。
2,我々凡夫が「仏に成る」ためには、何が必要ですか?
3,そのために大聖人は具体的には何を遺されましたか?
4,その遺されたものは誰でも勝手に書いたり、印刷していいものですか?
ヒント 戸田会長の指導などを参考にしてみるといいいでしょう。
▼ 然るに日顕宗は、法主一人にしか血脈は流れないという。
● ここもただの妄執ですね。独りよがりの。
日顕上人や宗門が明確に「法主一人にしか血脈が流れない。」とした文証を挙げてくださいな。
まずその証拠を見てから反論してあげましょう。
「血脈の当初は戒壇の大御本尊と不二の尊体(趣旨)」との文証を挙げてきたら、細切れにしてあげますので、ご用心を。
さあ、今回はちょっと長い講義になってしまいましたね。
頭、大丈夫ですか?
難しすぎてショートしてませんか?
では今回はこの辺で止めておきますか。
▼ これは明らかに、大聖人
の仰せに反する、師敵対の大謗法であり、その上に輪をかけて、法主は御本尊と不二
の尊体とまで言っている。日顕・日如らの行状のどこが、大聖人と一体なのですか。
とんでもない。
● はい、では、「法主は御本尊と不二の尊体」の文証を挙げてください。
まさか、「御法主上人の血脈の当初」と「法主」を等同と考えていませんよね?
ま、どんな文証を挙げてくるか楽しみですね。
▼ 法華経の心は、一切衆生に仏性が有ると、即ち十界互具を説いています。何か特別
な法水というものがあって、法主だけが受けられるなんて、法華経の平等大慧の法理
に反することになる。
●本当に教学ゼロですね。
仏性が「具わっている」ことと、実際の生命活動の上に仏界が「顕現」することを同じに考えていませんかね?
もし、仏性を「具えている」だけで「成仏」しているのであれば、全ての存在は全て仏性を具えているのですから、そのまま成仏していることになり、何もわざわざ仏道修行する必要などないではないですか?
こんな簡単な道理が分りませんかね?
日寛上人の観心本尊抄文段を少し読み込んで見たらどうですか?
ヒントのキーワードは「草木成仏」ですよ。
さ、頑張ってその箇所を探してみましょう。
そしてそこを現代語訳してみて下さい。
あとで採点します。
次回分
▼ 要するに、「信心」 と 「血脈」 と
「法水」とは、みんな同じことなのです。
●全然ダメですね~~。
この文証は、日亨上人の註解ですが、
ここにこうあります。
●59『有師化儀抄註解』 日亨上人
信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六㌻)
さて、この中で、
「其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、」
とあります。
この意味を現代語訳できますか?
まず貴殿の国語力のレベルを知る上で、これを正確に現代語訳してみて下さい。
解答見て採点します。
ではよろしくお願いします。
次の分
▼ 御本尊に対する信心さえあれば、「い
つ」・「どこでも」・「だれでも」・「この身のまま」で、血脈はながれて成仏する
ことができるのです。
●ほとほとダメですね。
その「御本尊」とは創価が勝手に作った掛け軸でいいのですか?
この世にある、どの「本尊」が良くて、どの「本尊」ではダメなのか、例示してみて下さい。
解答見て採点してあげましょう。
次の分
▼本抄の結論として大聖人は、「信心の血脈なくんば法華経を持
つとも無益なり」(p.1338)
と仰せです。
そりゃ~~そうでしょう??
当たり前ですね。
今更声高にどや顔でえらそうに言うところじゃないでしょう?
吹き出しますよ。
では貴殿の教学力をちょっと試してみましょうか。
■「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。」
ここの箇所を訳してみてください。
貴殿が正解できたら私は脱会して創価に入会してもいいですよ。
さ、頑張りましょう!
次回分
▼ 池田先生は、「妙法蓮華経」 の大法を万人に伝える真実の血脈は 「信心の血脈」
以外にないと指導され、次のように述べられています。
ここは、以下、どこまでが池田せんせ~の言辞なのか分るように提示して下さいね。
はい、やり直しです。
ただし、池田センセ~~~が何を言おうが、それが仏法の正邪を判定する基準には全くならないということを予め知っておくべきでしょうね。
池田センセ~~が「仏」でもないのに、何でその「ただの人」の言を用いる必要があるんでしょうか?
貴殿は如説修行抄の御文をご存じない?
はい、ヒントは「人の言」です。
当該箇所を見つけてそれを現代語訳してみて下さい。
それもあとで採点してあげますね。
未完