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■ 見惑

思想的偏見

@ 身見 我が身について「自我」に堅く執着する見。
A 辺見 上の我見について、自他の生命を有限(死によって無に帰す)と見る断見
    常住存続(死後も個我が霊魂等によって存続する)と見る常見
B 邪見 因果の道理を否定する自然論等
C 見取見 以上の三見に執われて自見を最も勝ると自負するもの
D 戒禁取見 原因でないものを原因と思い、正道でないものを正道と固執する外道の迷見

これらを五利使というのはその用きが鋭いから

五鈍使 単独でなく、五利使に関連してそれぞれ貪・瞋・癡・慢・疑を起こし、その用きが鈍いから鈍という。

今日の大衆の様々な思想的悪見はすべてこの見惑によって生じている。

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■ 思惑

本能的・感情的な欲望としての思惑

その体に 貪・瞋・癡・慢 の四がある。

三界の迷界中の個性にそれぞれ八十一品という形で存在している。

殺生・偸盗・邪淫等による種々の犯罪は、概ねこの煩悩に基づいている。


以上の見・思の二惑は、自他一切の存在を実有と執するところにその根底があり、つまり空の真理に対する無知迷妄によるのである。

 小乗教では、衆生の煩悩の体をこの見・思の二惑のみとし、これを断じ尽くして空に入ったところを悟りの境地と教える。
しかしこれは低級な方便教のためであり、衆生の煩悩には更に塵沙の惑・無明の惑がある。
これは大乗で教えるところである。

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■ 塵沙惑

塵や沙のような微細な無量の惑のことで、前の見・思の二惑が有に執われ空の真相に暗い惑であるのに対し、これは逆に偏空(空に片寄った考え)の一辺に執われて、無量の差別ある万物の現実相(仮有)に暗い惑である。

つまり、他の苦悩等に関心がなければ、それぞれの因縁による苦悩の特殊性・現実性が常に明らかとならない。
故に適切に他を導くことができない惑いである。

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■ 根本無明惑

 最後に無明の惑とは空・仮の二諦に対する中道実相に暗い惑とされる。
いわゆる自他・物心・身土・修性・因果等の而二不二の円融真如を障隔し、正しい中道に基づく世界観・人生観を隠蔽する煩悩であり、これに四十二品の重々の累層があるとされる。

釈尊仏教の道程においては、根本無明の煩悩は微細の惑で初めより感知できないから、方便の手段によってまず手近の見・思を、次に塵沙を断じ、最後に無明を断ずることになるが、本源的に見ればこれらは無明煩悩の中の諸惑で、すべて一体なのである。

この無明煩悩の全体を直ちに浄化転用して菩提に用うるところが大聖人の下種仏法である。


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