●三障四魔
▲人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。
汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。
夫天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。(409)

▲いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競(きそ)ひ起こるべしとし(知)りぬ。二辺の中にはいうべし。(中略)今度、強盛の菩提心(ぼだいしん)ををこして退転せじと願じぬ。 539

▲第六天の魔王、十軍のいくさをを(起)こして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土(どうごえど)をと(取)られじ、うば(奪)はんとあらそう。
日蓮其の身にあひあ(当)たりて、大兵をを(起)こして二十余年なり。日蓮一度もしり(退)ぞく心なし。
しかりといえども弟子等・壇那等の中に臆病のもの、大体或はを(堕)ち、或は退転の心あり。弁殿尼御前御書  文永一〇年九月一九日  五二歳 686

▲此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。
此の釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは貪・瞋・癡等によりて障碍(しょうげ)出来すべし。業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし。(兄弟抄 建治二年四月 五五歳 986)

▲法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、此の経を持つ人をば強(あなが)ちに嫉(ねた)み候なり。此の魔王、疫病(やくびょう)の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。種々御振舞御書 建治二年  五五歳  1071

▲凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障(さわ)りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。兵衛志殿御返事  建治三年一一月二〇日  五六歳 1184

▲たとひ明師並びに実経に値ひ奉りて正法をへ(得)たる人なれども、生死をい(出)で仏にならむとする時には、かならず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔(さんしょうしま)と申して七の大事出現す。設(たと)ひからくして六はすぐれども、第七にやぶられぬれば仏になる事かたし。其の六は且(しばら)くをく。第七の大難は天子魔と申す物なり。設ひ末代の凡夫一代聖教の御心をさとり、摩訶止観(まかしかん)と申す大事の御文の心を心えて、仏になるべきになり候ひぬれば、第六天の魔王此の事を見て驚きて云はく、「あらあさましや、此の者此の国に跡を止(とど)むるならば、かれが我が身の生死をいづるかはさてをきぬ。又人を導くべし。又此の国土をを(押)さへと(取)りて穢土(えど)を浄土となす。いかんがせん」とて、欲(よく)・色(しき)・無色(むしき)の三界の一切の眷属(けんぞく)をもよを(催)し仰せ下して云はく、「各々(おのおの)ののうのう(能能)に随ってか(彼)の行者をなや(悩)ましてみよ。それにかなわずばかれ(彼)が弟子だんな並びに国土の人の心の内に入りか(替)わりて、あるひはいさ(諌)め、或はをど(威)してみよ。それに叶(かな)はずば、我みづからう(打)ちくだ(下)りて、国主の身心に入りかわりてをどして見むに、いかでかとヾ(止)めざるべき」と、せんぎ(詮議)し候なり。1202