『大石記』

日興上人滅後六十六年たった応永六年十一月に日時上人が助(不明也)という人に日興上人のことを語

ったとされる内容の御文が、
それから百九年を経て山城公日顕という人の所蔵本にあるのを
永正五年六月、日鎮上人が書写されたのである。

更にそれから五十一年経て永録二年、二月に要山の日辰が日鎮上人の書写本を書き写されたものを同門

の要山末日震蔵本にあり、それを唯信院日応という人が転写し、それを堀日亨上人が『富土宗学要集』

の旧本(昭和十一年十月刊)に集録されたものである。

 又、日鎮上人本が書かれてから百六十九年たって『富士門家中見聞抄』(延宝五年七月)において日

精上人は、

「予雖未見此記文既日辰上人御引証也」

(予 未だ此の記文を見ず。既に日辰上人 御引証なり。)

として鎮師本の存在の有無が不明であり、而も

「如此有相違故鎮記ハ難信用者也」

(此の如く相違有る故に鎮記は信用し難き者なり)

として史料価値の重要性を認めておられないのである。

そして堀上人に依れば、「現下大石寺には鎮師の写本無し」とのべられ、『大石記』を敢えて『富十宗

学要集』の新本に載せられなかったのである。

 又、久保川氏や正信会諸師が引用される箇所は、

「予が老耄して念仏など申さば相構えて諫むべきなり、其れも叶はずんば捨つべきなり」

であるが、その前文に

●「日興上人の常の御利□に仰せられけりとなん」とあるのを拝見せられたい。

日興上人がいつも「御利口」にとは冗談にとか笑い話しの意味でとのことである。
興尊が冗談としておっしゃったという話なのである。

又、同記において日目上人より、諫めに従って勤行の化儀を改めたと正信会諸師らが強調するところは

、日目上人が日興上人に、

「方便品の開三計り遊して広開三をあそばさざりけると、日目、日興上人へ御申ある様は大聖人の御時

已に遊され候しに尤も読むべきにて候如何んと、」

と仰せられたのに対し、

「新発意共が自我偈をだにも覚ざる程に之を略し候、已後読み候べしと其より遊ばしけるなり」

とお答えなられたところである。

もし、このような譬えが許されるならば、ちょうど大坊において御仲居さんが御前様に対し

「大聖人の時から、世雄偈の読誦がされてきたのであるから在勤者にも徹底されたら如何でしょうか?



とお尋ねした時に、

「そうだなあ、まだ白衣小僧達が自我偈もよく読めないので遠慮していたがこれからそうしようか」

と御前様がお答えになられるという、重須談林での尊師破門で知られる興尊の厳格さの中に心温まるエ

ビソードのようなものである。

かかる御振舞は日達上人御生存中でも又現日顕上人の代にもよくお見受けすることではないか。