沖浦対樋田法論を検証する 81  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 8月21日(火)16時04分12秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  @ 次に、大聖人様の教団において塔婆供養が為されていた事実の論証。

文証

■    草木成仏口決   文永九年二月二〇日  五一歳
 問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり。妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

↑この「草木成仏口決」は、非情・草木・死人 が成仏する一念三千の悟りとその原理を述べられている御書である。
およそ大聖人の仏法は衆生が成仏を為すことに主眼・根本義が存する。
(その衆生が間違いなく成仏できる法を全世界へ流布することにより天下・国家の根本的・恒久的安泰を目指すことが「広宣流布」の意義である。)
生死は即涅槃であり、生と死が別々に別次元で語られることはない。
本来一如していることが有様である。
その生死の成仏を説かれている文脈の中で、殊に「死の成仏」の御義を述べられる箇所が

■「其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」

との御文である。
死は一切の衆生の避けて通れない一実相であり、全ての衆生に平等に訪れる現象である。
その一切の衆生の「死」において、塔婆を立て、開眼供養をすることが「草木成仏=死人成仏」となる。と説かれておられるのであるから、この万人が迎える「死」において、塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である。

A ▼「大聖人様は塔婆供養の化儀を為されなかった。」と邪難する馬鹿者が居るようだが、
もし、そうであるならば、この御文の原理から、
「衆生が死ぬ時、塔婆を立て開眼供養しなければ、死の成仏にならず、草木成仏しない。」との意味になる。
そのようなことを大聖人がお認めになる訳がない。

B また▼「塔婆供養などは塔婆供養を執拗に望む特別の信徒のみに行われた特殊な化儀」 などということは
「塔婆の開眼供養=草木成仏=死の成仏」 との原理から、全く採用され得ない、創価学会の立場を無理やり正当化しようとして自見に固執したただの 己義 である。

C 次に
▼「塔婆供養は在家でも出来る」などと嘯く、沖浦さんのようなたわ言は、全くの恥言である。

文証

■ 今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず禿居士。(中略)而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。(中略)舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我が身羸弱にして所従亡きが若く牛馬合期せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天に?(う)ち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼眩き足冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺、役の優婆塞が大峰も只今なりと云云。
 然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見るに、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息む。(中略)然る後、随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ(忘持経事)

↑この御文から、もし、大聖人様もしくは、大聖人からの御命を賜った御僧侶の法事・仏事・法要の必要がなかったのならば、何故、「下州」より、上記の御文のごとくの苦労をしてまで、わざわざ「甲州」の大聖人の御許まで母君のお骨を抱いて詣でたのか。
自分で「薄い板」でも切って来て自分で題目を書いて、”遺族”の名前、「富木常忍」とでも書いて、自邸で塔婆供養すれば良かったではないか。
更には自邸で「随分に仏事を」為せばよかったではないか。
何故、遠路はるばる大聖人の御許へ馳せ参じたのか。
(富木殿は、半僧半俗の「禿居士」であるから、ただの在家の創価学会員よりは、自身で法要を行える立場に近い、とも言えるのに、である。)
沖浦説では全く説明がつかない。
(これはまた、大聖人及びその御弟子方による塔婆供養及び葬儀の義を否定する馬鹿者たちも同様である。
(因みに@Aの論証から、この「仏事」の中に、「死の成仏」の為の塔婆供養が含まれることは理の指し示すところ明白である。))

D ▼「自分自身の信心によって成仏を遂げるのであって、それとは別に他人に塔婆供養してもらう必要などないではないか」との稚論について。

簡単である。生ある時には自身の信心修行により即身成仏を目指すのは当然である。が死によって能動的・自発的な信心修行は出来なくなる。
であるから、縁故の者が故人の永続的かつ深化した境界としての成仏を願い、死の成仏を成就できる塔婆供養をお願いするのである。
末法の衆生の即身成仏とはあくまで常に信力・行力によっての境智冥合の果報としての境界であって、確定的な永続性などないのである。
であるから、どんなに生前の修行が進んだ者に対しても死して後には縁故者がその故人の更なる成仏の境界を願い、塔婆供養等追善回向の仏事・法要・法事等をきめ細やかに為していくことが肝要であり、またそのように報恩の誠を尽くしていくことが仏道を求める者の当然至極の道である。
つまり、そこにこそ「仏の道」=自身が即身成仏していく道、があるのである。
この正しい仏道=仏の道を世に広めていくことを真の「広宣流布」というのである。

このような観点からも、創価学会が如何に、大聖人の正統なる仏法の道筋から遥か遠く離れたか、よくわかるというものである。

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