1、大聖人が、御正意・御真意として釈尊等の絵像木像の類を本尊として帰依することを後々までお認めになるわけがない。
それは、大聖人の仏法を学ぶ者の”常識”です。
(もちろん不相伝家では、これすら理解していませんが。)
さて、では問題となるのは、発迹顕本以降の佐後である文永9年に、何故「木絵二像」の「開眼」の御抄があるのか。ということでしょう。

そもそも、この御書中には、

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

とあり、この御文を文字だけで読めば、「釈尊の絵像・木像の前に法華経を置けば、必ずその木絵の二像は純実円満の生身の仏となる」
との意味になり、大聖人様が釈尊の絵像・木像を本尊としてお認めになっていることになり、沖浦さんのいう、▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖」という前提自体と大いに矛盾してしまいます。
つまり、この御書は、既に何らかの方便を含ませてお説きである。ということが分かります。
方便があるからには真実・真意がその奥に存在するのが道理です。
我々修行者は方便の言に囚われ、大聖人様の真意を見誤るような軽薄な読み方をしては浅識・計我・不解との謗法となりましょう。
謗法は地獄行きですから、よくよく恐れなければならないところです。

そこで、大聖人様は「開眼」の意義についてどのようにお考えになっていたかを検証すれば、自ずと該抄「木絵二像開眼の事」の真意が領解できるものと思います。

この御抄の中に、

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

とあり、この「印する」という語には「跡を残す。しるす。光・影などを物の上になげかける。」等の意味あり、”ある主体者が対象へ向かって為す行為”であることが分かります。
更に、この御文直後の

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、云々」

との御文と併せ拝すれば、
■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」と
■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養」とは同義ですから
「印する」とは「開眼・開眼供養」の意義であることが分かります。

ここで分かる事は、
【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。草木成仏をした”木絵二像”は生身の仏”になる”
ということでしょう。

では、草木成仏 とはどういうことでしょうか?

そこで、ちょうどこの年、文永9年、人本尊開顕の重書「開目抄」が説かれた同じ月に顕された「草木成仏口決」に拝してみましょう。

■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決  文永九年二月二〇日  五一歳)

草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。
しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。
そこでここをまとめると、
【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が”仏と成る”ということである。

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

塔婆はそのままでは非情である。であるから、その非情である塔婆を「開眼供養」することにより、草木成仏せしめて故人の成仏を期するのである。
その根拠は以下の御文でも明瞭である。

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。

この御文は、塔婆にも通じ、曼荼羅御本尊を御本尊として信行の対境とする意義へも通じる文証である。
であるから、直後に以下の曼荼羅御本尊に関するお言葉へと続くのである。

■此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。

では、ここまでをおさらいして纏めて見ましょう。

【小結】

開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

さて、ではこれについて、更に他の御書に詳細を拝していきましょう。

■四条金吾釈迦仏供養事??????建治二年七月一五日  五五歳

されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰(ごおん)世間、三には国土世間なり。前の二は且(しばら)く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

この御文には、更に詳細に「草木成仏」の意義が示されています。

■画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

ここも、”絵像木像の「開眼供養」は法華経・天台宗でしか為し得ない。”と仰せでありますが、この御文をそのまま字の面だけで読めば、”絵像仏像等の釈迦像を開眼供養するのは、法華経と天台宗でしか出来ない”となり、大聖人様が仏像を容認し、法華経をそのまま用い、しかも像法過時の宗派である天台宗を容認することになってしまい、大聖人様の御真意の御法門ではないことになってしまいます。

【参考御書】

■今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。
■天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にはあたらず。(撰時抄??????建治元年六月一〇日  五四歳)

ですから、ここもやはり方便で御説きであり、御真意は更に深いところにあると拝さねばなりません。
そこで、この後の御文を拝すると、いよいよ大聖人様のご真意が明瞭となってまいります。

■草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。

ここで、大聖人様が仰せになった、「絵像・木像=木絵の二像」の意義が鮮明に現れてまりました。
つまり、「画像」の意味は、「絵の具」→つまり、”本尊”として書いた素材そのものを仰せであり、「木像」との意味は、「木」=木材、というやはり「素材・原料材」を指しておられることが分かります。
つまり、「絵像・木像=木絵二像」と仰せになった御真意は、表面上の「釈迦の絵像木像」という意味では決してなく、その原料素材としての「絵の具・木材」という「非情」のことであった訳です。
ここで、今までの考証の深意が詳らかになってきました。

【小結2】

大聖人様は機根が未だ”曼荼羅本尊正意”という深旨まで熟さない対告衆に対して表向き「釈尊像造立」を容認しつつ、そこに、原料素材である非情の絵の具・木材等の開眼供養による草木成仏により生身の仏身と為す一念三千の悟りの法門とその絶対必要性を説き篭められていたのであります。
この点を踏まえて以下の御文を拝すればいよいよ大聖人様の御真意がいや増して明瞭となる事でしょう。

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

こここそが開眼供養の本義を方便の御文の内に明確に篭められて仰せ御遊ばされた御文であります。
つまり、
この画(=原料素材としての絵の具。当然、”墨”も含まれることは自明の理である)、木材に、魂魄という神を入れること(=開眼供養)は、法華経(=三大秘法)の力である。これは天台大師の悟り(=大聖人様の悟り)である。この法門は生きた衆生に即して言えば即身成仏であり、非情である墨などの絵の具や木材で言えば草木成仏である。(=生身の仏と成ること)

以上の論証から導き出される結論は、

【結論】

曼荼羅御本尊も木絵二像と全く同じく、紙・木材・墨等の非情である素材で出来ているのであるから、そこには法華経を心得た智者(鎌倉時代で言えば大聖人様。また大聖人様より御命を賜った御僧侶方)によっての開眼供養により、草木成仏為されなければ生身の仏として成立しない。
(ただしこの時代は大聖人様が直接御本尊を顕されていたのですから、殊更に曼荼羅御本尊に関しての「開眼供養」の御指南が無いのは当然です。が、現時では、殆どの信徒に下付されるのは御形木御本尊、つまりは”印刷された御本尊”ですから、素材が非情で出来ている限り、開眼供養によって草木成仏を為し、生身の仏と顕現しなければ「本尊」として成立しないということが、以上の、「木絵二像開眼の事」「草木成仏口決」「四条金吾釈迦仏供養事」等の御書を併せ拝し、検証すれば自ずと明瞭となってくるのであります。そうは言っても毒気深入の頭破七分者にはそう簡単には理解できないでしょうが。)

ということで、

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

との御文は、やはり創価学会発売の本尊らしき様相を偽装した掛け軸を指すのであります。(もちろん、その他世の中に存在する一切の本尊状の”モノ”も含む)

【後述】

さて、以上の論証に反駁したい向きは沖浦さんをはじめ大勢いらっしゃるでしょうが、くれぐれも正当なる道理・文証を以っての反論にを心掛ける様にご留意いただきたい。
ただ、無闇矢鱈に「自分はそうは思えない!」というだけの我意・我見のごり押しでは、反論として成立しないことを銘記されたい。
また、そのような低次元の遠吠えの繰り返しは、そのまま自らの敗北を意味することになるので、創価学会の恥晒しとならないように十分にお気をつけ下さい。

では、宜しくお願い致します。