▼>  少し御書を勉強しなおしたほうがいいですよ。
>
>  蓮祖はね、世間で勝て。と、明確に仰せです。
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●実に浅薄な捕らえ方である。
この御書では、仏法の正邪を基として、かならず勝敗がつく。という御心と拝するのである。
つまりあくまで法の正邪が根本なのである。
今現時に於いて、大聖人様の仏法の全ては戒壇の大御本尊様へ究竟するのであるから、戒壇の大御本尊への信行を根本とした者達にこそ真の”勝ち”があるのである。
その勝ちの大本は何かと言えば、即身成仏・一生成仏である。
その大功徳の境界から、世間・生活方面へ必ずや大きな実証が顕れてくるのである。

逆に、戒壇の大御本尊への尊崇を失った者たちには必ずや”負け”という現証が顕れてくるのである。
それは、精神面・経済面・健康面・人間関係等において、様々な苦を伴って顕れてくるのである。
これは■「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。」との御文にも明確である。

であるから、沖浦君など戒壇の大御本尊を軽侮する者たちは、順次生に無間地獄に堕ちると確定した者以外には、確実に生活上に於いて、病・事故・経済苦・犯罪・精神的な苦痛などなどの”負け”の現証で苦しむこととなるのである。
がしかし、それでも華報であるから軽く受けているのであって、順次生に無間地獄に堕ちると確定した者と比べれば、まだ正信に目覚める可能性があり、そのきっかけとなるのであれば実にありがたいことなのである。

沖浦君が果たしてどちらなのか。
順次生に無間地獄に堕ちると確定した者なのか、それともまだ今世で救われる辺もあるのか、・・・
それは今後の現証の出方で判然としてこよう。
頻繁に”負け”の現証が出ればまだ救われる可能性があり、もし、今後一切そのような現証が出てくれなかったら・・・・・想像するだに恐ろしいことであるが、「順次生に無間地獄に堕ちると確定した者」、ということである。
いずれにせよ、戒壇の大御本尊から離れた者には真の勝妙の果報は出ない。
残念なことである。

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▼>  世間で勝てずしてどの面下げて地涌の菩薩ですか。
>  片腹痛いですね。
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●さあ、今日のメインの幼稚なところです。

1、「世間で勝つ」、とは一体どういうことでしょうか。
@沖浦君がどんなに早く滑っても、上には上がいるのだからその人には「負け」ていることになる。
Aどんなに収入があっても、やはり上には上があるのだからその人たちには負けていることになる。
またその沖浦君より、優秀で高収入の方が、例えば立正佼成会や霊友会・真如苑・キリスト教・無宗教・・・などの場合はどうするんでしょう。
もしそうなら、創価学会はこれらの宗教に負けていることになるんですかね?

2、地涌の菩薩が世間で勝たなければいけない何か文証はあるんでしょうか?
まっ、土台、「世間で勝つ」、という定義が全く曖昧なので、検討しようがないですね。

3、■賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり。

沖浦君の姿勢は、勝他の念に執り憑かれていて、まさに八風に冒されきった姿ではないでしょうかね。
賢人ではないのだから「愚人」ですね。
結果、諸天の加護はない、天に守られない、と大聖人は厳しく仰せですが。
この矛盾を沖浦君には解けますかね?

4、■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。?利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。(405)

一生など実に儚いものであり、一瞬で過ぎ去ってしまうものである。
であるから、この人界に生じた稀有な一生の内になんとしても正しい仏法に巡り合い、不自惜身命で仏道修行に励み、仏果を得るべきである。
と大聖人様は仰せではないか。
この御文に即してどこに「地涌の菩薩は、世間で勝て(≒世間で成功者となれ)」などという意義があるというんですかね。

ほとほと、大聖人様の仏法から遠く離れたところで迷い惑っている沖浦老耄である。