沖浦対樋田法論を検証する 37(番外編)  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 7月22日(日)23時45分32秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  何やら沖浦さん、狂乱の体ですね。
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1、よく将棋で負けた者は、

「ね、も一回やって!お願い!」

と執拗に再戦をこいねがうものだが、沖浦さんの今の姿はまさにこれですね。
実に未練がましく、浅ましい、見苦しいものです。
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2、しかも、前回は沖浦さんのたっての”お願い”を受け入れて、文証は「御書のみ」に限定したのであって、本来の道理からすれば、以下の御書の御心に従えば、唯授一人・血脈相承の御歴代上人の全ての御指南が御文証と成るのである。

■仏法法宝はかならず僧によて住す

■何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。1457

■末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。1461

■後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。1461

■此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と憑(たの)み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん。1461

■止観に云はく「師に値(あ)はざれば、邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚だしく、稠林(ちゅうりん)に曲木を曳(ひ)くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰(さた)、尚(なお)以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや。29
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3、中でも、沖浦さん自身が拝している御本尊を書写された日達上人と、創価学会が本尊と恃む御本尊を書写された日寛上人の御指南こそは、創価学会員としては特に依拠としなければならない。
何故なら、

「書写された御本尊は信じて、その方の御指南は信じない。」

などという理屈はたとえ百年言つづけても通らない言い逃れであるからである。

(この条件交渉の模様の音声は当初の約束通りに近日中にUPしましょう。
沖浦さんが如何に自分勝手に強引にこの条件を押し通したかよくわかります。)
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4、更に、”次回の法論”とかいうものの”条件”の交渉が済んでもいないのに、日程を決める必要など全くない。
例えば、土地の売買などにおいて、その条件交渉が不成立のまま、契約日などを決定できる訳がない。
沖浦さんはこんな簡明な道理・常識すらもはや理解できなくなってしまっているようですね。
実に悩乱極まれり、という醜態ですね。

■天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか。

こんな当たり前の世法の道理すらわからないとすれば、よほど「世法に暗い」ということですね。
ということは、「法華を識らない者」←つまり、「正しく日蓮大聖人の仏法を行じていない人」、ということになりませんかね?
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5、その上、前回ですら既に、自分が明らかに不利であるが故に、「飛車・角落ち」を当方に無理にお願いしたにも拘わらず、実際の法論で惨めな醜態を晒したがために、今度は更に「香車・桂馬落ち」を哀願ですか?
実に見苦しい姑息さですね。

■普賢・文殊等の等覚已還の大薩?法門を説き給ふとも、経文を手に把らずば用ゐざれとなり。天台大師云はく「修多羅と合する者は録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず」文。(聖愚問答抄上   文永五年  四七歳)

■提婆は六万蔵を暗(そら)にして無間に堕ちぬ・是れ偏(ひとえ)に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず。」(御書・三三蔵祈雨事 八七七n)

以上の御指南に即し、御文を的確かつ正確に摘示するためには、
■「経文を手に把らずば用ゐざれとなり。」との通りに、現時ではパソコンが有効なツールであり、
また、あらゆる角度から邪義を破折するためには資料も必要です。

沖浦さんこそ、■「六万蔵を暗(そら)にして無間に堕ちぬ」との末路を晒さないためにも、■「文無く義無きは信受すべからず」といわれるような己義・自見はくれぐれも慎むべきでしょう。