沖浦対樋田法論を検証する。151  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)15時03分21秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7

沖浦「この法論での法華講側の開眼の論証が日蓮正宗の伝統教義に照らして適法なのかどうか、日蓮正宗宗務院に確認をとる。必ずやりましょう。確認と取ったら必ず発表する。当然やりましょう。(趣意)」

と発言している。
当方らの開眼に関する論証は概要以下の通りである。

http://toyoda.tv/okiura.siryo2

さて、沖浦君はこの件を宗務院もしくは内示部に確認を取ったのか。
(付言しておくがこの件は沖浦君が自分で言ったことである。当方がけしかけたことではない。
今までの沖浦君の穢いやり口からいって、当方から宗務院を追求するように言われたから、そのように行動した。とでも言うのであるから、予め釘を刺して置こう。
そのような姑息な詭弁は通用しない。)

しかし、未だに沖浦君はその結果を発表できていない。
つまり、確認してはいないのである。
(ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。
資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。
しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。
つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。)

この点においても沖浦君とは口から出任せの、その場しのぎでウソを平然と述べ立てる軽薄で無責任な人物であることが実に良く分かるというものである。

さて、それでも発表できるというのなら、

@ 問い合わせた正確な日時。
A 問い合わせ先 何課等
B 担当者
C 正確な内容。(あとで当方も照会する。)

最低でも以上を明示しなければ全て沖浦君の虚偽捏造の妄想話ということである。
沖浦君、何時になったら自分の発言に責任が取れるのか。

で、この件を証明できなければ、

そもそもこの件は、「双方の主張は自義かどうか。」ということから始まっている。

■今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。

沖浦君のいうことなど一から百まで悉く「経論」に基かない「自義」である。という当方の破折に沖浦君が猛反発したものである。
当方の主張は「経論」を元にし、かつ、日蓮正宗の伝統教義に沿って発言している。
この日蓮正宗伝統教義はかつての創価学会も信じ拝していた教義・信条である。
沖浦君はそれとは全く別のことを勝手気ままにほしいままに放言しているのである。
沖浦君は当方が日蓮正宗の教義的解釈に基かないで主張していたらそれも「自義」ではないか。と反駁したのであるから、もし、当方の主張が日蓮正宗の教義解釈に反するということを証明できないのなら、結果、沖浦君自身が放言していることは間違いなく「自義」であるということを認めた形となる。

さ、沖浦君、どうせ沖浦君にしてみればここまで勝手気ままに適当なことを言い続けていれば、もはや大聖人の仏法の教義とは程遠いものであるが、自義を吐き仏法を私する者は、間違いなく頭破七分となり、無間地獄必定である。

■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332)

沖浦君の言うこと悉く御文の意義を理解できていない、的外れな引文であって、的確な文意による引文は皆無である。
その無様な姿はまさに「謗法となる根本」である。
謗法→堕獄必定
よって、沖浦君も堕地獄は決成の者ということである。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。152  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)18時10分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦君「もし、あなたの開眼の論証が宗門の見解と同じだった場合、ああ、なるほど樋田さんの見解と宗門の見解がたまたま同じだったという知識が増えるだけで、有難いことですわ。」

↑ここもやはり口から出任せ人間の本領発揮である。
そもそも、当方の主張が”自義”かどうかを確認するために、当方の「開眼の論証」が宗門の見解と同様なのか、齟齬はないのか、確認すると言ったのである。
そこで、もし齟齬がないということが確認されたならば、当方の主張は自義ではなく、逆に沖浦君の言っていることが我見に任せてすき放題放言している自義であるということを認めなくてはならないやりとりだったのである。
それを冒頭のごとく言い逃れるなど、実に姑息な”伏線”というべきである。

(因みにこちらの想定通り、案の定、耕治君がなにやら相変わらず、ピンボケなことを言っているが、既に釘を刺していることすら読み解けないほどの理解力のなさを露呈したに過ぎない。

【引用】
―――――――――――――――――――――――――
(ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。
資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。
しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。
つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。)
―――――――――――――――――――――――――
このように↑既に指摘しているにも拘らず、↓のように言ってくるとは、11.24の質問会のポイントのずれた返答が思いやられるというものである。呵々

【耕治言】
―――――――――――――――――――――――――
前にも、あなたから裏を取りたいといわれてここの板にかきましたよ  投稿者:耕治  投稿日:2007年11月 5日(月)16時43分40秒 softbank221104080129.bbtec.net    返信・引用

   //問い合わせた正確な日時。

3回かけてますが、前にも書きましたが法論の3日後に父と私の2回
、時間帯は過去ログが流れてしまったが昼過ぎだったかな?携帯からかけた。父はその後で電話をした
 3回目は、腐れ馬鹿ナオトのご本尊書写強要の件でかけた、これは、私が山に上がる前日だったので、日付は7月11日だったはずです。

//A 問い合わせ先 何課等
//B 担当者

大石寺、ないじぶ、きょうがくぶ(彼等は、電話では名乗らない)

//C 正確な内容。
身延護持の真筆本尊を、君がプリントアウトしてただの紙じゃとやっていた。
それは、お宅の支持か?

//(あとで当方も照会する。)
二ヶ月も前に、この板にこの旨書き込んだところ、あなたから、上記のごときといあわせがあって、詳しくおしえたはずですよ?
あなた、そのとき、確認」しますと言ったではないですか?
もう二ヶ月も前の話ですよ?わすれたんですか?

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。153  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)19時07分6秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦言「ご本尊のような大事なことは大聖人様は御書で明快に仰られます(趣意)」

↑どこまでも浅学の迷妄者ですね。

大聖人様の究極の奥義は唯授一人の口伝相承によって相伝・伝持されているのである。
沖浦君なぞの三宝誹謗の下劣な謗法者の窺い知ることなど永劫に有り得ない深旨である。

【文証】

■ 又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。
 法華本門宗血脈相承事
  弘安五年太歳壬午十月十一日             日蓮花押

(※後加文云々については、http://toyoda.tv/gokabun.htm 沖浦君も引用しているので、邪難は認められない。呵々)

■ 秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず。(就註法華経口伝)

■ 聖人言(のたま)はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給(のたま)ひて留め畢んぬ。(産湯相承事)

日寛上人

■ 一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其の 已下をや。唯日興一人に譲りたまふ故に唯授一人の相承と名づくるなり。(三宝抄 )

■ 五百年が間、唯授一人なり。

 各相伝あり。故に能く身の病を治す。「譬如良医」の釈尊もまた上行菩薩に一大事の秘法を伝う。
 二十二二十八に云く「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり」等云云。
 外十六四十一に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日              日蓮在御判
                                     血脈の次第 日蓮日興」
 「日興が身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す本門寺に掛け奉る可し」(取意)云云。
 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(妙法曼荼羅供養抄)

■ 本尊七箇の口伝、三重口伝、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや。(取要抄文段)

(※日寛上人の御指南に服すべきことは http://toyoda.tv/nichikansyonin.htm に明示。沖浦君未だに反論不能である。)

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。154  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)20時55分14秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7

沖浦言「創価学会では本尊のことは会長の専任事項になっている。(趣旨)」

↑まさに馬鹿丸出し!
では会長は仏か?呵々大笑!
沖浦君の愚かさはこういうの↓と同じである。

「顕正会では本尊のことは浅井会長の専任事項になっているんです!」(沖浦君説「東芝とソニーの例え」だとこれも正しいことになってしまう。呵々大笑)

そもそも、大聖人様滅後約700年ほど後に生まれた、「原田」などというどこの馬の骨とも知らない人物に、どうして一切衆生を成仏させる「本尊」を云々できる資格があるというのか?
大爆笑である。

殊、本尊のことこそ、大聖人様以来厳格な規定が定められているのである。

日寛上人
■ 一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其の 已下をや。唯日興一人に譲りたまふ故に唯授一人の相承と名づくるなり。(三宝抄 )

(※この「一大事の秘法」とは当然、「御本尊」の御事である。)

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。155  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)21時17分8秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦言「大聖人様の仏法は自行化他に亘りての「南無妙法蓮華経」だから、今は、『南無妙法蓮華経 日蓮』 と書かれた本尊を広めていくことが大聖人様の「南無妙法蓮華経」なわけですよ。(趣意)」

↑またも、一読噴飯 である。

結局ここが沖浦君の限界点・思考の上限 なんですね。
これ以上考えが及ばない。
だから、繰り返し繰り返し、聞き飽きた痴言を、壊れた再生機器のように執拗にエンドレスするしか”脳”がないのですね。
およそ人間ならば思索して思考が深化するものだが沖浦君には全くそのような学習ができない。
これを三毒の愚癡=愚かで癡(おろか)=つまり 馬鹿 というのですね。

沖浦説だと「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれていればどんな本尊でもいいのである。
ワープロでも、子供が書いても、・・云々云々。

詳細 http://toyoda.tv/syosya.htm

そのような、「本尊」そのものに惑っている者が、自行化他だの、広宣流布だのを口に出す資格などない。
本尊に迷って一体何を広めるのか?呵々大笑。

■ 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(日寛上人・妙法曼荼羅供養抄)

沖浦君の姿は、薬学に全く無知なものが、ニセ薬を掴まされて見分けられず、それを真顔で本物と信じて、血相変えて普及しようとムキになっているようなものである。呵々呵々大笑!

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。156  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)22時36分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦言 「『法華を心得たる人』(木絵二像開眼の事)というのは非常に漠然としていて。南無妙法蓮華経の意義など分からないじゃないですか。俺にも分からないよ。」

↑その通りですよ。沖浦君。正解です。
三宝誹謗の沖浦君などに分かりようはずがない。
その分かっていない沖浦君が本尊に迷うのは当然の結果ですね。

「南無妙法蓮華経」 とはそのまま一大秘法=本門戒壇の大御本尊に究竟されることは大聖人様の仏法の初門の常識である。
その深義こそが、唯授一人・血脈相承によってたった御一人に伝わっているのである。
戒壇の大御本尊(南無妙法蓮華経)の御内証が、以下の御文のごとく御一人から御一人に御相伝されているのである。

■「血脈の次第 日蓮日興」

■「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」

■ 五百年が間、唯授一人なり。
(中略) 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(妙法曼荼羅供養抄)

この御内証を伝持・相伝されておられるから御歴代上人が御本尊を書写され,授与を許可することができる唯一の御方なのである。
実に単純明快な道理である。
ただ、謗法の逆徒には信じられないだけのことである。

まっ、今回の発言で、沖浦君は「法華を心得たる人」でないと白状した。(当然過ぎるほど当然だが。呵々)
よって、本尊のことにも全く無知であるし、大聖人様の御文についても云々できる立場では全くない、ことも自明の理である。
はい、沖浦君、ご苦労さん。呵々大笑。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。157  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 5日(月)23時57分3秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  これで、横からの下らない雑音もなくなったことだし、この沖浦君の荒唐無稽・滑稽至極の邪説をじっくり念入りに清掃し消毒し漂白していきますか。

chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦君「三宝の話など知らなくても、題目をあげれば功徳がでるじゃないですか。(趣意)」

↑もう、ほんと 愚論 である。呵々

【正】 @ 三宝の話は知らなくても純粋に日蓮正宗の正統なる御本尊へ題目を唱えれば功徳を積めるのである。

【邪】 A 三宝を誹謗し、大聖人様以来の正統なる唯授一人・血脈相承を護持する日蓮正宗が「ニセモノ」と断定した掛け軸状の模造品にいくら題目を唱えても、頭破七分になりこそすれ、功徳など天が地になっても有り得ないことである。

【邪】 B 日蓮正宗の正統な御本尊に題目をあげても、三宝を誹謗した根性では功徳など全く積まれない。沖浦君のように人格が破綻し、虚偽・捏造常習犯と成り果てるだけである。

沖浦君はこの↑「正邪」が見極められない、ただそれだけのことである。
―――――――――――――――――――――――――

●御僧侶(←下種三宝の内の僧宝)を軽善するその報いは実に深いものがある。

■「(法華経)八の巻に云はく「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎き欠け・醜き脣平める鼻・手脚繚戻し、眼目角らいに、身体臭穢・悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文。」

【通解 法華経、普賢菩薩勧発品第二十八にはこのように説かれている。

三大秘法である本門戒壇の大御本尊を受持信行する者(御法主上人は勿論のこと、戒壇の大御本尊と御法主上人に連なる全ての僧俗。)の過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等などの罪をあげつらう者は、たとえその内容が真実であっても、ましてやただの悪口、虚偽、捏造、誤解であった場合はなお更のこと、その誹謗した者は、現世において皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種やそれに類する医学で治療できない重病などに罹るであろう。

また、御法主上人をはじめ本門戒壇の大御本尊を受持信行する者を軽蔑し、嘲笑する者は、来世以降、生まれてくる度に、

歯が部分的に欠損していたり途中で欠けたり、
唇が醜く、
鼻も低く醜悪。
手足がねじ曲がり自由に伸びない状態となり、
瞳の方角が偏り、正常にものを見る事が出来ない姿となり、
身体は醜く汚く臭く、
悪性のできもの、腫れ物が多発し、
血の中に膿が混じったり、また膿の血が染み出してきたり、
腹部に濁水が充満し腫れ上がり、
酷い喘息などで息が詰まり呼吸困難になったりする。
その他諸々の悪重病に侵され続けるであろう。」

沖浦君などは、今のままでは間違いなくこういう惨めな姿を未来永劫に繰り返し繰り返し現じ続けるであろう。
一刻も早くその誹謗を止め、心より反省懺悔して御法主上人に許しを乞わないと、取り返しがつかないことになる。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。158  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 6日(火)12時40分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦言「 何も知らなくても「南無妙法蓮華経」と唱えたら、功徳があるでしょう。(その後、沖浦君、御書を暗記しているはずであるのに、以下の御文をうろ覚えにたどたどしく途切れ途切れに囀る)

「問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。」(四信五品抄)」

↑沖浦君、どうやらこの御文で我説を立証したかったようであるが、全く ダメ ですね。呵々
まず根本・基本が見えていない。

1、「南無妙法蓮華経」 とはその元意は三大秘法にある。
つまり、三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊を離れた「南無妙法蓮華経」など全く大聖人様の正意ではない。
身延・池上・立正佼成会・霊友会・・・・その他諸々も宗派が唱える「南無妙法蓮華経」はこの一点が外れているから、全く何の意義もない。
ただの猿真似の邪行である。
創価学会・顕正会も同様である。

2、■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。(真言見聞   文永九年七月  五一歳)

仏宝・法宝・僧宝は一体なのである。
つまり、一口に「南無妙法蓮華経」といっても、その内体は三宝一体の意義があらせられる。
であるから、下種三宝尊への尊信のない、あまつさえ誹謗をなす根性で「南無妙法蓮華経」を鼻血が出るほどムキになって唱えても、全く功徳にはならない。

参照 http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno38.htm

つまり、仏宝・法宝を内証に相伝・伝持される御歴代上人を誹謗して唱える「南無妙法蓮華経」などには、全く功徳などない。

では上記の御文関して言えば

■「汝が弟子一分の解無くして」

の箇所を根拠にして、「難しいことなど分からなくても、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えればいいんだ。」と浅はかな愚論を展開する馬鹿者が往々にして居るが、この御文に既に

■「汝が弟子」

と、師弟相対した姿が説き置かれているのである。
弟子には師匠が居られる事当然の理である。
師匠とは誰か?
根本の御師は大聖人様
大聖人様亡き後は日興上人
では日興上人亡き後は?云々、と「血脈の次第」は連綿と続くのである。
それが、「僧宝」の意義であり、現時で大聖人様よりの血統正しき直接の師匠のない連中は悉く邪行に堕しているのである。
であるから、

■「汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。」

との御文は、現時において、大聖人様からの由緒正しい「師匠」を拝して、その弟子分として一分の解もなくともただ素直に、純粋に本門戒壇の大御本尊を信じて唱える「南無妙法蓮華経」には絶大な功徳が生じ、その唱える者の位は大変なものである。との御義である。

大聖人様からの血脈を明証できない、ある日突然現れたただの人を「師匠」となど仰ぐ者は、この御文に示される師弟相対の大前提に反しており、一分の解があろうとも、なかろうともその者が唱える「南無妙法蓮華経」では、絶対に成仏など不可能であり、今生の真の幸福も夢のまた夢、である。

ここでも、沖浦君の実に浅薄で愚昧な”怪釈”では 全くダメ ということが露見したわけである。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。159  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 6日(火)22時30分20秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 7  http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668

沖浦言「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。諸法実相抄     文永一〇年五月一七日  五二歳 666

法華を心得たる人とは、大聖人様と同じ一念を持っている人、同意の人、という意味。大聖人様のような広宣流布へを見据えてそこへ自分の人生を持っていく、という生き方が大聖人様と同意だと思うわけであります。(趣意)」

↑もう、しっちゃかめっちゃかですね。
実に浅はかな捉え方である。
―――――――――――――――――――――――――

@ ■「日蓮と同意」
とは、大聖人様が広められた三大秘法を広めなければ「同意」とはならない。
三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊 であるから、「戒壇の大御本尊なんかはじめっから信じていない!」と嘯く沖浦君など、「日蓮と同意」なわけがない。
―――――――――――――――――――――――――

A 木絵二像開眼の事

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

■法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。

この両文は、非情成仏を説かれておられる箇所で、その点において同義である。
つまり、

「法華を心得たる人」→開眼供養→非情の木絵二像→草木成仏
「法華を悟れる智者」→死骨供養→非情成仏→死骨成仏

であるから、「法華を心得たる人」とは別の表現では「法華を悟れる智者」ということである。
「法華を悟れる智者」とは、法華経とは三大秘法であるから、この三大秘法を悟られた智者とは大聖人以外には居られない。

一方、■「日蓮と同意」とは、その直前に■「日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。」とあることから、日蓮大聖人を信じ、果敢な広宣流布への戦いにおいて惹起するいかなる迫害にも屈せず、生涯命懸けで門下として大聖人様に付き従う人々のことを仰せである。

つまり、「法華を心得たる人」=「法華を悟れる智者」とは、能所の筋目においていえば衆生を化する側である能化(仏)にあたり、
「日蓮が一門」としての「日蓮と同意」の人とは、能化(仏)に化導される側の所化(衆生)にあたるのである。

「法華を心得たる人」=能化=師
「日蓮と同意」の一門=所化=弟子

という関係である。
―――――――――――――――――――――――――

B その 能化=師 の立場は大聖人滅後は「血脈の次第 日蓮日興」と「次第」して、その 仏としての師 という御内証は御歴代上人に唯授一人・血脈相承されて相伝・伝持されているのである。

参照 http://toyoda.tv/ketumyaku.htm

―――――――――――――――――――――――――

以上の簡単な論証から、沖浦君の自分勝手な思い込みは全く的外れで、正しい解釈ではない。
あいも変わらず自分勝手にほしいままに放言して自分で酔い痴れているだけのエセ信徒である。呵々

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。160  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 8日(木)15時41分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8  http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

樋田言「沖浦さんは、御書に「御形木御本尊を拝め。」という直接の御指南がないのに、それを拝むその根拠は?」
沖浦言「戸田先生が「拝め」といったからですよ。」

↑全く、話にもならない愚論ですね。

矛盾 1

まず、沖浦君は
@ ”大聖人の御書の文証しか自身の信仰する根拠として認めない。”と主張している。
が故に、この法論でも、「御書(しかも後加文は除く)しか引文しいない条件」であった。
一方、御書には
A 「日興上人以来の御歴代法主上人が書いた御本尊に題目を唱えなさい。」 という直接の御指南は存在しない。
にも拘らず、沖浦君は
B 御書に説かれていない日蓮正宗という宗派の第66世日達上人が書かれた、御本尊を印刷した通称「御形木御本尊」と言われる御本尊を拝んでる。

@ABの主張と行動は全く自語相違・自己矛盾である。
もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。

矛盾 2

沖浦君は、当方らの開眼の論証を
@ 「直接、御書に”御形木御本尊の開眼はかくかくしかじかにせよ。”と書いてないから、信じられない。」と主張している。にも拘らず、
A 御書に直接御指南のない御形木御本尊を拝んでいる。

これも、@の主張とAの自分の行動が全くあい矛盾している。
ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。

矛盾 3

今回の法論での @ 自身の主張の根拠は「御書」によるのみ。との条件であったはずである。
にも拘らず、A 「戸田先生がそう言っていたから、自分はそうするのだ」と放言して憚らない。
全くの無知な自己矛盾である。

ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。

矛盾 4

沖浦君は@ ”大聖人の御書の文証しか自身の信仰する根拠として認めない。”と主張しているにも拘わらず、その御書に書いてないことを為す根拠が
戸田さんの「教え」だとしたら、戸田さんが、大聖人より上回るのか?呵々

ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。

矛盾 5

その戸田会長は↓こう発言している。

「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている」
(『大白蓮華』昭和34年7月号9頁・戸田城聖)

この言葉に従い、親の責任として、息子の耕治君が拝む、創価学会販売のニセ模造掛け軸は魔性・魔の力が入っているのであるから、大至急取り上げなくてはいけないのではないか。

因みに、この戸田会長の発言を「方便」として逃げを打つ沖浦君に釘を刺しておくが、「方便」であるからには必ず真実の発言があるはずである。
が、根本尊崇の対境としての御本尊に関して、戸田会長のその後、この発言を「方便」であった。と断定する発言は存在しない。
であるから、戸田会長と全く『別人』である沖浦君が自分勝手に人の言を「方便」と決め付けることなど到底でき得ない愚行である。

ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。161  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)10時56分45秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8  http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

樋田 「功徳とはどういうことですか?」
沖浦 「こういう生活をすることですよ。こういう人間になることです。」

↑驚愕の返答である。
またまた、大笑いですね。ここは本当に笑えました。

沖浦君のような生活をすることが功徳?
その上、沖浦君のような人間になることが功徳?
実に、馬鹿も休み休み言いたまえ。というところですね。
この件に関して、ひとつ最近の沖浦君の異常人格が顕著に顕れた事案があるので、ここ掲示しておきますか。
以下は沖浦君の”「実名」ということを検証できない、カッコだけの「実名掲示板」”とやらに投稿されていた愚稿です。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
皆様方に  投稿者:沖浦克治  投稿日:2007年11月 8日(木)18時42分36秒 softbank221104080129.bbtec.net    返信・引用

    つい先ほど創価学会松本平和会館から電話がありました。
 T副会長からです。
 以前、樋田君がメールを披露し、私が創価学会員から非難をされているという書き込みを致しました。
 そのような事実は全くありません。との、断言でした。
 私が長野の最高責任者です。
 責任を持ってお伝えいたします。
 そのような事実はありません。
 とのことでした。
 これで樋田君の捏造が明らかになりましたね。
 捏造男樋田。
 この呼び名が定着致しました。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

この唐突の投稿は、73氏も指摘されている通り、実に噴飯ものの捏造・与太話である。

1、この投稿があった直後、当方へある学会員から間接的に連絡が入った。

2、この方からは以前から当方へ、「沖浦君の言動が余りひどいので、同じ学会員として見るに絶えない、樋田さん相手にしないで下さい。あの人は学会の恥です。(趣意)」等の連絡が間接的に入っていた。

3、今回上記の投稿をみられて、この学会員の方は創価学会松本平和会館へ確認したが、沖浦君の投稿のような事実は全くない。沖浦さんは大変な嘘つきです。とのことだった。(教えていただいた市外局番から千葉県の方ということがわかる)

4、その上、73氏の御指摘の通り、全国の学会員が沖浦君を非難しているかどうかの一々を、一県の責任者程度でどうして掌握できるというのか?実に大笑いである。このようなウソひとつとってもこの男の頭の程度が知れるというものである。

5、しかしこの捏造与太話には、沖浦君の心理と現状が実に良く顕れていて面白い。

@ 沖浦君のでっちあげた”当方が「信徒除名」される云々”という虚偽捏造の件を、当方が所轄機関へ被害届けを提出する、という告知を見て、もともと学会本部の意向に大きくズレていた沖浦君に追随することに対して薄々不安感を抱いていた周辺の創価学会員がいよいよ危機感を強くして、11.18での当方への質問会での、質問者として沖浦宅へ参加することに抵抗感が出てきて(表向きはいろいろな理由をつけて)辞退するものも現れてきた。

A このままでは”俺が声をかければ千人でも集められる”と大口を叩いたにもかかわらず(参照 http://toyoda.tv/okiura.taigensogo)たった”質問者が約10名”すら集められない・・・・と大いに動揺した沖浦君、本来は、11.24の耕治への質問会を流すために、この11.18も流してしまう段取りだが、万が一、開催となってしまった場合は、ここはびびる学会員を安心させ呼び寄せねばならない。よし、いっちょいつもの口八丁・手八丁をかましてやるか。てなもんで下手な芝居を打ったわけですね。

B 加えて、憎っくき樋田のイメージダウンも謀れるし。と。

6、以上のような心理状態で、自分から「質問会の条件摺り合わせ以外のことは投稿禁止」と明言しているにもかかわらず、上記のような全く無関係なウソを書き込んだわけである。

その他、この沖浦君の卑劣極まる人間性など、このHP上に標本として陳列してある全てを見れば、吐き気がするほど強烈に理解できるというものである。
およそ人間としてここまで下劣に醜悪にはなりたくないな。としみじみ感じ入るに十分な”展示品”である。
子供の教育の資料としても、実に貴重な”展示物”であろう。
そのような汚物である人物がから
▼「功徳とは自分のような人間になることです。」
と百万回言われても、絶対にこのような人間だけにはなるまい!と固く心に誓うのみである。
そのような人物の口から ▼「大聖人様の生き様が云々」 などとは、大聖人様に勿体無い。実に汚らわしいことである。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。162  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)13時13分55秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8   http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

沖浦言 「ここは悟りの問題ですからね〜。残念ながらあなたに説明のしようがないですね。」

↑またもや心底笑わせてくれる発言の連発ですね。

沖浦君が悟っている?何を?

■ 第九 不聞法華経(ふもんほけきょう) 去仏智甚遠(こぶっちじんのん)の事
 御義口伝に云はく、不聞とは謗法なり。成仏の智を遠ざかるべきなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、仏智開悟の者にして成仏の近き故なり。(御義口伝)

「戒壇の大御本尊(=法華経)などはじめから信じていない!」と断言する沖浦君が長年してきたことは口に南無妙法蓮華経を唱えても、それは不聞法華経=法華経である戒壇の大御本尊を不聞=不信する。ということで、つまり謗法である。
沖浦君の信仰姿勢は実は全く正しい仏道修行ではなく、だた謗法行為を長年積み重ねて来ただけの事である。
言ってみれば、身延の信徒が長年「南無妙法蓮華経」と唱えてきたようなもので、邪宗日蓮宗系の害毒としてよく例示される、

頑迷
言動が豹変する
一家離散
家系に精神的疾患が多い
不慮の大きな災難に見舞われることが多い。

などの傾向がある。
沖浦君本人、また家族周辺の事情では果たしてどうか?
大いに考えさせられるものがあるのではないか。

であるから、謗法者、沖浦君などが「悟る」はずなど天地が逆さになっても有り得ない道理である。

■「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、仏智開悟の者にして成仏の近き故なり。」

この御文の元意は、三大秘法の本門戒壇の大御本尊を信じて本門の題目である「南無妙法蓮華経」を唱え奉る者は、「悟り」が近い者である。」ということである。
故に、重ねて呵責しておくが、戒壇の大御本尊を信じない沖浦君など、どう間違っても、万に一つも「悟る」などということは絶対に有り得ない。
にも拘らず ▼「ここは悟りの問題ですからね〜。残念ながらあなたに説明のしようがないですね。」 などと言うとしたら、それは以下の御文のごとくの、

■「我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証」の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。此の人の罪報具に聞くべし。今時の念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。」(得受職人功徳法門抄   文永九年四月一五日  五一歳)

未だ得ざるを得たりといい、未だ証せざるを証したと思う、大増上慢の輩である。
しかも、沖浦君はその上、下種三宝尊であられる御歴代上人を口を極めて誹謗し続け、軽賎し切っている。
この者は、まさに、■「念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。」
との極悪罪報の者、当然として無間地獄必定の大悪人である。

大聖人様にこれほど明確に叱られているにも関わらず、あいもかわらず謗法人生を歩むとは、実にみっともない、ナサケナイ、悪因縁の生まれ育ちである。
ああ、無慚。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。163  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)15時04分27秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8  http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

沖浦言「(チェコである体験をしてから)世間の名聞名利に興味がなくなった。」

↑これは、本気で言っているのか?
1、だとしたら、沖浦君、言動がコロコロと変わる、定見のない、実に無責任男である。

2、それとも、名聞名利の意味を取り違えているのか?

名聞=名声が世間に広まること。世間での評判・名声。ほまれ。
名利=名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち。

3、その上で一度自分の発言をチェックしてみたらどうか。

▼1「 少し御書を勉強しなおしたほうがいいですよ。
 蓮祖はね、世間で勝て。と、明確に仰せです。」

▼2「>  世間で勝てずしてどの面下げて地涌の菩薩ですか。
>  片腹痛いですね。」

▼3「>  さ〜!
>  やってきた勝負の年です。
>  創価学会員の底力を世間に示しますよ〜〜〜!」

▼4「仏法者は世間に勝利の実証を示さねばなりませんよ。
 蓮祖の仰せです。
(中略) 今この人生で勝利の実証を示せずして、何の臨終正念でしょう。」

▼5「世間に実証を示す。勝負はこれしかありません。」

↑これら全て、まさに、上記の「名聞」「名利」の意味説明の通りの根性である。

参照 http://toyoda.tv/okiura.myomon

沖浦君、高邁でさも偉そうなことを得意になって放言しているが、実際は言動が全く不一致である。
こういう者こそ、世間では信用されず、必ず「負け」の人生となることが非常に多い。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。164  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)15時53分25秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  前段で沖浦君のかつての発言を検索していたら、実に興味深いものを発見した。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
小樽法論  投稿者:沖浦克治  投稿日: 7月 1日(金)07時15分2秒

在家と出家の ▼「したたかさの差が勝敗を分けた」 のです。創価学会は在家集団ですから、当然 ▼「世渡りが上手」 です。(中略)
あの際、 ▼「法会論の現場での議論の勝ち負けなどはどうでもいい」 のですよ。 ▼「会場での雰囲気と、後の宣伝が大事」 です。
▼「事後処理」 にも差がありましたね。創価学会は機関紙等で、 ▼「勝った、勝った。と、大宣伝をした」 のですが、対して身延は沈黙しておりました。これが ▼「世間での勝敗を分けた」 のです。世間知らずの出家集団が、 ▼「したたかな在家に勝てる道理が無い」 のです。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

↑なるほど、この書き込みから沖浦君の姑息な人間性が実に良く見て取れる。

沖浦君の勝敗観とは、”とにかく法義の内容などどうでもよく、ただしたたかに、世渡り上手に、策でも、謀略でも、なんでも使って、勝ったという雰囲気作りをすればいいんだ。”ということですね。

まさに6.16法論では、当方の追求により本尊論に行き詰まり、返答不能なることは目に見えているから、予め大勝利あたりの愚癡の者を騙り ▼「したたか」 に ▼「世渡り上手に」 事前打ち合わせなどして、いざ本尊論に行き詰まったら、とにかく大声で罵声を浴びせ、怒声を張り上げ、ただ相手を叱り飛ばしているような、 ▼「会場の雰囲気」 を演出し、その後の ▼「事後処理」 でも、狂ったように ▼「勝った。勝った。と、大宣伝をし」 世間の評価も雰囲気だけでも勝ったこと持って行きたかった。

(参照 http://toyoda.tv/okiura.kakiko.htm

ところが、当方の冷静な破折の再検証によって、その筋書き通りにいかなくなり、イラつき出した。

(参照
http://toyoda.tv/okiura.kensyo
http://toyoda.tv/okiura.kensyo2
http://toyoda.tv/okiura.kensyo3

そこでことあるごとに、虚偽・捏造で「ウソも百遍言えばホントになる」とばかりに、相手を不当に貶め、

(参照
http://toyoda.tv/okiura.siryo3
http://toyoda.tv/okiura.hituti

また、不当な条件を掲げては、再法論を持ちかけ、当方が受諾しないと、逃げた。臆病者。とまた ▼「大宣伝をし」 とにかく、自分が勝ったという構図を ▼「したたか」 に見せ掛けたかった。

(参照
http://toyoda.tv/okiura.saihoron
http://toyoda.tv/okiura.hakuba
http://toyoda.tv/okiura.shitsumon

上記の経緯を見れば一目瞭然である。
ただただ、臆病にして姑息、世間の評価に異常に執着する小心者・・・ただそれだけの人間ですね。
しかも、「したたかさ」と「世渡り上手」を美徳としているような価値観。
実におよそ正しい仏法を修行した者の果報ではないですね。
これではダメですね。全然。
まさに、謗法を長年(創価学会員歴44年間でしたね。)やったらこのように姑息な人間になるという、人生をかけた”実験証明の献体”ですね。
このような人間の口から「仏法」などという言葉が出ること自体、実に身の毛もよだつほどおぞましいことです。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。165  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)19時55分58秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8   http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

沖浦言 「異国の地で試合を前にホテルで題目をあげていた。10分か15分た経った時、「青年よ世界の指導者たれ。」と池田先生の言葉が頭に閃いた。一瞬遅れて「新しき世紀を開くものは青年の熱と力である。」という戸田先生の言葉が閃いた。その時、創価学会員であったことがどれほど幸せだったかと気づいて体が震えるほどの喜びだった。(趣意)」

↑さて、これが一体「悟り」などと言えるものなのか?

1、このような感動体験など、どこの宗教の信徒にもごまんとあるでしょう。
邪宗を破折に回ってみると、みな似たようなことを言ってますね。
「戸田先生・池田先生」という箇所が「浅井先生・庭野日敬」などに置き換えられ、「創価学会」が「顕正会・立正佼成会」などに変わるだけのことですね。
このようなただの個人的な感動と感慨をもって「創価学会」だけが正しい。などとの証明になど全くなりません。
それをこのレベルの体験談を得意になって法の正邪を決するという法論の場でとくとくと話すなど、よほどのピントのずれた精神構造ということですね。
はっきり言って全く仏法のイロハからして無知ですね。
沖浦君、実に浅はかな44年の学会員人生だった。ということですね。
実に愚かです。

2、■「仏法伝来記に=一巻信救作=「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲す。諸宗朝廷に群集して即身成仏の義を疑ふ。大師智挙の印を結びて南方に向かふ。面門俄かに開けて金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我我入の争ひ即身頓証の疑ひ、此の日釈然たり。」(日本真言宗事   文応元年  三九歳)

これが法論時に沖浦君を破折した時に引文させていただいた御文です。
このような沖浦君の小さな感動体験などが足元にも及ばないほどの燦然たる”現証”が起こっても、真言宗が正しくないということなど周知の事実ですね。
まして況や、”会長の言葉が頭に浮かび、ああ、創価学会員で良かった。と感激した。”だなんて、実に取るに足らない感慨ですね。
掃いて捨てるほどの瑣末で個人的な思い込みに過ぎません。
これを”悟り”などと勘違いしているとは、沖浦君の程度が知れるというものですね。呵々大笑。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。166  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月 9日(金)21時39分9秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 8  http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319

● 樋田言 (沖浦君の体験をさして)前段のごとく破折する。
「弘法大師などは、みなの目の前で金色の毘盧遮那仏となって見せても、やはり真言は邪教であることには違いない。であるから沖浦君の体験談など、創価学会が正しいと証明する根拠には全くならない。あくまで法の正邪は経文・法義を基として検証しなくてはならない。」
更に http://toyoda.tv/okiura.1.ma を要約しながら「魔の通力」について概説し、沖浦君の体験もその範疇ではないか。と指摘する。

それに対して

▼ 沖浦言 「弘法大師の通力の話は、直接我々の実際の生活と関係ない。我々が一番大事なのは明日の飯代がどうかとか、確たる人生を生きていけるんだろうか、年金問題とか、我々の年になると死ぬことを考える、自分が死んだときにまた法華経の行者の家に生まれるんだろうか、そういうことがすごく興味がある。御書というのは対機説法だから、ここにこう書いてあるからと言って、他の箇所では完全に違うことも一杯ある・・・・」

↑もはや、沖浦君、完全にしどろもどろである。
一体何を言いたいのかさっぱり論旨不明。支離滅裂。
ただ口から出任せにダラダラと冗長に牛の涎のように「おしゃべり」をしていただけである。
つまりは反論不能の醜態を晒しただけであった。
映像は実に正直なものである。呵々。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。167  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)10時04分35秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter  9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

沖浦言 「ビートルズが使ったコード進行はそれまでの音楽理論の常識にはなかったが、それが良かったから今みんな使っている。理論はあとから付いてくる。それと同じように、まず現証です。」

↑なんて、浅はかな捉え方か。
このレベルでは大聖人様の仏法の深旨など分かりようがないはずである。
このような低脳な邪義はもう既に完全に粉砕してある。

参照 http://toyoda.tv/okiura.1.ma
(沖浦君、11.18 11.24の質問会から逃げ回るのには必死に足掻いているが、この↑論証には全く反論不能なままである。呵々)

天理教が普及したのは安産祈願と病気治しからである。ある種の通力によって安産だったり、病気が治った事例もあったのであろう。だから、立教当時、関西を中心に相当な勢いで広まったのである。やがて教団が拡大するに従って、教義をこじつけて整備していったのである。

この天理教も「現証」がまずあり、「理論」は後から適当に寄せ集め、こじつけをしていった。(”人間はドジョウから生まれた。”などという誰が聞いても噴飯モノの荒唐無稽のものである。)

さて、沖浦君の幼稚極まりない説だと、この支離滅裂な教義を説く天理教も「正しい」ということになってしまうが?いかがなものか?呵々
それと、創価学会の信仰による「現証」と、天理教による「現証」の、正邪・善悪の違いをどう説明できるのか?呵々呵々。

まさに、 「沖浦君、全く仏教の初歩中の初歩も知らぬ大馬鹿者である。」 呵々大笑。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。168  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)11時01分16秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

沖浦言 「創価学会の最初の指導は戸田は関西の地から貧乏人と病人を無くすために来たんだ。云々、そこなんですよ。仏法というのは!」

まぁ、とにかく、一言一言ピント外れですね。

1、今回の条件は「御書だけで自説の正当性を証明する。」であった。
戸田会長の発言などこの法論においては全く根拠となる文献ではない。
沖浦君、耄碌したものである。呵々

2、沖浦君が一体、いつから、大聖人様の深遠なる仏法を、「そこなんですよ。仏法というのは!」などと偉そうに、こういうものだとか、ああいうものだとか、断定できる身分になったのか?
沖浦君は大聖人が予証した「仏」なのか?
大笑いである。呵々大笑!

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。169  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)12時06分1秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

山下言 「戸田会長はその頃は、”日蓮正宗の信徒”であることを自認していましたよね。」
(↑日蓮正宗の正統な本尊・教義を広めることでこの社会から不幸を追放する!との決意だった。という意)

沖浦言 「そんなことを言ったら、大聖人様だって最初は天台沙門だった訳ではないですか。」
(↑戸田会長は仮に日蓮正宗に帰属していただけで、その本心は現在の創価学会の姿である。との意であろう。)

↑もう、ほんと、一言言うごとに 愚薄 ですね。

1、大聖人様が真実の意義として「天台沙門」と名乗られ、「余は天台宗の余流である。」などとの言も無ければ、その義もない。

【文証】

戒体即身成仏義 21歳御作

■ 唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。

↑ここで、御年21才にして既に明確に天台宗の不備を突いておられる。

守護国家論 38歳御作

■ 其の上世間を貪る天台・真言の学者、世情に随はんが為に法華・真言等に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依って釈迦・多宝並びに十方の諸仏の御評定の令法久住於閻浮提広宣流布の誠言を壊り、一切衆生に於て一切三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ。偏に是「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、乃至悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる」が故なり。

↑と、立宗宣言以降も初期でも、痛烈に往時の天台宗を(そもそも大聖人様当時は既に純粋な「天台宗」など消滅してしまっていた。)破折されている。

つまり、大聖人様は修学の為に比叡山に登られたのであり、心身共に「天台沙門」になどなっていない。
沖浦君、あまりに勉強不足である。

■ 一、五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍って公所に捧(ささ)ぐる状に云はく、天台沙門(しゃもん)云云。又云はく、先師日蓮聖人天台の余流(よりゅう)を汲む云云。又云はく、桓武聖代(かんむせいだい)の古風(こふう)を扇(あお)いで伝教大師の余流を汲み、法華宗を弘めんと欲(ほっ)す云云。
  日興が云はく、彼(か)の天台・伝教所弘(しょぐ)の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣(ぐせん)し給ふ法華は本門なり、此の旨具(つぶさ)に状に載(の)せ畢(おわ)んぬ。此の相違に依って、五人と日興と堅く以て義絶(ぎぜつ)し畢んぬ。( 富士一跡門徒存知事    延慶二年)

この日興上人の仰せのごとく、大聖人様を「最初は天台沙門であった」などと軽侮する沖浦君などは、もう既に日興上人より「義絶」されているただの薄汚れた謗法者ということである。

―――――――――――――――――――――――――
2、戸田会長は生涯「日蓮正宗信徒」であり、葬儀も「日蓮正宗」の化儀に則り、下種三宝であらせられる御歴代上人によって執行されたのである。
沖浦君の論法で言えば、戸田会長が最初は方便として「日蓮正宗」の信徒となったとすれば、後に真実の宗教に入らなくてはならないはずである。
つまり、今の創価学会のごとくに、戸田会長自ら、日蓮正宗から離脱して、日蓮正宗とは全く関係の無い別の「創価学会」となり、創価学会発行の「本尊」を発表しなければ、戸田会長は「本懐」を遂げたことにならないはずである。

沖浦説、日蓮正宗=方便 創価学会=真実 であるとすれば、戸田会長は、方便教のままで死んだことになる。
つまり、戸田会長は未だ悟りを得ないまま死んだことになり、戸田会長を慕う根拠すら総崩れとなる。
沖浦君は邪盲深き故に、この矛盾が全く解けない。
永久に自義・己見・妄見のなかで、グルグルと回り続けるしか脳がない。
ご苦労さんなことである。呵々大笑。

因みに戸田会長の奥様は脱会し、そのご逝去の折には息子さんも創価学会を嫌い、日蓮正宗の化儀に則り御僧侶を招じて葬儀を営まれた。
この事実は、戸田会長以後の創価学会がいかに戸田会長の遺志とは正反対の方向へ暴走したかを強く示唆するものである。

沖浦君、少しは黙って正しい歴史と教学を勉強したらいかがか?呵々大笑

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。170  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)12時53分5秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

沖浦言 「現証が出ないと民衆は信用しない。」

実に頑迷ですね。
その「現証」は何によって起こるのか、「民衆」には判別つかないのである。
であるから、あくまでも教義としてまず、信用すべき文証をが大事であり、しかも、その内容がどこまでいっても論理的・合理的に整合性があることが大事なのである。
そのような過程で比較相対し、最勝・最尊の教義と本尊を択ばなくてはならないのである。
現証とはそうした正しい教法を実践した場合に善因善果の道理からおのずから生じるものである。

参照 http://toyoda.tv/okiura.1.ma

ほんと、仏教の初門にすら理解できない、そもそもからして謗法の限りを尽くすために生まれてきたような者を相手にすると骨の折れるものである。呵々。

http://toyoda.tv

お知らせ  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)13時40分31秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  HPトップページで紹介している沖浦君との法論映像。
そのchapterごとに破折の解説を添付しておきました。

映像を見た前後にこの破折添付文書を読むと、沖浦君の発言はいかに愚かにして恥かしい内容であるかが一段と明白に分かります。
どうぞご活用ください。

まだ、編集途上です。
今後も充実させていきますのでよろしくお願いします。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。171  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)14時17分31秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 10  http://video.google.com/videoplay?docid=3324969631905083401

当方が大聖人の御真筆御本尊の座配を説明するために活字で図式した資料を提示(資料A)

樋田言 「沖浦さんは、御本尊は誰が書いても同じ御本尊だ。とかつて言いましたよね。ではこれ(資料A)は本尊になるんですか?」
沖浦言 「それは試さなければわからないが、試す気はない。」
大勝利 ここで沖浦君擁護の大笑い。→つまり同類ですね。

↑ぶはははは〜 これは、爆笑もんですね。

1、沖浦君の試し方とは、要するに拝んでみる。ということですね。それとも、質問会も自分が恥をかきたくない、という理由で息子を人身御供に差し出すくらいの卑劣な親ですから、息子にでも拝ませてどうなるか試してみるか。呵々

2、さて、で、拝んだら何を見るのでしょうか?
功徳が出るか出ないか。ということですね。
もちろん、罰も同様にして実験してみるということですかね。

3、いずれにせよ、沖浦君の本尊の正邪の判定法は「拝んでみる。」ということですね。呵々大笑

4、文字曼荼羅御本尊の座配を活字で図式したただの資料すら、沖浦君は即座に本尊かどうか判別がつかない。とこういうことですね。呵々大笑

5、で、その座配の図を拝んでもし、スキー大会で優勝したり、ワックスの売り上げが急に上がったらどうするんですかね?
「お!こりゃホンモンだ!」てなわけで、やはり、大事に仏壇の中へぶら下げて、「南無妙法蓮華経」と一生懸命に唱えるんですかね?

6、ここで「試す気が無い」などとの言い訳は通用しませんよ。

7、本尊の正邪は試してみなければ分からない。→試してみれば分かる。 ということであり、それを明言したんですからね。

8、その際、紙の材質は何でもいいんですかね?たとえば裏にワックスの注文が書いてあるFAX用紙とかでも?呵々大笑
この法論のときに使った当方がベタベタ触りまくったこのコピー資料でもいいんですかね?
いっそのこと、チェコでリフティングで優勝したときの表彰状の裏でもどうですかね?呵々大笑

9、誰が書いても▼「阿保が書いても、かしこが書いても」いいんだから、紙の材質なんかに拘りませんよね?呵々大笑

↑まぁ、実に、まじめに破折するレベルにも達していませんね。
以上の諧謔であしらって置くだけで十分ですね。

そうそう、大勝利君、あそこで大笑いしたのだから、当然君も本尊観を理解していることでしょう。
上記1〜9の”爆笑問題”解けるかね?呵々大笑

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。172  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)15時23分34秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 10  http://video.google.com/videoplay?docid=3324969631905083401

沖浦言 「(文字曼荼羅の座配を活字で図式した資料が本尊足りえるのかそうでないのか、試さなければ分からないけど、試す気は無い) 誰かお試しいただければ。」

↑ここに沖浦君の卑怯卑劣な人間性が露わですね。

こと本尊に関して、「本物かどうかは試して(拝んで)みなければわからない。でも、自分では試す気が無いから、あなた方で試したらどう?」
返答に窮して、このように言い逃れする。
なんと無責任で口先だけの人間であることか。
これが所詮沖浦君の中身ですね。
さすが、長年謗法を重ねて続けてきただけのことはありますね。
実に姑息です。
このような姑息で卑怯な親を持ち、映像にあるとおり、何かと細かいところまで指示をされ、言いなりになっている耕治君も哀れなものですね。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。173  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)15時40分58秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 10  http://video.google.com/videoplay?docid=3324969631905083401

樋田言 「この文字曼荼羅座配の図が本尊となり得るのかどうか法義的に立証できないんですか?」

沖浦言 「分かりませんね。」

↑沖浦君、ここではっきり白状してますね。
結局、沖浦君は、本尊とは一体誰が書いていいのか、どうして本尊足り得るのか、なぜ自分が日達上人が書かれた御本尊を印刷した御形木御本尊を拝んでいるのか、全く分かっていないのである。
分かっていなくせに、生意気に日蓮正宗の本尊観について云々しているのである。
まさに

■諸宗は本尊に惑へり

沖浦君、本尊に迷う、醜態である。
そんな狂った信仰を44年間も続けてきたから、”本当の功徳”が全く積まれていないのである。

http://toyoda.tv

お知らせ  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)19時49分18秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  沖浦君の「実名掲示板」とやらへ投稿し削除された投稿の一覧を纏めてUPしておきました。
    ↓
http://toyoda.tv/okiura.zitsumei

当方からの質問会実現に向けての常識的で前向きな提案を沖浦君が悉く削除したことにより、沖浦君が表向きはいかにも質問会を開催しようと見せ掛けて、その実は、全く交渉する意思が無く、つまりは質問会から遁走したい一心であることが明白です。

沖浦君が提示してる内容などおよそ公平性も無く、個人情報漏洩の観点からも、到底受容できる範囲を超えた難癖です。
それは、当方の削除された書き込みをご覧ただき、比較していただければ、誰でも自ずと理解していただけることでしょう。

「実名掲示板」など所詮、沖浦君が虚勢を張って体面を繕うためだけの単なる猿芝居の舞台でしかないということがこの削除された一連の投稿によって確認できるでしょう。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。174  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)20時22分45秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  樋田言 「沖浦さんは、”本尊は誰が書いてもいい。”と仰っいましたよね?では、この「文字曼荼羅の座配の図式」(A)も本尊になるはずですよね?」

沖浦言 「誰が書いてもいいけど、それ(A)の相貌がどうか、ボクは知らないから・・・」

》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》》

↑さあ、いよいよ沖浦君の迷妄の核心部分ですかね。

1、沖浦君は本尊は誰が書いてもいい。と断言している。しかしその理由は明示できない。ただそう漠然と思い込んでいる。それだけである。

2、沖浦君は相貌についても全く自分は分からない。と明言している。

【引用】
―――――――――――――――――――――――――
沖浦君↓

▼  また、寛師の本尊なるものはありません。  寛師書写による蓮祖御図顕の御形木様です。

● 法華講員からの追求↓

何故?日寛上人と特定されていらっしゃるのですか?
何故、日寛上人様でなければいけないのでしょうか?
北山本門寺の貫首も「蓮祖御図顕」の御本尊を書写していますし、大聖人様御図顕の御本尊様とそっくりですが、そちらではいけないのでしょうか?
また、この板で常に話題になる、身延の売店で売られている本尊は、大聖人様御図顕の御本尊をそのまま写真に撮り、縮小して印刷したものですが、それではいけないのですか?
もしもいけないのであればその理由は何ですか?
ここも、やはり御文証をしっかりお見せいただきたいです。

沖浦君↓

▼ 見ていませんし、私は専門が本尊書写ではありません。
 そちらの専門家(法主など)にお聞きなさい。
―――――――――――――――――――――――――
↑ここで沖浦君自身が明言していることは、

@ 沖浦君は「本尊書写の専門家ではない。」
A 御本尊のことは「法主にきけ。」

ということですね。

以上の沖浦発言をまとめると、沖浦君は御本尊のことは全く何も判ってないのに、何の根拠もなく「本尊は誰が書いてもいい」と妄断し、頑迷に言い張っている。ということですね。
これは要するに、日蓮正宗の御歴代上人を否定しながら、日蓮正宗の御歴代上人のお手になる御本尊を拝んでいる大矛盾を何とか言い逃れしようとして暗礁に乗り上げている。反論不能に追い込まれている。だたそれだけのことですね。
いい歳をして実にみっともない醜態です。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。175  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)23時00分0秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter  10  http://video.google.com/videoplay?docid=3324969631905083401

沖浦言 「あなた、コンピューターを使うときにその仕組みや理屈が分かっているのか?」

↑この唐突な例えは、つまり、「御本尊の理屈や仕組みなど全然知らなくても拝んで功徳(※正確には利益)が出ればいいでしょう?」ということを言いたいのである。

やはり、大馬鹿者 ですね。

―――――――――――――――――――――――――
1、この理屈で言えば、この世に存在する全ての「本尊」で、そのどれでもどれか適当なものを拝んで、自分で「あっ、なんかいいことがあった!」と思えばその本尊は正しい本尊、ということになってしまう。呵々大笑。
そんな馬鹿げたことをよく真顔で言えるものである。
創価学会を44年もやってこの体たらくである。
これは今創価学会にいる方々はこの沖浦君の低劣極まりない”怪答”をよくよく考えて、このような人間にならないためにも早めに脱会したほうがいいのでは?

―――――――――――――――――――――――――
2、■本尊とは勝れたるを用ふべし。

大聖人は↑このように、本尊の勝劣を明確にお示しである。
つまり本尊とは衆生の成仏・不成仏を決する帰命依止の絶対なる対境であるから、道理・文証・現証に於いて最勝・最尊のものを用いなくてはならない。

―――――――――――――――――――――――――
3、沖浦さんが拝んでいる御形木御本尊を書写なされた日達上人は以下のように御指南されている。
(予め釘を刺しておくが、「日達上人の御本尊は信じ、御指南は信じない」などという子供だましの言い訳は通用しない。)

■「本尊という解釈を分かりやすくいえば、本有勝尊―昔からありのままで尊く勝れたもの、あるいは本末尊崇―本来から崇め奉るもの、あるいは根本尊貴―根本から尊いもの、といいます。」(日達上人全集第二輯第三巻325)

@ 昔からありのままで尊く勝れたもの
A 本来から崇め奉るもの
B 根本から尊いもの

このそのまま尊いという御本尊とは、久遠元初の自受用身如来様以外おられない。
この宇宙法界即御一身であられる久遠元初自受用身如来様の一身即三身のうちの報身如来様が中心となられて顕れたお姿がそのまま戒壇の大御本尊様なのであり、この世で「御本尊」と拝させていただけるのはこの本門戒壇の大御本尊様のみなのである。

しかして、この戒壇の大御本尊様の甚秘・深義の御内証を唯授一人・血脈相承によって伝持・相伝されているのが御歴代上人であり、その御歴代上人のお手になり、御下付と授与をご許可なされた御本尊全て、戒壇の大御本尊の御内証を顕されておられるから、そこに義において戒壇の大御本尊様が御出現なされている、ということなのである。

そして、その義の戒壇へ唱える「南無妙法蓮華経」のお題目はそのまま本門戒壇の大御本尊様へ通じ、そこで三大秘法が整足することにより即身成仏の大果報がいただけるのである。

―――――――――――――――――――――――――
4、であるから、沖浦君などの幼稚極まりない「本尊論」などゴミ屑にも等しい痴言である。
全く、 ダメ ですね。
これが創価学会歴44年の姿かと思うと、 ナサケナイ! の一言ですな。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。176  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月11日(日)16時22分9秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter  10  http://video.google.com/videoplay?docid=3324969631905083401

沖浦言 「あなたの理論だったら、テレビ見るのに、電子工学から何から全部分かってなければならない。そういうことでしょ?」

→つまり、前段同様、沖浦君の邪問は「あんたの言うおkとは、御本尊を拝むのに、御本尊の仕組みを全部分かってなければならない。そうこうことでしょ?そんな馬鹿なことがあるか。」ということである。

↑愚問ですね。やはり。

@ 沖浦君の今の状態の比喩。

世界で唯一、大変な効力をもたらすある製品を、その製品の仕組みを知るそのメーカーの製造責任者が 「今の君の使い方では全く起動しないね〜。残念だけど。」と言われている使い方をしている状態ですね。

↑日蓮正宗第66世日達上人の御形木御本尊の場合。

A 息子耕治君の場合(←創価学会発売の模造掛け軸を拝む者全て。)

世界で唯一、大変な効力をもたらすある製品があり、その製品の仕組みを知るそのメーカーの製造責任者が 「あれは、全くの ニセモノ だね。残念だけど。うちの製品じゃないね。あれ調べてみたら、使用するたびに有毒ガスが発生するから、今に大変なことになるだろうね。」と言われているようなシロモノを大事そうに使って日々有毒ガスを吸っている。とこういう状態ですね。

―――――――――――――――――――――――――
これは薬に例えても同様ですね。

@ 沖浦君の場合。

「使用法を間違えているね。あれじゃダメだね。効果どころか、逆に害が出るよ。」

A 耕治君の場合

「ありゃ〜、全くの ニセモノ だね。見かけではシロートには分からないかもしれないけどね。ありゃ、完全に毒物・劇薬だよ。ただ、ダイオキシンなんかと同じでね、すぐには症状が出ないんだよね。あとで出たときにはもう手遅れだね。」

ということですね。

―――――――――――――――――――――――――
つまり、沖浦君は御本尊について全くシロートであると、自分でもはっきり認めているくせに、その御本尊に関する一切の権能を有する日蓮正宗で完全に否定された方法で自分勝手に拝んでいる。だから功徳は全く積まれない。人格がますますいびつに変形していくのである。

耕治君に至っては、まさに『猛毒である。』と警告されているものをまだしつこく拝んでいる。だから、その顕れとして、誰の目にも明らかだか、態度に妙に落ち着きが無く、異様な様であり、応対において思考のピントがずれてきている。ということですね。
(これ耕治君に限らず、現場で行き会う創価学会員のほとんど全てがそうですね。
また、この掲示板上で今まで論破されて晒しものになっている創価学会員全てに言えることじゃないですかね。)

http://toyoda.tv