| 沖浦対樋田法論を検証する 30 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月17日(火)17時53分58秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ちょうどいいですね、以下の投稿は。 法論中(法論以前も以後も)沖浦さんは 「日蓮正宗の御歴代上人が書写された曼荼羅御本尊を本尊として拝する」 理由を、道理・文証を以って全く説明できていません。 故に、 「本尊はアホが書写しようが、かしこが書写しようが誰だってよい。」 などという、子供が聞いても嘲笑される、途方もない大暴論となり、果ては、 「将来、どこの誰かが書写するだろう。でもその誰かをどうやって決めるのか、全くわからない。」 などという、実に曖昧模糊とした、駄論に陥るのですね。 これつまり、 ■「諸宗は本尊にまどへり」 の姿そのままの悩乱者であります。 要するに、沖浦さんは、本尊とは一体どういう謂れのものなのか、全く分からず、説明もつかず、ただ惑っているだけのことなのですね。 その姿こそ、諸宗=邪宗ですから、沖浦さんは 邪宗徒である証拠 ということであります。 更に、御書に全く説かれていない、日蓮正宗御歴代上人御形木本尊を拝む癖に、開眼の御事は、 ▼「御書にそのものずばりで説かれていないから信じない」と頑迷に言い張るのみです。 つまり、一方では御書に御記述がないことをいともたやすく信じ、その一方、自分に都合の悪いことは御書にその義が明白であるにも関わらず信じない。 このような偏向した姿は、正しく仏法を求める人の態度とは程遠いものです。 日蓮正宗においては、何故御歴代上人の御形木御本尊をまさに大聖人の御魂魄として尊崇するのか明白な教義が存在します。 しかし、沖浦さんにはそのような確たる裏づけなど皆無で、ただ長い慣習の延長線上として拝んでいるに過ぎず、しかし立場は創価学会員であるために、御本尊を書写される御歴代上人は否定しなくてはならない、という、その自己矛盾の中で、全くの反論不能状態のままなのです。 自分が何故、自分が否定している日蓮正宗御歴代上人が書写された御本尊を拝むのか?という唯一の根拠らしきものは、ただ▼「功徳があるから」の一点張り。 しかし、今までの沖浦さんの捏造・虚偽・すり替え・など常習犯の言動を見れは、沖浦さんに、清浄・潔癖・高潔・・・な大聖人の仏法の功徳が全く現れていないことなど、誰が見ても一目瞭然でしょう。 むしろ、古狸・古狐・蛇・モグラ・いたち・スカンク・・・というような畜類に近い行動ではないでしょうか。 今回の法論映像をはじめ、 http://toyoda.tv/okiura.kakiko.htm http://toyoda.tv/okiura.siryo3 http://toyoda.tv/okiura.hituti などの記録は、そういう大聖人様の尊い功徳から程遠い沖浦さんの人間性を末永く残すものであり、手前味噌に自己正当化を図る謗法の者の醜さ・浅ましさ・見苦しさをよく伝えるものとなるでしょう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− > DATE: 2007年 7月17日(火)16時40分30秒 > TITLE: にっちさん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 樋田さんは自分の失点を取り返そうと必死にあがいているのです。 > 既に配信を終え、数万人の人が見、その上で勝敗を判断されています。 > 今更あがけば、見苦しいと評判を落とすのみです。 > > 樋田さんが明確に発言した、 > > 御本尊様のコピーはただの紙だ。 > > 顕師の写真を、耕治が目の前で燃やしててもただの紙切れだ(からかまわない)。 > > この二点は、いくら今更否定しても消せるものではありませんね。 > もし、私の指摘が嘘ならば、既に映像を見た何万もの人たちから、抗議が押し寄せているでしょう。 > > 更に、樋田さんは、 > > 御形木様と言う言葉は御書にない。 > その御書にもないようないい加減なもの。 > > と、明確に御形木様否定。を、しています。 > > 彼は、その場逃れで作り上げた理屈で自分の首を絞めていますね。 > 第一ね、 > > 常住本尊。この言葉も御書にありませんよ。 > > 馬鹿げたお方ですね〜。 > にっちさん。 > 一度全部を見てください。 > 私の言う事が、事実とお分かりいただけると思いますので。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 31 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月17日(火)21時41分35秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 私が少し書けばこうして↓猛然と突っかかってくる姿は、やはり、魚類とか、畜類に近いのでは? よく人は急所を衝かれると、理性を失って思わず感情的になるものですが、沖浦さんの対応などはどうでしょうかね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− > DATE: 2007年 7月17日(火)18時31分24秒 > TITLE: 樋田さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 法論のテーマはね、開眼の証明ですよ。 > > それと、御形木様が和紙に限るの立証です。 > > この点は映像に明らかです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑ここですね。 御形木様が和紙に限る。 というのですから、当然「御形木」が本尊として成立し得る、ということが大前提でなければなりませんね。 そういうこと見越してこの沖浦さんの独善的且つ一方的に押し付けてきた”テーマ”を敢えて受け入れたわけですね。 その経緯は↓ http://toyoda.tv/okiura.wasi さて、であるならば、「和紙」云々以前に、沖浦さんは、何故、御書にない「御形木様」が本尊として成立するのか、まず証明しなければ、その材質が”和紙”であるかどうかなどは、次の問題です。 ですから、前段の論証と沖浦さんへの詰問↓は、未解決のままそのまま沖浦さんの肺腑に突き刺さったままです。 http://toyoda.tv/okiura.kensyo30 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 32 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月17日(火)22時37分48秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 次、いきますか。 しかし、少し踏み込んで書けば大騒ぎですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−> > 私共が、日蓮正宗の法主の書写の御形木様を拝む件。は、今回の内容とは無関係です。 > ですからね、貴方の法論時のお話は、大半、テーマと無関係ですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑これは前段の論証(http://toyoda.tv/okiura.kensyo31)のごとく、 「御書にない日蓮正宗御歴代上人の書写御本尊を拝める理由」が教義的に分からない沖浦さんが、この問題を追求されることから逃げたい一心で、お得意のすり替えをしているところですね。 焦りと、強がりが交錯している、実に微笑ましい場面です。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 33 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月17日(火)22時57分47秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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マ〜、負ける時ってのは、こんなもんですよ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑また出ましたね。 沖浦さんがいかに”勝ち負け”に拘っているかが露呈する言。 とにかく、繰り返し繰り返し、あらゆる手段を講じて、(捏造・虚偽・すり替え・作り話などなど)自分が勝ったことにして欲しい。そう思わせたい。 実に哀れなものです。 本当に”勝った”自信があるのなら、事後に妙に浮かれたり騒いだり、捏造話を担ぎ出してまで勝った勝ったと自賛しませんね。 しかも、こう言いながら、「実は自分は勝ち負けなんて眼中にないのサ。」といかにもさもないことのように演じてみせる言。 ↓ ▼「法論も、何の用意もして行きませんでしたし、バーベキューの用意の方が大変でしたよ。 メインはバーベキューで、法論は行きがかり上ですね。 日蓮正宗の教学などは、たかの知れた貧しいものです。 勝った勝ったと浮かれるほどのものですか。」(引用以上) 実に浅ましい限りですね。 これで62才? ほんと〜に、私は創価学会から早めに脱会できて良かったですよ。 沖浦さんを見ていると心の底からそう思います。 自分の因縁に感謝です。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 34 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月17日(火)23時27分57秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼>
で、法主の本尊云々の件は、何時でも対面でやりますからね。 > 但し、御書くらい覚えてくるんですよ。 > 最低条件ですからね。 > パソコンと資料の山。 > 見苦しいですね〜〜。 > それならね、そのレベルの人、探しなさいませ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑ここも沖浦さんが如何に御書を心肝に染めていないか明白な箇所ですね。 ■普賢・文殊等の等覚已還の大薩?法門を説き給ふとも、経文を手に把らずば用ゐざれとなり。天台大師云はく「修多羅と合する者は録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず」文。(聖愚問答抄上 文永五年 四七歳) 仏説を正確に忠実に伝えるには、経文を手にとって、一字一句間違いのないように、御仏の御心に違わないように心を篭めて勤めなければならない。 これ仏徒の常識です。 暗記することに重きなど置かないのが大聖人の御心です。 大事なことは、文証と道理の双方が整合性を持って大聖人の御心に通じることです。 沖浦さんが一人悦に入って諳んじていた御文は悉く、大聖人の御心と反した用い方ですね。 それは今後、法論の流れに沿って検証していきます。 ■提婆は六万蔵を暗(そら)にして無間に堕ちぬ・是れ偏(ひとえ)に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず。」(御書・三三蔵祈雨事 八七七n) (【通解】提婆達多は六万蔵を暗記したが地獄に堕ちた。これはひとえに末法、今の世を表わしていることである。決して他人のことと思ってはいけない。) 道理の整合性などなく、荒唐無稽な自見・自義・己義のオンパレードの沖浦さんが、如何に御書の御文の一端を諳んじていても、実にこの提婆の流類と言えましょう。 その上で、「御書にない御形木御本尊を何故沖浦さんは拝すのか。」の論題で対面対論ができるというのなら、大いにやりましょう。 しかし、これも沖浦さんの単なる強がり・虚勢に過ぎないことは、格好をつけて自分から言い出した再度の対面対論を様々な理由やいちゃもんをこねて回避するであろう今後の沖浦さんの態度で明瞭となりましょう。 さ、どうします? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 35 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月19日(木)23時30分16秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| やっと時間が少し取れたので、では続きを少々。 > ▼> 今は、法論の検証でしょう。 > なら、無関係の話題はおやめなさい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑そうですね。その通りですよ。沖浦さん。 今後のスケジュールですが、 1、まず、DVDの発表に向けての監修と作業スタッフとの打ち合わせ 2、今回の法論内容の詳細な検証。 3、映像とリンクさせてその破折文をUP。 4、次回の法論の条件調整。 との方向で行く予定です。 ですので、まさに ▼> 今は、法論の検証でしょう。 > なら、無関係の話題はおやめなさい。 と沖浦さん自身が仰るとおりですね。 今回の法論の内容を詳細に検証されて、沖浦さん自身の杜撰な我見の悉くを細かく暴かれるのが何よりもお嫌な沖浦さんでしょうが、別に次回の法論の条件調整が済んだわけでもないのに、いい年をして妙にはしゃいで(見せて)一方的に浮かれて(みせて)も、▼「> 今は、法論の検証でしょう。> なら、無関係の話題はおやめなさい。」ですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−> ▼> 相当見苦しいですよ。 > 貴方、少し世間体考えた方がいいですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑これは法論後の沖浦さんの一連の書き込みを通観するに、むしろ御自分こそ身と口を、年相応に慎まれたほうがもう少しは理解者も出るのではないでしょうか? −−−−−−−−−−−−−−−−−−> ▼> それと、言葉使い。 > 注意しましょうね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑畜類云々の件でしょうか? ■頼基が良観房を蚊・虻・蝦蟇の法師なりと申すとも、経文分明に候はゞ御とがめあるべからず。(頼基陳状 建治三年六月二五日 五六歳) ■名聞 「狐」 疑偏執を致せるは堕獄の基なり。 ■爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし。(教行証御書 建治三年三月二一日 五六歳) などの御文の御心を”心肝に染め”れば、捏造・虚偽・姑息なすり替え・言い訳・言い逃れ・詐欺的行為などなどに現を抜かす謗法者を、古狐・古狸・蛇・もぐら・イタチ・・などと呼称し、その命の本質を分かりやすく指し示すことは実に道理に適っているというものでしょう。 参照 http://toyoda.tv/okiura.siryo3 http://toyoda.tv/okiura.hituti 沖浦さん、この件についてもどうぞ遠慮なさらずに、沖浦さんが”心肝に染めた”という”御文”で反論してみてくださいませんか? それとも、こういったきちんとした検証から逃げたい一心で、一方的かつ手前勝手な条件だけをエゴイスティックに押し付けたまま、何の調整もしないうちに、次回の”架空の法論話”に逃げ込みますか? さて、どっちの方向を選択されてもそれはご自由ですが、沖浦さんの浅はかで姑息な”遁走手口”など、良識ある方々などはいとも簡単に見抜いていらっしゃると思いますよ。 沖浦さん魂胆は見え透いてますね。 相手が到底呑むはずもない条件を一方的に自分勝手な理屈をこじつけて押し付け、それを相手が拒否すれば、法論自体を逃げた!と詰る。 こういった方法論は、「や●ざ」という職業の方々と同類ですね。 その、あまりの未成熟で見苦しい浅ましさに皆さん辟易して、相手にすることすら、馬鹿馬鹿しく思っていらっしゃるのではないでしょうかね。 でも、未成熟な人格の方に向かって「未熟ですね。」と言っても理解できるはずはないですから、沖浦さんが為される幼稚で大人げのない行動は際限なく繰り返されるでしょうね。 それはそれで、それなりの”使命”と”役割”を果たしているのですから、精出して頑張って下さいませ。 私は、私のスケジュールに沿って淡々と”仕事”をこなしていくつもりですので。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 36 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月21日(土)23時35分49秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| CHAPTER 3 御形木は和紙に限るの真偽 1 沖浦さんの主張 ▼「▼2「学会員は御形木御本尊を大聖人様の御命と信じて拝んでいる。」それを▼1「材質が悪いから悪い」、との言い分は酷いのではないか。 例えば葬式で棺桶や位牌の材質について悪口を言うのと同様である。(趣意)」 沖浦さんの引文 ■日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ。(経王殿御返事 文永一〇年八月一五日 五二歳) ■(あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。)「出世の本懐とはこれなり。」(阿仏房御書 文永一二年三月一三日 五四歳) (■仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日 五八歳)) ―――――――――――――――― 検証 1、法論中にも明快に破折しているが、始めから当方は▼1「材質が悪いから悪い」などと言ってはいない。 参照 http://toyoda.tv/okiura.wasi 2、▼2「学会員は御形木御本尊を大聖人様の御命と信じて拝んでいる。」 信じるのは勝手ですが、信じる対象が間違っていれば、いくら純真に信じてもそれは、邪信・妄信・盲信 である。 @ ほとんどすべての学会員は 「大聖人様御真筆御本尊=日蓮が魂(一往、与の義)」 を拝んではいない。 →沖浦さんは、御形木御本尊が「日蓮が魂」である、と証明できていない。 →つまり、学会員は、沖浦さんの説では”日蓮が魂”を拝んでいることにはならない。 A 出世の御本懐であられる戒壇の大御本尊以外の大聖人御真筆御本尊は出世の御本懐ではない一機一縁の御本尊であり、未究竟の御本尊である。 →真の意味での「日蓮が魂」が篭められていない。(再往、奪の義) →戒壇の大御本尊を身口意の三業全てで拝さない学会員は「日蓮が魂」を拝していない。 B 大聖人御真筆御本尊もその所有者が謗法者であれば、御魂は住まわれない。 ■『美作房御返事』 「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」 →仮に大聖人御真筆御本尊を拝しても、日興上人からの正統な唯授一人・血脈相承に背いている宗派が発行している印刷本尊には「日蓮が魂」は住まわれない。 ■身延山付嘱書 弘安五年一〇月一三日 六一歳 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。 →唯授一人・血脈相承の法統を侮蔑・嘲笑・否定する創価学会が発行する印刷曼荼羅には、「日蓮が魂」は住まわれない。 ■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」(←唯授一人・血脈相承の御法主上人を謗る輩は「謗法」) →であるから、「謗僧」という謗法行為を為す創価学会員宅に安置の御形木御本尊には現時では「日蓮が魂」は住まわれない。 C 日寛上人が戒壇の大御本尊を書写された御本尊は一機一縁ではあるが真正の御本尊である。 が、その御本尊を上記のごとくの謗法者の命により、写真撮影し、文字を削除・修正・補筆などし、全体の画質調整、などして好き放題に弄んだ印刷物は、それはもはや日寛上人の書写された真正の御本尊ではなく、ましてや「日蓮が魂」など間違ってもお住みではない。 仏の御魂が住まわれない本尊状のモノは、そのに魔・鬼等が住み着くのである。 ■世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。(立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳) ↑一往国土に約した仰せであるが、再往、その意義を拝考するに、 謗法を為す所には、諸天も居らず、仏・聖人も住まない。 故にその所には、魔や鬼が来たって、災いや災難を起こすのである。 との意であり、これまさに、創価学会発行のニセ本尊(に、限らず、世の一切の邪な本尊)に通じる原理である。 概ね以上の論破により、今段の沖浦さんの主張は全く意味を成さない。 ただの、謗法者の的外れな思い込み に過ぎない。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 38 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月30日(月)20時19分28秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| CHAPTER
3(後半最後の方) 沖浦氏の言 ▼「創価学会が破門になったので、公称1000万人いる創価学会員の御本尊を換えなければならない。(趣意)」 破折 沖浦さんは既にこう発言しています。 ▼「御本尊は誰が書写しても功徳は同じ」 ”功徳が同じ御本尊”を何故わざわざ変えなくてはならないのか? 実に大矛盾ですね。 沖浦さんは今までこれについて正当な理由での返答は全くありません。 ただ感情論を繰り返すのみです。 ここでも、沖浦さんが正当な教義の裏づけのある本尊観を得ていない浅ましさが露呈しています。 しかも、換える必要のない御本尊をわざわざニセ本尊に換えて、その元の”功徳のある御本尊”はその後どうしたのでしょうか? その大半は宗門に返却されていませんから御不敬されていることは確実です。 ”功徳のある御本尊”を御不敬したら仏罰必定でしょう。 沖浦説ではこのように、創価学会のなした行為をきちんと説明できていません。 つまり、ただの、妄見・邪見・賎見に過ぎません。 正当な結論は 「御本尊は大聖人以来の正統な唯授一人・血脈相承の御方が許可された御本尊以外は全て魔仏・鬼神である。」ということです。 また、沖浦さんのように正統な日達上人御書写の御形木御本尊を拝んでいても、その拝む本人に三宝を正しく敬う心がなければ謗法ですから、その御形木御本尊には大聖人の御魂は住まわれないのですね。 ですから、最近の沖浦さんの言動のように、およそ正しく仏法を行じているとは思えないような、狂乱・狂態を演じだすのでしょう。 参照 ↓これは、沖浦さんが今回の法論での敗北感を何とか払拭したいがために、再度の法論を、一方的な条件を並べ立てて当方へ突きつけ、それを承諾しなければ、「逃げた。逃げた。」と騒ぎたいがために一人浮かれ上がって、はしゃぐふりをしていた一連の愚かしく見苦しい投稿へ、最後道理による一撃を打ち込んだ記録です。 http://toyoda.tv/okiura.saihoron ―――――――――――――――― あと、DVD製作料について。 私の映像は、沖浦さんの「一定点のみでの撮影。音声別撮りなし。」の簡略な映像と違い、複数の映像を複合編集、絵合わせし、画質調整、音声との調整、チャプター編集、盤面デザイン・印刷、パッキング、郵送事務等を、私だけの作業ではなく、関係スタッフに人件費を払い進行してきたし今後も進めていきます。 よって、沖浦さんが自己中心的な観点で自分の境涯と生活環境内で推測する金額の範疇には納まりません。 当方にとっては現金額が”実費”=郵送するために必要な実際の経費 であり、沖浦さんの映像レベルに準えて云々される言われは全くありません。 沖浦さんは自分の個人的な基準が全ての人に当てはまるとでも思い込んでいるのでしょうか? だとしたら、それは物の見方、ものの行い方に対しての大きな狂い、歪みであり、およそ、長年正しい信仰を正しく修行した姿ではないですね。 ここでも、沖浦さんは、いつも口癖の ■智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり。 との大聖人の御指南から遠く離れた浅ましく愚かしい姿を露呈しましたね。 やはり、大聖人の御魂が抜けられた御形木御本尊をいくら拝んでも、全く「人間革命」しない、といういい例でしょうか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 39 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月30日(月)23時19分44秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下は沖浦さんがあいも変わらず繰り返している妄見なので、いい機会ですからここで砕いておきましょう。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月30日(月)20時46分9秒 > TITLE: 樋田さん、駄目ですよ嘘ついちゃ > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 家を建てるのに、大工さんの人格はあまり要求しませんね。 > 腕がよくて値段が満足ならOKですよ。 > デモね、あいつは腕もいいし、値段もそこそこだが、人間が気に食わない、だからあいつだけには絶対に頼まない。 > よくある事ですよ。 > 顕師はそれほど創価学会員に嫌われてるんです。 > だから、あいつの書写はいらない。 > こうなるんですよ。 > ただね、私は気にならない性格です。 > 以前、地区部長さんが前の家に見にこられた時、別にどっちでもいいのです。と、顕師書写の御形木様でも取り替えないと告げました。 > 幸い、拙宅の御形木様は寛師書写でした。 > > 今はその御本尊様は耕治が御安置しています。 > 私は実家から持ってきた、父の拝んだ達師書写の特別御形木様を御安置申しあげております。 > > 人間には感情がありますからね。 > いくら功徳が同じでも顕師書写は絶対にいや。 > このような方のご意見も尊重すべきですよ。 > 創価学会は会員のための組織です。 > して当然の配慮ですね。 ―――――――――――――――― ↑例えが全く粗雑で、的を得て居ませんね。 1、「家」は、ある程度の技術があれば、誰でも作れる。 特に誰か一人に限定されるものではない。 それに対して末法の一切衆生が即身成仏する為の唯一の導き主が「御本尊様」であり、その三身即一身・一身即三身如来の御魂魄は日蓮大聖人様御一身にましますのであり、その御一身はそのまま人法一箇の戒壇の大御本尊様である。 その戒壇の大御本尊の御魂魄こそ ■「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(←人法一箇の戒壇の大御本尊様こそ究極の仏宝・法宝である) ■「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、(中略) 血脈の次第 日蓮日興」(←日蓮大聖人様一期の弘法の究極の法体こそ戒壇の大御本尊様である。) と次第して御歴代上人のみに伝持されている。 であるから、御歴代上人以外の誰人にも御本尊に関した一切について何の資格も権能も無いのである。 故に、沖浦さんの ▼「阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。」→誰が書こうが”御本尊さま”になる。との説は、全くの無知蒙昧な邪説・痴説です。 ―――――――――――――――― 2、次に、この御歴代上人の中で、ある特定の方・・・特に日顕上人を嫌うなどという蛮行は、 ■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」 との御指南の通り、大謗法である。 その謗法根性の者がいくら御歴代上人が御書写された御形木御本尊を拝しても、 ■「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事) との大聖人のお言葉の通りに、謗法者のところには大聖人様の御魂魄は住まわれない。 であるから、大聖人以来の正統な唯授一人・血脈相承によって大聖人様の御魂魄を伝持される日顕上人(もちろん、その他の御歴代上人も)を憎んでいる者が持ついかなる御本尊にも大聖人様の御魂は住んでいない。 つまり、全くの無功徳である。 そういう者に現われる利益らしきものは、以上の道理から言って、間違いなく「魔の通力」による現象である。 ―――――――――――――――― 3、また、沖浦さんは ▼「魔の通力が17年(?)も続くとは思えない」と言っていましたが、それは単なる錯覚である。 麻薬は、その使用暦が何十年でも、打った時は「いい気持ち」になるのであり、それが10年目だろうが20年目だろうが変わりはない。(だろう。経験がないので。) しかし、年数経てば経つほどに心身・経済・人間関係共にボロボロになっていく。 沖浦さんが、ここ数年に亘って、およそ一般社会人としては異常としか思えないような奇異な言動を多く為すことは、まさに魔の通力に誑かされて、目先の利益らしき現象に目が眩んで、間違った信仰姿勢を正しいと信じ込んでのめりこんで、その実、暗々裏に、徐々に”人間性そのもの”が蝕まれている姿ではないですかね。 ―――――――――――――――― 4、また、創価学会発行の日寛上人の御本尊を撮影・文字改竄・印刷・一枚刷りの掛け軸に見せかけた模造品は、 ■釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。 との仰せの、「血脈の次第 日蓮日興」と次第する御歴代上人に違背している「非法の衆」が勝手に作ったモノですから、”本尊”どころか、全くの魔仏・鬼神ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 40 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月31日(火)08時19分21秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| とうとう、自分では全く反論できないので、人頼みですか?沖浦さん。 「獅子は伴侶を求めず」 とか言ってませんでしたかね? こういう主張に一貫性がないところも、頭破作七分という現証ですよ。 正しい信仰をしていない証拠ではないでしょうか。 では、少々時間があるので、続きを砕いておきますか。 ―――――――――――――――― > 取り替えた後の顕師書写の御形木様はどうなったか? > 創価学会の広報にお聞きなさい。 > 私は係りではありません。 > 推測ならできますよ。 > おたきあげにしたか。 > まとめてどこかに保管してあるかどっちかですよ。 > 後はご自分でお調べなさい。 > 日蓮正宗はそのような場合、おたぎあげと言う、焼却処分をしてるでしょう。 > その点もお確かめ下さい。 ―――――――――――――――― 日蓮正宗から下付された御本尊を日蓮正宗の許可・承認などなく、勝手に、「焼却」すれば、間違いなく大謗法ですね。 また、同様に、日蓮正宗から下付された御本尊ですから、きちんと御安置せず日蓮正宗の許可なく長期に亘って「保管」する行為も、やはり間違いなく謗法です。 また、日蓮正宗では、返納された御本尊は、大聖人様以来の唯授一人・血脈相承によって、御本尊に関する一切の権能を伝持される御法主上人により「閉眼」され、御法主上人の御指示により御焚き上げされており、創価学会などの御本尊に関する何の資格も立場も知識も信心もない者どもがなす、「焼却」行為とは天地雲泥の相違である。 ―――――――――――――――― > 後の貴方の愚論、法主の認可云々は、貴方方の内部でどうぞ盛り上がってください。 > 他宗の取り決めにあれこれ詮索をする趣味はございません。 ―――――――――――――――― ↑実に論が粗いですね。 創価学会発行の模造掛け軸を焼却しようがどうしようが、それは創価学会の勝手だが、創価学会は日蓮正宗の御法主上人が下付された御本尊を勝手に焼却か、無断長期保管しているのである。 人の宗派の御本尊を勝手に燃やしているのである。 そこらじゅうを放火をしまくっておいて、「お宅の国の法律には興味はございません。」とほざいているのと同様の無恥厚顔ぶりですね。 こういう道理が分からないから、およそ通常の社会人から見て、また、良識ある創価学会員から見ても沖浦さんの言動は異常なのではないですか? (先日、千葉の創価学会婦人部と名乗る方から、沖浦さんの言動は創価学会員として外れ過ぎており、相手にしないでください。沖浦さんは創価学会内でも異常視されていて、まともな会員からも顰蹙ものですから。との連絡が私の知り合いのところにありました。それも複数回もだそうです。この方が、本当に創価学会婦人部の方か調べようもありませんが、創価学会の中でもそのような意見をもたれる方がいると考えても不思議ではないほど、沖浦さんの言動は常軌を逸してますね。) あっ、時間だ。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 41 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月31日(火)10時57分40秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 少し注意して見ていれば、書けば書くほどに矛盾だらけですね。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月31日(火)08時11分22秒 > TITLE: 樋田さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 法論なんかで布教は出来ませんよ。 > > 所詮、今朝の婦人部のようなお方がどれほどいらっしゃるかです。 > > 私も貴方もその点を心から反省すべきですっよ。 ―――――――――――――――― 1、↑その布教できない”法論”を自己中心的な一方的条件を押し付け、再度執拗に進めようとしているのは、沖浦さん自身ではないですか? 参照↓ http://toyoda.tv/okiura.saihoron 実に悩乱極まったりの醜い姿ですね。 これも、やはり正しく仏法を修行していない者の悪果報ですかね。 2、また、沖浦説でいえば、布教もできないものに現を抜かす姿は、「遊戯雑談」ではないのですか? しかも、日興上人は ■一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。 と仰せであり、大聖人様におかれても、諸宗の者との問答(←法論)において巧みな者はお褒めであられた、とお示しですね。 しかも、日蓮大聖人は ■所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。(極楽寺良観への御状 文永五年一〇月一一日 四七歳) と仰せの通り、邪宗邪義謗法の者どもとの公場対決(法論)に並々ならぬご決意であられたことは明白です。 ▼法論なんかで布教は出来ませんよ。 などという沖浦さんの暴言はまさに日蓮大聖人・日興上人へ唾を吐き付ける、臭言といえましょう。 こういうところからも、如何に沖浦さんが大聖人の仏法を自分勝手に怪釈し、我意我見を恣にしているか、また馬脚を現しましたね。 ■一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。 沖浦さんが、■「極理を師伝」されていないから、かように■「御抄を心肝に染め」ていないかが実によく分かります。 そのような沖浦さんが如何に仏法を語っても、それは人を救う道などには決して成り得ませんね。 ただ、慢心の心で仏法を曲解・邪解して、同じ妄執を一人繰り返し繰り返し遠吠えしているだけの見苦しい姿ですよ。 ▼「貴方もその点を心から反省すべきですっよ。」 まさに、そうすべきですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 42 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 7月31日(火)15時00分9秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 再法論の件について。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月31日(火)11時29分43秒 > TITLE: 樋田さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 貴方ね、見苦しいですよ。 > > HPであれほど法論を望む、逃ればそちらの負け。 > 貴方言ってますよ。 > > 法論実現へのお願い > > 日蓮正宗僧俗の皆様へ > > もし、皆様の地方で、邪義を巻き散らかしている学会・顕正会・正信会等の幹部で、ビデオ公開を前提とした法論を受けて立つような方がいらっしゃいましたら、是非にでも粉砕させて頂きたいと存じますので、もし、そのような機会がございましたらお声をかけてくださいませんでしょうか。 > > 特に学会については、地域の学会幹部で邪義の理論的指導に当たっているような慢心の教宣部を粉砕し、その映像を地域に頒布し普及すると、学会の魔の勢力が弱ってきて、不思議に脱会者も出てきます。 > また法華講員にも活力が漲ってきます。 > > > ホラホラ、法論したいから誰でもいいいから、何処からでもかかって来い! > > 言ってるじゃないですか。 > > 相当卑怯ですね、貴方。 > > 私はね、何百回も法論は無意味、布教の役には立たない。 > こういい続けています。 > 貴方との法論もね、私は貴方の幼稚な邪義を砕くぐらい朝飯前ですよ。 > しかしね、それで出かけたのではありません。 > 会場の皆様方とお話がしたかったんです。 > 何度も言ってるでしょう。 > だから、貴方に日蓮正宗の末寺をご用意いただきたいと言いました。 > でも貴方はいやだと言われた。 > 折角のチャンスです。 > 逃げられて棒に振るのは愚かですよ。 > だから、貴方の条件をいけいれました。 > > ロムに残ってるでしょう、いきさつはね。 > > 貴方ね、天下に法論要請して逃げたんです。 > で、まだ言い訳してる。 > > 情けない!!!! > > >もし、そういうことで少しでもお役に立てることがあれば馳せ参じますのでよろしくお願いしたします。 > > 差し出がましいことを申し上げましたが、よろしくお願い申し上げます。 > > > 喜んではせ参じる人がね〜〜〜。 > 条件闘争??? > > ふ〜〜〜ん??????? > 変な奴。 ―――――――――――――――― ↑いいですよ。 では、再法論をしましょう。 ただし、条件は前回同様。 何故、変える必要がありますか? 私は、前回の条件で十分ですよ。 変えなければならないとすれば、それは沖浦さんが 「前回の条件では勝てなかったので、もっと自分に有利な条件にしなければヤバい。」 と焦っていることに他ならないではないですか。 まさか、あれほど「勝った、勝った、」と浮かれてはしゃいでいた沖浦さんが、そんな弱気で姑息なことを思っているはずありませんよね? それほど”大勝”したのなら、その条件のまま、何もわざわざ変える必要はないでしょう。 変えることに固執すれば、やはり、 「沖浦さんはビビッて、自分に有利な条件をごり押ししているんだ。」 と周囲に思われてしまいますよ。 それは人の評価を殊に気にする沖浦さんにとっては屈辱的なことではないですか? さ、では前回の条件で再度法論しましょう。 しかも、テーマは 「御書にない御形木御本尊を何故沖浦さんは拝すのか。」 これを沖浦さんが御書で論証していただく。 ここから始めましょうね。 順番ですから。 では、ご返答をお待ちしてますよ。 今夜12時まで。 もし、この条件を飲めない場合は、沖浦さんが尻尾を巻いて逃げた。ということで末永くその記録を残しますね。 日程は九月の第一日曜の午後一時から三時間、で結構ですよ。(もし今見落としている大事な案件があれば早いうちに報告しますので。) さ、ご返答ください。 沖浦さん、最近のあなたの言動を見ていると、口から出まかせを言って、どんどん自分を追い込んでいきますね。 ■わざわいは口より出でて身をやぶる。(十字御書 弘安四年一月五日 六〇歳) そのままの醜態ですね。 ほととぎすさんの件といい、ころころどんぐりさんの件といい、そしてこの再法論の件、・・・ 社会人として、責任のある行動をお願いしますね。 よろしく頼みますよ。 創価学会員としても恥ずかしくない行動をね。 他の良識ある創価学会員に迷惑をかけないようにね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 43 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)10時18分40秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 随分と慌ててますね。沖浦さん。 ではこれからいきますか。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月 1日(水)07時11分38秒 > TITLE: 流れるな〜〜 > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 意地ったてね、こっぴどく叱られてんでしょうね、おそらく。 > > お前自分で言ったこと責任取れ!! > > 掲示板見てる創価学会員で、大石寺に苦情言った人大勢いるそうですね。 > > 樋田さん、HPで法論望むって、大口叩いてどうして沖浦さんから逃げるんだ!! > > 相当言われたんじゃないでしょうかね〜〜。 > ▼1「> だから、自分で捏造した御書に無い御形木様を持ち出して、自分たちも拝んでるくせに、何故創価学会員は御書に無いものを拝むんだ? > なんて、難癖以前のテーマを持ち込んでるんですよ。」 ―――――――――――――――― ↑流れを読めない。典型ですか。 それとも捏造常習犯ですね。 ことの経緯を追ってみましょう。 @ 当方らの論述 「開眼供養」 と御書には明確にあり、道理からそれは、元物質であるところの「本尊」は必ず法華を心得た智者が開眼供養しなければ、真の生身の仏=三身即一身の如来=末法の御本尊 に成り得ない。 参照↓ http://toyoda.tv/okiura.siryo2 A 沖浦さんはこの論証に一言半句とも御文に基づいて反論できていない。 ただ、 ▼「あなた方がそう解釈するのなら、それはそれでいいでしょう。とやかくは言いません。でも私にはそうは思えない。(趣意)」 と反証できない窮地をごまかして逃げているだけですね。 因みにこの▼「」の主張は、実は既に論理破綻している。 つまり、http://toyoda.tv/okiura.siryo2 の論証の結論は ●「開眼供養のない創価学会発行の模造掛け軸は魔仏・鬼神の類である。」ということであり、 この論述を▼「あなた方がそう解釈するのなら、それはそれでいいでしょう。」と認めるとするならば、この ●「創価学会発行の模造掛け軸は魔仏・鬼神の類である。」ということを容認・是認したことになる。 その上で、▼「でも私にはそうは思えない。」と言ってみたところで、開眼の論証を正当に反論できず、ただ、感情論として承認できない。と自らの反論不能状態を明証しているに過ぎない。 実に幼稚・稚拙な遁走理論ですね。 沖浦さん、理解できますか? 無理ならそれでもいいですが。 一般の良識ある方々にことの経緯を確認していただくだけで十分です。 その上で、沖浦さんがどのようにまた詭弁を並べ立てるかを見ていただいて、 「創価学会員とはかくも姑息で卑怯・卑劣、不誠実な人たちの集まりなんだ。」 と認識していただくことで、沖浦さんの”役目”は十分ですからね。) B 沖浦さんは、 ▼「”曼荼羅御本尊を開眼供養しなければ本尊と成り得ない。”とのそのものズバリの御文がない限り信じれない。(趣意)」 と頑迷に言い張るので、道理が理解できないということは確定的となった。 C そこで、当方は、 ●「御書に「日興上人門流の貫主上人が書かれた曼荼羅を御本尊として拝むこと。」というそのものズバリの御文はない。なのに何故沖浦さんはその御文にないことを敢えてするのか? 開眼供養については御文にそのものズバリがないから信じれなくて、貫主上人の曼荼羅御本尊については御文にそれこそ全くその御記述がないのに信じる。 自分に都合のいいことは信じ、都合の悪いことは信じない・・・これは自己矛盾ではないのか?」 と詰問しているのですね。 当然、法論中も含め、沖浦さんは未だに返答不能のままです。 D そこで、沖浦さんはこの反論不能の窮地を、すり替え、誤魔化すために、▼1「」などと捏造話を持ち出して、ことの経緯に詳しくない人たちの目を眩ましてしまおう。 とこういうことですね。 実に浅ましい、見苦しい、姑息で醜悪な心根と言えましょう。 創価学会に長年居ると、こういう醜い姿になってしまうのでしょうか? それとも、もともと沖浦さんはこのように卑劣・卑怯であり、それが創価学会の教え(例えば、「口八丁・手八丁でよ。うまくやるんだ。」「ウソも百ぺん言えばほんとになる。」(趣意)池田大作さん発言・社長会の記録より。などなど)によって磨きがかかってしまったのでしょうか? はたまた、もともとは沖浦さんは高潔の快男児だったが、創価学会の上記の教えによってかくもこのように卑怯・卑劣・姑息な人格となってしまったのでしょうか? 実に、沖浦さんは創価学会を実践した”実験証明の素材”としては貴重な存在ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 44 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)14時05分17秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さてさて、今回も教義的な無知 のオンパレードですね。 ―――――――――――――――― ▼> 導師曼荼羅。 > 御書に無いですよ。 > で、自分たち葬式で拝んで平気なんです。 ―――――――――――――――― ↑法論中にもはっきり明言していますが、日蓮正宗において御歴代上人の書写御本尊を拝する裏付けは教義的に明白です。 そもそも、御本尊の御事については、様々な機根の衆生へ向けてのお手紙・破折文・論文等が中心の御書には、その全貌は説かれていない。 そのほんの一例 1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか? 2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか? 3、 十界の御配列にはどなたまでが存して、どなたからがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになられているのか? などは、全く御書には明記されていない。 しかし、 ■「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、(中略) 血脈の次第 日蓮日興」 このように大聖人様は明白にご自分の仏法の全てを御一人の方へ唯授一人・血脈相承なされている。 であるから、大聖人様一期の弘法の究極の御法体であらせられる”御本尊”の御事は、御書の御文の表には表記されてなくても、ただお一人日興上人には伝持・相伝されているのである。 大師匠である日蓮大聖人が為されたことを御弟子である日興上人が為されない、などという道理はあろうはずはなく、この ■「血脈の次第 日蓮日興」との唯授一人・血脈相承はその後次第して御歴代上人へと伝持・相伝されるのである。 上記の一例で挙げた「万年救護の御本尊」の御相貌の重大事は御書にはないが、現実に戒壇の大御本尊をはじめ他の御本尊と違う御相貌の万年救護の御本尊が存在するごとく、導師曼荼羅御本尊の意義や相貌についてのそのものズバリの御文が御書に発見できなくても、導師曼荼羅御本尊の意義が「ない」などとは断定できないのである。 それを、ただ「御書にそのものズバリの御文が書かれていないから」という極めて浅薄・幼稚な理由で否定すること自体が、沖浦さんの無知・軽薄さを浮き彫りにしているのですね。 その上で、未来御本尊・導師曼荼羅御本尊については既に論証し切ってある。 参照↓ http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno15.htm さ、沖浦さん。 少しは教義的に高度な反論してくれませんか? あまりに低劣で少々退屈ですよ。 今日の評点 ”もっと、頑張りましょう。” |
| 沖浦対樋田法論を検証する 45 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)15時15分8秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 次もあまりに稚拙なので一気に行っちゃいますか。 ―――――――――――――――― > ▼> 御形木様ね御書にあります。 > 『一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞え有り所謂日向日頂日春等なり。』 > (富士一跡門徒存知の事) > > この通りですよ。 > 御形木様を軽々に下付するな。との意味です。 > 下付の是非はともかく、御書にあるんですね。 > この富士一跡門徒存知の事は、創価学会版の御書にあります。 > 樋田さんと引用OKで決めた中に入ってるんです。 > > 興師はね、御本尊様は書写して授与せよ。 > こう言われてます。 > やすやすと信心の無い人に御形木様にして下付するな。 > そう言う時代だったんですね。 > 興師以外の人は粗末に扱ったんですよ。 > それを戒めておられるんですよ。 > > 御形木様は御書にある。 > 事実ですね。 > 今、私共は時代が変わり御形木様をいただけます。 ▼『> 興師のご無念を思えば、自分の命と同じに大切にすべきです。 > たとえ、他宗の御真筆でも、コピーにとってヒラヒラさせていい道理がありません。』 ―――――――――――――――― ↑ほとほと、御文が読めていませんね。 古文の読み方がそもそもなっていません。 『一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞え有り所謂日向日頂日春等なり。』 > (富士一跡門徒存知の事) の「御筆の本尊」とは大聖人様御真筆御本尊 のことであり、この御文の意義は、その「御真筆御本尊をそのまま版木に彫って刷った本尊」のことを云々しているのですね。 沖浦さん、大丈夫ですか? 御抄を間違って怪釈して心肝に染めてはいけませんね。 しかも今回のは、沖浦さん独自の己義による怪釈 などというレベル以前の、ただの古文を読み違えた、無知による誤読ですね。 当方が沖浦さんに詰問しているのは、 「(大聖人様御真筆御本尊の御形木ではない)日興上人門流の御歴代上人が書写された曼荼羅御本尊を拝む理由は? そのことを表している”そのものズバリの御文”は御書のどこにあるのですか? そのような御文はないですよ。 何故沖浦さんは御文に”そのものズバリ”書いてないことを信じるのですか? では「開眼供養」については”そのもズバリの御文”はなくとも、道理の指し示すところ、間違いなく「本尊の開眼供養」を御指南であるにも関わらず、何故信じないのですか? それは、ただ、それを認めたら、自分たちの正当性が崩れるから、認めたくない。それだけのことではないのですか? それは、正しく仏法を学ぶ者にはあるまじき、歪んだ醜い信仰姿勢ではないのですか? そういう正しく真っ直ぐに仏法の道理を見れない者を 謗法 というのではないのですか? そういう謗法行為を長年しているから、言動が実に奇妙奇天烈、捏造常習犯などになってしまったのではないですか?」 等々なのですね。 そして、最後の▼『』などは、全く意味不明・支離滅裂です。 日興上人は「たとえ大聖人の御真筆御本尊の形木といえども、法主である日興上人の許可もなく軽々しく”本尊”として信心のない者や謗法の者どもに授与してはならない。」 との御心であり、むしろ、勝手に作る形木本尊を否定しておられる。(それは創価学会発行の模造掛け軸も同様の代物) それは次下の ■「日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。」 との御指南をよくよく拝すれば自ずと領解できる。 さて、当方がしたことは、ネット上でアップされている日蓮大聖人御真筆御本尊の写真をそのままプリントアウトして、 沖浦さんの矛盾を突くために、それを「資料」として提示した。 ただ、それだけのことですね。 (↑ここも沖浦さんは捏造常習犯で摩り替えているが、私は大聖人御真筆御本尊を直接そのまま手にとってコピーしたのではない。 沖浦さんは、当方の実際の行為と全く違う行為に摩り替えて、あたかも当方が悪行を為したように仕立て挙げている、実に姑息で醜怪な手口ですね。) しかも、別に、焼き捨てたり、破り捨てたり、殊更に粗雑に扱っている訳でもなく、ただ普通に資料として提示した。 それだけに過ぎません。 また、ただの「資料」であるだけで、「本尊」としては扱いません。当然です。 それについて教義的に蒙昧な沖浦さんが教義的な意義付けも分からないまま、ただ過剰に反応した。 しかしこれは実は演技・サル芝居であって、この本尊観においての矛盾は、今までネット上でも再三沖浦さんは反論不能になっており、また、以前から、「身延の土産本尊を持って来い!」と当方へ言ってあったから、 「もし本当に持ってきた場合には反論できない。 しかし奴は必ず持ってきて追求するだろう。 よし、ならば、ただどやしつけて誤魔化してしまおう。 しかも映像的には何でも叱っている格好にしたほうが有利に見えるから、丁度いい。」 との姑息な配慮により、予めの予定演習の通りに「演じて」見せた。 そして、してやったりと、法論後も、教義的な意義など皆目説明不能だが、とにかく「樋田が悪いことをやった」と言い続けてそう印象付けてしまえ。「ウソも百ぺン言えばほんとになる。」って池田先生だって言ってるし。 と、そういうシナリオですね。 沖浦さんを私は既にネット上で長く破折し続けており、その対応・反応の仕方から、沖浦さんの行動心理は大体読めますよ。 さ、沖浦さん、この投稿後も、教義的にはきちんと反論も出来ずに、喚き慌てふためいて見苦しい、繰り返し投稿をしているようですが、破折されているにも拘わらず、同じ内容を再び掲載するのは、 「自分はもはや反論不能。 だから反論文が書けない。 しょうがないから、同じ投稿を何度も載せて、ことの経緯を知らない閲覧者の目だけでも眩ましておこう。」 との見苦しい敗残の姿ですよ。 さ、頑張って、当方からの反論には更に論を進め、少しは進化した形で再反論してくださいな。 よろしくお願いしますよ。 創価学会の皆さんをがっかりさせないよう、少しは踏ん張って頑張って下さいよ。 創価学園が甲子園に行くんでしょう? さ、沖浦さん、踏ん張り時ですよ。 あ、それと、不思議なのは、”白馬でペンション経営”といえば、この時期、もし繁盛していれば猫の手も借りたい位忙しいはずですよね。 そこの店主が毎日こう頻繁にパソコンに噛り付いていて御商売大丈夫ですか? 奥さんに仕事の負担がいっていませんか? 耕治君も今は居ないのでしょう? 超多忙の中、このように書き込みに精を出してくださいまして、本当にご苦労様です。 しかし、お体にはお気をつけて。 ”毎日満室で大繁盛のペンション経営”と拝察しますが、投稿している時間中の業務はそれ以外の時間帯に激闘してこなさなくてはなりませんでしょう? 老婆心ながら心配した次第です。 それでも、沖浦さんの”教義的な反論”は楽しみにお待ちしていますので、 トップページの 沖浦vs樋田法論を検証する 1 検証2 御形木を本尊とする理由が説明できない沖浦氏 番外編 沖浦氏、DVD編集の言いがかりを謝罪 非通知電話の虚偽・捏造を追及する 今回の敗北をごまかしたい沖浦氏の荒唐無稽な再法論話への足掻きを哂う 魔の通力 開眼の論証 論題「御形木様が和紙に限る」の経緯 御書にない「御形木」を拝む沖浦氏の矛盾 御書にない「御形木」を拝む沖浦氏の矛盾2 などなどについて、”教義的に”反論してくださいませ。 よろしくお願いします。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 46 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)17時07分16秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| これも、切り刻んでおきますか。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月31日(火)18時07分28秒 > TITLE: こう言うことです > NAME: 沖浦克治 MAIL: ―――――――――――――――― > 未だにね、嫡々一人。なんて浮かれ騒いでる人はね、どうしようもない低レベルですよ。 > 昔、キリスト教破折でよく言ったじゃないですか。 > 処女が子供産む道理がない! > 同じレベルですよ、この二つはね。 ―――――――――――――――― ↑実に愚昧ですね。 1、■「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、(中略) 血脈の次第 日蓮日興」 との御指南の意義が”心肝に染まって”いない証拠ですね。 大聖人様が大聖人の仏法の全てをただ一人に相伝された。 つまり、大聖人の仏法は唯授一人で相伝・伝持される。 これが大聖人の御遺志ですね。 そのことを端的に表されたのが、 ■「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n) との御指南ではないですか。 その大聖人様の御遺志を大聖人に真に信伏随従された日興上人が破るはずがないではないですか。 ■今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、日蓮に違はず宣説すべきなり。(就註法華経口伝 上) であるから、この唯授一人・血脈相承の御大事はその後の御歴代上人へ次第して伝持・相伝される。 当然の理ですね。 この至極当然の道理と現証が信じられないから、沖浦さん、今実に社会人として無軌道となり、捏造常習犯と化してしまうのですね。 2、処女懐胎と同一視について。 これも、まことに道理を弁えない痴見ですね。 ”処女が懐妊する”などとは、全く科学的にもありえない、神秘性を強調するために作為的に捏造された偽説である。 一方、大聖人様以来の、「唯授一人・血脈相承」は、一人から一人へ相伝される。と定義される現実の行為であって、別に、科学的にも否定され得る事象ではない。 その当事者である御歴代上人以外にはその内容が知り得ない。 それだけのことである。 だからといって、その存在行為自体を否定出来ない。 世間でも、一子相伝など、一人から一人へ相伝される秘事はままあることである。 沖浦さんがいくら逆立ちしてもその内容は知り得ないが、だからといってその存在を否定できる根拠を沖浦さんは持っていない。 信じる信じないは沖浦さんの勝手であるが、日蓮大聖人様が明確に定められた、仏法伝持の基本形を信じなければ、それ相応の報いを受ける。それだけのことですね。 その報いの形として、捏造常習犯 などという歪んで穢れた人格が形成されてしまうのでしょう。 よくよく反省すべきでしょうね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 47 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)17時41分42秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下は法論中にも論点と外れたところで長々と冗長に駄論を呟いていたので、ここで潰してしきましょう。 ―――――――――――――――― > その上、戒壇様本懐論でしょう。 > 御書の何処にもありませんね。 > で、盲信してる。 > > このレベル、御書無理ですよ。 > 簡潔な道理ですね。 ―――――――――――――――― ↑沖浦さんの主張、 ▼「戒壇の大御本尊の根拠とする、聖人御難事 は十月一日の御書であり、戒壇の大御本尊の銘記は十月十二日であって、本懐を遂げた、とするには、時系列が不自然で信じられない。(趣意)」 いとも簡単ですね。 熱原の法難が惹起したのは、弘安二年の九月二十日。 大聖人様はいよいよ御本懐を遂げられるべき時を観ぜられた。 一方、戒壇の大御本尊は楠の原木に直にお認めの御本尊である。 この楠の原木を半切りにして、表面を整えて、御曼荼羅を御認めになられるまでには相当の日数を要することは誰が考えても理解できる。 一日や二日で俄かに建立され得ない工程が必要なのである。 また、御本尊への日付の銘記は完成した時であるはずである。 その日付が弘安二年十月十二日である。 つまり、楠の原木を加工し始めて戒壇の大御本尊様として完成成就した日が、この日である。 この時点から遡ってみれば、熱原法難が惹起した弘安二年の九月二十日直後から、上記の作業を開始しなければ間に合わないであろう工程である。 つまり、聖人御難事をお認めの十月一日は、まさに戒壇の大御本尊を建立している真っ最中であった、ということであり、時系列として全く矛盾はないのである。 沖浦さん、こんな簡単なことが分からないようではダメですね。 > このレベル、御書無理ですよ。 > 簡潔な道理ですね。 沖浦さん、ほんとその通りですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 48 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 1日(水)21時11分10秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さん、ぜんぜん進歩がないですね。 やはり功徳の途絶えた題目行では邪智ばかりが盛んになって、正知が湧きませんか? ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月31日(火)18時01分13秒 > TITLE: 自分たちはどれほど悪し様に罵ってもいい、だが、他はゆるさない! > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > >例えばここ2週間分に目を通しただけでも、創価学会と対立する日蓮正宗本山や反学会の人物に「毒虫」、「阿呆」、「糞坊主」、「鬼畜」、「極悪」、「害虫」等など。 > およそ思いつく限りの呪詛の言葉を並べ立てた結果、到底、宗教団体の機関誌とは思えない聖教新聞独特の紙面が連日、刷り上がっているわけだ。 > > ところがここの管理人は、明確にこのように自分の卑劣な表現を正当化しています。 > > (などの御文の御心を”心肝に染め”れば、捏造・虚偽・姑息なすり替え・言い訳・言い逃れ・詐欺的行為などなどに現を抜かす謗法者を、古狐・古狸・蛇・もぐら・イタチ・・などと呼称し、その命の本質を分かりやすく指し示すことは実に道理に適っているというものでしょう。) > > > 皆様方どうですか、この卑劣漢たちの集合体の日蓮正宗に魅力ありますか? 引用以上 ―――――――――――――――― ↑これなども既に破折され切っているのに、それに正当な御文を以って反論できないまま、ただ同じ内容を繰り返し書き続ける・・・という、まさに反論不能状態そのままの体たらくですよ。 三烈士云々もいいけれど、もう少し、頑張りましょうね。 破折再掲 ―――――――――――――――― ▼> それと、言葉使い。 > 注意しましょうね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ↑畜類云々の件でしょうか? ■頼基が良観房を蚊・虻・蝦蟇の法師なりと申すとも、経文分明に候はゞ御とがめあるべからず。(頼基陳状 建治三年六月二五日 五六歳) ■名聞 「狐」 疑偏執を致せるは堕獄の基なり。 ■爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし。(教行証御書 建治三年三月二一日 五六歳) などの御文の御心を”心肝に染め”れば、捏造・虚偽・姑息なすり替え・言い訳・言い逃れ・詐欺的行為などなどに現を抜かす謗法者を、古狐・古狸・蛇・もぐら・イタチ・・などと呼称し、その命の本質を分かりやすく指し示すことは実に道理に適っているというものでしょう。 参照 http://toyoda.tv/okiura.siryo3 http://toyoda.tv/okiura.hituti 引用以上 ―――――――――――――――― さ、沖浦さん、頑張りましょう。 何度も進歩のない繰り返し投稿を続けていると、皆さんから顰蹙されますよ。 人の評価を特に気にされる沖浦さんとしては、そういう批判的な評価は、毛筋ほども耐え難いのではないのですか? さ、待ってますよ。 しっかり反論してみましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 50 とうとう50ですか〜 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 2日(木)00時20分8秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 最早、この捏造常習犯には正当な道理は通じないようですね。 条件は一方的に押し付けるは、日程は自分の都合だけで決めるは。 なので、そういう非常識な世間の道理から外れたエゴイストにまともな交渉は無理ですから、やはり教義的な問題に戻り、滅茶苦茶な自義、沖浦さんの以下の痴見を砕いていきましょう。 ―――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月30日(月)22時51分57秒 > TITLE: アホと書写の資格の関係性です > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > >沖浦さんは阿呆が書写しようが蓮祖、ご図顕の御本尊と言っています。 > > 今更なにを言ってるんですか? > 映像見なさい。 > 顕師はアホ。 > 明確に言ってますよ。 > だからアホか賢いか?は、書写の資格と無関係だと思っています。 ―――――――――――――――― ↑ここも捏造常習犯ですね。 ウソを日常的に言い続けていると、自分がウソを言っていると自覚しなくなるのでしょうね。 実に哀れなご老人ですね。 ■阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。(投稿日時:2006/02/09(Thu) 04:13) この言は紛れもない沖浦さんの発言です。 この沖浦説だと、この世のどんな”阿保”(沖浦言)が書写した文字曼荼羅も”御本尊さま”になってしまう。ということですね。 すると、「阿保」であるかどうかは別として、「かしこ」が書写してもいい。→誰が書写してもいい。ということであり、 以下の思いつくままに列挙した全ての人が書いてもいいことになる。 そこらへんの小学生の洟垂れ小僧 精神病棟の患者 禅宗の僧侶 ローマ法王 沖浦さん(自分で書いて自分で拝めば我見の塊である沖浦さんのこと、さぞやお似合いでしょう。) 沖浦耕治君(息子が書いた曼荼羅をお父上の克治さんが拝む・・これもまたおつなものですね。) 立正佼成会の地域のおばさん。 ヘッドギアを被ったアーレフの信者 今回問題のタリバンの兵士。 サラ金で行き詰まったおじさん。 パチンコ狂のアニキ 麻薬中毒患者 強盗殺人で死刑が確定した死刑囚 ・・・・・ まっ、きりがない。 常識として↑このような”もの”が本尊足り得ない事は、誰にでも明白でしょう。 つまり、沖浦さんの本尊観などはこの程度の軽薄・稚拙・愚昧・我意我見・論理破綻・口から出まかせ・荒唐無稽・支離滅裂・・・・で、実は何も分かっていない。ということですね。 こういう滅茶苦茶な思考回路を頭破作七分というのですね。 信仰の根本である「本尊」にかくも迷って、何も分かっていない沖浦さんが、それ以下の法義に、全く暗く、我見を述べ立てるしか道がないのも、確かに頷けますね。 このような沖浦さんが御書を云々するなど、実に愚の骨頂ですね。 日蓮正宗の教義の上っ面を見よう見まねで真似て、さも仏法らしく装っても、それは、サルが人の仕草を真似て、見よう見まねで服を着たり、靴を履いたり、帽子を被ったりしているようなものです。 実に浅はか。 まさに猿真似・猿知恵といえましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 51 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 6日(月)15時20分2秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、久しぶりに時間が少し取れたので、少々進めますか。 ―――――――――――――――― Chapter 5 木絵二像開眼の事 1 当方の主張 ■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」 との御文の「木絵二像」とは、一往、「木像・絵像の本尊」 という意義を表にしているが、再往は、本尊として存在するための”非情=物質・物体”を意味しているのであり、この”非情=物質・物体”は、そのままでは「本尊」たりえない。 必ず「法華を心得た人」による、「開眼供養」が為されなければ「本尊」として成立しない。 沖浦さんの返答 ▼「その主張はそれはそれでいいと思う。そう解釈するのは自由。だから、日蓮正宗では開眼供養をすればいい。ただ、創価学会の本尊について開眼を要求する根拠にはならない。(趣意)」と主張している。 ↑これは、全くの浅識による無知な発言ですね。 大聖人の御心が全く分かっていない。似非信行者そのものですね。 そもそも、日蓮正宗においては「開眼供養」が必要なことなど、大聖人様以来の当たり前の伝統教義である。 ■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳) この佐後=発迹顕本以後の御書に「塔婆」を必ず「開眼供養」すべき旨をお説きになっているのに、最重要の「曼荼羅御本尊」に「開眼供養」の必要がない、などと仰せになる道理がない。 ■草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。止観の明静なる前代にいまだきかずとかゝれて候と、無情仏性惑耳驚心等とのべられて候は是なり。此の法門は前代になき上、後代にも又あるべからず。設ひ出来せば此の法門を偸盗せるなるべし。然るに天台以後二百余年の後、善無畏・金剛智・不空等、大日経に真言宗と申す宗をかまへて、仏説の大日経等にはなかりしを、法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば、皆人此の事を知らず、一同に信伏して今に五百余年なり。然る間真言宗已前の木画の像は霊験殊勝なり。真言已後の寺塔は利生うすし。事多き故に委しく注さず。(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳) この御文から、概ね以下の事が判明する。 @ 本尊 とはいってもその元は絵の具(墨含むことは勿論である)とか、木材からできている。 A であるから、その絵の具(墨)や木材に魂魄を入れなくてはならない。(開眼供養) B それは、法華経(文底では三大秘法=一大秘法)でのみ可能であり、それが天台大師のさとり(一念三千の法義)より為し得る。 C しかも、この開眼供養の法門は、もともと天台大師が所持されていた深秘の法門であり、それを盗んで広く紛いごとを行っているのが真言宗である。←つまり、開眼供養の法門は真言宗を単に破折するためだけに説かれているのではない。もともと法華経にしかない、草木を成仏せしめる深秘の法門ということである。 以上の検証から、本尊と成り得るには法華を心得た人による開眼供養は必要不可欠であることは火を見るより明らかである。 沖浦さんの主張の矛盾点を突く。 1、▼「日蓮正宗ではそうすればいい、異議を差し挟む気はない。創価学会の本尊を拝まなければいい。(趣意)」との痴言について。 沖浦さんは反論できなくなると常にこの言い訳・言い逃れに逃げ込む。 しかし、これは全く大聖人の御心が心肝に染まっていない証拠の言ですね。 ■本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳) と明確に仰せであり、日蓮正宗の開眼供養された御本尊と、創価学会発行の開眼のない濫造模造掛け軸と、比較検証して「すぐれた本尊」を用いなくてはならない。 両方がそのまま正しい本尊である、などということはあり得ない。 もし、そう思い込んでいるとしたら、沖浦さんは大聖人の仏法を正しく行じている者ではない。 口先だけの似非信徒である。 真の仏弟子であるならば、間違った本尊を徹底的に駆逐するのがその役目である。 「開眼供養」が必要か不要か?とは実に重大な法門であり、「どっちでもいい。」などと軽々しくほざいているのは、大聖人の仏法を軽んじている証拠である。 これはつまり、沖浦さんが拝んでいる御本尊は日達上人が開眼供養されたお形木御本尊であり、その他の創価学会員も同様の開眼供養された御本尊を拝んでもいる。(しかし、現時では大聖人の御魂魄は住まわれていない)しかし、耕治君他大勢の創価学会員はまた開眼供養のない、模造掛け軸を拝んでいる。 双方が混在しているまさに ■「諸宗は本尊にまどへり」 の狂相を呈しているのが創価学会である。 この矛盾を説明できないために、ただ言い逃れをしてこの問題から回避するしか手がないだけのことである。 「開眼が不要」 と主張するのならば、その不要なはずの得体のしれない「開眼供養」の教義や、それが為された本尊は、”不純物”が混入した魔仏、ということになり、徹底的した破折の対象であるはずである。 創価学会の開眼がない模造掛け軸本尊が正しいのなら、日蓮正宗の開眼供養された御本尊は間違っているということになるのであるから、沖浦さんは日蓮正宗の開眼のある御本尊を教義的に破折し尽くし、駆逐すべきである。 それが仏弟子の務めである。 ■「若し善比丘有って法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是我が弟子真の声聞なり」 ▼「日蓮正宗ではそうすればいい、異議を差し挟む気はない。創価学会の本尊を拝まなければいい。(趣意)」などの痴言をぺらぺらと冗長に喋り続ける沖浦さんは、この御仏の戒めを忘れ切った、退転謗法者以外の何者でもない。 そのような見せ掛けだけの似非信徒が、何をどう語っても、周りは白けて、肌寒くなるだけである。 そういう点で、暑い夏には重宝な存在かも知れない。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 52 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 8日(水)00時18分52秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さんの主張の矛盾点を突く。(前段の続き) 2、沖浦さんが拝んでいる御形木御本尊は日達上人が御書写され、御開眼された御本尊ですね。 で、その日達上人は以下のように御指南されている。 (予め釘を刺しておくが、「日達上人の御本尊は信じ、御指南は信じない」などという子供だましの言い訳は通用しない。) ■「本尊という解釈を分かりやすくいえば、本有勝尊―昔からありのままで尊く勝れたもの、あるいは本末尊崇―本来から崇め奉るもの、あるいは根本尊貴―根本から尊いもの、といいます。」(日達上人全集第二輯第三巻325) もし、「開眼供養を認めない」とするならば、以下の矛盾点が起こる。 @ もし、▼1「非情がそのまま本尊となってしまう」のであれば、世界中の非情=物質がすべて御本尊、ということになってしまうからであり、そのようなことはあり得ない。 A また、▼2「十界曼荼羅が書かれているものは全て「御本尊」となってしまう」のならば、再三指弾しているように、十界曼荼羅を誰が書いても、それをどこに何万枚コピーしようが、全て「御本尊」となってしまう、ということであり、そのような破廉恥な「御本尊」など、尊信の対象となど成り得ない。 つまり、そのようなものは本尊に成り得ない。 この@Aとも、以下の ■本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳) との御文や、上記の日達上人の御指南と併せ考察しても、その主張の正当性は全く認められない。 つまり沖浦さんのような開眼不要論者は、大聖人の御教えを全く無視した、外道義を吐く似非信者 ということですね。 沖浦さんのように何十年信心しても御文の真意を全く解せない者を大聖人は以下のように指弾しています。 ■なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日 五八歳) このような退転者の傾向性は、まさに沖浦さんの姿も同様ですね。 臆病 =正々堂々とした条件では法論ができない卑怯者。 今回の法論ですら、自分に不利な条件は悉く回避して、それでもその結果が見るも無残な敗北であったが故に、更に姑息に、その都合の悪い条件から逃げ、一方的に一人で決めつけ、それを受けない当方を、「法論から逃げた。」と遠吠えし、さも自分が勝ったように見せかけるように懸命にポーズをとり、繕っている。 こういう者を 沖病者 いやもとい、 臆病者 というのですね。 物をおぼえない =沖浦さんのいう開眼不要説がいかに馬鹿馬鹿しい痴論であるか、など、子供が聞いても分かる理屈である。 それが、いい年をして分からない。=つまり、何年やっても 物をおぼえない愚か者 ということでですね。 欲ふかい =いつでも勝他の念に焼け焦がれて、周囲によく思われようとじたばた足掻いて、焦っている醜態 これまさしく 名誉欲に取り憑かれた見苦しい姿ですね。 疑い深い =大聖人の仏法の根幹である、戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承を信じることが出来なかった退転者 まさに、疑い深い者 ですね。 こういう退転者は仏法の道理を聞いても、漆に水をかけたようにはじいてしまって心中に染まらない。 また、空中を切っても、何の益もないように、何年信心してみても、成仏の境涯から程遠い生命なんですね。 実に愚かしく、惨めな因縁です。 これが沖浦さんの今世の姿なんですね。 まことに哀れです。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 53 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 8日(水)10時48分46秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 最近の沖浦さんは、狂乱 この一言に集約されますね。 ■あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ(種々御振舞御書 建治二年 五五歳) 大聖人が狂乱する平左衛門尉を指弾したお言葉にぴったり当て嵌まる、沖浦さんの乱れ・慌て・狼狽・・振りですね。 実に面白い。 さて、そうはいっても、沖浦さん、また違法行為をやってしまいましたね。 境涯として面白く思えるのと、この法治社会の中での言動の是非云々では別次元の問題です。 不当行為はあくまで追求されなければならないでしょう。 以下の投稿は、人を公の場で根拠なく事実無根の捏造話で中傷した可能性が極めて濃厚な証拠文献です。 ―――――――――――――――――――――――――― 樋田さん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年 8月 8日(水)00時33分55秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 樋田さん、見苦しいですよ。 今更、宗門末寺の貴方に対する評価。 あのヤロウ、出すぎたまねしやがって、イワンこっちゃない。 これは動きません。 ―――――――――――――――――――――――――― さて、では沖浦さんに証明していただきましょうか? この件は、事実ですか? もし、事実ならばそれを証明してください。 宗門のどこの末寺の方が いつ、どこでそのような「評価」をされているのか。 その方に直にお会いして真意をお聞きします。 さて、もし証明出来ないとならば、それは沖浦さんが事実無根の捏造話を公の掲示板に書き込んで謂われなく当方を中傷したことになり、この件も、今までの数々の捏造話に加え、刑事告訴の対象案件となるのですが、沖浦さん、そのような無責任な言動を繰り返していて本当にいいのでしょうか? 全ては明確に記録に残されていくのですよ。 その証拠が一定量に達したならば、つまり、刑事事件として確実に立件できる量となったならば当方は間違いなく動きますよ。 これは警告であり、このような再三の警告も無視して非行を行うのであれば相応の対応を検討しなくてはならないでしょう。 もし、上記の件が事実無根であるならば、ここで明確に上記の発言の非を認め謝罪してください。 沖浦さんの対応次第では、今後の動向に大きく作用しますから、よく熟慮して返答してください。 当方は次の沖浦さんの発言を注意深くお待ちしております。 では、よろしくお願いします。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 54 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 8日(水)11時20分10秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 開眼不要論を破す つづき 確かに、沖浦さん、当方の破折が相当手痛かったようですね。 見苦しく慌てふためいていますね。 滑稽です。 沖浦さんの最近の傾向。 1、捏造話のエスカレート。もはや、捏造なのか、妄想なのか、ご自分でも分からなくなっているのではないでしょうか。 世間でも、虚言癖の特徴は、自分で吐いたウソがあたかも真実のように思えてくる、といいますね。 沖浦さんは三宝誹謗の罪業が深く、頭破作七分の病嵩じて、既にこのような症状になっているのでは、と推測されます。 2、自分では教義的にまともな反論ができないので他人に仮託して自分はその陰にこそこそと隠れ込む。 また、他人の言ならば、仮に当方がそれを破折し始めたとして、沖浦さんは自分とは関係ない振りができる。 実に姑息で沖病・・おっと、臆病な、卑怯者です。 3、教義的な追求に対して正当な文証理証により教義的に反論できないので、既に何度も書き込んだ単なる感情論を、更に何度も何度も繰り返し貼り付けるだけしか能がない。 ↑こういう状態を「反論不能」というのですね。世間では 「死にたい」・・・もとい、「死に体」 と言われています。 「脳の思考停止状態」、とも言えましょう。 例えて言えば、警察の取調べで、犯罪者がウソを言い続けていても、刑事にその矛盾を理路整然と追求されて、どうにもウソを吐き通せず、だからといって、自分の罪を認める訳にもいかず、ただ、同じ台詞 「自分はやってない・・・やってないんです!刑事さん!信じてください!」 と繰り返しているようなものですね。 こういう沖浦さんの境涯を大聖人は鋭く指摘されていますね。 ■疵を蔵して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙の人なり。(中略)記の四に云はく「疵を蔵す等とは三失を釈せるなり。疵を蔵して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省みること能はざるは我慢を釈し、無慙の人とは不信を釈す。」(御書・御義口伝・1730n) 【通解】自らの不徳を隠して、さも徳があるように見せかけ、自分を反省しない。反省することができない。このような人は、仏法に対して自らを恥るということを忘れた者である。) これ、上慢、我慢、不信の者の姿ですね。 沖浦さんほこの、 上慢=自らの不徳を隠して、さも徳があるように見せかけ 我慢=自分を反省しない。反省することができない。 無慙=仏法に対して自らを恥るということを忘れた者=不信=不信謗法の似非信者 全ての項目に当て嵌まっていますね。 実に見事な退転者です。 前世からの悪因・悪果・悪報の見事な”症例”ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 55 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 8日(水)12時51分1秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 開眼の要不要の考察 沖浦さんの開眼不要論の矛盾を破す つづき 以下の御文から、実に重大なことが拝察される。 ■草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳) @ 「法華経の力」に依ってのみ、画像(絵の具(墨などをも含む)によって書かれた本尊。曼荼羅御本尊も当然、墨で書かれ、御形木御本尊はインクに依って印刷されている、「画像」である。)や、木像(木材によって作られた本尊。板曼荼羅御本尊も当然「木材」で出来ている「本尊」である。)に、「魂魄という神(たましい)」を「入れる」ことができる。 A それは■「神を入るゝ事」と、仰せであり、しかも「天台大師のさとり」とあるがごとく、人に約した内容である。 つまり、誰人かの、主体的・能動的な行為 であることが分かる。 B ■「此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。」とあるから、その”行為”の元をなす法門は、修行者に約すれば「即身成仏」であり、本尊に約すれば、「草木成仏」である。 C 末法で「即身成仏」できる本尊は、三大秘法=一大秘法の御本尊(戒壇の大御本尊)しかない。 であるから、この御書は一往、四条金吾の機情に合わせられ、釈尊像の造立に約して仰せであるが、再往は、末法で「即身成仏」出来うる「本尊」についての御教示であることが分かる。 何故なら、大聖人が釈尊像を「即身成仏」できる本尊として永久に末法万年の本尊としてお認めになられる訳がないからである。 D 人法一箇の戒壇の大御本尊=日蓮大聖人はこの世でただ御一人の御尊体しか在らせられない。 E だが現実には我々は日常は戒壇の大御本尊以外の御本尊に信行のお勤めを為している。 F その「御本尊」は、まさに「墨・インク・紙・木材」などの、世に存在する通常の物質で出来ている。 G その「画木」のまま、そこに「魂魄と申す神を入るゝ事」行為をしなければ、「草木成仏」していないただの物質ということになる。 H 「草木成仏」していないただの物質を拝んでも衆生が「即身成仏」する道理がない。 I であるから、戒壇の大御本尊以外のいかなる御本尊にも、誰かが「魂魄と申す神を入るゝ事」を為さねば、この御文の御指南に反する。 J であるから「魂魄と申す神を入るゝ事」という行為を為していない本尊状の物は、草木成仏していないただの物である。(これはこの御文だけに限った開眼の要不要を論じた考察である。この開眼は必要不可欠である。との結論の上でさらに「木絵二像開眼の事」等の御文を拝せば、開眼のない物はただのの物どころか、魔仏あり鬼神であることが分かる。) K この「魂魄と申す神を入るゝ事」を為せる方は「天台大師のさとり」を得た方であり、日蓮大聖人である。 L では日蓮大聖人御入滅以後は誰が「「魂魄と申す神を入るゝ事」を出来るのかといえば、 ■「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、(中略) 血脈の次第 日蓮日興」 と大聖人の仏法の全てを唯授一人・血脈相承された、日興上人である。(以後大聖人が為されたと同様に次第して日興上人以下の御歴代上人へ大聖人の仏法の一切は伝持・相伝される。) M であるから、日蓮正宗嫡々代々の御歴代上人がその「魂魄と申す神を入るゝ事」を為せる方であるとの明確な文証は ■「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n) である。 【結論】 御歴代上人が「魂魄と申す神を入るゝ事」という行為を為されていない本尊状の物は全てただの物(※本当は魔仏・鬼神)であり、衆生が即身成仏できる本尊とは成り得ない。 依って、創価学会発行のニセ掛け軸曼荼羅は、衆生が即身成仏出来ない、ただの物 である。(※本当は人を頭破作七分に狂わす魔仏・鬼神) さて、「法論に勝った!勝った!樋田を木っ端微塵にした!」という沖浦さんの教義的な反論でも待ちましょうか? 実際の法論で当方を”木っ端微塵にした”のなら、以上の”拙論”を「木っ端微塵」にすることなど訳もないことでしょう? 楽しみにお待ちしていますよ。 沖浦さん? あ、その前に、捏造話の真偽をきちんと明確に弁明もしくは証明してくださいね。 こっちは刑事告訴も視野に入れての話ですから、いい加減な対応は不味い結果を生みますよ。 では、よろしく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 56 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)11時48分42秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれ、皆さんに追求されるから、名聞名利の異様に盛んな沖浦さん、久しぶりに御文を、しかも的外れに、引文してきたので、少々興がそそられました。 まず先に以下の駄論から砕いておきましょうか。 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月 9日(木)09時08分24秒 > TITLE: 樋田桜君よ、無い教学でこれに太刀打ちで来るかな〜〜?? > NAME: 沖浦克治 MAIL: > ▼> 創価学会員は日蓮正宗をやめながら、何故寛師書写の本尊を拝むのか? > などとの故の無い言いがかりも、掲示板上で私や他の創価学員に何度も破折されながら用い続ける厚顔無恥な有様はどうでしょう。 > そもそも、創価学会は宗門は否定いたしますが、日蓮大聖人様を御本仏と仰ぎ、蓮祖御図顕の御本尊を拝む事は会則にも明確です。 > 又この世に日蓮正宗の本尊などは存在いたしません。 > 蓮祖御図顕の御本尊。これのみが正しいのです。 > 寛師は蓮祖門下として本尊書写を行い、後世の私どもがその御本尊を御安置するに何の遠慮が要りましょうヵ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑しかし、よくもここまで、頑迷になれるものか。とほとほと感心させられますね。 【破折 1】←既述済み 創価学会販売のニセ本尊を「蓮祖」は「御図顕」されていない。(当たり前である。呵々大笑) 1、大聖人様御図顕の御本尊は現時では百数十幅しか現存しておらず、貴公らが拝んでいるのはこの内のいずれでもない。 2、1、以外の御本尊は正系門家では全て御歴代御法主上人の”御書写”された御本尊、もしくはその御形木御本尊である。 この御本尊を”蓮祖御図顕の御本尊様(あるいは御形木様)”とは誰も呼ばないし、事実”蓮祖御図顕の御本尊様(あるいは御形木様)”ではない。あくまで”蓮祖御図顕の御本尊様”(就中 戒壇の大御本尊)の御内証を御歴代上人が”御書写”されたものである。 3、沖浦君ら創価学会員が拝んでいる掛け軸は、 日寛上人が ”蓮祖御図顕の御本尊様”の中でも大聖人様の御本懐中の本懐「戒壇の大御本尊」の御内証を ”御書写”され 浄圓寺16代住職・日證師に授与された 一機一縁 の 常住御本尊を 『勝手に撮影・改竄・変造し、掛け軸様に表具してあるように見せかけるために多色刷り印刷をした一枚ものの掛け軸模様の紙』であって、 日寛上人が”蓮祖御図顕の御本尊様”を”御書写”した御本尊そのものではない。 4、よって、そんなものは紙屑・糞紙にも劣る 魔紙・鬼札 といっているのである。 ―――――――――――――――――――――――――― 【破折 2】既述 「大聖人御図顕の御本尊」とは、まさに”大聖人が図にして顕した御本尊”との意味ですから、大聖人御真筆の御曼荼羅御本尊を意味します。 また、御書には「形木本尊を広めろ」との御指南もありません。 創価学会がかつて創立以来広めてきた御本尊は 【1】「日興上人から正統な唯授一人・血脈相承を相伝された御歴代上人が”大聖人御図顕”の戒壇の大御本尊の御内証を書写された御本尊(常住御本尊)と、同じくそのようにして書写された御本尊を印刷した御形木御本尊」です。 決して、「大聖人御図顕の曼荼羅御本尊」ではありません。 沖浦さん、まずこういう基本的な語句の意味や用法をきとんとしていきましょうね。 ―――――――――――――――――――――――――― 【想定破折 3】 ▼=沖浦さん △=当方 ▼ 御本尊は全て蓮祖御図顕の本尊である。 △ 何を以って「蓮祖御図顕本尊」と言うのか? @ 御歴代上人が「御書写」された御本尊の「字体」は「蓮祖御図顕本尊」と明らかに違う。 字筆・字質 も違う。 A 十界の座配も相貌も「蓮祖御図顕本尊」と一様ではない。 特に創価学会販売のニセ本尊の元となった日寛上人「御書写」の御本尊の座配は、明らかに「蓮祖御図顕本尊」とは違う。 B 「蓮祖御図顕本尊」=大聖人御真筆御本尊には御自著で「花押」があらせられる。 が日興上人以降の御歴代上人が「書写」された御本尊には当然ながら「花押」はあらせられない。 「在御判」とお認めである。 「字体・字筆・字質」も 「座配」も「相貌」も違って、しかも 「花押」か「在御判」との決定的な相違が厳然であるのに、では、沖浦君は、一体何を以って、どこを指して、日寛上人、あるいは御歴代上人のお手に成る御本尊を「蓮祖御図顕本尊」と言い張るのか? ▼ 私は専門が本尊書写ではありません。 そちらの専門家(法主など)にお聞きなさい。 △ では沖浦さんの言う通りに、創価学会発行の模造掛け軸が”真正の蓮祖御図顕の御本尊”なのか、御歴代の御法主上人に聞きましょう。 ■『日顕上人御講義』 「『ニセ本尊』の申し出は、創価学会に対して成田宣道が平成五年六月六日にしております。一方、平成四年十一月十二日に日蓮正宗を離脱して以来、浄圓寺はもう既に実質的に総本山大石寺の末寺ではなくなっているのです。また、成田宣道なる者も、大石寺末の僧侶でもなければ、日蓮正宗の僧侶でもなくなっておるわけです。(中略)邪宗の坊主が勝手に学会へ申し入れたことであり、血脈伝承の総本山の全く関知しない非合理な『ニセ本尊』であると言えます」(偽造本尊義を破す二二n) ■ 平成七年一月十七日の未明に、あの「阪神・淡路大震災」が起こったのであります。実は、その前日、前々日に、池田創価学会が、あの地域においても、あろうことか御本尊に対する大謗法を犯し、『ニセ本尊』を配布し ておったのであります。その直後に、あの阪神・淡路大震災が起こり、言うに言えないような悲惨な状態が起こったことは、皆様も御承知のとおりであります。(御法主日顕上人猊下お言葉 法華講連合会第三十五回総会の砌 平成十年一月三日 於 総本山広布坊) ■ 日亨上人『有師化儀抄註解』 「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり、(中略)宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、(中略)然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限る」 御本尊の書写・授与は、時の御法主上人によっておこなわれる最も重要な化儀。 したがって、歴代上人ご書写の御本尊を形木にお作りし、授与する場合であっても、御本尊に関する一切の権能を持つ、時の御法主上人の許可のもとにおこなわれなければならないことは明白。 つまり、沖浦さんが御指名の”御本尊書写の専門家”である御法主上人は、明らかに創価学会発行の模造掛け軸をニセ本尊である。と断定されているのですが、上記の詰問に答えられない御本尊に関しての”専門家ではない”沖浦さん?また、すり替え、言い逃れ、捏造に あくせく足掻いて見せてくださいね。 この猛暑の中で、少々暑苦しく、見苦しいですが、沖浦さんの必死で足掻く姿を見ると、その余りの無軌道ぶりに、暫し暑さも忘れることができますよ。 では、頑張って。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 57 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)12時16分11秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| つづき 【他の法華講員からの破折】 沖浦さん↓ ★ また、寛師の本尊なるものはありません。 寛師書写による蓮祖御図顕の御形木様です。 破折↓ (??)何故?日寛上人と特定されていらっしゃるのですか? 何故、日寛上人様でなければいけないのでしょうか? 北山本門寺の貫首も「蓮祖御図顕」の御本尊を書写していますし、大聖人様御図顕の御本尊様とそっくりです が、そちらではいけないのでしょうか? また、この板で常に話題になる、身延の売店で売られている本尊は、大聖人様御図顕の御本尊をそのまま写真に撮り、縮小して印刷したものですが、それではいけないのですか? もしもいけないのであればその理由は何ですか? ここも、やはり御文証をしっかりお見せいただきたいです。 沖浦さん↓ 見ていませんし、私は専門が本尊書写ではありません。 そちらの専門家(法主など)にお聞きなさい。 以上再掲載 ―――――――――――――――――――――――――― では、その通り、御法主上人のお言葉から。 ■特に、日寛上人の本尊を勝手に在家が分限なく私に専用することは、「三宝欠如」「魔性本尊」「簒奪」「非道」「唯物形骸」「変造」「背逆」「矛盾撞着・自語相違」であり、その理由は後述いたしますが、これは明らかに『ニセ本尊』であります。 もし文証を言うなら、勝手に在家地体が血脈の上の本尊を血脈の筋道に背いて作ってよいという文証は全くないということが、まず、はっきり言えると思います。(御法主日顕上人猊下御講義 創価学会の偽造本尊義を破す 平成九年八月二十八日 於 総本山広布坊) ■ 総本山歴代上人の御本尊書写は、大聖人の御化導の上より、三大秘法整足の大御本尊の御内証を、唯授一人の相承をもって書写申し上げるのであります。創価学会は、信心を欠く故に御内証書写の意義を没し、単に文字を書き写すことだと解釈しているのは、浅識の馬脚を表しています。 ■ 要するに、学会の『ニセ本尊』は、在家が勝手に出しているということが、まず第一に挙げられます。在家乃至その団体が血脈上の御本尊を勝手に出したことは、正系門家すなわち、日蓮正宗においてはかつて例のないことであります。したがって、まさに大謗法行為であるということが言えます。 次に、彼等は在家であり、正しい宗門の本尊を左右する資格がないにもかかわらず、これを行なったのは、まさに越権の行為である。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑さ、沖浦さん、お望み通り、御法主上人のお言葉で創価学会発行の模造掛け軸をバッサリ 謗法である。と断定されてますが、下手な言い逃れを頑張ってくださいね。 謗法者の特徴である、「自分の言で自分の首を絞めていく。」 というところですかね? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 58 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)12時24分17秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| これ↓には思わず吹き出しました。 > DATE: 2007年 8月 9日(木)12時12分1秒 > TITLE: 皆様方 > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > そう思うでしょう。 とうとう、観客席へ 哀願 ですか? 当方を”木っ端微塵”にした割には、頼りない発言ですね? ちょっと惨め ですね。沖浦さん? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 59 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)14時00分18秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼> 蓮祖は御本尊に関して、 > > 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』(日女御前御返事) > > 法華弘通の旗印。と、明言されておられます。 > 布教も出来ない宗門こそ、御本尊を蓮祖にお返しすべき団体である事は、このご文に照らし当然です。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここが、沖浦さんが頑迷に妄執する御文ですね。 1、「布教も出来ない宗門」 について。 これも、既にこの板で破折済みの痴難ですね。 編集再掲 広宣流布(法華弘通)の定義 再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」(=法華弘通・布教)などではない。 真の「広宣流布」」(=法華弘通・布教)ができない者どもに、真の「広宣流布」を云々できる資格などないし、道理もない。 立正佼成会や霊友会ばどの、三大秘法を知らない者が、当宗の「広宣流布」(=法華弘通・布教)の数などを云々できる立場・分際ではないのと同様である。 真の広宣流布(=法華弘通・布教)とは三大秘法を広めることである。 三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。 戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は「義の戒壇」であり、「事の戒壇」の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。 つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、「事の戒壇」であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」(=法華弘通・布教)の本義である。 そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に「義の戒壇」の意義が生じ、三大秘法が修行の上で成立するのである。 創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。 沖浦さんはこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」(=法華弘通・布教)のという意味自体に迷って狂っているのである。 まさに ■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」 と日寛上人が呵責なされている通りの醜態を地でいく勇ましさである。 であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。 こういう者を無慙の人というのである。 日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くことが先決ではないか。 自分が大事故で死にそうなのに、幸福に麗しく営んでいる人の家庭の家族の人数の多寡などにいらぬ心配などしている場合ではないと思うが。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 60 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)14時45分21秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さんが、正当な三大秘法の御本尊を弘通している宗門へ、その布教の人数に対して色々難癖をいうのは、 ニセ札偽造組織の一員が、財務省管轄の正当な札の発行枚数をご心配いただかなくて結構 なのではないでしょうか? 沖浦さんの言い分は、 「財務省管轄の正当な札の発行枚数が少ないから、代わりに俺たちがニセ札を大量にばら撒いてやっているから、ありがたく思え。たくさんばら撒いている俺たちこそがまっとうな組織なんだ。」 といっているに等しいですね。 しかも、「功徳があるから、学会発行の掛け軸も力は同じ。」などと、声高々に言い抜いている様は、 「とりえあえず、このニセ札でも相手が気づかなければ物が買えるんだから本物と同じだ。」 と言っているにも等しいですね。 このように沖浦さんの主張は正統な本尊観のない、痴言ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 61 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)18時13分56秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、次いきますか。 ―――――――――――――――――――――――――― ▼> 更にその後ろには、 > > 1『是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』 > > ▼1「この様に、蓮祖御図顕の本尊は末法広布の為釈迦より譲り受けた。とも仰せです。」 > ▼2「たかだか日蓮正宗程度の、弱少宗教集団の独占できるような偏頗なものではない事」は、▼3「これらのご文に照らして明らか」です。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここなどはいかに御文が読めていないか、またもや馬脚を現したところですね。 1、この当該文1は、大聖人が、大聖人を久遠元初の御本仏と直ちに拝せない機根の衆生に対して、「曼荼羅本尊は、現時に目の当りに居る「凡夫僧 日蓮」が自分勝手に作った物ではない、教主釈尊もその他の諸仏もみな、摺り形木のように全く同じ曼荼羅を本尊としていたのである。」との意義を籠め、一往、上行再誕の辺を以って謙下して仰せになった御文であり、本義は、大聖人御図顕の曼荼羅御本尊はそのまま久遠元初の自受用報身如来の御一念そのままのお姿である。 決して、▼1「末法広布の為釈迦より譲り受けた。」という附文の辺に御真意があるのではない。 【参照文証】 ■脱益の今此三界(こんしさんがい)の教主の本迹 天上天下唯我独尊、釈迦牟尼如来は迹身門なり、密表(みっぴょう)寿量品の「今此三界」は即ち本身門なり。(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄) 弘安三年一月一一日 五九歳) 2、その「すりかたぎ(摺形木)たる本尊」とは何か、といえば、法華経寿量品に■「我本行菩薩道」とあるがごとく、その「多宝塔中の大牟尼世尊」や「分身の諸仏」が修行した御本尊である。 3、その御本尊とは三大秘法のことであり、一大秘法に究境される。その根本の御法体こそ、戒壇の大御本尊である。 4、大聖人の仏法の一切、就中その戒壇の大御本尊は唯授一人・血脈相承によって日興上人ただ御一人に相伝される。 【文証】 ■ 日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五年壬午九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興 ■一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事 元弘二年一一月一〇日) 5、この事実などは、沖浦さんの理屈▼2でいえば 「大聖人の仏法は唯授一人・血脈相承によって日興上人・日目上人のみが独占する偏頗なもの」 と唯授一人・血脈相承を定めた、大聖人・日興上人を詰ることになりますね。 6、そもそも、教主釈尊が上行菩薩ただ一人へ結要付嘱したことも、「上行菩薩一人が独占した偏頗なもの」ということになりましょう。 7、沖浦さんは、三大秘法から開く、事と義の戒壇の意義が全く分かっておらず、そのけじめがついてないから、このような愚見を平然と恥ずかしげもなく述べ立てることができるのですね。 8、三大秘法の真の事の戒壇の意義は戒壇の大御本尊にのみ備わるのであって、戒壇の大御本尊以外の正統な血脈正しい御本尊は事の戒壇を根本とした上での義の戒壇である。 根本の事の戒壇は唯授一人・血脈相承によってお一人からお一人にのみ相伝・伝持されるのである。 それは釈尊も大聖人も踏襲された仏法伝持の根本原理・原則である。 大聖人の仏法はこの戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承に究境されるのであり、ここから離れた不当な曼荼羅状のものなどは、全てゴミ屑以下の魔仏・鬼神である。 こういった原理が全く見えないから、戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承を中心として開かれる三大秘法の広宣流布の真実相が分からなくなるのである。 9.であるから ▼1「蓮祖御図顕の本尊は」 ▼2「たかだか日蓮正宗程度の、弱少宗教集団の独占できるような偏頗なものではない」 などと、実に間の抜けた恥言を吐けるのであり、しかし、このまことに愚かしい痴言は、 ▼3「ご文に照らして明らか」では全然ないですね。 10、沖浦さん、少し顔でも洗って、もう少し勉強して、■「御抄を心肝に染め極理(ごくり)を師伝して」から、出直してきましょう。 といったところでしょうか。 さ、暑いけど、頑張りましょうね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 62 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)20時38分23秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| またですか。 では、以下の捏造話も、刑事告訴するための証拠としてここに明確に残しておきましょう。 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月 9日(木)19時41分38秒 > TITLE: 卞氏さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 樋田桜君ね、掲示板での言葉使いをえらいさんに注意されたんですよ。 > > 既に情報が入っています。 > > ヒヤヒヤ、ビクビクネットやってんですね。 > > やめりゃいいんですよ、やめりゃ〜〜。 > > HOMEPAGE: > -- > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) ―――――――――――――――――――――――――― 再三の警告 ↑当方は、「掲示板での言葉使いをえらいさんに注意された」という事実は全くない。 一体、どこの、誰から このような事実無根の話を聞いたというのか。 沖浦さん、いい加減に、このような捏造した虚偽の掲示を止めて下さい。 教義的に反論不能だからといって、このような悪辣な事実でないことを作出して、人を中傷する行為が続けば、確実に警察に被害届けを出すことになりますよ。 また、このような沖浦さんの言動に付和雷同する投稿者も、証拠提出の際には同様の扱いをするので、まだ少しでも正気が残っている者は、今のうちに言動を慎んでいたほうがいいでしょう。 (特に、アクセス禁止処理をされても、IPを変え、執拗に投稿する 阿部日ケ〜ン(院政) なる者の不法行為についての証拠は相当数溜まってきたようですね。) |
| 沖浦対樋田法論を検証する 63 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)23時15分50秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さん、以下のようなおちゃらけた応対をしている状況ではないと更に忠告して置きますね。 ―――――――――――――――――――――――――― A > DATE: 2007年 8月 9日(木)20時48分15秒 > TITLE: なるほど樋田桜さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > ご自分でなおされた。 > > > エ!ラ!イ!! > > HOMEPAGE: > -- > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) ―――――――――――――――――――――――――― で、↑これは、先ほどの以下の投稿↓が捏造であったと認めるのですね? ―――――――――――――――――――――――――― B > DATE: 2007年 8月 9日(木)19時41分38秒 > TITLE: 卞氏さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 樋田桜君ね、掲示板での言葉使いをえらいさんに注意されたんですよ。 > > 既に情報が入っています。 > > ヒヤヒヤ、ビクビクネットやってんですね。 > > やめりゃいいんですよ、やめりゃ〜〜。 > > HOMEPAGE: > -- > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) ―――――――――――――――――――――――――― ↑この中の、「既に情報が入っています。」ということが事実であるとするなら、Aの投稿内容と正反対の意味となるのですが、この辺の矛盾をご説明願いましょうか。 それとも、沖浦さんが、教義的反論できないので、悔し紛れに事実無根の内容を捏造して当方を中傷した投稿文であると素直に認め、正式に謝罪しますか? どちらを選択してもいいですよ。 ただ、いい加減に考えていると、いよいよ甘くないですよ。 では、責任ある回答をお願いします。 その応対によっては、こちらもいよいよ色々考え行動を起こさなくてはいけなくなるかも知れませんね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 64 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 9日(木)23時53分57秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼1「>
本来ならば、自らの歴代法主が書写した御本尊様が創価学会員により世界中に流布される様子を、法主能化自らが創価学会末端会員の眼前に膝を折って感謝すべきところです。」 > 貴方がもし蓮祖門下を自称するのであれば、先ず法主能化にこの道理を教えなさい。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここまで仏法の教えから外れることができる人も珍しいですね。 仏法を習う者は必ず恩に報いていかなくてはならない。それこそが仏の道であるからである。 その報恩すべきものに三宝の恩がある。↓ ■1「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。四恩とは(中略)一切衆生の恩、(中略)二には父母の恩、(中略)三には国主の恩、(中略)四には三宝(ぼう)の恩、(中略)次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。(中略)故に大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。」(四恩抄) この三宝の中の 僧宝 は三宝一体=仏宝・法宝と一体 ということである。 ■2「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。是(これ)涅槃経の文なり。爰(ここ)を以て法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く。是を即ち一闡提(いっせんだい)と名づく。(真言見聞)」 御本尊書写を為される御法主上人は僧宝が中の僧宝であられ、その御内証の御位は「日蓮大聖人」である。 ■「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n) その三宝一体の僧宝であられる御法主上人に対して▼1「」などと暴言を平気で吐ける沖浦さんは僧宝の恩について全く信解できていない信行未熟者である、どころか、 ■1「大集経に云はく「五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を滅(めっ)せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。」 ■2「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。」 ■2「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く。是を即ち一闡提(いっせんだい)と名づく。」 ■然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。 と仰せのごとくの絶対に仏道を成就できない一闡提人=今世では絶対に救われない極悪謗法者 である。 命終の後、永劫に無間地獄に沈んだ後に、今世、謗法の限りを尽くしている逆縁の功徳で救われる因縁の者である。 よくよく自分の汚れ穢く醜い不浄な因縁を愧ずべきである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 65 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)16時01分3秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、今日も暫しの間、続き片付けていきますか。 ―――――――――――――――――――――――――― ▼> 蓮祖は、この御本尊様を末法の全人類の為に残しおかれたのです。 > 日蓮正宗のためではありません。 > 故に蓮祖は、 > > 『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄) > > 末代幼稚、と仰せです。 > 何処に自らの門下に限る。と、仰せですか? > 末代幼稚とは、全生命体です。 > 貴方方宗門や法華講は、創価学会とはなれ既に相伝無きが故、御書も読めなくなっているのです。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑まあしかし、御書の著された時代・意義・背景など、悉く読めていませんね。沖浦さんは。 実に幼稚といえましょう。 この御書は、末法に出現する”真実の法本尊”についての御教示であり、当該文の意義は、 「一念三千こそ仏の悟りであり、それをそのまま文字曼荼羅御本尊として末代の幼稚な凡夫、誰人にも拝せるように、如実に図顕された。」 との意義をお示しである。 だからと言って大聖人が誰彼にも全ての人に下付なされなかったことは歴史的事実である。 大聖人の仏法を命懸けで信行する者にのみ御下付されたのである。 その化儀は日興上人のお言葉でも明確である。 ■日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。(富士一跡門徒存知事 延慶二年) 大聖人も日興上人も当然のごとく「自らの門下に限」って下付為されていたのである。 信心未熟の者に下付為されなかった。ましてや謗法者になど下付されないことなど自明の理であり歴史的事実である。 これほど明瞭な事を、 ▼「何処に自らの門下に限る。と、仰せですか?」 などと平然と言い放つとは、愚の骨頂である。 読んだ方が恥ずかしくなるような、恥言である。 上記の論証事実からしても沖浦さんと当方とどちらが▼「御書も読めなくなっている」かは明瞭であり、 沖浦さんのご指摘の理屈通り、まさに、 「貴方方「創価学会」は、「戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承」とはなれ既に相伝無きが故、御書も読めなくなっているのです。」 ということですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 66 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)17時15分15秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| つづき ■ 『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄) との御文について。 では、大聖人はこの御本尊をどのように「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」たのか。 もちろん、誰もが知っている通り、大聖人時代に大聖人が「末代幼稚の頚」全てに「懸けさしめ給う」た訳ではない。 それは大聖人滅後へ託された大事業である。 大聖人が鎌倉時代に世界中の一切の人へ御本尊を下付なされたというのなら、ある意味沖浦さんの主張も、そう遠くは間違っていない、かも知れないが、現実には大聖人は同時代の一切の衆生へ事実の上で御本尊を御下付されていないことは明白な歴史的事実である。(当たり前のことだが。) そこで大聖人滅後、この「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」べき「御本尊」はどうなったか。という問題である。 「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」べき「御本尊」が独りでに「末代幼稚の頚に懸」かりはしないのである。 大聖人はこの「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」べき妙法五字の「御本尊」の広宣流布を、別して日興上人お一人に託されたのである。 ■ 日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五年壬午九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興 ↑この相承書により、大聖人の仏法の一切、就中、御本尊、更に就中、戒壇の大御本尊 は唯御一人、日興上人へ相伝されたことは明確である。 しかして日興上人も御師大聖人が定め為されたごとくに日目上人御一人へ、上記の通り、別付嘱された。 ■日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事 元弘二年一一月一〇日) つまり、大聖人は、唯授一人・血脈相承によって唯お一人にのみ、まさに「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」べき「御本尊」を別付嘱されておられる。 だから御歴代上人にしか御本尊書写及び授与の大権はおわさないのである。 その唯授一人・血脈相承の御方から開かれた形で全ての大聖人以降の御本尊は存在され、その意義を顕されておられるのである。 その御本尊書写及び授与の大権を唯御一人所持なさる御法主上人が許可されない曼荼羅状の掛け軸など、全くのゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神であって、そのようなゴミのことを決して 「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」べき「御本尊」 とは言わないのである。 沖浦さんはこのような実に簡明な道理すら見えないのである。 まさに、癡 そのものですね。 こう書いておくと、また愚にもつかない痴言を猛然と吐きかけてくるでしょうから、それもまた、猛暑の夜には見ものかも知れませんね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 67 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)17時18分31秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 因みに、「二箇相承」の存在に疑義を呈する向きもあるが、「日興跡条々事」の日興上人御真跡は大石寺に現存しており、両書の記述の相関性からも、二箇相承曽存の根拠は明瞭である。 1、二箇相承の御文についての考察 「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、」 との仰せの後に 「”本門”弘通の大導師たるべきなり。」 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の”戒壇”を建立せらるべきなり。」 とあり、この”本門”・”戒壇”の意義から、この「日蓮一期(いちご)の弘法」とは、本門「戒壇」の大御本尊 を内に含まれた仰せであることが分かる。 2、A 「二箇相承」 と B 「日興跡条々事」 との御文の相関関係 @ A 「日蓮一期(いちご)の弘法(※戒壇の大御本尊に究境される)、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、」 B 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。」 A A 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。」 B 「本門寺に懸け奉るべし。」 この@とAのそれぞれ A、B の御表現は、まさに綺麗な 対 を為しており、これほどの短い御文で、このように符合するということは、日興上人が大聖人の「二箇相承」を模して「日興跡条々事」を書かれた、考えることが最も自然な道理といえよう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 68 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)18時35分36秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| またですか。沖浦さん。 もはや一言書くごとに 捏造 ですね。 さ、以下の件も、証明してもらいましょうか。 出来なければ謝罪すべきですね。 とにかく、ほとほと 躾 が成ってない人ですね。 社会良識 ということがから甚だしく逸脱しています。 そのような見苦しい姿は、「一体両親はどういう教育をされたのか。」と多くの良識ある方々に訝しがられ、唾棄され、顰蹙され、軽蔑され・・・・結局、沖浦さんの御両親のお顔にまで泥を塗ることになりますよ。 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月10日(金)16時25分15秒 > TITLE: 結論として > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > > その上、今回非常にお行儀がよくなって、これまでの啖呵はどうした!と、身内からの非難もゴウゴウ。 > > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) ―――――――――――――――――――――――――― ↑「身内」とは一体誰のことでしょうか? 証明できもしない、口からのでまかせを、更に繰り返しましたね。 再三再四の 警告 です。 このような事実無根の捏造投稿はお止めください。 では、ここも、証拠 として記録しておきましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 69 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)20時29分26秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さんが仏法を騙れば騙るほどもはや 狂人 の域ですね。 では、見ていきましょうか。 ―――――――――――――――――――――――――― ▼> 創価学会員が、寛師書写の御本尊を自らが拝み流布をさせれば、その功徳の一部は寛師に届くでしょう。 > 仏法の決め事です。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑滅茶苦茶ですね。 実に、お話にならない、迷妄 ぶりです。 1、沖浦さんは、自らが▼「布教も出来ない宗門」等(他、多数の誹謗・悪口あり)と、口を極めて誹謗している「日蓮正宗」の、その「宗派」の第26世である日寛上人が「書写」された御本尊を担ぎ出す、という矛盾に満ち満ちた行為の理由や根拠を、教義的に全く説明できないままでいる。 まさに、唖法を受けたバラモン である。 教義的に何も言えない。だが悔しい。何か言っておかないければ、言い負かされたように見えてしまう。それは死ぬほど悔しい・・・と、油蝉のごとく一日中騒がしく鳴いているだけである。 しかもその内容は衆生の即身成仏の為になど、全くなることのない、得るものの皆無な、痴言・恥言・駄言・・果ては 捏造・すり替え・言い逃れ・言い訳・・・等のオンパレードである。夏祭り、叩き売り状態である。 2、その上で、創価学会が今ばら撒いている掛け軸上のゴミ屑以下の曼荼羅は、「寛師書写の御本尊」ではない。 何度も何度も繰り返し繰り返し教えてあげるが、 日寛上人が ”蓮祖御図顕の御本尊様”の中でも大聖人様の御本懐中の本懐「戒壇の大御本尊」の御内証を ”御書写”され 浄圓寺16代住職・日證師に授与された 一機一縁 の 常住御本尊を 『勝手に撮影・改竄・変造し、掛け軸様に表具してあるように見せかけるために多色刷り印刷をした一枚ものの掛け軸模様の紙』であって、 日寛上人が”蓮祖御図顕の御本尊様”を”御書写”した御本尊そのものではない。 そんなものは紙屑・糞紙にも劣る 魔紙・鬼札 である。 3、そんな日寛上人の御名を騙って販売されているニセ本尊であるから、日寛上人は大変迷惑され、心を痛められておられるであろう。 沖浦さんなどの他、創価学会幹部どもは、実に不知恩の者、堕獄必定の極悪人である。 4、よって、沖浦さんの主張、 ▼> 創価学会員が、寛師書写の御本尊を自らが拝み流布をさせれば、その功徳の一部は寛師に届くでしょう。 > 仏法の決め事です。 などとは、実に全くの根拠のない 妄説 恥言 であり、そのような▼「仏法の決め事」などどこをどう探しても、天地がひっくり返っても、ない。 逆に、唯授一人・血脈相承の御法主上人に背いて、模造本尊を作り、 「自らが拝み流布をさせれば、その」”極悪謗法罪の重さによって、その者たちの心身は、死後”は必ず”地獄”に届くでしょう。 それこそが、「仏法の決め事です。」 ということである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 70 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月10日(金)21時33分44秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれ、最後までいっちゃいますか。 どうせくだらない内容ですから。 ―――――――――――――――――――――――――― > 貴方方は▼1「布教も出来ず」、▼2「創価学会批判を繰りかえし」、▼3「社会に仏法も開かず」、▼4「政党も作れず」、▼5「大学をはじめとする教育機関も立ち上げず」、▼6「文化運動に貢献もせず」、▼7「民衆救済もせず」、無い無いづくしでは無いですか。 > ▼8「蓮祖門下として、この順縁広布の時情けない限りですよ。 > 恥を知りなさい!」 ―――――――――――――――――――――――――― 破折 1 ▼1「」 ↑破折済み。 http://toyoda.tv/okiura.hukyo 2、▼2「」 ↑ニセ曼荼羅掛け軸をばら撒く大謗法集団を呵責するのは当たり前。 仏弟子として、当然過ぎるほど当然の行為。 3、▼3「」 ↑衆生を即身成仏せしむることができる唯一の大法である、三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊を、そのまま「社会に開いて」流布しているのは日蓮正宗のみである。 その他のものをどう「社会に開いて」みせても、根本に三大秘法へ収斂される正法でなければ、何の役にも立たない、無駄ごとである。 因みに、創価学会などには、社会に開くべき「仏法」などなにも持ちあわせていない。 あるのは、ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅のみ。 4、▼4「」 ↑上記の ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅 をばら撒く創価学会が支持母体の政党など、社会に有害なだけ。 全く、自慢にならず。 5、▼5「」 ↑同じこと。■「源濁れば、流れ清からず」 上記、ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅 をばら撒く創価学会が、大学を作ろうが、教育機関を立ち上げようが、元が濁っているのであるから、そこから発生するもの全て不浄である。 恥じこそすれ、自慢になど全くならない。 6、▼6「」 ↑同様。ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅 をばら撒く創価学会がする「文化運動」など、「謗法の文化」を宣揚することであるから、世にもおぞましい、汚らわしい、行為である。 有毒の花 仇花 を咲かすようなものである。 7、▼7「」 ↑民衆教化 とはまさに衆生を成仏の境涯へと導くことである。 ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅 をばら撒く創価学会がすることといえば、衆生を地獄へ叩き落し、国を滅ぼすことであり、間違っても衆生を成仏の境涯へなど導く「民衆救済」などできない。 ▼8「蓮祖門下として、この順縁広布の時、「ゴミ屑・糞紙以下の魔仏・鬼神のニセ曼荼羅 をばら撒く」など、情けない限りですよ。 > 恥を知りなさい!」 沖浦さん、ということですね。 ご苦労さん。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 71 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月16日(木)07時13分56秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 久しぶりに覗けば、沖浦さん、全く成長がないですね。 あいもかわらず教義的に反論不能のまま、同じ繰言を繰り返しているだけ。 どれ、では興がそそられたものから古い順に砕いてゴミ処理していきましょう。 まず、↓からいきますか。 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月11日(土)07時12分19秒 > TITLE: 樋田桜さん、貴方私にひどい事言って、自分が少し返されると訴える?? > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 沖浦老醜・老残君へ 投稿者:管理人T投稿日: 8月24日(木)19時36分29秒 ―――――――――――――――――――――――――― 以下の沖浦さんの当方の引用箇所は実に見苦しいので、当該文を補筆し再掲載してみましょう。 ―――――――――――――――――――――――――― 引用再掲 (加補筆) 沖浦老醜・老残君へ 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 8月24日(木)19時36分29秒 日寛上人様から、浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っている沖浦老耄老醜に は、無間地獄へ堕ちる土産に以下の御文をよくよく心腑に染めておくべきであろう。 ――――――――――― ■東春に云はく「問ふ、何が故ぞ経を謗じて無間に入るや。答ふ、一乗は是極楽の経なり。極妙の法を謗る故に極苦の処を感ずるなり。 ●戒壇の大御本尊は極尊の御尊体である。 その戒壇の大御本尊を軽々しく考えている沖浦臭人は、死して後、「極苦の処を感ずる」であろう。 しかもその先兆は今世にも現われてくる可能性は大きい。 ――――――――――― ■初めには極法及以尊人を謗ずる故に賤獣の報を受く。 ●(※▼「阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。」などと、御本尊の大事の深義を知りようもない分際で、このように軽々しく、生意気な口を叩く沖浦さんは、「極法」である御本尊を謗り、その御本尊を書写し授与できる唯一の御法主上人をも謗る大謗法の極悪人です。このような極悪罪人は来生には)賎しい獣となって生まれてくるであろう。 ――――――――――― ■二には平等大慧の経を謗ずる故に愚獣の報を受く。 ●愚かな獣となって生まれる。 ――――――――――― ■三には仏に権実の二教有り、権に執して而も実を破る故に一目の報を得。 ●(※ここもやはり、▼「阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。」などと、実中の実である人法一箇の戒壇の大御本尊の大事の義を破るが故に)片目が失われた形で生まれるか、生きている最中に何らかの理由で、片目が失われるであろう。 ――――――――――― ■四には法を謗り人を毀るの時、心に瞋恚を生ずる故に蛇身の報を受く。 ●(※上記同様、戒壇の大御本尊が唯一絶対の尊境である、との義を謗り、御歴代上人を謗る沖浦さんは、心に三毒の 瞋 が増し)蛇となって生まれる。 沖浦臭人の今現在のこの偏執狂状態の執拗さは、まさに「蛇身」のしつこさと言えるかもしれない。 既に前世の悪因縁の報いが生じている惨めな姿であろう。 ――――――――――― ■経に其の形長大とは大法を瞋る故に大苦の身報を受く。 ●台風の時に形大きい物がその強い風圧を受けるが如く、地獄の大苦を長大の体一杯に受け切っていくであろう。 (※法論の結果が、誰の目にも、沖浦さんが惨めな結果となった事実に対して、耐え難い苦しみを毎日感じ続けているのでしょうね。 だから、毎日毎日、ネットに噛り付いて少しでも自分が有利と見せかけていなければ心が落ち着かないのでしょう。実に見苦しい哀れな醜態ですね。 それでいて、何やら何十億も稼ぎたいと念願している とのことですが、例の痴犬やまいぬ。君などは、朝から晩までネットで書き込む姿を、このように↓批判してますが。 http://toyoda.tv/yamainu.sigoto 同じ創価学会員にここまで↑言われて惨めなものですね。 ――――――――――― ■対(むか)って法を聞かざる故に聾病の報を受く。 ●(※正当な法義を聴こうとしない、また耳に入らない状態の沖浦さんは)聾者となるであろう。今また、正法の言が全く耳に入らない姿が既に「聾病」と言えるかもしれない。 ――――――――――― ■行法を受けざる故に無足の報を受く。 ●(※正しい、身口意の三業が整足した修行を正しく受けない沖浦さんは)足が無く生まれるか、足を失うであろう。 沖浦痴犬が受けた、▼「内足靱帯断裂、後十字靱帯部分断裂、前十字靱帯損傷、皿の骨が欠けて筋肉に刺さっています。サラが少しシフトしています。(※本人談)」という状況などは、この無足の報いの先兆であろうか。 ――――――――――― ■愚癡にして経を謗ずる故に暗鈍の報を得。 ●(※愚かで仏法のイロハを全く理解できていないのに、あろうことか戒壇の大御本尊の本義を誹謗している沖浦さんは)暗鈍=道理に暗く鈍いこと。きわめて愚かなこと。また、そのさま。 であるから、ここも沖浦愚醜人、既にこの報いを十分に発揮していると言えるであろう。惨めである。 ――――――――――― ■?慢の心にして謗ずる故に?陋の報を得。 ●(※これまさに沖浦さんが、御本尊の本義など全く知りもしないくせに生意気にも仏法の本義を謗じているがゆえに以下の報いを受けているかこれから受けるであるからありましょう。)?=背が短い。陋=みずぼらしい。心、知識が狭い。身長が短い。卑しい。身分・地位が低い。品が悪い。粗悪である。醜い。いやらしい。・・・などの意味がある。・・・来世と言わず、これも既に沖浦醜人、かなりの部分で体現しているか。 ――――――――――― ■微妙の法を謗ずる故に醜陋の報を得。 ●醜陋=みにくく卑しいこと。また、そのさま。 ・・・ここも、やはり、沖浦老醜、今世で既に体現しているか。 ――――――――――― ■正直の経を謗ずる故に背傴の報を得。 ●背骨が曲がって傴(せむし)のような状態になる。既に足に「現症」が出てきているのであるから、よくよく気をつけるべきであろう。 ――――――――――― ■経に貧窮下賤為人所使とは、経に万徳を備ふるを福貴と為す。富貴の経を謗ずる故に貧賤の報を得。 ●(※万行万善を収めた戒壇の大御本尊の本義を謗る沖浦さんは)貧しく、賎しい身になろう。 ――――――――――― ■一乗に乗じて四方に遊び大自在を得。今自在の経を謗ずる故に不自在の報を得。故に人の為に使はるゝと云ふ。 ●他人に酷使される身分となるでありましょう。 ――――――――――― ■此の経は能く凡夫・二乗・菩薩の病を破る。下の経に若人有病病即消滅と云ふ。無病の経を謗ずる故に多病の報を得」と。 ●多病で悩み苦しむみとなることでしょう。 ――――――――――― 沖浦謗者が現にしている戒壇の大御本尊の軽侮・三宝誹謗・ニセ本尊への信仰は、今世・来世へ向かって、間違いなく斯様な姿となるでありましょう。 実に恐ろしいことです。 それこそ、「他人に愚論を撒き散らすヒマがあるなら」一刻も早く改心し懺悔滅罪しなければ手遅れになるでしょう。 以上引用・加筆 ―――――――――――――――――――――――――― ↑さて、当方が示したのは 1、「経典」 と 沖浦さんの「信仰姿勢」 とを照らしあわしその符号点をそのまま示しているのである。 ところが沖浦さんは 2、「事実無根の捏造話」 による「事実無根の評価」 を公の掲示板で書き散らかしているのである。 もし、1が不当であると言うのであるならば、教義的に堂々と反論すればいいのである。 それが出来ないが故に、2のような行動をとる沖浦さんが、卑怯・卑劣・意気地なし・姑息・老獪・幼稚・愚鈍・・と指弾しているのである。 しかも、2の行為はそのまま名誉毀損等法的制裁の対象となる行為である。と指摘している。 1は、あくまで教義上の論戦であって、法的には何ら問題のない掲示である。 沖浦さんは、自分の敗北感を何とか拭い去りたい、他者にも何とか自分が勝ったように思って欲しい、と執着し足掻く余り、ものの道理を全く見失い、ただただ悩乱して狂態を演じているわけですね。 その点は、件のやまいぬ。君と同様の生命状態と言えましょう。 悩乱二人組み、実に愉快で、見ものです。 さらにもうひとつこの悩乱二人組みのやまいぬ。君から沖浦さんへ以下のような手厳しい”お言葉”もありますから、同士の諫言として沖浦さん、心して拝聴したら如何か? ついでに、やまいぬ。君も自分自身によく言い聞かせてやることだな。 http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno21.htm 詳しくは↓ http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.17.htm かくも創価学会員とはものに狂う狂乱の体を示してくれるものですね。 夏の花火大会より面白い、かも。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 72 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月17日(金)11時15分18秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、以下の件ですが、実際の映像をUPしました。 http://video.google.com/videoplay?docid=-6959508356329394186 これを見れば以下の沖浦さんのウソなど一目瞭然です。 【沖浦さんの捏造証拠文】 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月16日(木)23時09分9秒 > TITLE: さくら 樋田君 > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > とうとう黙ってられなくて出てきたね〜〜。 > > だってそうじゃないかね。 > > 掲示板での物言いと、対面での。、物言い > > あそこまで揉み手して摺り寄ったんじゃね〜〜〜。 > > 私参りました!! > > そのものですよ。 > > だからね、君を恐れる創価学会員は誰一人いないんですよ。 > > あの揉み手擦り寄りの映像ね、違うカメラでばっちり映ってんですよ。 > > ただね、法論自体ではないから、公開してないだけですよ。 > > それとも何かい? > > 出来るもんなら公開してみろ!! > って、言ってみるかい???????? > > HOMEPAGE: > -- > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 8月17日(金)07時00分36秒 > TITLE: で、さくら樋田君よ > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > 擦り寄ってきたときの映像?? > > > 出せるもんなら出してみろ!!! > > て、どうして言わない???? > > ン?君らしくないね〜〜〜〜〜〜。 > > HOMEPAGE: > -- > IP=softbank221104080129.bbtec.net(221.104.80.129) 引用以上 ―――――――――――――――――――――――――― ↑しかし、沖浦さんを見ていると、人間ここまで、見苦しく足掻けるか、と感心します。 実に面白いサンプルです。標本です。実験証明の生きた検体です。 何度も繰り返しになって恐縮ですが、しかし、沖浦さんの今の生命を表現したら、姑息・卑怯・卑劣・愚劣・往生際が悪い・幼児性剥き出し・大人になれない子供・老醜・老残・非常識・詐欺・ペテン師・捏造常習犯・・・・などの言葉しか浮かびませんね。 やはり、正しい、仏・法・僧の三宝を誹謗し続けると、このように人格が破綻してしまう、という反面教師の醜い姿でしょう。 最近の沖浦さんの狂態からは、もはや 精神の異常 すら感じられます。 さて、では沖浦さん、上記のような事実は全くないのですから、ここも正式に謝罪してください。 しかし、よくこのようなすぐウソとばれることを言えますね。 実に浅はかで滑稽です。 普通の社会人としてはありえない行動ですね。 社会人失格 です。 あと、この場を借りてご挨拶です。 総本山でお会いした方々、お会いできて嬉しかったです。 また、沖浦さんのようなこういう、三宝誹謗の害虫 を共々にいよいよ駆除してまいりましょう。 よろしくお願いします。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 73 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月17日(金)11時57分52秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 今たまたま目に入ったので今日はこれを潰していきましょうか。 ―――――――――――――――――――――――――― > DATE: 2007年 7月30日(月)22時51分57秒 > TITLE: アホと書写の資格の関係性です > NAME: 沖浦克治 MAIL: > > >沖浦さんは阿呆が書写しようが蓮祖、ご図顕の御本尊と言っています。 > > 今更なにを言ってるんですか? > 映像見なさい。 > 顕師はアホ。 > 明確に言ってますよ。 > だからアホか賢いか?は、書写の資格と無関係だと思っています。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑実に粗雑な主張ですね。 ではその「書写の資格」とは一体何なのか、沖浦さんには全く分かっていない。 ―――――――――――――――――――――――――― > 但し、書写の資格は厳正にそれぞれの団体が定めるべきだ。 > ちゃんとお断りしていますよ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑その証拠に、このように▼「書写の資格は厳正にそれぞれの団体が定めるべき」などと、恥言を吐けるのですね。 つまり、この恥言は大聖人のお言葉 ■「本尊とは勝れたるを用ふべし。」(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳) と大いに反します。 何故なら、「それぞれの団体」が勝手に決めて、それを善しとするならば、どこぞの”団体”が、決めたという”書写の資格”は全て正しい、ということになり、それは仮に、立正佼成会でも霊友会でも仏立宗でも何でも、どこの団体が決めても、全部正しい、ということになり、「本尊」として、勝劣を厳格に明確に峻別しなければならない、との上記の御指南の意義に全く反するからである。 これは当然、日蓮正宗と創価学会という”団体”においても同様である。 つまり”沖浦説”だと、双方の団体が決めた書写の資格は双方正しい、ということになり、これまた上記の御指南の御義と全く反する。 いくら捏造常習犯の沖浦さん個人が▼「ちゃんとお断りして」下さっていても、そのような我見は全く通用しない。 そんな簡単な道理も分からなくなっている狂態の様が沖浦さんの 異常さ の現われですね。 沖浦さんの「本尊観」など所詮この程度の子供以下の稚論ですね。 全く採るべき内容ではありません。 今世で反省慙愧してやり直すか、生まれ変わって出直して来ることですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 74 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月17日(金)12時56分3秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| > では、どのように定めるか? > > それはね、新しく書写する要求が時代とともに発生した時、その時の衆生が決めればいいのです。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここも、引き続きとんでもない痴言ですね。 沖浦さんの恥言など以下の御文の仰せからも大きく外れている駄言です。 ■ 第廿五 建立(こんりゅう)御本尊等の事 御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是(これ)なり。日蓮慥(たし)かに霊山に於て面授口決(めんじゅくけつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(就註法華経口伝 上) 1、御本尊とは■「法華経の行者の一身の当体」である。 2、それはおよそ御本尊として我々が拝する御本尊は書写・形木御本尊全て■「法華経の行者の一身の当体」である。(ただしここに事と義の筋目が存する) 3、それは■「寿量品の事の三大秘法」である。(三大秘法は一大秘法へ究境される。つまりは戒壇の大御本尊の御事である。) 4、日蓮大聖人はこの三大秘法を■「慥(たし)かに霊山に於て面授口決(めんじゅくけつ)」為された。 (つまり、唯授一人・血脈相承 された。) 5、この■「慥(たし)かに霊山に於て面授口決(めんじゅくけつ)」という唯授一人・血脈相承を為されたが故に、「法華経の行者」とのお立場であられた。(外用の辺) 6、その■「法華経の行者の一身の当体」が御本尊である。 7、であるから、■「法華経の行者の一身の当体」でない者がどう本尊を書写してもそれは、真の本尊ではない。 8、つまり、大聖人以来の唯授一人・血脈相承によって■「慥(たし)かに霊山に於て面授口決(めんじゅくけつ)」せられた■「寿量品の事の三大秘法」を相伝・伝持される方以外が、御本尊を書写してもそれは真の御本尊には成り得ない。 9、日蓮正宗は日蓮大聖人以来の唯授一人・血脈相承を法統連綿と相伝・伝持している唯一の「団体」である。 10、故に日蓮大聖人以来の唯授一人・血脈相承を受けられた御歴代上人以外には「本尊」は書写することができない。 11、勝手に「書写」でも何でもするのは自由だが、それは真正の本尊ではない。 12、真正の本尊でないものには「魔」や「鬼」が入り込む故に、そのようなモノはゴミ屑・糞紙にも劣る、魔札・鬼札である。(※なぜゴミ屑・糞紙にも劣るかといえば、73氏が当方の意義を解説してくれたように、ゴミ屑や糞紙には魔やら鬼やらは宿っていないからである。) 13、故に、沖浦さんの▼「新しく書写する要求が時代とともに発生した時、その時の衆生が決めればいい」などという痴言は、全くの愚論・駄言・稚論 である。(因みに、当然、現時の創価学会発売の3000円の曼荼羅掛け軸も、ゴミ屑・糞紙にも劣る魔札・鬼札である。) 14、追言すれば、沖浦さんの▼「新しく書写する要求が時代とともに発生した時、その時の衆生が決めればいい」などいう駄言は、 本尊=法華経の行者の一身の当体=末法の仏 であるから、▼「新しく「末法の仏」の要求が時代とともに発生した時、その時の衆生が「末法の仏」を決めればいい」と言っているのに等しい。 実に下らない駄論である。 やはり沖浦さん、このような愚論を繰り返しているから、捏造常習犯となり、更には、いよいよ精神にも異常を来し始めているのでしょうか。 15、更に詰言すれば、沖浦さんの駄言は、大事の御本尊の御事(法)を衆生の考え(機)で決める。ということですから、 ■機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり。846 と大聖人様からきつくお叱りを受ける醜態を晒しています。 「僻見」=偏った見方。ひがんだ考え。 とあり、沖浦さんの狂った仏法解釈そのものの姿を言い抜いていますね。 更に、 「僻」=偏る。ひがみ。よこしま。あやまちをかざる。また外面をかざって誠実さが少ない。 などの意味があります。 これなども沖浦さんの言動を 言い得て妙 でありましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 75 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月17日(金)17時41分31秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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▼1「現在、創価学会は御本尊様に不自由しておりません。」 > ▼2「今から、書写の資格を決定するメリットなんか皆無です。」 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ ▼1「現在、創価学会は御本尊様に不自由しておりません。」 何を以って、何を基準に、自由・不自由を決めるのか。 沖浦さんはただ「功徳があるから。」との一点のみしか言えませんね。 しかし、これは、 魔の通力 ということで破折済み。 沖浦さんはこれにも全くの反論不能のままです。 http://toyoda.tv/okiura.1.ma 「在家が勝手に曼荼羅本尊を作ってよし。」などという御文は全くありません。 にもかかわらず、そのような魔札・鬼札を作り出した創価学会に対して ▼「現在、創価学会は御本尊様に不自由しておりません。」 などと言っているのは、 ちょうど麻薬に溺れる中毒者が、「俺は、今、何も不自由はしていない。放っておいてくれ。余計な干渉しないでくれ。」と言っているのに等しい駄言です。 あるいは、泥酔して車に撥ねられ、救急病院に運ばれて、大量に出血しているのに酔いでそれと気づかず、治療しようとする医者に向かって「俺は今良い気分なんだから放っておいてくれ!」と言っているのとも同様ですね。 大聖人様が謗法に狂える様を仰せになった ■酒に酔へる者父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後歎(なげ)きしが如し。歎けども甲斐なし、此の罪消えがたし。 この御文と同轍の姿でしょう。 ―――――――――――――――――――――――――― ▼2「今から、書写の資格を決定するメリットなんか皆無です。」 これは、沖浦さんが御本尊書写の真の意義が理解できないくせに ▼「阿保が書写しようとかしこが書写しようと、蓮祖御図顕の御本尊様です。」 などと大層生意気な口をきいたのはいいが、 ●「では、北山の貫主が書写した曼荼羅でも”御本尊”と為り得るのか?」との私からの詰問に答えることが出来ず、自分の主張に大きな矛盾が生じたために、その場しのぎの苦しい言い逃れをしているに過ぎませんね。 一体、どういう時、どういう状況になったら、御本尊を書写する必要がでてくるのでしょうかね? 実にお笑いの恥言です。 しかも、法論では、 ●「身延の貫主が書写した曼荼羅は本尊と為り得るのか、どうか?」との私の詰問に ▼「南無妙法蓮華経の下が「日蓮」でないからダメ。」などと知ったかぶりに答えたのはいいが、 ●「では、そうでなければそれはいけない、と御書のどこに載っているのか?」との再詰問に ▼「・・・・・」沖浦さん親子、全く反論不能で赤っ恥をかいた。というおまけつき。 実にみっともない醜態でしたね。 沖浦さんの「本尊観」など所詮、この程度の浅はかなもの。 そういう仏法の根本義を知らない者は素直に正しい仏法に帰依すればいいものを、それも出来ず、我見・慢心・偏見・執着の塊、鬼と化して、痴言を並べてている様は、ぶざまであり、みっともない哀れな姿ですね。 これで齢60になろうとしている「大人」とは到底思えません。 世間の人が見ても、沖浦さんの異常さは際立っていることでしょう。 しかも自分でその異常さに気がつけないところが三毒の 癡 という愚癡の病がいよいよ深いせいですね。 無慚 で実に 無惨 ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 76 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月19日(日)23時34分12秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、では次 ―――――――――――――――――――――――――― ▼> 何度も言ってますよ。 > > 理解能力がありませんね〜、法華講って。 > > 本門戒壇でも後世の人の判断です > ▼1「> 戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼実の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず」 > ▼2「> 書写も当然そうですよ。」 > > これが理。と、言うものです。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑さてさて、またまた実に怪しい論の展開ですね。 では、細かく見ていきましょう。 1、まず、▼1「」の引用文は、三位日順師の「本門心底抄」の一文である。 沖浦さんはこの文の引文により、「御書以外の文によっても自らの主張の裏づけを成してもいい。」との前例を作った訳です。 ので、以後、私も必要に応じて「御書」の御文以外でも、引文させていただきます。 沖浦さんはその論考を今後一切文証の引文の仕方によって否定したり、逃げ回ったりできないわけですね。 またもや、沖浦さん、自分で自分の首を締め上げましたね。 ご苦労様。 沖浦さんは折角苦労して、あざとく、ずる賢く、しかも強引な手法で手に入れた「御書の御文のみでの論証」 という不当な条件を、自分から破棄したわけです。 やはり、三宝誹謗を繰り返す謗法者というものは、じっくり応対していくと、このように、どんなに策略を用いても自ら墓穴を掘って、自らその穴へ飛ぶこむような愚行をしでかすものですね。 実に浅はかです。 ―――――――――――――――――――――――――― 2、▼2「書写も当然そうですよ。」 ↑これについては全く根拠がありませんね。 そもそも、以下の御文に代表されるように、日興上人を首とする御歴代上人全ての御方は内証、三宝一体の僧宝の御方であり、その御指南はそのまま日蓮大聖人の御言葉と拝することが、大聖人様の御心です。 ■「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、(中略) 血脈の次第 日蓮日興」 ■「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n) ■【百六箇抄】(1702) ※ 但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。 では、御本尊書写についてはどのような御指南が存するかといえば、 ■ ※ 此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし(新編一六八四n) →御本尊の御事は、唯授一人・血脈相承の御歴代上人のみにしか相伝・伝持されない。 ■ 日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。(富士一跡門徒存知事 延慶二年) →その証拠として日興上人が「御書写」なされていた。 (※の後加文について。 「後加文は用いない。」との制約は、沖浦さんが三位日順師の文を引文した段階で無効である。 何故なら、この箇所は、 その三位日順師が同じ「本門心底抄」において ■但し師資相承未聞の私案自門一人の外は口外すべからざる密義なり。 と、大聖人の仏法の奥旨・密義は唯授一人・血脈相承で相伝・伝持される。と示した通りの「自門一人」の第五十九世日亨上人が ■「後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促(うな)がす便とせり」(富要集一巻二五頁) として、義において正当である。と決判くだされた箇所あるからである。) ■日精上人 「当家甚深之相承之事。全く余仁に一言半句も申し聞かすこと之れなく、唯貫主一人の外は知る能わざるなり。(略)又本尊相伝唯授一人の相承の故に代々一人の外書写之れなし」(歴全二―三一四n) ■『有師化儀抄註解』日亨上人 曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り・敢て・沙弥輩の呶々する事を許さんや、 ■然るに余門流の僧侶不相伝の侭猥りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず・雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼等の為に門を開けり・慎まざるベけんや、 ■ 日顕上人猊下御指南 全国教師講習会の砌 昭和五十六年八月二十五日 於 総本山大講堂 言うまでもなく、御本尊書写の大権は大聖人から御相承を承けられた日興上人、そして歴代法主のみに委ねられた権能であり、資格であります。 ↑以上の御指南から、沖浦さんの妄執である、 ▼2「書写も当然そうですよ。」(←将来、御本尊を書写する必要が新たに現われた時、書写する資格を創価学会で決めればいい。) などという、実に幼稚で粗雑、しかも不遜な恥言など、全く取るに足らないたわ言であることが明白です。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 77 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)10時18分38秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下の沖浦さんの書き込みには、自説の正当化の根拠に、創価学会の歴代会長の言葉=「自宗の歴代の言葉」を用いています。 引用 ―――――――――――――――――――――――――― 日蓮正宗辞め時ですよ 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年 8月17日(金)07時13分34秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 以前、戸田先生が言われました。 『創価学会はよく残った、大聖人様のおめがねにかなった。 日蓮系は堕落か玉砕しかなかった、よく創価学会は残った。』(趣意) 同じく、池田先生は、 『創価学会が残ったのは現代の奇跡です。 戸田先生が御書を依義判文して読まれたからです。 これは誰も出来なかった。 戸田先生だから出来た。』(趣意) と仰せです、 創価学会が離れ、日蓮正宗は元の、原理主義か堕落か。に、戻ったのです。 概ね、上に行けば堕落、末端は原理主義。 この図式ですね。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑この事実により、前回の指摘に続き、今後、私も、沖浦さんに倣い、「自宗の歴代の言葉」を以って、論証の根拠にさせていただきますね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 78 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)10時34分58秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下の駄論を砕いていきましょう。 ―――――――――――――――――――――――――― 法華講さん方 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年 8月17日(金)06時57分49秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 だからね、▼1「謗法に薄汚れたボンさん」に塔婆なんか立ててもらったら、ご先祖様が迷惑されるんですよ。 ―――――――――――――――――――――――――― 【破折】 1、▼1「謗法に薄汚れたボンさん」などと、三宝誹謗の極悪人の癖に随分と生意気なことをいうものである。 なるほど、三宝誹謗するような極悪人だから▼1「」のような根拠のない悪態が平気でつけるのか。 もはや、反論不能で隠居した沖浦さんには酷かもしれないが、では、▼1「」といえる根拠を明示していただこうか。 ちょっと遅い夏休みの宿題頑張りましょう。 因みに、▼1「」のようなたわ言は、大聖人様に厳重に叱責されている。 ■「頭を剃り架裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是我が子なり。若し彼を過打すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり。 」 御僧侶は、戒を持つ方、たとえ、戒をやぶる方でも、(もちろん末法では謗法厳戒以外は無戒であるから、持戒も毀戒もそもそもないのであるが、権教の表現として用いられている)天界の人も、人界の人も、この御僧侶を供養すべきである。それはそのまま我=仏=文底では日蓮大聖人、を供養することになるのである。また御僧侶方は大聖人のお子である。もし、御僧侶方を打ち据えることがあれば、それは大聖人のお子を打ち据えることになる。もし御僧侶方を罵り、辱める者は、大聖人を毀損し辱めることになる。 沖浦さんは、口を極めて御法主上人や御僧侶方を侮辱し、軽しめ、卑しみ、憎み、恨み・・・してるのであるから、それはそのまま大聖人様へ唾を吐きかけているのと同様である。 必ず、頭破作七分の報いを満身に受け切った生活となること火を見るより明らかである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 79 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)11時56分22秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さんの引文箇所 『目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひはんをまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり左の手にてははんをかくして口にをし入れ給いしかば、いかんがしたりけんはん変じて火となりやがてもへあがり、とうしびをあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のごこごことやけ候しを目連見給いて、あまりあわてさわぎ大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、其の水たきぎとなりていよいよ母の身のやけ候し事こそあはれには候しが、其の時目連みずからの神通かなわざりしかばはしりかへり須臾に仏にまいりてなげき申せしやうは、我が身は外道の家に生れて候しが仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへて、三界の生をはなれ三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候にかへりて大苦にあわせて候は、心うしとなげき候しかば、仏け説いて云く汝が母はつみふかし汝一人が力及ぶべからず、又何の人なりとも天神地神邪魔外道道士四天王帝釈梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじきをととのへて母のくをはすくうべしと云云、目連仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候、』 (盂蘭盆御書) この御書を真面目にお読みなさい。 ▼1「謗法の供養」はね、かえってご遺族を苦しめます。 ▼2「どうしても塔婆が立てたければ、自分で薄い板を買ってきてお題目とご遺族のお名前を書き込んで仏壇の横に立て、ご自分でおやりなさい。 そうすればご遺族はお喜びです。」 謗法に薄汚れたボンさんなんかに、大切なご遺族を追善供養を任せてはいけませんよ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑実に粗雑極まりない恥言ですね。 1、”目連尊者が「謗法」である。”などと、どこに書いてあるのか? @ この「盂蘭盆御書」全体の意義とするところは、 「小乗の法では父母の苦は救われない。法華経(=御本尊(→戒壇の大御本尊へ究境される))により、法華経(御本尊)を正しく伝持される”僧”により供養・回向されることにより初めて父母をはじめ上無量生の先祖が成仏する。そしてその功徳は、累々と続く子孫もみな成仏の境界に到る。(趣意)」という意義である。 A その中で、この当該文は、小乗の法によって母を回向しようとしてもその苦が増してしまった、という意義を示された箇所である。 B だからと言って、釈尊在世において小乗の法が直ちに謗法ではない。 それは本已有善の機に対しての熟・脱仏法だからである。 ―――――――――――――――――――――――――― 2、盂蘭盆の先祖回向は大聖人様の教団でも成されていた。 文証 当該文の直後に ■「其れによて滅後末代の人々は七月十五日に此の法を行なひ候なり。此は常のごとし。」 とあり、盂蘭盆の回向は、仏法通途の化儀であったことが分かる。 大聖人様の御化導全体の法規から見て、仏教全般での通常の化儀は、法華経の深義より奉修為されている。 また、本抄の最後には、 ■「貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり。二百五十戒一戒も持つことなし。三千の威儀一つも持たず。智慧は牛馬にるい(類)し、威儀は猿猴(えんこう)ににて候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。(中略) 治部房も又かくのごとし。(中略)一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。此の羽をもて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。あわれいみじき御たから(宝)はもたせ給ひてをはします女人かな。(中略)此の女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。」 とあり、本抄「盂蘭盆御書」の文脈からいって、この■「父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。」との意義は、盂蘭盆回向をはじめ様々な先祖回向の法要・法事・仏事を大聖人門下の御僧侶が奉修為されていたことは明白である。 それはまた、他の様々な御書にも数多く遺されている記述からも明確である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 80 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)12時28分6秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼2「どうしても塔婆が立てたければ、自分で薄い板を買ってきてお題目とご遺族のお名前を書き込んで仏壇の横に立て、ご自分でおやりなさい。 そうすればご遺族はお喜びです。」 破折 もはや、狂人 ですね。 以下の詰問に全て御書の御文(他、正当と認知される文証でも可)で答えていただきましょうかね。 1、では、学会で飼われている、脱落僧 に頼む必要はないのか? 沖浦説のごとく、脱落僧 は 謗法 だからか? では、脱落僧 は何故創価学会に必要なのか? それとも不要なのか? 2、”自分で塔婆を立てる”場合、沖浦さんの 狂気 を嗤う。 @ 何故、「薄い板」でなければならないのか? 「厚い板」ではどうしていけないのか? いっそのこと丸木の原木ではどうか?それではいいのか、悪いのか? 皮は剥いだ方がいいのか、生木そのままのほうが効果があるのか? 木の種類は何でもいいのか? それとも「杉」とか「松」でなければいけないのか? 種類によって功徳に差はあるのか? 先祖の浮かばれ方に差が生じるのか?同じなのか? 同じなら、なぜそうと言えるのか? A プラスチックや塩化ビニールではだめなのか?それは何故か? B どのような形でもいいのか? 幅とか、高さに決まりはないのか? C 題目はどう書くのか?「南無妙法蓮華経」なのか。「妙法蓮華経」なのか? D 漢字で書くのか?ひらがな・ローマ字・などでもいいのか? E 幼稚園児や小学生が書いてもいいのか? F この「ご遺族」とは「故人」の間違いではないのか? そのまま、「遺族」の場合。 G まず、何故「遺族」の名を書く必要があるのか。 「故人」の名を書かなくていいのか?それでは誰を回向しているのか、分からないではないか? 複数の「故人」を回向する場合、この沖浦発案「自家製塔婆」全部に同一の「遺族」の名を書き並べることになるがそれでいいのか?いかにも変ではないか? 「故人」の間違いであった場合。 H そもそも、何故、故人名を書く必要があるのか? I 題目の上なのか下なのか?その理由。 J こんなことで「故人が喜ぶ」、という根拠は? さ、沖浦さん、ざっと、書きましたがこれらに正しい文証を以って答えていただきましょうか? では、よろしくお願いします。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 81 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)16時04分12秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| @ 次に、大聖人様の教団において塔婆供養が為されていた事実の論証。 文証 ■ 草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳 問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり。妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。 ↑この「草木成仏口決」は、非情・草木・死人 が成仏する一念三千の悟りとその原理を述べられている御書である。 およそ大聖人の仏法は衆生が成仏を為すことに主眼・根本義が存する。 (その衆生が間違いなく成仏できる法を全世界へ流布することにより天下・国家の根本的・恒久的安泰を目指すことが「広宣流布」の意義である。) 生死は即涅槃であり、生と死が別々に別次元で語られることはない。 本来一如していることが有様である。 その生死の成仏を説かれている文脈の中で、殊に「死の成仏」の御義を述べられる箇所が ■「其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」 との御文である。 死は一切の衆生の避けて通れない一実相であり、全ての衆生に平等に訪れる現象である。 その一切の衆生の「死」において、塔婆を立て、開眼供養をすることが「草木成仏=死人成仏」となる。と説かれておられるのであるから、この万人が迎える「死」において、塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である。 A ▼「大聖人様は塔婆供養の化儀を為されなかった。」と邪難する馬鹿者が居るようだが、 もし、そうであるならば、この御文の原理から、 「衆生が死ぬ時、塔婆を立て開眼供養しなければ、死の成仏にならず、草木成仏しない。」との意味になる。 そのようなことを大聖人がお認めになる訳がない。 B また▼「塔婆供養などは塔婆供養を執拗に望む特別の信徒のみに行われた特殊な化儀」 などということは 「塔婆の開眼供養=草木成仏=死の成仏」 との原理から、全く採用され得ない、創価学会の立場を無理やり正当化しようとして自見に固執したただの 己義 である。 C 次に ▼「塔婆供養は在家でも出来る」などと嘯く、沖浦さんのようなたわ言は、全くの恥言である。 文証 ■ 今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず禿居士。(中略)而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。(中略)舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我が身羸弱にして所従亡きが若く牛馬合期せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天に?(う)ち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼眩き足冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺、役の優婆塞が大峰も只今なりと云云。 然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見るに、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息む。(中略)然る後、随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ(忘持経事) ↑この御文から、もし、大聖人様もしくは、大聖人からの御命を賜った御僧侶の法事・仏事・法要の必要がなかったのならば、何故、「下州」より、上記の御文のごとくの苦労をしてまで、わざわざ「甲州」の大聖人の御許まで母君のお骨を抱いて詣でたのか。 自分で「薄い板」でも切って来て自分で題目を書いて、”遺族”の名前、「富木常忍」とでも書いて、自邸で塔婆供養すれば良かったではないか。 更には自邸で「随分に仏事を」為せばよかったではないか。 何故、遠路はるばる大聖人の御許へ馳せ参じたのか。 (富木殿は、半僧半俗の「禿居士」であるから、ただの在家の創価学会員よりは、自身で法要を行える立場に近い、とも言えるのに、である。) 沖浦説では全く説明がつかない。 (これはまた、大聖人及びその御弟子方による塔婆供養及び葬儀の義を否定する馬鹿者たちも同様である。 (因みに@Aの論証から、この「仏事」の中に、「死の成仏」の為の塔婆供養が含まれることは理の指し示すところ明白である。)) D ▼「自分自身の信心によって成仏を遂げるのであって、それとは別に他人に塔婆供養してもらう必要などないではないか」との稚論について。 簡単である。生ある時には自身の信心修行により即身成仏を目指すのは当然である。が死によって能動的・自発的な信心修行は出来なくなる。 であるから、縁故の者が故人の永続的かつ深化した境界としての成仏を願い、死の成仏を成就できる塔婆供養をお願いするのである。 末法の衆生の即身成仏とはあくまで常に信力・行力によっての境智冥合の果報としての境界であって、確定的な永続性などないのである。 であるから、どんなに生前の修行が進んだ者に対しても死して後には縁故者がその故人の更なる成仏の境界を願い、塔婆供養等追善回向の仏事・法要・法事等をきめ細やかに為していくことが肝要であり、またそのように報恩の誠を尽くしていくことが仏道を求める者の当然至極の道である。 つまり、そこにこそ「仏の道」=自身が即身成仏していく道、があるのである。 この正しい仏道=仏の道を世に広めていくことを真の「広宣流布」というのである。 このような観点からも、創価学会が如何に、大聖人の正統なる仏法の道筋から遥か遠く離れたか、よくわかるというものである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 82 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)16時58分22秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 大聖人様が如何に、「孝養」=故人の追善回向を御僧侶にお願いすること を大事にお考えあそばされていたかが、以下の御文でよく領解できるところである。 ■ 上野殿御返事 弘安三年三月八日 五九歳 故上野殿御忌日の僧膳料(そうぜんりょう)米一たはら(俵)、たしかに給(た)び候ひ畢(おわ)んぬ。御仏に供しまいらせて、自我偈一巻よみまいらせ候べし。 ↑これまさに、南条時光殿が、お父君の御命日忌の追善供養を「御住職」であられる日蓮大聖人へお願いして、御供養された明文である。 そこで大聖人様は時光殿からの御供養を御本尊の御前に奉じ、自我偈を読誦され、法要・法事・仏事を為されている。 この姿は、そのまま今の日蓮正宗での化儀の姿である。 もし在家だけで法要すればいいのなら、時光殿はわざわざ大聖人へ追善供養のお願いをする必要はなかったはずである。 ―――――――――――――――――――――――――― ■(中略)不孝をもて思ふに孝養の功徳のおほ(大)きなる事もし(知)られたり。(中略)内典五千余巻又他事なし、たゞ孝養の功徳をと(説)けるなり。(中略)釈迦如来は(中略)四十二年と申せしに(中略)父母の御孝養のために法華経を説き給ひしかば、宝浄世界の多宝仏も実(まこと)の孝養の仏なりとほ(褒)め給ひ、十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき。 ↑ここは、いかに「孝養」=故人への追善供養 が大事であるかをお説き遊ばされている箇所である。 創価学会員などは、公明党の票取りと、財務、聖教新聞の啓蒙、など、ただ目先の権力奪取や金集めに狂奔させられて踊らされているだけであり、大聖人様が仰せのこれほどの大事である「孝養」の誠をを尽くす術を忘れ果てているのである。 実に哀れなものである。 ―――――――――――――――――――――――――― ■ これをもって案ずるに日本国の人は皆不孝の仁ぞかし。涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給へり。されば天の日月、八万四千の星、各いか(怒)りをなし、眼をいか(怒)らかして日本国をにらめ給ふ。今の陰陽師(おんようじ)の天変頻(しき)りなりと奏し申す是なり。地夭(ちよう)日々に起こりて大海の上に小船をう(浮)かべたるが如し。今の日本国の少児は魄(たましい)をうしな(失)ひ、女人は血をは(吐)く是なり。 貴辺は日本国第一の孝養の人なり。梵天・帝釈を(降)り下りて左右の羽となり、四方の地神は足をいたゞいて父母とあを(仰)ぎ給ふらん。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑日本で一番多人数の宗教団体である創価学会が、このまことの孝養の道を踏みはずしているがために、地震・台風・猛暑・豪雨などの天変地夭が頻発し、人身は荒廃し、身内同士で殺しあうような、目を覆うがごときの犯罪が連日横行する、荒んだ世の中になってしまったのである。 その中でも、大聖人様以来の正しい化儀そのままに追善供養に精進する日蓮正宗僧俗には現然とした諸天のの加護があるのである。 それを実感できようもない創価学会員は誠に哀れ極まりない。 少しでも心ある創価学会員は、今創価学会が大聖人様の仏法とは全く違う、三宝なき葬儀(←ニセ本尊へ向かって、創価学会指導部あたりの全く何の資格も修行も相伝もないただの謗法在家が、ニセ導師を勤める葬式)を蛮行していることが、いかに恐ろしく、おぞましい堕地獄の行為なのか、じっくり考えてみるべきでしょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 83 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)20時41分15秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 大聖人の御時から塔婆の化儀が存した事実 文証 ■去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つゞみをうてばひゞきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。 弘安二年=己卯=十一月卅日 身延山 日 蓮 花 押 中興入道殿女房 ↑この御文についての邪難に対しての考察 ―――――――――――――――――――――――――― 1、▼「丈六」とは、インド応誕の釈尊の、身の丈から転じて釈尊の御身を顕す語であるから、この場合「仏身」を意味するのではないか。 文証 ■釈迦仏の御身は丈六なり。(四条金吾殿御返事 文永九年 五一歳) ■仏は丈六の御身なれども、云々(法蓮抄 建治元年四月 五四歳) 現に今、日蓮正宗の塔婆には、「妙法蓮華経」の直下に「此中已有 如来全身」とお認めであり、「此の中に已に如来の全身が有り」という意味であり、まさに、塔婆がそのまま草木成仏の仏身という意義を顕されている。 であるから、特に「丈六」という”寸法”に拘る必要はないのではないか。 その上で、それがまた、板塔婆であったのか、五輪石塔などであったのか、それはそう大きな問題ではない。 「塔婆の開眼供養=草木成仏=死人成仏=故人への孝養・報恩」という重大法義を、どのような形で具現化するかは、時代時代の要請によって変遷しても別段問題はない。 ―――――――――――――――――――――――――― 2、邪難 ■「此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。」とあるから、在家が書いてもいいのではないか。 中興入道殿は元々は念仏の熱心な信者だったのであり、「南無阿弥陀仏」と峻別する意味において、「塔婆には「南無妙法蓮華経」を顕すべきである。願主として、その意義を領せられよ。」とお教えであると拝する。 この御文を以って「在家が塔婆に南無妙法蓮華経を書いていい」などと解釈するのはいかにも浅はかである。 それは以下の日有上人の化儀抄及び日亨上人のその註解に明白である。 ■第八条【三十一条】、卒塔婆の事、縦ひ能筆なりとも題目をば書くべき人にかゝすべし、(中略)導師計の外には沙汰有るべからざる事なり云云。 類 文 【土佐吉奈】連陽坊聞書【文明八年】、仰に云く・親の為などに我が塔婆を書く事然るべからざるなり、(中略)我レ書く時は我レ計りにして師弟相対の義なし・(中略)如何に悪筆なりとも題目計りをば其所住持書くべきなり、(中略)去れば上代日目上人十三回の御卒塔婆日道上人題目計り遊し云々 〇註解(日亨上人) (中略)題目をば是非とも時の導師たるもの書くべき事類文の如し ―――――――――――――――――――――――――― 3、「題目の大切さと功徳の大きさを述べたもので、塔婆そのものには意義はない。」との邪難もある。 これは、 http://toyoda.tv/okiura.toba の論証において、破折済み。 |
| 創価学会の痴犬たちへ 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月21日(火)21時17分44秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| この掲示板の創価学会員の余りの 馬鹿さ加減 に吹き出しつつ一筆。 ■ 身延山付嘱書 弘安五年一〇月一三日 六一歳 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。 弘安五年=壬午=十月十三日 武州 池上 日 蓮 花 押 ↑この「身延山久遠寺の別当」 とは一体何のことか分かっているのかね? 「身延山久遠寺」 とはまさに「一寺」であり、 この 「別当」 とはまさに、「住持・住職」 のこと。 別当=僧官の一。東大寺・興福寺などの大寺に置かれた長官で、一山の寺務を統轄した。 住職=一寺を主管すること。また、その職分。寺の長である僧。住持。 こんな初歩の中の初歩に蹴躓いているものどもだから、三大秘法や三宝が分からないのも当然か。 日興上人は身延山久遠寺の「第二代別当=住職」を日蓮大聖人から「相承」されたのである。 相承=弟子が師から、子が親から、学問・技芸・法などを次々に受け継ぐこと。 では、その「相承」為された「身延山久遠寺」初代「住職」は誰か?(・・・・ほんと馬鹿相手にすると苦労するわ) まさに日蓮大聖人である。 さ、創価学会の馬鹿犬たち、反論してみたまえ。 |
| お知らせ 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)11時58分11秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君の荒唐無稽で無知丸出しの駄言に対しての破折のつづき、 70 以降を以下に追加しました。 ↓ http://toyoda.tv/okiura.kensyo2 ご確認ください。 沖浦君はこれに対して正当な反論は今に至るまで全くできていないですね。 ただただ痴犬が吼えるがごとく、喧騒に、無為に騒いでいるだけです。 いい年をした壮年がかくも見苦しくなるとは。。 創価学会の害毒の酷さを証明するいい”実験体”と言えましょう。 心ある学会員にとっては、「自分たちも同様とは思われたくない!」という、目を覆いたくなるような、醜悪なざま でしょうね。 しかも、本人はそういう惨めな状況に気がついていない、ということが実に滑稽であり、浅ましい限りです。 沖浦君はこのように謗法の悪果報を演じるためだけにこの世に生まれてきてその役目を忠実に果たしている、実にご苦労な人生ですね。 時間がなかなか取れないですが、日々の活動の合間を見ながら、少しづつでもこの醜悪な謗法者の駄言を砕いていきますかね。 こういう者は正法の者から摧破されるためだけにこの世に生まれてきたわけであるから、我々にとっては、真の魔を破折するための準備としての、いい破折の”練習台”になるわけです。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 84 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)18時41分30秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 5
8分ごろ 沖浦言 「これは私見だが、御本尊からは声が出ない。ところが唱題していく中で自分の声なのか御本尊からなのかわからなくなるときがある。これが境智冥合であって、こういうときが開眼であり、梵音声を添えたことになる、のではないか。そういう気がする。(趣意)」 実に噴飯ものの、まさに、 私見 である。 どころか、話にもならない 我見・妄執 の類である。 1、「境智冥合」について。 三宝抄 ■「信力堅固に本尊に向かう則んば一念三千皎らかに目前に在り。吾本尊を礼すれば本尊吾を礼したもう、譬えば鏡を礼するに影亦吾を礼するが如し、境智冥合して事観此に達するなり。」 と日寛上人が仰せのごとく、一念三千の観に事の上で達することである。 沖浦君が言うような、「声がどうのこうの」などという、浅はかな状態のことを言うのではない。 実に、愚かである。 仏法を知らなすぎる、というものである。 2、であるから、「開眼」「梵音声」についての 怪釈 も全てただの自分勝手な思い込み・根拠・文証のない我見・妄執そのものである。 沖浦君の言い分など全てこの類の駄言である。 今世、ただただ謗法をするだけのために生まれてきた悪因縁の醜悪な謗法者。 実にご苦労なことである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 85 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)22時22分38秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chaper
5 9分あたり いよいよ、無知炸裂である。 沖浦言 ▼「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。」との御文にある、「盲目を開く」、「目を開く」、ということが「開眼」ということだと思う。(趣意) ↑またまた、実に、一読噴飯の 痴言 である。 これについては既に法論前に当板で破折仕切ってある。 我見の塊の沖浦君には難しくて理解できなかったのであろう。 今に至るまで全く反論不能である。 【編集し再掲】 (中略) この段の趣意は ”末法弘通の正体は三大秘法であり、衆生の不幸の原因である根本の迷いの煩悩である根本無明惑を断破し、開かしむる功徳がある。衆生が無間地獄に堕ちる根本原因である無明を断尽するのであるから、無間地獄へ堕ちる道を塞ぐ事ができるのである。” ということであり、「盲目」の「盲」とは”衆生本来の覚体に暝いという”迷い”、「目」とは”衆生本来の覚体を覚知した姿”、と言えましょう。 つまり、「盲」も「目」も、あくまで「衆生の機」に約した表現であります。 一方「開眼」とは、非情の草木を一念三千の悟りから開かれたところの原理によって、草木成仏為さしめ、以って生身の仏=本尊と為す。との意義ですから、「法体」に約した概念であり、表現であります。 【傍証】 ■所詮眼の一字は一念三千の法門なり。(御講聞書) (眼=一念三千 と仰せであるから、まさに「開眼」とは一念三千=非情成仏=草木成仏 との原理を明示された御文である。 つまり、開眼の意義は、木絵二像開眼の事、草木成仏口決、以外の御文にもこのように首尾一貫として明示されてあり、読み取る力のある者にとっては、実に明快な御教示なのである。 が、三大秘法の法体に迷う謗法者どもには全く読み解くことができない。 沖浦君のように、自見・我見を盲滅法に振り回すしか能がないのである。 結果、一文を”怪釈”すれば、このように他の御文と整合性が取れなくなる、という醜態を晒す羽目になるのである。 これが、三宝誹謗を生業にすべく生まれた者たちの哀れさである。) この「衆生の機情に約した語」と、「法体に約した語」を混同・錯誤しているのが沖浦さんの主張です。 ここでも、沖浦君はまたもや大きな失態を演じたようである。 ■「機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり。」(撰時抄 建治元年六月一〇日 五四歳) 法体と衆生の機を混同錯乱して、その筋目が全くわからなくなって、支離滅裂な我見を振り回しているのが沖浦君のせいぜいの限界点である。 だから、いい年をしても幼児性剥き出しのまま、成長した大人の社会人とは到底思われないような哀れな人間性を形成してしまい、しかもその事実に気がつかないのである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 86 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)23時03分55秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter
6 4分あたり 当方の開眼供養の論証について、その一端を聞き終わった後で沖浦君、 ▼「それはそれで、そう解釈すればいい。それは学問の問題だから。そう解釈するな、というのは僭越になる。(趣意)」 ↑これも、また、実に大聖人の御心から大きく逸脱した 戯言 である。 これは沖浦君がまともにきちんとした形では反論ができないがために、 「今までの掲示板でのやりとりからして、下手に反論すれば詳細に徹底的にやられてグーの音もでなくなるので、それは何としても避けたい。」との思いから、狡賢くすり抜けようとしたに過ぎない。 @ もし、当方の論証を是認するのであるならば、そのまま板・紙幅の曼荼羅御本尊の「開眼」の必要性を認めることになり、かつまた、その「開眼」のない創価学会が3000円で販売している模造掛け軸は、魔や鬼が入り込んだ、ゴミ屑・糞紙以下の最低の物体である。ということをも認めることになる。 A 創価学会にとっては今販売している模造掛け軸は”命より大切な御本尊さま”である(はずである)。 B 当方の主張はその大事な”御本尊さま”を「魔仏・鬼札」と断じているのであり、創価学会にとっては明らかに”邪義・謗法の言”となるはずである。 C 仏弟子としてはそのような”謗法の言”に対しては、命に代えても破折していかなくてはならないはずである。 D ところが沖浦君は、▼「」との発言のごとく、その創価学会にとっての”謗法発言”を是認・容認している。 E ■法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」 との御指南のごとくに、沖浦君は諸々の悪人達(謗法者)と共に、真っ逆さまに無間地獄に堕ちることとなる。 ↑以上の簡単な検証からも、沖浦君が如何に、大聖人様を大事に慕っていないか一目瞭然である。 (↓下段の投稿などこうしてみると実に噴飯ものである。) 実に我見・己見だけでしかものが言えない、判断できない・・・やはり、今世、謗法することを生業にすべく生まれてきた悪因縁の可愛そうな衆生である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 87 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 7日(金)13時58分48秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chaper
5 沖浦言 ▼「(「木絵二像開眼の事」において)「木絵二像」とは具体的にはどのような像をいっているのか分からないが、推測するに、木像・絵像において三十一相までは表現できるが、三十二相目の梵音声だけは表現しようがない。だから、阿弥陀仏ならば、その前に観経を置くとか、ということで、仏の声を顕そうとしたのではないか。(趣意)」 ↑まさに、その通りである。 それは以下の御文に既に明白に説かれてある。 ■仏に三十二相有り、皆色法(しきほう)なり。最下の千輻輪(せんぷくりん)より終はり無見頂相(むけんちょうそう)に至るまでの三十一相は、可見有対色(かけんうたいしき)なれば書きつべし作りつべし。梵音声(ぼんのうじょう)の一相は、不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。 が、沖浦君の言では、それが「開眼」を否定する根拠には全く為っていない。 順を追って通解する。 @ 大聖人様はこの御文の後、「三十一相の木絵二像の前に経を置いても、それは三十二相を具足はするが、「真仏」には成り得ない。」と仰せである。 ■木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。 A ここに↑はまた、「真の仏と為すには、「梵音声=経」と、真に実相を悟られた「心法」が具足されなければならない。」とも仰せである。 同義の御文■仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法(しんぽう)かけたり。 B しかし、その三十一相の「木絵二像」の前に法華経を置けば、その像は純円の真仏となる。と仰せである。 ■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。 さて、ここで、法門未熟の者どもは、惑乱に陥るのである。 大聖人様が「純円の仏=末法下種の本仏」と示されたものは、果たして何なのか? どんな浅学の者でも容易に知れることである。 つまりは、文字曼荼羅御本尊の御事以外には有り得ない。 (附文の辺において何を御説きであろうとも、「純円の仏」とは元意の辺においては、三大秘法の御本尊以外に有り得ないのである) であるから、ここの「三十一相の仏」とは、その元意は文字曼荼羅御本尊の御事である。 この文字曼荼羅御本尊様御自らは「梵音声」を発しない。 であるから現に、大聖人よりの正統な血脈相伝を伝持する当宗の御曼荼羅御本尊の御前には「法華経」をお供えしている。 これは、まさに、この御文の「御仏の「梵音声」」との意義を表する化儀である。 C 一方、「心法」についてはどうか。 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。 ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 ここに明確に開眼の意義が顕されている。 「三十一相の木絵の像が全体生身の仏(草木”成仏”)となる」いわれるのであるから、「生身の仏」「成仏」との意義を末法で持つことが出来るのは、三大秘法の御本尊以外にはない。(もし、他のものがそうであるというのなら、明示してみていただきたいものである) であるから「法華を心得たる人」が「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像(自ら梵音声を発しない文字曼荼羅御本尊)に印す」=「開眼供養」することにより、はじめて、「全体生身の仏なり。草木成仏といへる」のである。 であるから大聖人以来の正統な血脈相伝を伝持する現日蓮正宗では、御導師席の前に「法華経」を安置し、この「三十一相の木絵の像に印す」「開眼供養」の義を表するのである。 以上の論証から、やはり、生身の仏=御本尊様となるには「開眼供養」が必要不可欠であり、沖浦君の言は全く「開眼供養」を否定することにならないことは明白である。 まっ、我見・我意でしかものが言えない沖浦君には少々難しく理解不能であろうが。 理解できないまま、沖浦君はまたぞろ繰りかえしのコピーか、人の言の陰にコソコソと隠れてしかものが言えない醜態を際限なく繰り返すでありましょう。 その三宝誹謗の悪果報で、正統な教義が理解できなくなったが、悔しさ人一倍の、ぶざまで滑稽な様子を眺めるのも、また一興である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 88 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 7日(金)23時34分39秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter
5 沖浦言 ▼「梵音声を表現しようのない絵像・木像は言わば未完成であった。だから、そこへ他宗は観経とかを置いて開眼供養した。これが、当時の仏教界での必要不可欠な常識であったと推測する。仏法というものは常識を非常に大事にする。だから、大聖人もその”常識的所作”について、▼1「示同凡夫の立場」で、木像・絵像の前には、爾前教ではダメ。法華経を置かなくてはダメだよ。と言われたに過ぎない。(趣意)」 ↑実に浅薄そのものの 駄言 である。 1、沖浦君の浅薄さ その1 この主張の中で、▼「示同凡夫」という意義と語句は全く不適当・不適格な表現である。 我見・己義でしか仏法を知らず、真の意義も分からずに適当に何でも仏法用語を並べるからこのようなマヌケなドジを踏むのである。 2、沖浦君の浅薄さ その2 御文には↓こう仰せである。 ■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。 では、沖浦説では、大聖人様は、絵像・木像の、阿弥陀仏でも、大日如来でも、釈迦仏でも、何でも、その前に法華経を置いて「開眼供養」すれば、それらは全て草木成仏して、生身の純円の仏=末法の本仏・本尊 となる、とご教示されたということであるが、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。 初学の者が聞いても分かる道理である。 3、沖浦君の浅薄さ その3 沖浦君はここで、明白に「当時の仏教全般の常識として、必要不可欠な儀式として「開眼供養」した。」と言っているが、 @ ではその「開眼供養」とは一体どのような法義による、どのような作法だと言うのか。 A 次に沖浦君は「大聖人が、阿弥陀仏などの木絵二像を爾前教で開眼供養してはダメ。法華経により開眼供養しなければダメだ。と仰せになったのがこの御書。」と言っているが、 では、大聖人が勧められたという、”法華経による阿弥陀仏などの開眼供養” とは一体全体、具体的には、どのような化儀・作法なのか? 実に噴飯ものの 痴言 である。 このように己義・邪見の塊で、常に口からでまかせのいい加減な法螺を吹いている沖浦君には全く答えられまい。 沖浦君の痴言などかくも荒唐無稽の出鱈目のオンパレードである。 悔しかったら、正々堂々と教義的に反論して見せたまえ。 (まっ、天地が逆さまになっても無理だろうが。) さ、では、また悔し紛れに、教義的には全く触れられず、ただの遠吠えに終始するか? さもなくば他の謗法者たちに替わりに何か言ってもらって、自分は蔭でコソコソしているか? それとも捏造常習犯と化してまたウソをぶち上げるか? 因みに、創価学会員が、私へ、一体、いつ、誰が、正式な「法論」を申し込んだのか? 私にはそのような申し出は一切ない。 沖浦君、またもや教義的に反論不能の苦し紛れに、捏造かね。 しかし、実に見苦しい老醜の敗残者であることよ。 さ、沖浦君、立証していただきましょうか。 出来なければ、ここも正式に謝罪していただきましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 89 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 8日(土)22時58分7秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter
5 沖浦説 ▼「常識を仏法では非常に重要視する。 ■「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」等云云。智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能(よ)く能く心へて候を智者とは申すなり。 ■仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。 など 世間の常識を守りなさい、というところが数多く出てくる。」 ↑ここも、実に浅はかな 稚論 である。 1、■「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」との御文は、 一つの世間法を挙げるならば、実はその一つの世間法そのものが全部の仏法であり、仏法を挙げれば、それが一切の世間の姿であるという意義である。 決して▼「世間の常識を重要視せよ。」という浅薄な意味ではない。 2、■「智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能(よ)く能く心へて候を智者とは申すなり。」との御文は、 仏法を正しく体得した智者は、世間の営みの中において、正しい法を受持した徳を持って振舞っていくものであり、世間の営みを離れて(山林に閉じ篭りなどして)仏道修行などするものではない。 また、仏法に一切の世間法が包含せられているが故に、仏法においての智者とは、仕事にせよ、事業にせよ、国政にせよ、世の営みを安定させ、繁栄させていく道をよくよく心得ているものである。 との意義と拝するのである。 ここにも、決して▼「世間の常識を重要視せよ。」などという浅薄な意味はない。 3、■「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。」との御文について。 これは、仏法の邪正が治世の根本であり、世間の一切の営みは、仏法の正邪の是非・善悪がそのまま反映するものである。 悪しき仏法が流布したり、人々が仏法を悪しく行じていれば、必ずその世間一切の事象は悪しく歪み、荒み、穢れるものである。 との意義と拝するのであって、ここにも▼「世間の常識を重要視せよ。」などという沖浦君の痴言の意味など微塵も存在しない。 4、その上で、留意しなくてはならないことは、 ■「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」 という御指南の通り、仏法を受持する我々は人間としての振る舞いにおいてもきちんとしていなくてはならない。人に対し、真の慈悲をもって接し、やさしく、温かく、また必要に応じて厳しく、さらに高い道徳心を持って、世間の人の範となるように努めるべきである。 その姿がそのまま仏道である。 そのような意味において、世間の法のなかに真実の道が存している、という意義と拝するのである。 5、では、沖浦君はどうか。 @ 教義的に明確に自身の主張ができない。愚かさ これに過ぎたるはなし。 A 自分が勝った事に何としても思っていたい。との勝他の念にとり憑かれ、 また、人にも勝ったと思ってもらいたい、との名聞名利の下劣心にも激しく囚われ、ひたすら執拗に無為な書き込みを繰り返したり、もはやまともな反論が出来ないので、同じ内容投稿を何度も際限なく貼り付ける。 B それでもまだ”俺が負けていると人に思われているんではないか???”との不安が拭えず、ウソでも何でもいいから捏造して、相手が不味い立場となっている状況を虚偽により作出するなどの、捏造常習犯。 しかも、その捏造のウソを指弾されると、頬被りをしてしらばっくれ、遁走。 C それでも悔しさに身を焦がし、幼稚な悪態を吐く。 D 自分では教義的に全く歯が立たないので、人の書き込みを転載してその蔭でコソコソする。 ・・・・・・ 一体、これが、 ■「常識を仏法では非常に重要視する。」と法論中に偉そうにのたまっていた人の”振る舞い”なのか? これは沖浦君が、長年の三宝誹謗による極悪果報によって、いかに言動不一致、支離滅裂、頭破作七分、精神の幼児化、下劣化、の臭怪な唾棄すべき人間に成り果てたかが、実に顕著である。 三宝誹謗の”優秀”な”生体実験例”が沖浦君の今の姿である。 現時また後世に、三宝誹謗の悪果報の醜さ、見苦しさ、浅ましさ、を伝えるよき”伝道者”である。 |
DATE: 2007年 9月11日(火)05時32分57秒
TITLE: 謝罪します
NAME: 管理人(樋田 昌志) MAIL: power@toyoda.tv
思い出しました!
そういえば、一年前か、その前か、一人創価学会員を名乗る方から対論申し出があり、連絡を取り合いましたが、ちょうどその時期何か多忙な件があり、それに忙殺されているうちに、その後そのままになっていた人が居ました。
すっかり失念しておりました。
早速、再度連絡とり、対論実現にむけて交渉再開します。
確か、対論条件は既に了承済みで、あとは、場所と日程だけだったと思いますが。
いずれにせよ、この件に関しては、私がすっかり失念していたことで、沖浦さん他、ご迷惑をおかけした方々にお詫び申し上げます。
どうも、すみませんでした。
お蔭で思い出すことができて有難いです。
ことに73氏におかれては、援護してくださっていたのに、私の物忘れのためにご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。
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[投稿日時] 2007年 9月25日(火)16時06分8秒
[題名] お知らせ
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール] power@toyoda.tv
沖浦君の 駄言 破折の続き 84〜89
<A HREF="http://toyoda.tv/okiura.kensyo2">http://toyoda.tv/okiura.kensyo2</A>
やまいぬ。君アク禁の経緯
<A HREF="http://toyoda.tv/yamainu.akukin">http://toyoda.tv/yamainu.akukin</A>
にUPしておきました。
HOMEPAGE: http://toyoda.tv
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[投稿日時] 2007年 9月26日(水)23時15分11秒
[題名] 沖浦対樋田法論を検証する 90
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール] power@toyoda.tv
現場での折伏活動が忙しく中々書けなかったが、今日は久しぶりに時間がとれたので、以下の沖浦君の駄言を粉砕しておきましょう。
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嘘吐き樋田逃げ専君よ 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年 9月 9日(日)10時52分50秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用
● >//沖浦説では、大聖人様は、絵像・木像の、阿弥陀仏でも、大日如来でも、釈迦仏でも、何でも、その前に法華経を置いて「開眼供養」すれば、それらは全て草木成仏して、生身の純円の仏=末法の本仏・本尊 となる、とご教示されたということであるが、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。
初学の者が聞いても分かる道理である。
▼ 大嘘吐きなんだね〜〜。
法論は出来ない、嘘はつく、その上怖がりなんだね〜〜〜〜〜。
以下はね、私が書いた木絵二像と開眼の関係性だ。
何処に、君の言うようば事が出てるかね?
さすが、対面迫られて逃げ出すだけのことはあるyほ。
読みな!!
――――――――――――――――――――――――――
↑御書を”心肝に染めて”いないから、このような 駄言 が吐けるのである。
では、以下のどうみても沖浦君が書いたと思われない、他人の愚論の引用を破折して置きましょう。
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※1「『仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、』
(木絵二像開眼之事)
仏は三十二相を備えてるが、それは全て物質的な存在である。足の裏、あるいは掌に千の輻輪 (軸のまわりに矢の形をした輻を放射状にとりつけた輪状のもの) の肉紋があることから、頂を見ることができないという相までの三十一相は目に見えるものである。
故に、絵に書き表す事も、像に作り表現する事も出来る。
然しながら梵音声の一相は、目に見えないものであるから書き表す事も像に作ることも出来ない。
『仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、』
釈迦滅後、木絵の二像を持って仏としたが、梵音声が欠けており仏ではない。また、心が欠けているので仏とは天地雲泥の差がある。
『何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、』
どうして釈迦滅後に、絵像木像を生身の仏と功徳が同じなどといえるのであろうか?
大瓔珞経には、木絵の二像は生身の仏に劣ると説かれているではないか。
『木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、』
木絵二像の前に経を置けば三十二相が具足する理屈ではあるが、心が無いので仏ではない。
人天にも、転輪聖王のごとく三十二相を具えているものがあるので、前に置く経文で木絵二像の立場が変化をする。
(大智度論には次のようにある。
三十二相は転輪聖王にも亦た有り、諸天・魔王も亦た能く此の相を化作す。)
『木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、』
木絵二像の前にを置くなら、その木絵二像は輪王となる。
『十善論と云うを置けば帝釈とひとし、』
十善論を置くなら帝釈と等しい。
『出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、』
出欲論と云うものを置けば、梵王と等しく全く仏ではない。
『又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、』
阿含経を置くなら声聞とひとしい。
『方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし』
方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚と同じである。
『華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、』
華厳方等般若の別円を置けば、菩薩と等しくなり全く仏では無い。」」※1
大聖人様は、木絵二像の前に置くものにより、その立場が変化する。と、明快にご指南されておられます。
ここで問題になるのは、日蓮正宗は法主による開眼の衣文として、この御書の後段を切り文して用いている点です。
『法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ』
法華経を心得た人が木絵二像を開眼せず、仏法の道理を心得ない人が邪教を持って開眼すれば、木絵二像は前に置く経文で立場が変化する不安定な性格を持つのであるから、かえって鬼が入って脱命者となるのである。
このように仰せですね。
ここで仰せの木絵二像は、大聖人様御図顕の御本尊様とは全く異なります。
大聖人様御図顕の御本尊様の前にどのようなものを置こうと、御本仏様の御命そのものです。
ですから、御本尊様は前に置く経文などによってお力が左右されるような不安定なものではありません。
この木絵二像の開眼を、法主による蓮祖御図顕の御本尊様の開眼の衣文としている事は、日蓮正宗が本尊に迷う宗派である、何よりの証拠です
――――――――――――――――――――――――――
↑実に幼稚で浅はかな愚論である。(このような↑文章を沖浦君が書けるはずもないが、引用元を明かさずに引用した限り、沖浦君説として破折していく)
沖浦君の※1「」の通解は一応正解と言えよう。
が、以下が全く論旨破綻している。
1、沖浦君は、まず、※1以後の重大な御文を故意に(か無知の故にか)省いている。
■「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。」
大聖人様は、
”「三十一相の仏」の前に「法華経」を備え安置奉れば、その「三十一相の仏」は必ず「純円の仏」と現われる。”
と仰せである。
大聖人様が「純円の仏」とお認めになる「仏」とは一体何か?
沖浦君は、まさかそれが、阿弥陀仏や、大日如来、または釈尊像、などとは、幾ら三宝誹謗で狂い切った頭でも言わないであろう?
この御書は、法論時においても沖浦君も当方へ訊き、当方の説明に納得した通り、文永9年(10年.11年との説もある)御作として拝するのが通例・常識的な見解である。
文永8年、発迹顕本以降、大聖人が「純円の仏」と明確におおせられる「仏」は、まさに文字曼荼羅御本尊の御事に他ならない。
逆にこの「三十一相の仏」を仮に釈尊像と捉えると、その前に法華経を安置すれば、その釈尊像がそのまま「純円の仏」ということになってしまい、末法の正規な本尊としては甚だ不可である。
よって、この御文の御正意は、
”梵音声と心法に欠ける物体としての本尊(文字曼荼羅御本尊)はそのままでは純円の本尊としては成り得ない。
その中で、本尊に梵音声と心法を備える意義として、御前に法華経を備えることにより、末法の本尊としての純円の仏になり得るのである。”
と拝するのである。
――――――――――――――――――――――――――
2、次に、では、三十一相(物体)の文字曼荼羅本尊の御前に法華経を備え安置するだけで、真の末法適時の生身の仏となり得るのか?というと、実はそうではない、ということが、次の御文に明白である。
■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」
この御文では、
”「法華経を心法と定めて」、その物体としての「三十一相の木絵の像(板・紙幅の文字曼荼羅御本尊)に印すれば、(印する=光・影などを物の上になげかける。)その木絵の二像(=板・紙幅の文字曼荼羅)はそのまま生身の仏の全身と顕れる。
これを草木成仏というのである。”
と仰せである。
つまり、1と2を併せ拝すれば、法華経を文字曼荼羅御本尊の御前に御安置し、更に、誰かが、法華経を心法と定めて、その文字曼荼羅御本尊へ”印する”行為を為さなければ生身の仏=末法の衆生を救済する本因下種の仏 と顕れない。という意味となる。
ここでも、この「木絵の二像」を、釈尊像、阿弥陀仏、大日如来など読むと、そこへ法華経を心法と定めて印したらそのままその像が生身の仏=末法の衆生を救済する本因下種の仏 となってしまうこととなり、やはり甚だ不可である。
――――――――――――――――――――――――――
3、では、この法華経を心法と定め、印する人は誰でもいいのか?
その答えが次の御文である。
■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」
「法華を心得たる人」 と明確にお定めである。
この方は、大聖人様当時では大聖人であることは当然である。
ではその後は、
■「血脈の次第 日蓮日興」
で日興上人御一人であり、更にその後は
■「 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。」
との御指南のごとく、日蓮大聖人・日興上人から連綿と続く唯授一人・血脈相承を受けられた御歴代の御法主上人以外には居られない。
つまりは、この「法華を心得たる人」の御義・定義に迷うが故に、本尊に迷う姿が現れるのである。
その代表格が現時の創価学会である。
それは、以前の創価学会の本尊に関する主張と現時では正反対違うことが、本尊に迷っている何よりの証拠である。
★「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている」
(『大白蓮華』昭和34年7月号9頁・戸田城聖)
沖浦君はその迷走振りを認識できないほど三宝誹謗の害毒が脳髄に回り切っているが故に、上記のような幼稚で粗雑な稚論を恥ずかしげもなく、「読みな!」などとわざわざ念を押して述べることができる、まさに 頭破作七分者 そのままの姿である。
書けば書くほどに恥の厚塗りを重ねる沖浦君、良識ある創価学会員にとっては迷惑そのものの存在と化しているようである。
その現状を知っているのだろうか?
実に哀れで惨め極まりない老醜の敗残者である。
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[投稿日時] 2007年 9月27日(木)20時10分12秒
[題名] 沖浦対樋田法論を検証する 91
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール] power@toyoda.tv
さて、またもや、書けば書くほどに、教義的な無知さを遺憾なく晒している沖浦君ですね。
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> [投稿日時] 2007年 9月26日(水)23時27分42秒
> [題名] 樋田君大儀
> [投稿者] 沖浦克治
――――――――――――――――――――――――――
> 三十二相は色相荘厳の仏に備わるものなんだよ。
> 教弥弥実なれば位弥弥下し。を、知っているね。
>
> 日蓮大聖人様はね御本仏様だ。
> 三十二相は迹仏が具備するべきものだ。
>
> 大聖人様の仏法には不要なんだよ。
> 示同凡夫 。は、知ってるね。
――――――――――――――――――――――――――
↑実に 愚か で 浅薄 である。
大聖人様は、「三十二相」の意義を、
迹仏の化導の姿 とする場合と、
末法の即身成仏の姿 に配当されて用いられている両義があるのである。
【文証】
■「久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘(まま)と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動(はたら)かさゞるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕(つくろ)はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。」(就註法華経口伝(御義口伝))
■「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る男女貴賤(きせん)等、色心本有の妙境妙智なり。父母果縛(かばく)の肉身の外に別に三十二相・八十種好(しゅこう)の相好之無し。即身成仏とは是なり。」(御講聞書)
■「此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。」(新池御書 弘安三年二月 五九歳)
■「我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたゝめられまいらせて、三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛(よろいげ)生(お)ひそろひて実相真如の虚空にかけるべし。」(新池御書 弘安三年二月 五九歳)
既にこの御文一文によって、沖浦君の駄言など一蹴され、消し飛ぶのである。
更にこの「末法の即身成仏」において
有情
非情
の立て分けがあられる。
上記の御文はこの「有情の即身成仏」についてお述べになられた箇所である。
この「有情の成仏」には非情の草木成仏された御本尊が必ず必要である。
■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳)
この「非情の即身成仏」についての御法門が「草木成仏口決」や「木絵二像開眼の事」などの御書である。
この御書での「三十二相」とは何を言われて居られるかといえば、
「三十一相」=可見有対色(見ることが出来る物体)までを備える。→不完全
「三十二相」=可見有対色に不可見無対色(梵音声・心法)までを備える。→草木成仏。完全な生身の仏、純円仏。
ということである。
沖浦君は、このような法門の筋目・立て分けを全く理解できていない、実に浅はかで幼稚な我見を振り回しているだけの仏法に迷う 狂人 である。
――――――――――――――――――――――――――
> 『御義口伝に云く此の文は不軽菩薩を軽賎するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賎せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり、深覚円理名之為仏の故なり円理とは法華経なり云云。』
――――――――――――――――――――――――――
↑この引文では自分の説を立証する何の根拠にもなっていない。
ただ無闇矢鱈に御文を振り回しているだけである。
実にやはり愚かで浅はかな老人である。
――――――――――――――――――――――――――
> 元々梵音声は不要なんだ。
――――――――――――――――――――――――――
↑この発言は、まさに「木絵二像開眼の事」等の御文の御心を踏み躙る暴言の最たるものである。
沖浦君、自分の我見が論理的に破綻して行き詰まり、とうとう大聖人様の御言葉まで平然と破り捨てる、まさに 狂乱の謗法者の末路である。
――――――――――――――――――――――――――
> 君はそれとも迹仏本仏かね??
――――――――――――――――――――――――――
↑ここなどもはや言葉自体が意味不明である。
”迹仏本仏”?
そのような用語はない。
このように沖浦君は愚かで邪な自らの歪んだ心を元に仏法を我見で怪釈するから、書けば書くほどにその馬脚が顕れて、見るも無惨な悩乱の狂態となるのである。
――――――――――――――――――――――――――
> 下がってよろしい。
――――――――――――――――――――――――――
↑私はこのような言は吐きませんね。
沖浦君、とことんその邪見を書いてきたまえ。
その余りの我見による迷走振りが、まだまだ心ある創価学会員の方が正法に目覚めるいいきっかけになるであろうから。
当方は大いに歓迎である。
ついでに、血迷った駄言の連発も、三宝誹謗で狂った人間の見苦しさを大いに顕していて、その見本としては実に秀逸であるから、これも大歓迎である。
朝となく昼となく夜となく、パソコンに張り付いて頑張って精を出してくれたまえ。
その沖浦君の妄執に執り憑かれた際限ない”妄言”で、また一人また一人と、三宝誹謗の怖さに気がつく人が顕れてくるでしょう。
沖浦君、ご苦労様です。
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[投稿日時] 2007年 9月28日(金)15時54分54秒
[題名] 沖浦対樋田法論を検証する 92
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール] power@toyoda.tv
Chapter 5
沖浦君、またもや我見の無理押し。報恩抄の一節を引き
「一切衆生の盲目を開く功徳 目を開く 開眼とはこういうことだと思う。(趣意)」
これもまた実に愚か極まりない駄論である。
これについては既にHP上で破折仕切ってあるので、ここに編集再掲する。
――――――――――――――――――――――――――
Re: 開眼ってなんでしょうね〜〜?
> 目を開く事ですね。
> 絶対条件として開かれるべき目を持っていないといけません。
>
> 『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、』(報恩抄)
>
> 大聖人様様はね、開眼をこの様に仰せです。
>
> 一切衆生の盲目を開くのだ。
> そして、無間地獄への道をなんとしても塞いでしまう。
>
> 明快でしょう。
> 法華講さん方。
> 御書を素直に読みましょうね。
>
> 法主の開眼???
> 何ですか〜〜????
> それは?????????
―――――――――――
余りの牽強付会にこちらが一瞬たじろいでしまうような主張である。
1、この「盲目」とは、末法弘通の教法の正体を知らない衆生の根本無明惑を表された御文と拝すのである。
その証明の為に、この段を引文させていただく。
■ 問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、何物ぞや。答へて云はく、
三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正
法なり。求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊
とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。
三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべ
し。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮
華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。(中略)日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。
通読すれば容易に領解できるところです。
この段の趣意は”末法弘通の正体は三大秘法であり、衆生の不幸の原因である根本の迷いの煩悩である根本無明惑を断破し、開かしむる功徳がある。衆生が無間地獄に堕ちる根本原因である無明を断尽するのであるから、無間地獄へ堕ちる道を塞ぐ事ができるのである。”
ということであり、「盲目」の「盲」とは迷い、「目」とは衆生本来の覚体、と言える。
つまり、あくまで「衆生の機」に約した表現である。
一方「開眼」とは、一念三千の悟りから開かれたところの原理によって、非情の草木を草木成仏為さしめ、以って生身の仏=本尊と為す。との意義ですから、「法体」に約した概念であり、表現である。
【傍証】
■所詮眼の一字は一念三千の法門なり。
この「衆生の機情に約した語」と、「法体に約した語」を混同・錯誤しているのが沖浦さんの主張である。
当該御文に戻ると、「三大秘法は衆生の根本無明惑を破り、開く(趣意)」であるが、その”三大秘法”といってもその本尊としての対境・法体は、まさか空中に浮かんでいる曖昧なものではなく、確たる存在物である訳である。
ここに示される、
■「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」という本尊=存在物 ということである。
「開眼」とはその「元草木である本尊=存在物 を草木成仏為さしめる。」ということである。
その意義関係は以下の如く
非情の草木
→本尊としての形状を形成
→法華を心得た智者による『開眼』
→草木成仏
→生身の仏=衆生の『盲目』をひらく真の力用を備えた御本尊
という構図になり、
「開眼」された御本尊(能開)によって衆生の「盲目」(所開)がひらかれる、
という能開・所開の関係になるのである。
この能開・所開には厳然たるけじめがあり、これを混同・錯乱してならない。
あくまでも能開の御本尊によって、所開の衆生の盲目が開かれるのであり、「開眼」とはこの能開の御本尊においての深義なのである。
沖浦君は、この能開の御本尊に関する深義と、所開である衆生の盲目とを混同・錯乱・悩乱しているだけのただの無知な老醜者である。
つまり沖浦君はこの能所の筋目が全く理解できていない、仏法の初門にすら到達していない、実に浅薄極まりない幼稚なただの謗法者ということである。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
[投稿日時] 2007年 9月28日(金)21時30分19秒
[題名] 沖浦対樋田法論を検証する 93
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール] power@toyoda.tv
またも見るも無惨な痴難の(引用)掲載ですか。
正しい信心も行も教学もない者は、実にやはり書けば書くほどに大聖人様の仏法から遠く離れている無様さが如実に顕れるものである。
――――――――――――――――――――――――――
> [投稿日時] 2007年 9月28日(金)16時44分20秒
> [題名] 樋田君の無教学を嗤う
> [投稿者] 沖浦克治
> このところ折伏に忙殺されていたのだが、ようやく時間がとれました。
> 樋田君なる愚か者の邪義を砕いておく事にしょう。
>
> 書けば書くほど惨めが滲むのである。
> 斜陽の宗門と傾く会社を象徴する書き込みは、愚かを通り越して無慚ですらある。
> と
> 樋田君は何が何でも、日蓮正宗の邪義である、法主の開眼。を証、明せんやっきであるが、もがけばもがくほど更にあり地獄に堕ち行くさまは、邪教の害毒に染まりきった姿を晒すのみといえよう。
>
> さて、樋田君が窺い知る事も出来ないのではあるが、開眼は御本尊様に必要であるとは、三十二相にこだわる愚かさに端を発する幼稚極まりない意見である。
> そもそも三十二相は迹仏の具現するものであり、色相荘厳の仏に限られる。
>
> 教弥弥高ければ、位弥弥低し。
>
> 嫡々一人などという邪義に惑わされ、戒壇様本懐論などを恥知らずにも振りかざす、樋田君は、この簡潔な道理すらもはや理解不能に堕ちいっており、邪教日蓮正宗の犠牲となった、惨めな姿を晒しているのである。
>
> しかしながら、狂った脳みそしか持たない日蓮正宗信徒たちは、相変わらず痩せ犬並みの理解能力しかなく、馬鹿の一つ覚えによる、開眼、開眼と浮かれ騒ぐのであろう。
>
> したがって、惨めなる理解能力にとどめをさし、邪教の根源を破折しておく事にしよう。
>
> 程度の低い痩せ犬並みの脳みそで、開眼開眼とわめく痴犬に問う。
>
> ▼「御本尊様に三十二相が備わるというなら、千輻輪相。が、どの部分かを具体的に述べてみるがよい。」
>
> 開眼不可欠と言うならば三十二相を熟知しているばずであろう。
> 後学のためにココで発表して見るがいい。
>
> では、樋田君のあがきに期待をすることにしよう。
>
> さて、
――――――――――――――――――――――――――
↑一読噴飯ものの痴言である。
しかも、これも明らかに沖浦君の文体ではない。
沖浦君は、このように他人の痴言を引用して、自分でもはや完全に反論不能であることを自ら証明している。
では刻んで置きましょうか。
まず、全段ほとんど怨念と悪口中傷で、ほとんど見るべきものもないが、最後の一箇所
▼「御本尊様に三十二相が備わるというなら、千輻輪相。が、どの部分かを具体的に述べてみるがよい。」
だけがそれでも破折の対象と成り得るか。
しかしあまりの沖浦君(実はこの痴言の書き主)の愚かさ加減に、まじめに論じる内容でもない。が
この沖浦君のあまりの馬鹿さ加減を更に鮮明に刻んで記録しておくために、一言砕いておきましょう。
まず、「三十二相」という文はそのまま一義において末法の「成仏」を表するのである。
つまり「三十二相」とはそのまま「成仏の相」との意義である。
迹仏を表する意義においては三十二相の一相ずつ詳細な意義内容が表示されていたが、末法の即身成仏における「三十二相」との「文」には、その内容一々を詮議する必要など全くない。
それを末法の下種の本因の教主である御本尊に向かって、迹仏における▼「千輻輪相。が、どの部分かを具体的に述べてみるがよい。」ななどと痴難を吐くのは、種熟脱の三時における法門の立て分け・筋目に惑乱しているだけのただの愚か者である。
■義に依って語に依らざれ
との仏法実践の基本中の基本すら出来ていない、邪学・幼稚の者である。
さて、この成仏に二義ある。
有情の成仏は「即身成仏」
非情の成仏は「草木成仏」
である。
「木絵二像開眼の事」においてはこの非情の成仏=「草木成仏」について「三十二相」という「文」を用いられての御指南である。
一方、有情の成仏=「即身成仏」については以下の御文のごとくに「三十二相」の「文」を用いられて仰せである。
■南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。(中略)我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたゝめられまいらせて、三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛(よろいげ)生(お)ひそろひて実相真如の虚空にかけるべし。(新池御書)
非情・有情の違いがあるだけで「成仏」を表する意義においての「三十二相」との「文」は同等の「義」において仰せである。
そこで、この
▼「御本尊様(非情の成仏=草木成仏)に三十二相が備わるというなら、千輻輪相。が、どの部分かを具体的に述べてみるがよい。」
との沖浦君の言は義においてそのまま上記の大聖人様の御言葉の御義へも唾を吐きつけることになる。
↓
▼「末法の即身成仏の衆生に三十二相が備わるというなら、千輻輪相。が、どの部分かを具体的に述べてみるがよい。」
実に、沖浦君、重ね重ね 馬鹿 である。
もういい歳なのだから少しは成長したらどうか?
三宝誹謗では成長など全く望むべくもないか。
いよいよ狂気が増してくるか。
実に分かりやすい”サンプル”である。
| 沖浦対樋田法論を検証する 94 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月28日(金)22時09分2秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君、実にもはや 人間の屑 ですな。 あまりのウソ・捏造の酷さに一筆砕いておきますか。 ―――――――――――――――――――――――――― > [投稿日時] 2007年 9月28日(金)21時13分16秒 > [題名] 樋田君 > [投稿者] 沖浦克治 > 君は情け無い男だな。 > > していい事と悪い事の区別もつかなくなったのかね? ―――――――――――――――――――――――――― ↑今回の法論条件闘争の模様のUPについて絡んでいるようだが、以下の往還の通り、はじめから条件打ち合わせの模様は録音し公表する約束であったはずだが? 【参照】 法論実現に向けて 9 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 2月25日(日)21時03分27秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp 1、映像記録について 過去の往還 ――――――――――― 当方→ 当日のやりとりも、後々、言った言わない、等の不毛の論議をしたくないので、きちんと映像記録に撮り、無編集で無償でUPしましょう。 もちろん、貴殿も同様に記録に撮り、それを無編集・無償でUPするなり、DVDで頒布するなりしていただいてかまいません。 貴殿→ 良いでしょう ――――――――――― とのことで、「映像記録を撮る」ことでご了承いただいたのではなかったのでしょうか? ・・・しかし、ここは貴殿との対論実現に向けて大幅に譲歩しまして、貴殿の今回の変更点「法論ではなく条件の内容なので録音のみ」ということに同意しましょう。 【引用以上】 ―――――――――――――――――――――――――― 耄碌して忘れたか? それとも覚えているが故意にしらばっくれているのか? それとも三宝誹謗の悪果報で記憶力が消滅したか? ―――――――――――――――――――――――――― > 法論条件を話す時、君が提示した創価学会出版の御書の御真筆が存在するもののみを引用可能。を、私がOKをした。 > ところが、開目抄が御親筆が無いから条件をはずしてほしいと言い、私は御書全般で後可文を除くものにしようと譲歩した。 > > 君が法論の条件を譲ったと言うが、具体的にどう譲ったのか? > 私は君の条件で法に触れないものはすべて呑んだ。 > 君のような人間が日蓮正宗の評判を落とし、真面目な法華講員の方々がどれほど迷惑を去れておられるか。 > > あきれはてた人格だ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑このような欺瞞など、実際の録音記録↓ http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737 と 法論実現に至る経緯↓ http://toyoda.tv/okiura.tonso7.htm をあわせ見れば子供でも分かるウソである。 このようにすぐに分かるウソを連発する姿こそ、頭破作七分 三宝誹謗の害毒である。 ―――――――――――――――――――――――――― > 君は法論で私を潰すと、法華講仲間に大宣伝をし、信徒の身分も弁えず、日蓮正宗では法主の専任事項とされる禁断の本尊開眼に踏み込み、事もあろうに、自らの名聞名利のために、大聖人様御図顕の御真筆の御本尊様をもてあそんだ。 > > 私と耕治はその謗法行為と、思い上がった君の命を厳しく呵責した。 > > 君は恐れ戦き、自分が宗門の許可すら受けず勝手にコピーした漫荼羅もどきの隙間に小身となって隠れ縮んだ。 > > 事の顛末は映像で何万人と言う人々がごらんになられている。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここも映像を見れば子供で分かる。 当方は別段沖浦君に呵責された覚えなど全くない。 しかもコピーの蔭に縮んだ。などとは、映像に微塵もその姿はないが? ここもやはり三宝誹謗の悪果報により、自身の切なる願望が妄想を引き起こし、現実を直視できなくなっているようである。 こういう状態をもはや狂人と呼ぶのではないか? ―――――――――――――――――――――――――― > 法論終了後、私に揉み手して擦り寄り、ありがとうございました。と、頭を下げたのは君だったんだよ。 > > 私は、ご苦労さん。と言い返した。 > > この顛末も当方は他のカメラで映像に記録してある。 > だか、法論終了後であり、他の関係ない方の区別可能な映像も同時に映されてある。 > 故に、個人のプライバシー保護の意味からも、また、正々堂々の立場からも公開は控えてある。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑法論後の映像は既にUPしてある。↓ http://video.google.com/videoplay?docid=-6959508356329394186 ここのどこで、当方が沖浦君など妄執老人に揉み手して摺り寄り、「ありがとうございました」などと、頭を下げたのか? むしろ沖浦君こそ当方へ「一緒に仕事をしたい」などと擦り寄ってきているではないか? ここももはや自分の願望から来る妄想を現実と思い込む症状が出てきているようである。 やはり既に狂人の域ではないのか?沖浦君。 ―――――――――――――――――――――――――― > 対して君は世間の常識すら守れない。 > > この双方の差は一体何処から来るのだろうか? > > 一度よく考えてみる事だ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑このようなもはや狂人の域に足を踏み込んでいると思われる妄想老人こそ、↑この自らの問いかけを我が事として熟慮してみるがいい。 といってももはや三宝誹謗の害毒その脳髄に回り切り、真摯な反省など今世は無理か。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 95 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月29日(土)23時17分33秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 沖浦説 ▼「輪円具足とある完成品の御本尊に他の誰かが何かをしなければならないというのはおかしい。蛇足である。(趣旨)」 ↑これもまた実に滑稽な痴言である。 ■十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此には輪円具足(りんねんぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも名づくるなり。(日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳) この御文でお示しのごとく、「十界互具」の意義を「曼荼羅(梵語)」と云い、これを漢訳すれば「輪円具足」となり、「功徳聚」という。との御指南である。 日寛上人はこの「輪円具足」の意を更に詳細にお説き下されている。 ■本門の本尊とは、十界の聖衆、中央の妙法蓮華経に帰入するなり。十界の聖衆は衆輻の如く、中央の五字は轂の如くなり。十界、一界も漏れず、皆悉く妙法蓮華経に帰す、故に即身成仏なり。妙法を離れて十界なく、十界を離れて妙法なし。十界互具・百界千如・一念三千の本尊なり。故に輪円具足の本尊というなり。(妙法曼陀羅供養見聞筆記) 輻=車のや。轂(こしき)と輪をつらねささえるため、轂から輪に向かって放射線状に組まれた細い捧。 轂=車輪の中央にあり、軸を通して、輻(や)の集まっているところ。 さて、ここで仰せの ■十界互具・百界千如・一念三千の本尊なり。故に輪円具足の本尊というなり。 との御指南の意義するところが誠に実に深いのである。 この中の一念三千の三とは、五陰世間・衆生世間・国土世間 の三世間であることは周知の事実である。 この三世間は有情と非情とによって構成されている。 ■衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳) 御本尊はこの有情・非情を一切含めての成仏の法体である。 十界曼荼羅御本尊が真の生身の仏である御本尊に成り得るにはこの「非情」が成仏していなくてはならない。 その有情・非情に亘って成仏している法体こそが「輪円具足の本尊」というのである。 この「非情」を成仏させることを草木成仏といい、その深義が「開眼」である。 ■有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。 この御文では、「塔婆を開眼供養することによりその塔婆が「草木成仏」し「非情が成仏」する。」と仰せである。 また別の御文では、 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。(木絵二像開眼の事 文永九年 五一歳) と、「梵音声と心法に欠ける「非情」である「仏の像」に、法華経の心法を投影すれば、その像が草木成仏し「生身の仏」になる」と仰せである。 更に次下の御文には ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 とあるがごとく、この 非情を草木成仏なせる深義=「法華経を心法と定めて投影する」=「開眼供養」 は「法華経を心得た方」にしかできない行為である。 以上検証してきたごとく、「御本尊」とは、「十界互具・百界千如・一念三千の当体」であり、一念三千を構成しているものが非情・有情であるが故に、非情を草木成仏させるには開眼供養が必要であり、非情を成仏させなくては「御本尊」とは成り得ない。 故に、「輪円具足の本尊」とは、既に「非情」を成仏させた=開眼により草木成仏した上での「御本尊」の「功徳聚」としての意義を仰せであるということを知るべきである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 96 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月30日(日)22時59分12秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| この辺で、沖浦君との法論条件闘争の音声UP↓ http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737 について、「沖浦氏の許可がない公開だ。」と指摘している愚者を砕いて置きますか。 結論から言えば、沖浦君は法論条件を煮詰める会話の録音及びその公開を拒絶していない。 むしろそれを前提として当方の訪問を受け入れている。 (しかも当初は「映像」を撮りその公開が前提であったものが、沖浦君は姑息にも「録音のみの公開」という方法に”格下げ”し、明らかに腰が引けているのである。) それは以下の往還を見れば一目瞭然の事実である。 ● 当方 ▼ 沖浦君 ―――――――――――――――――――――――――― 【法論条件においての沖浦君との往還】 法論実現に向けて 7 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 2月22日(木)18時36分4秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp 引用 ●ではこうしましょう。 ――――――――――― > DATE: 2月22日(木)16時31分38秒 > TITLE: 樋田さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: > ▼> 私はレースで日曜まで留守です。 > 帰宅は夜です。 > それまでに法論の条件を対面して詰める場所などを73氏に提供してもらってください。 > 無理なら拙宅でやります。 > 貴方が来たがっていた場所ですよ。 > > では、日曜の夜にいい返事をお待ち致します。 ――――――――――― ●↑では、貴殿のお宅へ伺いましょう。 当日のやりとりも、後々、言った言わない、等の不毛の論議をしたくないので、きちんと映像記録に撮り、無編集で無償でUPしましょう。 もちろん、貴殿も同様に記録に撮り、それを無編集・無償でUPするなり、DVDで頒布するなりしていただいてかまいません。 では、いつにしましょうか? ―――――――――――――――――――――――――― 法論実現に向けて 8 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 2月22日(木)19時06分48秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp 引用 ● 録画は当方でも致します。 それを貴殿へダビングして後日お渡しします。 貴殿の撮ったものもいただくとして、双方でお互いが撮ったものを持ち合う形が公平でしょう。 ――――――――――― > DATE: 2月22日(木)18時59分53秒 > TITLE: 法論の条件を話し合うときには > NAME: 沖浦克治 MAIL: > ▼> 当方で録音を用意いたします。 > 二枚同時に録音を致します。 > 一枚はお持ち帰り下さいませ。 ――――――――――― ● 日時は、来週、月〜木の夜であるならばどの日でもかまいません。 ―――――――――――――――――――――――――― 法論実現に向けて 9 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 2月25日(日)21時03分27秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp 引用 ● 1、映像記録について 過去の往還 ――――――――――― 当方→ ● 当日のやりとりも、後々、言った言わない、等の不毛の論議をしたくないので、きちんと映像記録に撮り、無編集で無償でUPしましょう。 もちろん、貴殿も同様に記録に撮り、それを無編集・無償でUPするなり、DVDで頒布するなりしていただいてかまいません。 貴殿→ ▼ 良いでしょう ――――――――――― ● とのことで、「映像記録を撮る」ことでご了承いただいたのではなかったのでしょうか? ・・・しかし、ここは貴殿との対論実現に向けて大幅に譲歩しまして、貴殿の今回の変更点「法論ではなく条件の内容なので録音のみ」ということに同意しましょう。 ―――――――――――――――――――――――――― 法論実現に向けて 13 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 3月 1日(木)08時39分53秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp 引用 沖浦さんへ では、本日お伺いしますので、宜しくお願い致します。 ―――――――――――――――――――――――――― 引用以上 ↑この往還の通り、当方は「映像の録画とその公開」という訪問にあたっての条件から「録音とその公開」に大幅に譲歩して、沖浦君宅へ訪問したのである。 であるから、当方が沖浦君宅における法論条件の詰めの録音を公開することは当初からの約束事である。 この経緯を知らない愚者にはここで一言劈いておく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 97 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月 1日(月)00時18分38秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君宅での条件闘争の録音を公開しても構わない、というご本人からの承諾。 ↓ ―――――――――――――――――――――――――― > [投稿日時] 2007年 9月30日(日)23時16分18秒 > [題名] それと樋田君 > [投稿者] 沖浦克治 > いくらでも公開していいんだよ。 > > 既に私と耕治の勝が世間に定着している。 > > 今更何を足掻いているの?? > > ッて言うのが、皆様方の評価ですからね。 > > 頑張ってみることだね〜〜。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑これにより、今回の録音公開↓ http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737 は、完全に沖浦君自身から承認されたことになりました。 沖浦君、わざわざ追認してくれてありがとう。 ご苦労さん。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 98 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月 4日(木)23時36分2秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、11.18 白馬、沖浦宅での、創価学会側10名、法華講側10名、双方が双方の弁士へ交代で質問をする。という沖浦さん提案の質問会の件も、あとは当日の実現を待つだけとなりましたので、前回の法論の”復習”を済ませましょう。 11.18までにできるだけ先に進みましょう。 Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦 「御本尊は輪円具足で完成品である。だから、そこにわざわざ「開眼」などという「蛇足」をつける必要はない。(趣意)」 樋田 「では、どの時点で御本尊は完成するのか?」 沖浦 「我々が、御本尊に自行化他にわたる題目を唱えた時点でしょうね。」 またもや、思わず吹き出す稚論である。 実に矛盾だらけ。 1 そもそも自語相違・論理破綻している。 「輪円具足であり完成品である御本尊に何か蛇足のようなものをつける必要がない。だから開眼は不要。」と言っておきながら、当方の「いつ完成するのか?」との問いに、「自分らが題目を唱えた時」だなどと、真顔で答えるとは! では、沖浦君が題目を唱える前は、御本尊は一体どんな状態なのか? 「輪円具足」で「完成品」でははなかったのか? 沖浦君が題目をあげてあげなければ「未完成品」ということか? 全く、破折する対象にすらならない 痴言 である。 こういう論理破綻していることを真顔で平然と言ってのけることができるその愚鈍さこそ 頭破作七分 というのである。 これまさに、三宝誹謗の極悪果報である。 ■陀羅尼品に云はく「若し我が呪に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること阿梨樹の枝の如くならん」と。 まさに沖浦君が長年為してきた行為である。 2、「自行化他の題目」とは、三大秘法に唱え申し上げる題目である。 日寛上人 依義判文抄 ■寿量品に云わく「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず、時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」云々。此の文に三大秘法分明なり。所謂初めの二句は本門の題目なり。「時我及衆僧」等は即ち本門の本尊なり。「霊鷲山」と言うは即ち是れ本門の戒壇なり云々。 初めの二句の中に「一心欲見仏」とは即ち是れ信心なり。「不自惜身命」とは即ち唱題の修行なり、此れに自行化他有り、倶に是れ唱題なり。三大秘法抄に云わく「今日蓮が唱うる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」云々 この御指南に明確なごとく、「自行」とは「本門の本尊」(戒壇の大御本尊)に「本門の戒壇」において「一心欲見仏」の信心を以って、「不自惜身命」の唱題をさせていただくことである。(この「本門の戒壇」に事と義がある) つまり、三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊への深い命懸けの信心がない「南無妙法蓮華経の繰り返し」など、大聖人様の仏法の「自行」になど全くならない。 沖浦君はそもそも戒壇の大御本尊を軽侮・揶揄・不信・しているのであるから、沖浦君の唱える「南無妙法蓮華経」は全く「自行」にならない。 そのような愚行を長年繰り返してきているから、やはり、頭破作七分 と成り果てて、言うことが豹変し、自身の言に責任が持てなくなっているのである。 実に哀れ極まりない惨状を呈している。 しかしこれも、三宝誹謗の醜い悪果報を知らしめんがための御仏の慈悲と拝する。 そういう意味において、沖浦君の今世の役割は実に重大なものがある、といえましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 99 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月 5日(金)23時06分14秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦 「開眼しないと功徳がないわけで、逆に言えば功徳があるということは開眼している訳じゃないですか。」 樋田 「じゃ、開眼を認める、ということですか?」 沖浦 「そうじゃない。我々が御本尊に祈れば「開眼、開眼」と言わなくても勝手に開眼している。ということ。」 ↑ここも、実に無茶苦茶な 痴言 である。 沖浦説をまとめるとこうなる。 御本尊は下付されたそのままでは「開眼」されていない。 →信徒がそこへ唱題をする。 →するとその御本尊は勝手に「開眼」する。 →そこではじめて功徳が生じる。 これはとんでもない幼稚な言である。 ■凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。 故に妙楽大師の弘一下 十一 に云く「仮使い発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。若し正境に非ずんば、縦い偽妄無きも亦本種と成らず」等云云。( 日寛上人 取要抄文段) 沖浦説だと、下付された御本尊に信徒が題目を唱えてはじめて”勝手に”「開眼」する。ということであるから、信徒が題目を唱える前は「未開眼」で、功徳はない。と言っている。 そのような「御本尊」は未完成であり、正中の正の御本尊となならず、つまりは「不完全な本尊」ということになる。 そのような不完全な御本尊に幾ら信徒が題目を唱えても、■「境若し邪なる則は智行も随って邪なり。」であり、その題目も不完全となり、結局は邪行・邪智となる。と仰せである。 そもそも、■「本尊とは所縁の境なり」であり、唱題をさせていただく側(所縁)の「境」なのである。 ■三大秘法の中の本門の題目とは、但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。今の観心もまた爾なり。能信能唱を観心と名づく。(観心本尊文段上) つまり、完全無欠の本門の本尊を無二に信じて唱える題目が真の本門の題目である。 ▼「下付されたままでは開眼していない、功徳がない御本尊へ、(そのように御本尊を軽々しく認識しているのに)その”御本尊”へ信徒が題目を唱えたら勝手に開眼し、功徳が出るようになる。」 などの荒唐無稽な駄言は、この本門の本尊(能)と信行者(所)の、能(積極的能動の主体者)所(能動の主から被る従の立場)の筋目・縦分けが全く理解できていない、ただの謗法者の言である。 あくまで、完全無欠な御本尊(能)を、我々信行者(所)は、純粋に無二と信じ、身命を帰命して、唱え奉ることが「唱題行」なのである。 図にすればこうなる。 正 完全無欠の「御本尊」(能)←「信行者」(所)が信じ題目を唱える →信行者が即身成仏する。 邪 「信行者」(所)が題目を唱える→不完全な「御本尊」(能) →御本尊が勝手に開眼する。 能と所が全く逆。 ―――――――――――――――――――――――――― また、沖浦君は、本尊へ信徒が題目を唱えると、本尊が完成する。という考え方であり、本尊を離れて題目が存在しているという迷妄である。 つまり、三大秘法義の基本中の基本が分からないのである。 ■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。 との仰せのごとく、本門の本尊が開かれて本門の題目となるのであり、題目だけ、本尊とは別格に存在などしない。 故に、本尊が正なるが故に、その本尊に唱える題目も正になるのであり、「本尊が未完で、信徒の唱える題目によってその本尊を開眼する。」などとは、根本の境である本尊を蔑ろにして、自ら唱える題目のみを「正」とする、全くの愚見・悪見・酔見 の類である。 そのような、邪信を長年続けてきたから、憶病・卑怯・卑劣な根性が治らず、その上、名聞名利や勝他の念に心を焼き焦がし、虚勢を張る、醜い人間性と成り果てたのである。 実に、これも謗法の醜さを戒める実験体・生きた現証として、仏様から遣わされた役割ということであろう。 我々にとっても、今後の謗法を懼れ戒めるために実に参考になる存在である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 100 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月19日(金)17時14分42秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 ●樋田「開眼の解釈は、沖浦さんは「あんたの解釈はそれはそれでいいんじゃないか。だが、自分はそうは思わない。だから、お互いがそれぞれの信じる道を行けばよい。」ということでしたね? ▼沖浦「その通り。」 ●樋田「でも大聖人様はそうは仰っておられない。「天に二日なし。」であり、この世に二つと正しい宗教はない。」 ▼沖浦「貴方が正しいかこちらが正しいか、時のしからしむるのみでしょう。五老僧はあれほど苦労したのに後に退転した。しかし、創価学会という形で日興上人の教えが残っている。世界190カ国に800万、1000万人と広まっている。これが例えば10億人になり、大聖人が御本仏でそれを唯一継がれたのが日興上人である。と分かれば二箇相承があろうがなかろうが(創価学会が)正しいとうことになる。」(敬称略) ―――――――――――――――――――――――――― ↑やはり実に痴言である。 沖浦君の程度が知れる幼稚な主張である。 1、「大聖人が御本仏であり、第二祖の日興上人が僧宝。」と立てる宗派など実に多くある。 近くは顕正会しかり、正信会しかり。遠くは北山、西山などなど。数多である。 沖浦君説だと、これら全てが「正しい宗教」ということになってしまう。 もし、創価学会と違うというのなら、法義上その違いを明確にしなくてはならないはずであるが、沖浦君にはそれが出来ない。 沖浦君ぐらいの浅い、浅薄な教学力では無理なのである。 2、創価学会が「大聖人が御本仏であり、第二祖の日興上人が僧宝。」と立てる宗派の中で現時では一番大人数会員が居る。このことを以って創価学会が正しい、ということにはならない。 @ まず沖浦君は「広宣流布」の定義自体が全く分かっていない。 広宣流布の定義(その一義) 創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。 (今創価学会が為していることは、ゴミ屑、糞尿の類にも劣る、魔仏、ニセ札掛け軸を販売してその購入者を「会員」と称してその”販売数”つまり”売り上げ高”を自慢しているだけであり、それは例えば身延の土産曼荼羅を大量に普及販売しているのと同様の行為であり、国が滅ぶ原因を日々募らせているだけである。 その「ニセ曼荼羅」を拝む者が、いくら日蓮大聖人を御本仏と思おうが、日興上人を尊敬しようが、全く意味がない。 ■日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はヾ国亡ぶべし。(種々御振舞御書 建治二年 五五歳) との仰せの通り、三大秘法の当体、人法一箇の戒壇の大御本尊(=日蓮大聖人)を蔑ろにして、いくらニセ曼荼羅に手を合わせようが、国が滅ぶ元凶である。 つまり創価学会員がニセ曼荼羅に唱題すればするほど、国が滅んでいくのである。 真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。 三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。 戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。 つまり、ここを分かりやすく言えば、本門の本尊である戒壇の大御本尊様の御許で、唯授一人・血脈相承・血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題をさせていただいてこそ、本門の題目であり、その場が本門の戒壇となり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことを許される人を増やすことが「広宣流布」の本義である。 そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。 創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、繰り返すが、国が滅ぶ元である。 沖浦君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。 だから、ただ創価学会員が多人数であることを以って、創価学会が正しい、などという幼稚な妄言を吐くことが出来るのである。 まさに ■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」 の醜態を地でいく愚かしさである。 広宣流布の『根源』である、本門戒壇の大御本尊に対しての素直な信行を忘れ果てたが故に(もともと無かった。と沖浦君は言っていたが。参照 http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737) 人格破綻して、無いことをあると、またその逆などと妄言して憚らず、自分が言い出したことも平気で覆す、我見・慢心・偏見・執着に囚われ、名聞名利の侵され、成仏など思いの外の境界に陥ってしまうのである。 しかもその不信謗法の惨めな生き様に気づくことも出来ず、更に謗法を重ねることに日々費やしているだけの哀れな人生なのである。 こういう者を無慙の人というのである。 つづく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 101 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月19日(金)21時59分51秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君 「皆さん方法華講は、「御本尊のことは御法主上人以外は窺い知る事は出来ない。」とよくいう。我々は会則で御本尊のことは会長の専任事項になっている。我々は窺い知る事は出来ません。といえばそれまで。」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ここもまた、まことに他愛も無い 痴言 である。 大聖人滅後にこのような 馬鹿 が現われ出でることが予見されるからこそ、その御配慮として「御本尊」に関して厳格に相伝において定められているのである。 御本尊七箇之相承 ■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。 ■ 本尊書写の事一向に日興が之を書写し奉るべきこと勿論なるのみ。 この御相伝書の二箇所の御指南においても、日興上人以来の御歴代上人のみに御本尊に関する一切の御権能が遊ばされること明確である。 @ 「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」=この語によって分かることは、大聖人は二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人が御本尊を書写すべきことを既に規定されていた。 A 「代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。」=その嫡々代々の御歴代上人はまさにその御内証が日蓮大聖人である。との大聖人のお定めである。 この意義は以下の御文とまさに同義である。 ■仏宝・法宝は必ず僧によて住す。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳) (仏宝・法宝とは、突き詰めれば人法一箇の御本尊のことである。その人法一箇の御本尊は僧宝によって住する。ということは、まさに別して二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人によって「住す」ることができるのである。 逆に言えば、二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人以外の者・例えば創価学会の会長など、仏法の次第から言えば、どこの馬の骨とも知らぬ者などが、人法一箇の御本尊を云々できる立場ではないことを大聖人様が既にはっきり定められているのである。 つまり、創価学会の会則そのものが、大聖人の御教えに真っ向から背いている、「大謗法規約」ということである。) ■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。(『真言見聞』 608) (この「三宝一体」という意義こそ、■「代々の聖人悉く日蓮と申す意なり」と同義である。 大聖人の御内証と全く等しい、三宝一体だからこそ御本尊を書写できるのである。 であるから、この御文も御本尊に関する権能が別して二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人にのみ存する明確な文証である。 ただ邪心に凝り固まった者どもには読めない。ただそれだけのことである。 そういう者をこそ 馬鹿 というのである。) であるから、沖浦君の痴言など全く取るに足らぬ浅はかなたわ言に過ぎない。 更に、この御文の意をそのまま具体的に示されているのが、以下の御文である。 ■直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄) 弘安三年一月一一日 五九歳) ■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。(法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 弘安五年一〇月一一日 六一歳) この御文が如何に後加文であろうと、義において上記の御真筆と全く同義であればこれを用いるのは大聖人の御教えの定跡である。 ■一、御筆抄に御書毎に於て法華本門の四字を加ふ、故に御書に之無しと雖も日興今義に従って之を置く、先例無きに非ざるか。(富士一跡門徒存知事 延慶二年) ■ 第三 義(ぎ)の字の事 御義口伝に云はく、義とは観心なり。其の故は文は教相、義は観心なり。所説の文字として心地に沙汰するを義と云ふなり。 (尚、後加文についての疑難についての詳細な破折は→参照 http://toyoda.tv/neirakuji.htm#27 ) |
| 沖浦対樋田法論を検証する 102 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月20日(土)21時21分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「例えば、東芝の会社に勤めているものにソニーの会社の社訓を守れ、と言ったって守らないじゃないですか。会社が違うのだから。(と同様に、宗門と創価学会は別団体なのだから御本尊に関する規定が違って当然。それぞれ別にやればいいこと。との意を言わんとしている例え。)」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 沖浦君が繰り返し使う 的外れな駄言 である。 1、そもそも、ただの「電化製品」を作る会社と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。 このような子供でも分かることが全く理解できていないとしたら、もはや 狂人 か余程の 低脳者 である。 @ 電化製品などどこの会社の何を使おうが別段大きな差などない。どの会社の製品でも、長所短所・得意不得意分野があり、使用者が自分の好みで選択すればいいことである。 A だが、即身成仏し得る御本尊 となれば、そういう訳にはいかない。 末法で我々凡夫が即身成仏でき得る御本尊とは、三大秘法でしかない。 三大秘法→一大秘法→本門戒壇の大御本尊 この本門戒壇の大御本尊を信じて題目を唱えないと、それは本門の題目とならず、三大秘法は成立せず、即身成仏は絶対にしない。 では、信じるとはどういうことか。 ■ かつ(餒)へて食をねがひ、渇(かっ)して水をしたうがごとく、恋て人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたち(形容)よき人、べに(紅)しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし云云 (上野殿御返事 弘安二年四月二〇日 五十八歳) と有難くも仰せのごとく、法華経=三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 が恋しくて恋しくてお会いしたくてどうしょうもない、という素直な信心がなくては、本当の「本門の題目」とはならない。 よって、即身成仏しない。 であるから、今生、後生に必ず後悔するような目にあうと仰せなのである。 ■参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし。(南条殿御返事 弘安四年九月一一日 六〇歳) 人法一箇の本門戒壇の大御本尊はそのまま即日蓮大聖人様である。 その日蓮大聖人様が 「参詣が久しく途絶えておるぞ。(※早く丈夫になって←南条殿はこの時重病であったが故に、激励の意味も篭められておられるお言葉である。)急いで参詣をされなさい。ここにて(現時では、本門戒壇の大御本尊即日蓮大聖人ご在所の大石寺)で待っておるぞ。」 と仰せられておられれば、何をさて置いても馳せ参じるのがまことの「信心」である。 それを、「自分の家で拝んでいるからいいんだ。」などと嘯いている輩は、まさに不遜・傲慢であり、およそ素直で純粋な信心などとは言えない。 (それが仮にニセ本尊でなくても、である。ましてやゴミ屑・糞尿よりも汚らわしい魔仏・ニセ本尊などを拝んでいる者など、その罪業計り知れない。) よって即身成仏など絶対にできない。 即身成仏できない者は詮ずる所は、結局無間地獄行きなのである。 であるから、本門戒壇の大御本尊へ参詣しない者は、須らく、即身成仏など思いの外、無間地獄行き必定の者たちである。 ■『寿量品談義』日寛上人 「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(中略)其の三大秘法の住する処こそ何国にてもあれよ霊山会場寂光の浄刹なるべし。」(富要一〇―一三一n) ■【日達上人】 戒壇の大御本尊様を忘れてしまったならばいかに信心してもたとえ何々上人の御本尊であると言って拝んでみても大聖人様の血脈は通じてこない。 ■日達上人 戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく人を救うところの力もないのであります。 ■『戸田城聖全集』 「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」 ■『折伏教典』 「富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」(三一四n) 沖浦君の 痴言 などまさに風の前のチリ である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 103 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月21日(日)22時13分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれどれ、沖浦君が反論らしい(がまともな反論にもなっていない) 駄文 を書いてきたので、少々弄って見ますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > [投稿日時] 2007年10月21日(日)08時08分31秒 > [題名] 普段は読みませんが、一言注意してあげます > [投稿者] 沖浦克治 ●> >1、そもそも、ただの「電化製品」を作る会社と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。 > ▼> 一律に並べて論じる事が正しいのですよ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑沖浦君、想定以上のうつけものですな。 ■世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。(立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳) この御文は立正安国論の骨子である。 国に災難が興起するその根本原因は何か? 国中挙って正法に背くが故である。 では正法とは何か。 ■一、此の題の三箇に秘法を含む事。 (中略)立正の両字は三箇の秘法を含むなり。(中略)正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり。(中略)立正の両字は即ちこれ本門の本尊なり。(中略)凡そ正とは一の止まる所なり。(中略)但立正の両字に於て三箇の秘法を含むこと文義分明なり。(安国論愚記 正徳五乙未六月二十四日 大貳日寛之を記す 日寛上人) つまり「正法」とは三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 である。 そしてこの本門戒壇の大御本尊以外は全て邪法である。 であるから、上記の御文の元意は、 「国中挙ってこの正中が正である本門戒壇の大御本尊へ背き、悪しき宗教(現時では、その人数・組織の規模・国政への影響力・三宝誹謗の罪業の深さなどを勘案すれば、取り分け、創価学会がその代表的な宗教団体である。)を信じ行じるが故に(中略)人心が荒廃し、国中に災難が頻発するのである。この事実を言わずにおられようか。この現実を恐れ食い止めないではいられようか。」 との意と拝する。 さて、沖浦説だと、 ▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互い干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」 ということである。 だが、■「正とは一の止まる所」であるから、正しい教義(→煎じ詰めれば本尊)は二つと存在しない。 沖浦説など完全に浅はかな邪義である。 いな、邪義以前のただの たわ言 である。 それ以上に、つまり創価学会(中でも沖浦的我見)がもはや教義的に完全に破綻しているが故に、それを追及されたくない一心で苦し紛れに吐き出された言い逃れである。 卑怯憶病の老醜の敗残者が 「お許し下せ〜。もうそれ以上追求しないで下せ〜。」 と哀願する惨めな醜態である。 東芝・SONYなどは世に主に電化製品を送り出し、利潤を生み出す一企業である。 その電化製品を買おうが買うまいが、別に「国が災難に見舞われる」などということはない。 また、どちらの会社の製品を買おうが買うまいが、やはり同様で「国に災難が興起する」などということはない。 つまり、人生の幸不幸(とは突き詰めれば成仏・不成仏に尽きるが)・国家の安泰・衰亡などに直接影響の無い分野を扱う業態である。 沖浦君の例えは、例えば次元を変えて言えば、 @ 人の命にかかわる薬物と毒物の「判別基準」と A 嗜好品であるコーヒーのどこの会社が旨い不味い、という「選択基準」を 同等に扱っているようなものである。 @では寸分の狂いがあってはならない峻厳な「判別基準」が必要であるが、 Aでは、別に個人の感じ方でどっちでもいい「選択」の問題である。 この@Aを同列に扱うことが如何に幼稚で愚昧であるか、これすらも、沖浦君にはもはや分からなくなっているのである。 実に長年の三宝誹謗の罪過積もり積もって、斯様な、幼児にも劣る知能と成り果ててしまったのである。 これこそまさに 厳罰 であり、謗法の 現証 であろう。 本人、それに気づいていないところがまた世人をして涙を誘う。 実に老醜の敗残者である。 つづく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 104 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月22日(月)20時25分55秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれどれ、沖浦君、当方から「反論不能、反論不能」と繰り返し指弾され、「これではいかん。」と必死に「反論」らしきものをしてきましたね。 しかし、ことごとく論理破綻で荒唐無稽の ざれごと ですね。 ではいきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > [投稿日時] 2007年10月22日(月)07時39分30秒 > [題名] 樋田君、おはよう > [投稿者] 沖浦克治 > 何やらくどくどと言い訳してるね〜〜。 > 惨めだからおやめ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここは、当方の教義的な破折を「何とか樋田の「言い訳」ということにしてしまいたい。」「とにかく止めて欲しい!」という沖浦君の願望が良く現われている箇所ですね。 沖浦君の文章にはこういう箇所が随所に散見できるので、探して心理分析してみるとそれはそれでまた一興かと思いますね。 実に分かりやすい幼児性丸出しの箇所です。 ――――――――――――――――――――――――――> ●> >■一、此の題の三箇に秘法を含む事。 > (中略)立正の両字は三箇の秘法を含むなり。(中略)正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり。(中略)立正の両字は即ちこれ本門の本尊なり。(中略)凡そ正とは一の止まる所なり。(中略)但立正の両字に於て三箇の秘法を含むこと文義分明なり。(安国論愚記 正徳五乙未六月二十四日 大貳日寛之を記す 日寛上人) > ▼> 寛師ってね、アンタところの法主だった人だよ。 > こんなもん証明に使ってどうするんですか? > 循環法ですね〜〜。 > 法主が言ってるから正しい。 > でもね、私は法主信じない人間です。 > 何度も言ってるでしょう。 > 大聖人様しか信じないんです。 > アンタさ、内部規定に頼るのいい加減やめたら。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑いよいよ 馬鹿丸出し ですね。 以前「やまいぬ。」とかいう駄犬を徹底的に破折し尽くしていた時の破折文を編集再掲して、沖浦君の痴言をやまいぬ。君同様に串刺しておきますか。 編集・加筆・再掲 「日寛上人書写の御本尊を本尊としながら日寛上人の御指南を用いない」という馬鹿犬がそこら辺をヨダレを垂らしながら徘徊しているようだが、以下の道理によって、全くの不可である。 ■文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。 日寛上人が書写された御本尊を本尊として尊仰するということは、 ■「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。」 との原理から、御本尊の御文字はそのまま日寛上人の「心法」の顕れた質(すがた)であるが故に、日寛上人という御方の「心法」への尊信がなくては有り得ない行為である。 ここに、御本尊は御歴代上人のみしか書写されない原理の一分を拝するとこができるのである。 つまり、御歴代上人は唯授一人・血脈相承によって内証三宝一体であらせられる、と大聖人様以来の決め事であるからこそ、御歴代上人しか御本尊を書写してはならないのである。 また、御歴代上人の御内証はそのまま三宝一体と拝するが故にそのお手になる御本尊をそのまま大聖人様の御魂魄として信仰することができるのである。 創価学会においても宗開両祖以来のこの一貫した教義信条を信じ成立した団体である。 であるから、破門後もその余習から、日蓮正宗の御歴代上人である日寛上人の御本尊をわざわざ担ぎ出して(変造を加え)自宗の本尊として発表しているのである。 また沖浦君なども日蓮正宗の御歴代上人である日達上人のお手になる御本尊を押し頂いているのである。 そのくせ沖浦君は法論時において、 ●「一体誰が御本尊を書写できるのか?身延の貫主でもいいのか?北山の貫主でもいいのか?」との問いに、正当な返答ができない苦し紛れに ▼「将来、必要に応じてその時に決めればいい」などと、実に馬鹿げた愚答をなしていたが、大笑いである。 ■未来の華を知らんと欲せば現在のその因を見よ。 今分からないものが将来俄かに分かるはずが無いのである。 つまり、沖浦君は御本尊は一体誰が書写していいのか、いけないのか、が全く分かっていないのである。 実に愚昧である。 ■諸宗は本尊に惑へり そのままの醜態・痴態である。 そのくせ御歴代上人へあらん限りの誹謗を為している。 まさに太陽の恩を被りながらその太陽へ怨嗟の悪言を吐きつけているのと同様の大馬鹿者である。 一方、日寛上人の「心法」を、またよく表されたのが、日寛上人の数々の御指南であり、日寛上人の御本尊を信じる限りは同じ「心法」で表された日寛上人の「御指南」を信じない、などということは、全く道理に外れた愚行であり、それはただ「自分たちに都合が悪いから、御指南は無視したい。」との不遜で邪な心根からくるところの不信謗法以外の何物でもない。 ■心の師とはなるとも心を師とせざれ。 との御制誡に背く、驕慢謗法行為である。(驕慢も不信から起こる) この日寛上人の御指南を尊信しない者が、日寛上人の御本尊を拝んでも、それはただ表向き・外面・上辺の姿だけで、実際には信はない行為=つまり姿は合唱礼拝しているようでもその実は不信であり、結局堕獄必定の邪信である。 また、この矛盾に気づかないのは頭破七分で、もはや救いがたい一闡提人である。 例えて言えば ■「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死(ころ)す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠(こうもり)が昼を夜と見るが如し。 日寛上人の御本尊を信じるようでも実はその御本尊の心=「心法」=日寛上人の御内証三宝一体により、すなわち日蓮大聖人の御魂魄を殺している。無視している。唾棄している。 外道が仏教を読んでも、全く仏の御心は分からず、外道と同次元でしか理解できないのと同様であり、 蝙蝠が昼間を、夜と見ているのと同様である。 ということである。 沖浦君、一言書けば書くほどに、もはや サンドバッグ 状態ではないか。 実に無惨である。 創価学会としても困るのではないだろうか。 このような痴言のオンパレードの者に「創価学会員」と名乗られることは。 沖浦君親子など、他も真面目な創価学会員にとっては甚だ迷惑な存在であろう。 人事ながら実に心配である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 105 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月22日(月)22時40分33秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君、いよいよ騒がしいですね。 「まともに反論できないが、しかし悔しい!俺が負けているように見えるじゃないか! 何でもいいから、言いがかりを吐きつけておけば何とか体裁は保てるか・・・・」 との動揺振りがひしひしと伝わってきますね。 呵々大笑 さて、ではまた以下の 痴言 を掃除していきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ●> >さて、沖浦説だと、 > ▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互い干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」 > ということである。 > ▼> いいえ、勝ち負けは厳然としてあるんですよ。 > 東芝とソニーは売り上げで戦っているでしょう。 > 御書読まないんですね〜。 > あなた。 > > ▼1 『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。]』 > (百六箇抄) > > 大聖人様の仰せです。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ほとほと、可愛そうになるくらい 馬鹿 ですね。 1、▼「」の引文について。 @ この箇所は、創価学会版には「後加文」として、その一番後尾に記載されている。 もし、沖浦君がこの箇所を文証として用いるのなら、その直ぐ10行ほど前に同じく「後加文」として記載されている以下の御文をも素直に文証として、正義として認めなくてはならない道理である。 ■「直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」 これで、沖浦君、この御指南通りに、鎌倉時代、日蓮大聖人を総貫主・御法主と尊仰したと同じように、御歴代上人を日蓮大聖人御在世の時と同じく、尊仰しなくてはならない。 もしこの御指南に従えないとするならば、それは、沖浦君が我慢偏執の邪心の塊でしかない、ということを、自らの引文によって証明したようなものである。 もしそれが嫌なら、”この▼「又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。」の引文は間違いでした。”と正式に謝罪し、頭を下げ、侘びを入れ訂正するか? 当方はどちらでもいいが?呵々大笑 しかし、自分が否定していた「後加文」を引文し、それを根拠としてとくとくと自説を述べ立てるなどとは、まことに 馬鹿 である。 さもなくば、もはや 狂人 である。 まことに三宝誹謗の惨めな、なれの果てである。 沖浦君?この件、まともに反論できるかね?呵々大笑。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 106 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月22日(月)23時32分22秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下の駄言ももはや完全に仏法ではありませんね。 外道以下の痴言です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 森羅万象あらゆることに勝劣があります。 > 貴方、先般法論でコテンパンにされたでしょう。 > で、貴方が劣、こちらが勝。 > 同じですよ、理屈はね。 > 勝劣はね現実の社会で争うべきなんです。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑これまた一読噴飯の浅識である。 幼稚極まりない理解である。 世間的な一時の「勝敗」と、仏法の教義の高低浅深のけじめを指して「勝劣」と仰せを、これまた混同している沖浦君である。呵々大笑 大聖人が仰せの意義は、 外道 劣 内道 勝 小乗 劣 大乗 勝 権大乗 劣 実大乗 勝 迹門 劣 本門 勝 本門 劣 文底独一 勝 という、末法においての即身成仏をなすことができる仏法を判釈する上の絶対不変の「勝劣」である。 その大前提において、森羅万象一切に「本=勝 迹=劣」が判ぜられる。という意義である。 例えば引用御文で言えば、 「吹く風=本=勝」 「立つ浪=迹=劣」 というように、である。 因みに沖浦君はこの「本迹」に迷うが故に、本迹が全く分からなくなっている狂視であるが故に ▼「本尊に我々が題目を唱えたら、そこで開眼する。(御本尊が完成する)(趣意)」 などという痴言が吐けるのである。 まことに仏法の初門すら理解できていない、うつけ者 である。 これは当然全くの邪見であって事実は、御本尊=本=勝 であり、その御本尊へ題目を唱える我々=迹=劣 である。 参照 沖浦対樋田法論を検証する 99 この「本=勝 迹=劣」の意味が全く理解できていないから、 ▼「勝劣はね現実の社会で争うべきなんです。」 などという、実に馬鹿げた痴言を吐くのである。 この沖浦君の痴言によれば、例えば、ボクシングで勝者はもちろん「勝」 敗者は「劣」ということになる。 これは一体何の価値基準による「勝」なのか「劣」なのか? 沖浦君はその選手の人間性を「勝」とか「劣」とは決め付けているのか? 「劣」ならそれが何だといいたいのか? そもそも仏法は一切衆生に平等ではなかったのか? ・・・・↑斯様に沖浦君の理解など全く仏法ではない。 また、沖浦君自身、沖浦君よりも収入のある人など世にごまんと居る。 その人たちは全部沖浦君にしてみれば「勝」であり、沖浦君は「劣」である。 沖浦君がスキーの世界王者ではないはずだから、沖浦君より早い人は「勝」であり、沖浦君は「劣」である。 沖浦君が売っているワックスより売れている会社はごまんとある。その会社は「勝」で沖浦君は「劣」である。・・・・ で、結果それだから何だと言うのか? このように沖浦君の書くこと全てただの狂人のたわ言に等しい。 およそ仏教とは程遠い駄言である。 さ、沖浦君、これにもきちんと反論できますかね? それとも、言いがかりをごり押しするか、何の根拠もない名誉毀損の証拠資料となる捏造話を執拗にぶち上げるか、それとも、悔し紛れに川柳でも連発するか? 沖浦説でいえば、教義的に論理だてて主張できることが「勝」であり、 それができない「劣」の沖浦君にできることはそんな程度であろう。呵々大笑。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 107 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)17時24分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、ではじっくり粉々にしていきますか。 ここまでの低劣さは、かつての自分の発言で自分の首を絞め自爆した「やまいぬ。」君を思い出しますな。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 今度の質問会で私が聞いてあげましょうか。 > > 質問です〜〜。(手を上げます) > > 大聖人様は一切法は仏法だとご指南です。 > > 『止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」と、』 > (災難対治抄) ―――――――――――――――――――――――――― ↑やはり問題外のうつけ者ですね。 この御文の御心は、一切法即仏法であるが故に、世法を深く鑑みればそれ全て仏の法=三身如来の姿である。ということである。 それはそのままその通りである。 だが、沖浦君のいう、 ▼「東芝とSONYの社訓・社是が違うのだから、お互いの社員に通用しない。」 という理屈は、それはこと「即身成仏・広宣流布」の法ではない世間一般の業態においての通例であって、それはその人の因縁において、その従うところに従っていれば別段問題もない事案である。 社会はそのように、ありとあらゆる業種・業態が百花繚乱してそれが因縁和合し成り立っているものであって、その中で個々人は自らの業因に任せて今世の生業を全うしていく。 別段そのことを否定するものでもない。 それがそのまま世の実相であるからである。 沖浦君が例示している「東芝・SONY」云々の事例は、このそれぞれがそれぞれの因縁によって為すところの千差万別の差別相における決まりごと・「世間法律」である。 「世間法律」であるが故に、世の流れで順次変化していくものであり、絶対として決定的なものはない。 その時々の決まりごとに従っていけばいいのである。 ところがそのような世間の営みの中で、「世間法律」だけを遵守して、ただ流されて生きていくだけでは真の幸福が得られない。 その各人が真の幸福を得、世界が真の平和を確立するための法を、仏は世に出でて教え給うたのであり、それは詮ずる所、 「各人が即身成仏し、その即身成仏できる法を世に広宣流布するしかない。」 ということである。 この「即身成仏できる法」は、二無く、また三無しであり、その真実の法とは三大秘法に尽きるのである。 これが「仏法律」であり、絶対にして不動なのである。 であるから、沖浦君の説 ▼「東芝とSONYの社訓・社是が違うのだから、お互いの社員に通用しない。 と同じように、各宗教ではそれぞれ教義・本尊の規定が違うのだから、お互いに従う必要は無く、それぞれ別の道を行けばいい。」 などいう痴言は子供でも嗤う迷説・稚論である。 つまり沖浦君の頑迷さは、この「世間法律」と「仏法律」を同価値・同等に、一元的に並べて牽強付会して自見を強弁しているところである。 流転し不定である「世間法律」を、そのまま絶対にして不動の「仏法律」に準えるから、大矛盾がおき、大聖人様の御教えとおよそ程遠いところまで堕ちるのである。 参照 沖浦君が如何に大聖人様の御一生を貫かれる「立正安国論」の御指南から外れ切っているか ↓ http://toyoda.tv/syakun.htm 沖浦説ならば、 「あらゆる宗教の教義・本尊もそれぞれ別であるから、それは東芝やSONYの社是が双方の社員に効力を持たないように、それぞれの宗派はそれぞれ、自由にやっていればいい。」 ということになり、これではもはや大聖人の仏法の「ぶ」の字にも成り得ない。 例、 身延派 創価学会 浄土宗 真言宗 天理教 ・・・・みんな、教義も本尊も違うが、それは東芝とSONYの社是が違うのと同じだから、それぞれ他所の宗教へ従う必要もないし、とやかく言うこともないし、言われる筋合いにない。 ということになる。 では、何故大聖人は、邪宗・邪義・謗法の撲滅に一生涯を懸けられたのか。 沖浦説だとその必要など全くないということになる。 実に大聖人様の御一生を冒涜する邪言である。 ■ 早く邪法・邪教を捨てゝ実法・実教に帰すべし。若し御用ひ無くんば今生(こんじょう)は国を亡ぼし身を失ひ、後生(ごしょう)には必ず那落(ならく)に堕すべし。(長楽寺への御状 文永五年一〇月一一日 四七歳) 大聖人はこのように命をも懸けて、邪法を責めて破折し抜いておられる。 しかし、沖浦君の説だと大聖人へこのように言うに等しい。 「いいじゃないですか。長楽寺も極楽寺も建長寺も、禅も念仏も、法華宗も。それぞれの教義や本尊があっても。 東芝やSONYの社訓が違っても、それは他の会社の社員にまで守らせる効力はないんだから、それと同じように、法華宗といっても他所のお寺さんの僧俗にまで守らせる効力はないんですから。それぞれ別々に自由にやっていれば。ね?」 また上記の大聖人の御言葉は、 「(東芝の社員に向かって、SONYの社長が)早く、東芝の社訓を捨てて、SONYの社訓を守りなさい!もし、SONYの社訓を守らなかったら、今生では国を滅ぼし、行くあてを失い、死んだ後は、必ず無間地獄に堕ちるぞ!」 と言っていることになる。呵々呵々大笑 沖浦君、まことに これ以上ないほどの 馬鹿 である。 沖浦君?少しはまともな反論できるかね? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 108 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)19時18分58秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君、以下の引文も全て的外れですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > > 『妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。』 > (如来滅後五五百歳始観心本尊抄) ―――――――――――――――――――――――――― ↑「三大秘法を真に信じ行じる者は、自ずと世間の法に通じてくる。」ということである。 正邪・善悪の判断が流動的な「世間法律」と、正邪の判釈が絶対的であり不動である「仏法律」を混同するような沖浦君のごとき者こそ、「仏法・世法双方を得ていない」姿である。 つまり、三大秘法の真の功徳を得ていない姿であり、それが沖浦君の50年以上(?)にも亘る、邪信の果報である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 109 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)19時47分26秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 次いってみますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 『金・論に云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土なり」』 > (一念三千理事) > > まだまだ一杯あります。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑いくら、「一杯」引文しようが、沖浦君の邪解をどう正当化しようとも、御文の意義とは全く外れていて、全くの見当違い、的外れ。 自分の浅識を晒しているだけである。 上記御文は、まさに 自受用身即一念三千・ 法界即妙法蓮華経 を表す御文である。 つまり、実相とは三身如来=自受用身であり、それはそのまま事の一念三千の戒壇の大御本尊に究境される。 そしてそれは森羅万象、法界一切の諸法のことであり、この諸法は必ず十如という本質的法則で一貫されている。 更にその十如は必ず十界の境界として現れており、それはそのまま衆生の正報である身と依報である国土に現出している。 ということである。 この御文は沖浦君のいう、 ▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互い干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」 という痴言の引証文には全く為っていない。 沖浦君、顔を洗って出直すことですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 110 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)20時24分11秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 読み進むほどに、つくづく、 馬鹿 である。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > > 御本尊様を世間と一律に論じてはいけない?? ―――――――――――――――――――――――――― ↑誰もこんなこと言ってないですね。 ここにも沖浦君が、 @ 芯から馬鹿なのか、 A それともあえて馬鹿な振りをしているのか、 B それとも故意に人の主張を摩り替えて捏造して居るのか。 C それとも長年の三宝誹謗・邪信の悪果報で、知性が極端に劣化して、人の言をそのままありのままに読めなくなっているのか? D それともやはり長年の三宝誹謗・邪信の悪果報で、根性が極端に捻じ曲がっていて、人の言をそのままありのままに読めず、悪意を以って捻くれてしか読めなくなっているのか? 当方が破折している主意は、 「仏法律」は、衆生の幸福の根本である成仏・不成仏を決めるのであるから、大聖人様が既に厳格な高低浅深・正邪・善悪の基準を完璧に定められており、不動にして絶対である。 しかもその究境するところは戒壇の大御本尊のみが衆生の即身成仏・世界広宣流布の法体であらせられ、それ以外の信仰・宗教は全て人を不幸にする「邪教」であり、絶対に与同してはならない。 またもしその邪教ある時は、仏弟子は命に替えても破折し駆逐し撲滅しなければならない。 それが大聖人様の御教えである。 この厳格無比な「仏法律」の唯一絶対の本尊・教義は、二も無く、また三も無し。であり、沖浦君が言うがごとき、世間法律の範疇である、「東芝とSONYの社訓・社則」などという流動的・変則的・な世間一般の「会社内の規則」などという次元と一律に論じてはならない。 これを無理強引に論じるという者はただの 馬鹿 に過ぎない。 およそ仏法の初歩からして理解できていない外道以下の者である。 ということである。 ■仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。(諸経と法華経と難易事 弘安三年五月二六日 五九歳) 仏法の正邪が体であり、世間の姿はその影である。 昨日の本迹でいえば、仏法が本であり勝である。 世間は迹であり劣である。 その迹であり劣である「世間法律」の、しかもそもそも正邪・善悪などない同業種の企業間の社則を根拠に、本であり勝である「仏法律」を云々するなど、本迹の筋目を弁えぬ、「天も晴れていない、従って地も真っ暗」な大馬鹿者である。 息を吹きかけて、扇を揺らそうとする虚け者である。 いいですか?沖浦君、理解できましたか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 111 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)20時36分31秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下も、全く ダメ ですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 貴方ね〜〜、本当に御書読めませんね〜〜。 > 仏法ほど世間の譬喩を引用し法を説く宗教はないのですよ。 > 一体何処読んでんですかね〜〜??? ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ここも自分で人の主張を(故意か、知能の低下からか)読み間違えて、その亡霊に向かって口角泡溜めて夢中に吼えても、何の意味もないですね。呵々 当方は別に仏教の教義を分かりやすく説明するに、世間の譬喩を引用することなど全く否定していない。 ただ、沖浦君の「東芝とSONYの社則云々」の譬えが、仏教の正邪を決する判釈に全く不適格である。と破折しているだけである。 ▼> 貴方ね〜〜、本当に「人の文章」を読めませんね〜〜。 > 一体何処読んでんですかね〜〜??? ということである。呵々大笑。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 112 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)20時52分4秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 最後がいよいよ嗤える。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > 『但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、』 > (経王殿御返事) > > ホラホラ、大聖人様御自ら御図顕の御本尊様を、剣。と、譬えておられます。 > 貴方ね、大聖人様にも文句あるんですか〜〜〜〜? > > ナサケナイ!!(会場大爆笑・樋田君立ち往生) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑まさにこの仰せの通りですね。 ■ 但し御信心によるべし。つるぎ(剣)なんども、すヽ(進)まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼう(金棒)たるべし。 法華経=三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊の仏力・法力は、この「本門戒壇の大御本尊」への信心の健気な人にのみ顕れる。という事ですね。 「本門戒壇の大御本尊を全く信じていない!俺は信じてない!」などと繰り返し嘯く大謗法者、沖浦君には、御仏の仏力・法力全く顕れず今に至る。(参照 http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737) その現証が、今の沖浦君の、仏法に対しての邪解・曲解・であり、自見・我見・己義の塊の醜い老残・狂乱の姿 そのものですね。 実に 「> ナサケナイ!!(当板閲覧者、大爆笑・「沖浦君」立ち往生)」 という ザマ ですかね。 さ、沖浦君、その無残な邪解に塗り固められた浅識で何時まで足掻き続けるか、これまた見ものですな。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 113 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)21時32分47秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さ、サクサク次いきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼「> 法主が言ったことを聞かないから負け。 > いいや、会長が言う事を無視したからそっちが負け。 > こんな低級なレベルではないのですよ。」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑大笑いである。 沖浦君は既に後加文である ■ 又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。 (百六箇抄) 自説の証明のために引証している。 であるなら、同じ後加文である ■「直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」(同抄) の意義を認め実践しなくては自分の引用基準の矛盾し、破仏法の悪人となる。 であるから、御歴代上人の御指南には大聖人様の御言葉に従うがごとく尊信しなくてはならないはずである。 それが出来ないのは、上記の御指南からして大謗法者であること必定となる。 故に沖浦君の上記の 戯言▼「」 は全く意味を為さない。 正しい仏教徒としては、常に日蓮正宗御歴代上人の御指南を素直に拝することが正しいのであり、正しい三宝のない、どこぞの日蓮系新興宗教団体「創価学会」の会長などの言うことなどは一瞥する意味すらない。 沖浦君自身、自らの引証の基準として後加文をも選択したのだから、当然それを認めた訳である。 さ、今までの御歴代上人に対しての非礼の数々を、自らの引証文の責任を取って、深々と額を床に擦り付けて謝罪したまえ。 まっ、卑怯・卑劣で捏造など朝飯前、姑息に言い逃れすること天下一品の沖浦君などに、その潔い態度など在りようもないが。呵々大笑 (参照 http://toyoda.tv/gokabun.htm) |
| 沖浦対樋田法論を検証する 114 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)21時53分54秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| また沖浦君、懲りずに的外れの引文である。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > ▼「世間が勝劣の舞台です。」 > > 『斯人行世間の五の文字は上行菩薩末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、』 > (寂日房御書) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑吹き出しますね。呵々大笑 沖浦君の「勝劣」に対しての無知については↓参照。 http://toyoda.tv/syoretu.htm さて、その上で、上記の御文の意義。 「斯の人世間に行じて」との法華経の文の意味は、上行菩薩(→日蓮大聖人)が末法の始め、五百年の内に(日本国に)出現して三大秘法の南無妙法蓮華経(=本門戒壇の大御本尊)を御建立なされて、末法の一切の衆生の根本煩悩・無明を断破せしめて即身成仏為さしめる。 という意義である。 どこにも、▼”世間が勝劣(←沖浦君的には「勝負」という程度の意味)の舞台” などという意味は無い。 沖浦君、実に 浅はか である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 115 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)22時25分54秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さ、次。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > ●> >卑怯憶病の老醜の敗残者が > 「お許し下せ〜。もうそれ以上追求しないで下せ〜。」 > と哀願する惨めな醜態である。 > ▼> これね、樋田さん貴方の最近の姿そのものですよ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑これは、論理的な反論ができないために、ただ悔し紛れにオウム返ししているだけ。 沖浦君、思考停止状態 である。 ―――――――――――――――――――――――――― ▼> ボンさんに怒られて、いやいや質問会に行く人間の姿ですよ。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑さ、また出ました。 当方は、別段御僧侶から、沖浦君とのやりとりに関して「怒られた」ことなど全くないのだが、これも捏造常習犯・沖浦君一流の デマ ですね。 人間ここまで腐れば、なかなか面白味もあるというところでしょうかね。 とことん醜くなればそれはそれでなかなか風情がありますものね。 ―――――――――――――――――――――――――― > 一度貴方法華講員を千人ほど集めてみなさいよ。 > 私一人で乗り込んで御書講義と質問会やりましょう。 > 変わりに今度は、創価学会員千人集めて質問会貴方出来ますか〜〜?? ―――――――――――――――――――――――――― ↑もはや、意味不明。支離滅裂。ただのやはり 狂人 のたわ言 ですね。 ■ 一丈のほり(堀)をこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。(種々御振舞御書 建治二年 五五歳) まずは、今回企画の質問会を無事こなしてからこういう言は吐くものですね。 このような、荒唐無稽の大言壮語は、沖浦君の心根が名聞名利に侵され切っているが故に斯様な虚勢を張って、自らを強く見せたい、また人にそう思われたいとの妄執に凝り固まっているのですね。 これもまた正しい仏道修行をした人の果報とは程遠い、浅ましい姿 ですね。 (※ そこで、以下のごとくの沖浦君親子からの提案ですから、11.24の「沖浦君への集中質問会」での法華講員の質問者は10名に限定しませんので、ご希望の方はメールにてどしどしお申し込み下さい。) ―――――――――――――――――――――――――― 『投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月18日(木)20時51分50秒 法華講員十名に限らず、なるべく多くご参集いただきたいですね。』 ―――――――――――――――――――――――――― 耕治君 『> 法華講大集合!! > みんな来てね!!!』 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 116 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月24日(水)20時41分52秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さ、続きいきますかね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ●> >だが、■「正とは一の止まる所」であるから、正しい教義(→煎じ詰めれば本尊)は二つと存在しない。 > ▼> ちなみに、ウズベキスタンではこの解釈はどうなりますか〜〜??(大嘲笑) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ウズベキスタンであろうがどこであろうが、 ■「正とは一の止まる所」であるから、正しい教義(→煎じ詰めれば本尊)は二つと存在しない。 に代わりは無い。 沖浦君、何か問題でも? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 117 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月24日(水)21時08分15秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 今回は、沖浦君がまたもや、捏造の常習者であることの証拠である。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ●> >では寸分の狂いがあってはならない峻厳な「判別基準」が必要であるが、 > では、別に個人の感じ方でどっちでもいい「選択」の問題である。 > ▼> このたとえ考えるのに数日沈黙してたんですね。 > 哀れ。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑まずこの段の全文。 ―――――――――――――――――――――――――― 引用 沖浦君の例えは、例えば次元を変えて言えば、 @ 人の命にかかわる薬物と毒物の「判別基準」と A 嗜好品であるコーヒーのどこの会社が旨い不味い、という「選択基準」を 同等に扱っているようなものである。 @では寸分の狂いがあってはならない峻厳な「判別基準」が必要であるが、 Aでは、別に個人の感じ方でどっちでもいい「選択」の問題である。 この@Aを同列に扱うことが如何に幼稚で愚昧であるか、これすらも、沖浦君にはもはや分からなくなっているのである。 実に長年の三宝誹謗の罪過積もり積もって、斯様な、幼児にも劣る知能と成り果ててしまったのである。 これこそまさに 厳罰 であり、謗法の 現証 であろう。 本人、それに気づいていないところがまた世人をして涙を誘う。 実に老醜の敗残者である。 引用以上 ―――――――――――――――――――――――――― 次に、沖浦君はまたしても、事実を捻じ曲げ、でっち上げをした証拠を提示する。 上記の投稿は、 沖浦対樋田法論を検証する 103 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月21日(日)22時13分2秒 であり、以下の沖浦君の投稿を粉々に破折したものである。 ―――――――――――――――――――――――――― > [投稿日時] 2007年10月21日(日)08時08分31秒 > [題名] 普段は読みませんが、一言注意してあげます > [投稿者] 沖浦克治 ―――――――――――――――――――――――――― つまり、 2007年10月21日(日)08時08分31秒 の沖浦君の投稿に対して、 2007年10月21日(日)22時13分2秒 に破折したものである。 つまり、同日に既に破折しているのである。 この事実に対して、捏造常習犯の沖浦君、 ▼> このたとえ考えるのに数日沈黙してたんですね。 > 哀れ。 と、事実を強引に捻じ曲げ、直ぐ分かるウソを平気で書き殴っている。 教義的に反論不能であるその惨めさを誤魔化すために、相手を何とかして、ウソを言ってまで貶めたい。 それが沖浦君の老醜・老残の醜態というのである。 所詮、沖浦君などこの程度の人間である。 実に ▼ 哀れ である。 これが長年、謗法をしつこく重ねて生きてきた者の末路である。 さ、沖浦君、ここでも事実と全く違うことを書き殴った件、正式に謝罪していただきましょうか。 まっ、いつものことで、ウソを吐くだけ吐いて、その後は頬被りをして、しらばっくれる。のでしょうがね。 それが、長年、創価学会の信仰を続けてきた、”創価学会員”を名乗るのであるから、真面目な創価学会員の方々には、大変迷惑なことでしょう。 創価学会本部としても、もし、沖浦君の存在などを知っていたら、実に苦々しく思っていることでしょうね。 やはり、沖浦君、その程度の人物ですね。 実にみっともない人間性ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 118 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月24日(水)23時23分6秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ここでは沖浦君、大聖人様の御指南と全く逆の幼稚な我見を述べたてていて、実に嗤えます。 > ドッチでもいい選択基準が社会に満ちているのです。 > そこに絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。 > これが勝劣ですよ。 > 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 > > 『持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、』 > (持妙法華問答抄) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑実に、いよいよ支離滅裂・意味不明の駄文ですな。 1、その▼「ドッチでもいい選択基準」を▼「絶対の法である大聖人様の仏法」とに同列に準えて ▼「東芝とSONYの社訓・社是が違うのだから、お互いの社員に通用しない。 と同じように、大聖人の仏法も、各宗教も、それぞれ教義・本尊の規定が違うのだから、お互いに従う必要は無く、それぞれ別の道を行けばいい。」 と無理強引に主張して多くの嘲笑を買っているのが沖浦君の痴言である。 ―――――――――――――――――――――――――― 2、▼「> そこに絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。> これが勝劣ですよ。」 つくづく 馬鹿 である。 その”絶対の法である大聖人様の仏法”とは、その体、何ものか? 三大秘法である。 沖浦君、反論は? その三大秘法は一大秘法に究境される。 沖浦君、反論は? ではその一大秘法とはその体何か。 本門戒壇の大御本尊様である。 はい、沖浦君、反論。どうぞ。 つまり、”絶対の法である大聖人様の仏法”とはその体、本門戒壇の大御本尊の御事であり、その法体を護持している宗派こそが、大聖人様の仏法を流布させることができる唯一の宗団である。 創価学会なぞ、三宝のうちの一宝もない、ただのエセ仏教系在家新興宗教団体である。 こういう判釈は「勝劣」などというものではなく「正邪」である。 創価学会はその「正邪」のうちの「邪」の方である。 つまり邪宗教である。 沖浦君はそのただの邪宗のただの邪信徒である。 ―――――――――――――――――――――――――― 3、▼ 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 > 『持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、』 > (持妙法華問答抄) ↑またもや 馬鹿丸出し の痴言である。 自分の主張を引証しようとして引文したその御文に既にバッサリ切り倒されている。 沖浦説 ▼> そこ(※社会)に絶対の法である大聖人様の仏法をどちらが流布させるか。 > これが勝劣ですよ。 > 法の勝劣はね、保つ人の勝劣です。 これはつまり、 「社会に”大聖人の仏法”(これは沖浦君流の曖昧な概念であり、正確な法体を意味していない。2で破折済み)を流布させた宗派こそが「勝」であり、遅れをとった宗派が「劣」である。 だから、広く広めた宗派の法が「勝」であり、遅い方の「法」は「劣」である。 との主張ということになる。 引文の前文から。 ■同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持つ処の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり。爰(ここ)を以て経に云はく「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」と説き給へり。 この意義は、 「法華経こそが、一切経に比して勝れておるが故に、その法華経を持つ人は、他の人々に比して勝れている。 法華経に曰く、「この法華経を深く信じ行じる者は、一切衆生の中で第一に勝れている」と説かれている。」 ( ※ 末法今時において「法華経」=三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 である。) であり、大聖人様は、上記の沖浦君の稚論と正反対の意義を御指南である。 沖浦君、ここまで教義的に徹底的に破折されてしまうと、自分のあまりの浅識が露呈するから、もはや迂闊に大聖人の御文は引文できないようですね。 なので、ウソを捏造したり、言いがかりを吹っかけるしか、いよいよ手がないようですな。 実にお可哀想。呵々大笑 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 119 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月25日(木)23時46分51秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、今日も沖浦君の駄文を切り刻んでおきますか。 邪義・謗法というものは破折し続けないと、のさばってはびこるものですからね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > [投稿日時] 2007年10月22日(月)08時08分7秒 > [題名] ですからね、皆様方 > [投稿者] 沖浦克治 > 所詮仏法は、 > > 斯人行世間。 > > ですよ。 > 自分がどう行動したか、しているか? > ココが極意なんです。 > 単純なんですよ。 > > 一万の理屈より、たった一つの行動。 > 大聖人様仏法の極意です。 ―――――――――――――――――――――――――― ↑ここは、既に道理に則った教義において全く反論不能に陥った沖浦君が悔し紛れに必死の言い逃れをしているところですね。 当方の教義的破折をただの「理屈(←沖浦君においては屁理屈との意味合い)」として貶め、「行動」こそが大事。と強調し、自分が教義的にボコボコにされているのを覆い隠そうと躍起ですね。 では、細かく刻んでみましょうか。 一概に「行動」と言っても、その「行動」が真に正しい教義に裏打ちされていなければ、ただの蛮行・妄動の類である。 オウム真理教・顕正会などがその分かりやすい例である。 彼らも、世間に「行動」を起こし、オウムなどは、松本市街地や地下鉄においてサリンを撒き多くの死傷者を出し、 また顕正会などは、多くの一般人を拉致監禁し、自宗の信仰を強要して逮捕者を出したりしているのである。 これ全て、彼らなりに「世間に行動を起こした」結果である。 しかし、これらは間違った指導者に付き従った故の反社会的「行動」である。 では、創価学会はどうか。 表向きは善人がごとく振舞っているが、しかしその「行動」は実に社会に極悪の猛毒を放っているのである。 その元凶となる「行動」はまさに「ニセ本尊」の大量販売・頒布である。 この魔物・鬼札であるニセ本尊の蔓延により日本国は魔の棲家と化し、諸天に見放され、あらゆる面から国家が傾斜してきているのである。 つまり、沖浦君がいう「行動」とは、この魔札・ニセ本尊を撒き散らかすことを根幹とする創価学会の「行動」であるから、国家社会にとって極めて迷惑千万な危険行為である。 正しい「行動」とは、真の正法(=三大秘法の御本尊=御法主上人に「御開眼」された、日蓮正宗寺院から下付される御本尊)を持つ者を一人でも増やして、国家安泰の基礎を築くことである。 この「行動」こそが、日蓮大聖人様の本願であり、大聖人様の御精神の根幹である。 「大聖人の御化導は、立正安国論に始まり、立正安国論に終わる。」と古来からいわれる所以である。 であるから、沖浦君の言を概ね正しく言い換えるとこうなる。 > 所詮仏法は、 > > 斯人行世間。 > > ですよ。 > 自分がどう行動したか、しているか? > ココが極意なんです。 > 単純なんですよ。 > > 一万の「ニセ本尊」より、たった一体の「正統な御本尊流布」。 > 大聖人様仏法の極意です。 沖浦君、理解できましたか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する 120 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月26日(金)09時54分7秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下も他愛の無い、幼稚な、負け惜しみですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > > 法論、法論と、浮かれ騒いだ結果が現在の樋田さんの姿の原因です。 > 以前、彼は法華講のエースでしたね。 > DVDまで販売し、誰でも何処からでもかかって来い! > 法華講員はそれを見て大喜びをしていました。 > 安ッポイ喜びでしたが、そのころはこの板も、ずいぶんと法華講員でにぎわっていました。 > ところが、法論に勝った勝ったと浮かれているうちに、いつの間にか、法論が仏道修行。と、勘違いしてしまいました。 > 瞬時に堕落が始まったのです。 > 結果がね、今の寂し過ぎる姿ですよ。 > 理屈で相手をへこませる事が布教ではありません。 > そろそろ気付くべきときです。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑自分が、教義的に全く反論出来ない悔しさが、実に良く滲み出ている文章ですね。 私は別に「法論”のみ”が仏道修行」などとは思っていない。 現場での折伏が一番大事だと思いますよ。 ただ、 ■「若し善比丘有って法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是我が弟子真の声聞なり」 ■「邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。」 (他類文多数) との御聖訓にひたすら殉じようと心がけているだけですね。 沖浦君、自分がきちんとした法義として反論できないからといって、物事を捻じ曲げて見てはいけませんね。 そいう謗法根性で歪んだ生き方に ▼「> そろそろ気付くべきときです。」 ということですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 121 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月26日(金)17時26分53秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さ、つづきいきましょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > > 『持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、』 > (持妙法華問答抄) > > この御金言、真面目にお学びなさい。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑沖浦君が何を立証したくてこの御文を引文したのか全く理解できませんが、この御文についての通解および通釈は↓に既に掲載してあります。 http://toyoda.tv/nozejikyosya.htm 沖浦君こそ、▼> この御金言、真面目にお学びなさい。 ということですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 122 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月26日(金)22時06分16秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、次の 愚難 も刻みましょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > [投稿日時] 2007年10月22日(月)08時39分21秒 > [題名] 樋田さん、大聖人様が具体的に譬喩で御本尊様の説明をされておられますよ > [投稿者] 沖浦克治 > 『此の御本尊こそ冥途のいしやうなれよくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや子のさむさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上今日は我が身の上なり、花さけばこのみなりよめのしうとめになる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、度度の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。』 > (寂日房御書) > > >●> >1、そもそも、ただの「電化製品」を作る会社と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。 > > > 一切衆生の成仏の要諦である御本尊様を、親が子供に着せる、女性が恋人や主人の身体をあんじて纏わす衣。と、たとえられておられます。 > 貴方の御主張では、 > > そもそもは大聖人様、ただの着物と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。 > > こう言う展開ですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑よく読めば、本当に 馬鹿 である。 どうしてここまで 馬鹿になれるか、天晴れ! というより他は無い。 この御文の譬喩をまとめると以下のごとくである。 御本尊様の功力 → 冥土の衣装 意義 → 御本尊様の功力により、今生の終わりから来生へ成仏の境界への御加護を賜ることができる 例 @ 「女性が恋人や主人の身体をあんじて纏わす衣。」(沖浦言) A 「親が子の寒さを哀れんで施す衣」 釈迦仏法華経(=人法一箇の戒壇の大御本尊 (←反論があればどうぞ)) → @の 女性・ Aの 親 意義 → 人法一箇の本門戒壇の大御本尊様は、衆生を想う慈悲溢れた存在 ―――――――――――――――――――――――――― 当方は、何も御本尊の功力や、仏法の道理などを世間の事物・事象に例えることそのものを否定しているのではない。 仏法の道理を、自分の考え、思い込み、思いつきで、世間の事象の何にでも例えられるものではない。 それが間違っている。と破折しているのである。 沖浦君の比喩の趣旨 ▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の本尊を立て、別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互いの本尊につおても干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」 これでは、どの宗派でも、その本尊と教義を容認することになり、全く大聖人様の仏法の原理原則を説明する比喩に為っていない。全く不適切・不見識・浅識で荒唐無稽な与太話である、と指弾しているのである。 こういう簡明な、まさに中学生でも分かる道理が分からないとすれば、もはやその者は大聖人様の仏法を語る資格など毛頭無い。 余りに勉強不足、幼稚に過ぎる者である。 当板上で他にも同様の者を散見するが、大聖人の仏法を云々するレベルに達していない、幼稚な者たちである。 この沖浦君等のような勝手気ままに大聖人様の仏法を欲しいままに私に論じる輩は、十四誹謗の B 計我(けいが)(自分勝手な考えで仏法を推(お)し量(はか)ること) C 浅識(せんしき)(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること) E 不解(ふげ)(仏法を正しく解(わか)ろうとしないこと) H 疑惑(ぎわく)(仏法を疑い、迷うこと) などの謗法を軒並み犯しており、その謗法根性の正体は @ ?慢謗法(?(おご)り高ぶって正法を侮(あなど)ること)であり、その命の根底は、 F 不信謗法(ふしん)(正法を信じないこと)である。 このままでは、間違いなく無間地獄へ最速で堕ちる者たちである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 123 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月26日(金)23時53分3秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| もはや、ダメですね。この人。↓ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ > > 貴方のボンさんよほどおかしいです。 > 妙相寺に聞きに言ってきますね。 > 暇な時に。 > 新宿にも誰かやって問い詰めさせましょう。 > 樋田さん、こんな事言ってるけど、我見ですか? > 貴方方入れ知恵したんですか? > 問い詰めるべき内容ですね。 > 何しろ、御書真っ向否定。の、動かざる証拠です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑沖浦君の愚にもつかない比喩の破折は既に詳細に亘って終わっている。 さて、沖浦君、では、妙相寺に来て頂きましょうか? それと新宿云々、とかねてから騒がしいですが、一体、当方とどういう関係があるのですかね? 詳しく説明していただきましょうか? (沖浦君、何かガセネタでもつかまされたようで、その説明が見ものですわ。 以前の「当方が長野会館へ訪問」の件といい、創価学会の情報網のいい加減さは我が身で体験しましたからね。) じゃ、新宿の寺云々の件、沖浦君、責任ある回答をよろしくお願いしますね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。124 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)17時58分28秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下の駄言を破り捨てておきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ 第一ね 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月22日(月)20時54分11秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 法主が素晴らしい信心して、罰かぶって焼け死にするもんかね。 常識を弁えなさい。 ――――――――――――――――――――――――― ↑これについては既に京都・奈良辺りの痴犬に鉄槌を下す時に徹底的に破折仕切ってある。 http://toyoda.tv/tciken13.htm http://toyoda.tv/tciken.saikai11.htm さ、沖浦君、詳細な反論をお待ちしてますよ。 ――――――――――――――――――――――――― ▼ 寛師はね一つ間違えれば三位坊ですよ。 ――――――――――――――――――――――――― ↑さて、戒壇の大御本尊を信じず、三宝誹謗を長年繰り返し続けてきた大謗法の毒虫であり、自分自身が「三位坊ら退転者」の流類である沖浦君などが、一体どういう了見で日寛上人を「一つ間違えれば三位坊」などと誹謗できるのか。 その余りの慢心振りを更に掘り下げて鮮明にするために、ひとつその理由を訊いて見ましょうかね。 ――――――――――――――――――――――――― ▼ 既に時代遅れで世界広布には無用の長物です。 アンタさ、サッサともって帰りな。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑どこまで 馬鹿 なんだか・・・ その沖浦君が▼「既に時代遅れで世界広布には無用の長物」と侮蔑する「日寛上人」が戒壇の大御本尊の御内証を書写された御本尊をわざわざ担ぎ出して、変造し、「本尊」として販売している創価学会は、沖浦君に言わせれば▼「アンタさ、サッサともって帰りな。」と罵声を浴びせるほどの愚行している、ということになる。 これをもし本部が読めば、沖浦君の言動を実に苦々しく思うことでしょうな。 沖浦君など、自分では創価学会員と自称しているが、ここまではっきり創価学会の方針を否定していれば、創価学会ではそう思っていないのではないのか? 実に哀れな老醜の敗残者であることよ。 ああ、惨め。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。125 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)20時16分48秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 当方が破折すれば狂ったように的外れの痴文を投げつけてくる。 本当に、幼児そのままに、幼稚な人間性ですね。 【検証】 三宝誹謗をし続けると、この沖浦君ように人間的に全く成長しなくなる。 では、実にくだらない内容だが、消毒していきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ 樋田君 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月22日(月)22時51分57秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 私が負けているように見える?? いいえ、君はまけたんです。 ――――――――――――――――――――――――― ↑ここも勝他の妄執の奴隷となっている哀れな老人の繰言ですね。 本尊観が全く判らないがゆえに ▼ 「いつか将来、本尊を書写する必要が出てきたとき、誰かが、それの人を決めるでしょう。(趣意)」 などと、懸命に言い訳をして逃げ回っておいて、 ▼「私が負けているように見える??いいえ、君はまけたんです。」 とはよく言えたものですな。 このような戯言を言えるのは、場の空気が読めない、自分を冷静に客観的に判断できない、妄想と、見取見(=劣を勝と思うこと。三惑の中の見惑の一種。理に迷って起こる惑。)に囚われた、仏道修行の果報が全く現れていない人、といえますね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。126 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)20時37分51秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼ それで未だにくどくどと言い訳を書き込んでいるのです。 文証をかえましょうね。 ――――――――――――――――――――――――― ↑ここは、当方に後加文についての大矛盾を突かれ、大恥をかいた沖浦君が慌てて矛先を変えようと惚けながらも必死の足掻きの言ですね。 参照 http://toyoda.tv/gokabun.htm 沖浦対樋田法論を検証する 113 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月23日(火)21時32分47秒 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。127 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)21時07分34秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼ 『夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、』(四条金吾殿御返事) ――――――――――――――――――――――――― ↑沖浦君はこの御文を常に、「仏法の正邪は、何事においても「勝ち負け」によって決まる。(趣意)」程度の意味として引文している。 創価学会総体としても、概ねそのような”怪釈”であることが多い。 しかし、これも極めて浅薄で稚拙な仏法理解である。 これについての破折は既に仕切ってある。 参照 http://toyoda.tv/syobu.htm |
| 沖浦対樋田法論を検証する。128 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)21時49分56秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ここは、沖浦君の異常性格でイチャモン人生の垣間見える、沖浦君の常套手段がよく出た箇所ですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ 御形木様は御書にない。 其の御書にもないようなものを拝む。 この与太話よりいいでしょう。 で、日蓮正宗は御形木様はないんですね。 謝るなら今のうちですよ。 集中質問で立ち往生し返答に詰まってからではね、謝っても遅いんですからね。 ――――――――――――――――――――――――― ↑ほとほと、馬鹿には何を言っても無駄かと思いたくなるような、徹底した馬鹿さ加減ですね。 馬鹿に少しでも判るようにことの経緯を番号でもふってあげますか。 1、沖浦君は「御書しか信じない。」と言っている。 2、当方らは御歴代上人の御指南も全て金口と拝して尊信している。 3、では沖浦君、御書しか信じないのに、なぜ御書にお示しのない、御歴代上人が書写されしかもその御本尊を印刷した御本尊を拝むのか?その理由を明快に説明して見せてくれないかね? 4、沖浦君、全く返答できない。(当たり前である。) 5、つまり、沖浦君は「御書しか信じない」という考え方に自分の信仰行為それ自体が大矛盾しているではないか。 6、主に信徒に宛てたお手紙を中心に編纂されている御書全集に、究極の秘事である、こと御本尊の御事は、文に顕然に説かれていない。 7、沖浦君は、日蓮正宗の御歴代上人のみに伝えられてきた御本尊の書写・授与の権能を否定し、侮蔑し、嘲弄しているにも関わらず、自分自身が、日達上人の書写御本尊を印刷した御本尊(←御書には出ていない、日蓮正宗の御歴代上人にのみ相伝・伝持されて来た戒壇の大御本尊の御内証を写された御本尊)を拝んでいるのである。 8.もちろん、当方らは唯授一人・血脈相承の御歴代上人を深く尊信し奉っているが故に、御歴代上人が書写された御本尊を印刷し、御歴代上人が御開眼為された御形木御本尊を本門戒壇の大御本尊と深く信じ拝し奉っていることは当然の姿である。 9、このような経緯の論理が全く理解できない、謗法の毒気深入の邪心の塊である沖浦君は、 ▼ 「御形木様は御書にない。 其の御書にもないようなものを拝む。 この与太話よりいいでしょう。 で、日蓮正宗は御形木様はないんですね。 謝るなら今のうちですよ。」 などと、イチャモンを吹っかけてきているのである。 これを 馬鹿 と言わずして、他にどこに馬鹿がいるでしょう。 いや、沖浦君は単純な愚鈍な馬鹿ではなくして、イチャモン専門の邪知しか頭に回らない、根性の腐った老人ということですかね。 さ、「勝ち負け」に執拗にこだわる沖浦君、少しは教義的に反論でもして、少しは「勝って」みせたらいかがか? ただし、「勝つ」ことと、「怒鳴り散らして話をうやむやにする」ことは全く違うので、注意して置きましょうね。 【検証】 三宝誹謗の謗法者は、正しい理知的な思考は皆無。邪知を巡らしイチャモンをつける事にしか脳を使えない。 といった境涯に堕ちる。 か。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。129 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月28日(日)23時58分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 以下はいよいよクズのような駄文なので、一気に纏めて消毒しておきましょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ ところで、法論の再戦などは口にした事もない貴方、再選希望の言葉を口から出したと認めてますね。 これね、ドッチが本当〜????? ――――――――――――――――――――――――― ↑法論終了後のやりとりは、以下の通り。↓ http://video.google.com/videoplay?docid=34096036289015383 1 沖浦君らの捏造 @ この映像後、このまま沖浦君側とは全く会話せずに完全に終了した。にも拘らず、沖浦親子らは、これ以後にも何か当方から揉み手して沖浦サイドへ擦り寄って媚を売った(趣意)等の捏造話をでっちあげている。 ↓ 一例 他多々 投稿者:耕治 投稿日:2007年10月19日(金)19時29分10秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 ▼「ほかにもあるんだな、実は」 A 当方の言●「今後も回を重ねて・・・」などは、遠方よりわざわざおいでいただいた沖浦親子への労いと友好の心情を明かしたものであり、この言をもって▼「正式な法論の要請(趣旨)」などと受け取るなどは、実に社会常識に疎い、余程の未熟者と言うべきである。 B この映像の状況についての当方の態度・言動についての沖浦君のいかにも自分本位に偏重した捏造をしている。 当方が、”一歩も動かず”沖浦君に向かって言った ● 「今後も回を重ねて・・・同県ということだし・・・」 この言を沖浦君の邪知で汚れ頭のフィルターを通すと、 ▼「樋田さんが私と耕治の方に”やってきて”、”イヤ〜沖浦さん、おかげさまでいい対話が出来ました、また是非次回もお願い致します。”」 と、言ったことになる。 実に自己中心的に極めて偏重し屈折した脳内である。 参照 http://toyoda.tv/syuryogo.htm 【検証】 三宝誹謗を長年繰り返すと、この沖浦君のように、何でも自分本位、自己中心的に、自分に優位にしか思えない、また、世の出来事をそのように自分本位に実際に見え、聞こえてしまう。傾向がみられる。(これは他の創価学会員にも総じて言える現象である。) この症状が昂じていけば精神障害となっていくでしょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 2、今回の法論(質問会)の発端は以下の経緯であり、沖浦君サイドからの発言である。 ――――――――――――――――――――――――― @ > DATE: 2007年 7月17日(火)18時31分24秒 > TITLE: 樋田さん > NAME: 沖浦克治 MAIL: ▼> で、法主の本尊云々の件は、何時でも対面でやりますからね。 > 但し、御書くらい覚えてくるんですよ。 ――――――――――――――――――――――――― ↑これに対しての当方の返答↓ ――――――――――――――――――――――――― A ■提婆は六万蔵を暗(そら)にして無間に堕ちぬ・是れ偏(ひとえ)に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず。」(御書・三三蔵祈雨事 八七七n) (【通解】提婆達多は六万蔵を暗記したが地獄に堕ちた。これはひとえに末法、今の世を表わしていることである。決して他人のことと思ってはいけない。) 道理の整合性などなく、荒唐無稽な自見・自義・己義のオンパレードの沖浦さんが、如何に御書の御文の一端を諳んじていても、実にこの提婆の流類と言えましょう。 その上で、「御書にない御形木御本尊を何故沖浦さんは拝すのか。」の論題で対面対論ができるというのなら、大いにやりましょう。 しかし、これも沖浦さんの単なる強がり・虚勢に過ぎないことは、格好をつけて自分から言い出した再度の対面対論を様々な理由やいちゃもんをこねて回避するであろう今後の沖浦さんの態度で明瞭となりましょう。 さ、どうします? ――――――――――――――――――――――――― ↑これ以後のやりとりは↓ B http://toyoda.tv/okiura.saihoron ――――――――――――――――――――――――― ↑ここでも沖浦君は事実を捻じ曲げた捏造をして、醜い人間性を遺憾なく露呈している。 【検証】 三宝誹謗を長年積み重ねると、捏造常習犯となり、「ウソも百遍言えばホントになる。」というどこぞの”人生の師匠”のご教示通りに人格が醜く破綻していく。らしい。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 樋田さん、集中質問まで一月ありませんよ〜〜〜。 さ〜〜〜〜夜も寝れないんですね〜〜〜。 怖くて怖くて震え上がっているんでしょう。 大丈夫ですよ。 こちらはね紳士的に質問致します。 ご安心くださいね。 でもね、容赦はしませんよ。 覚悟はいいですね。 何しろ法論要請で大口叩いた張本人です。 責任は取らないとね〜〜〜。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑まさに 強がり、邪推し、臆病で錯乱している といった文章ですね。 【検証】 本門戒壇の大御本尊を信じず離れ、三宝誹謗を執拗に繰り返す小者の謗法者は、臆病なくせに強がりだけは目一杯の浅ましい人間となる。らしい。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。130 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月29日(月)21時38分46秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君が登場してくれたことだし、ではこれも砕いていきましょうか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ アレレ樋田君 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月22日(月)23時41分19秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 ▼1「世間の一時的な勝敗はどうでもいい???」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑どうにも愚かな老人ですね。 @ 当方は一言も▼1「世間の一時的な勝敗はどうでもいい」などとは発言していない。 A 「世間的レベルの「勝ち負け」という皮相的事象で仏法の正邪を計るものではない。」と沖浦君に教えているのである。 Bそれを▼1「」と受け取る沖浦君は、 生来からの愚鈍か、 長年の三宝誹謗の謗法の悪果報によって、根性が歪み、物事を正確に、ありのままに、素直に、認識できなくなってしまったということか。 【検証】 ■功徳とは六根清浄の果報なり。 であり、正しい仏道修行の果報は、必ず眼耳鼻舌身意の六根が清浄になり、その一分の現われとして、物事の真実の有様を正確に認識できるようになる。 ところが沖浦君のように三宝誹謗の限りを尽くして人生の大半を過ごして来ると、上記のように自分の妄執・妄念で歪んだフィルターを通してしか物事を認識できなくなるようである。 それによって、苛立たしさや、憎しみ、などの劣情に身を焦がされるのである。 つまり六根が穢れ汚れているのであり、それはまさに仏法の功徳を得ていない謗法者そのものの姿である。 沖浦君の、このような人の言を捻じ曲げてしか受け取れない者は日常のあらゆる生活や仕事上での事案にしても同様に自分の歪んだ妄念に囚われた上でしか認識できないが故に、他者は驚き呆れ、次第に相手にしなくなるのである。 このままでいったら誰からもまともに相手にされない孤独な末期を迎えることになるも知れない。 実に侘しく、惨めなものである。 これまさに現世における謗法の果報による「負け」の姿である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。131 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月29日(月)22時10分49秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼ フ〜〜ン、二年前、私がイタリアで転倒し大怪我した時、現証だと▼1「大喜びした」のアンタですよ〜〜。 スキーで転んで怪我。 ▼2「あれね、世間の勝ち負けじゃないんですか〜〜??」 いい加減な事言ってた訳だ。 無責任な人ですね〜〜。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ここも前段と同様ですね。 @ 当方は沖浦君の怪我などに別に▼1「大喜び」などしていない。(喜んだり、悲しんだり、と感情移入するほど、沖浦君の個人的生活に興味関心がない。といったところですかね。) A 「謗法による悪果報の一現証ではないのか?(趣旨)」と指摘したのである。 ▼2「」←違いますね。 沖浦君の場合で言うならば「悪因縁による悪果報」であり、そもそも別に怪我すること自体を、「勝負」などという気は毛頭ない。 大事なことは「怪我」という現証を見つめて、次に何をするかである。 もっと具体的言えば、自分の信仰姿勢を見つめなおし、反省し、謗法があるならそれを糾し、更に正法の正しい修行へ力強く踏み出すことである。 しかし、沖浦君はその怪我以降も、あいも変わらず三宝誹謗を重ね続け今に至る。 実に仏法的な感性の悪い、悪因縁の生まれ育ち、ということでしょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼3「 信徒資格大丈夫ですか〜〜〜???? 新宿で怒ってる人いるんでしょう〜〜????? 」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ さて、 @ 一体誰が A 当方の信徒資格を云々しようとしてるのですかね? B 新宿 のどこの誰が、当方の何を怒っているというのでしょうか? ひとつ、具体的に示していただきましょうか? 付言しておくが、当方は、沖浦君との法論の件に関して、一切誰からも「怒られた」ことなどない。 さ、沖浦君の情報網が如何に粗雑・杜撰であるか見てみたいので、ここは是非明確に発表していただきましょう。 現時ではこの沖浦君の▼3「」の言は、不確定な情報で他人を貶める行為となり、不特定多数の人々に、「当方が新宿の大寺院の方のお怒りを買って、信徒資格剥奪。」との憶測を抱かせる発言であり、これは当然、名誉毀損行為に抵触しますね。 さ、では「根拠が明白で、証拠が十分な、正確なる調査報告」をここで示していただきましょう。 もし、それができないのならば、上記▼3「」の言は、沖浦克治君の当方に対する名誉毀損の証拠として保全し、関係機関への提出を待つことになりましょう。 それとも、今のうちに正式に謝罪しておきますか? 当方はどちらでもいいですよ。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。132 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月30日(火)19時46分29秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| これは↓、今の追い詰められた沖浦君の心理状態がよく出ていて秀逸ですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 樋田さん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月29日(月)21時59分58秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 面倒くさいので読みません。 あしからず。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ あ〜マーボー 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月29日(月)22時30分31秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 読まない、読まない。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑当方の書き込みの直後のこの投稿。 まさに 反論不能で絶句状態 ですね。 今まで当方へ執拗に絡み言い返してきた沖浦君がこのような発言をする心理を検証してみましょう。 【検証】 @ まず、読むと、自分の事を痛烈に破折されていて、それが胸に突き刺さり悔しくて頭にくるから、読みたくない。 A 「読まない。」 と書いて置けば、反論不能で一言も返せないことに一応の言い逃れができる。 B しかし、閲覧者には自分が優位に立っていることをアピールしなくては居られない低劣な人格だから、 「面倒くさいから読まない」 という強がったポーズが必要。 C 本当に読まないのなら、そのまま黙殺すればいいものを、腹の虫がおさまらず、何とかして言い返してやりたいが、しかしもはや教義的にも、捏造与太話も、いいががかりも、イチャモンも、あらゆる角度から、反論不能なので、全く一言半句返せないが、せめて、これ以上の当方からの破折文を止めさせたい。だから、当の本人が「読まない」とアピールして、当方の意欲を減退させようとしている。 ざっと、こんなところでしょうかね。 実に幼稚で、愚かな、敗残者 ですね。 別に、沖浦君に読んでいただかなくても当方は一向に構いませんよ。 当方も沖浦君の投稿など破折するときでなければほとんど斜め読み程度ですから。 今までの沖浦君のゴミ・カスのような駄言はたくさんありますから、今後も破折の材料には不自由しません。 内容的には既に破折しつくされたことの修復が多くなってきたので、少々食傷気味だったから、これ以上沖浦君の駄言が増えないだけありがたいですね。 【告知】 さて、では、沖浦君、今後は、 @ 既にこの掲示板上や対面法論でも破折し、HP上でも掲載した、 『沖浦君が反論不能になっている点』 と同内容の繰り返し投稿は文章をいかに変えてみても趣旨が同じならばスペースの無駄ですので、削除します。 A 以下の駄文も削除対象とします。 下劣な揶揄、 下らない川柳、 論理性のない感情的なヤジ などなど、内容に教義的な論理性が認められない駄文 ご承知置きください。 沖浦君に残された道。 『今まで当方から破折され反論不能になっている箇所(教学的内容と、捏造話も含む)を全て教義的にも、倫理観からいっても、矛盾破綻なく反論すること。 もしくは、公式に謝罪すること。』 のみ、ですね。 さ、頑張ってみてください。 ま、これも、「読んでない」 のだから、意味ないか。 一応警告して置きましたよ。 |
| 訂正 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月30日(火)20時23分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 修復 → 重複 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。133 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月30日(火)21時31分47秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| では、引き続き以下のゴミを清掃していきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 樋田君、お読み 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月22日(月)23時44分56秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 『強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや、』 (四条金吾殿御返事) 樋田くん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月22日(月)23時51分9秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 君ね、外道は劣って言うけどね、法主よ立派な仏教以外の人沢山いるよ。 その方々にね、君じゃ歯もたたないよ。 それとね、世界広布は外道が舞台なんだよ。 君じゃ無理だね〜〜。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑要するに、「世間的に評価されることが信仰の目的であり、それができない人は正しい信仰をしていない。」との主張ですかね。 1、これも実に皮相的な浅薄な読み方ですね。 @ この 「強盛の大信力」 とは、 「どのような大難や迫害があっても絶対に退転しない、恐れることのない大信力」 という意義である。 (※ どこぞの老人のように「スキー大会壮年の部で優勝させてください!」「50億稼がせてください!」などと世間的な名声や富を願うのはある意味「願力」であって、真の意味の「強盛の大信力」ではない。) A その「強盛の大信力」の結果どうなるかと言えば、有難くも必ず「成仏」という大果報を得ることができるのである。 B 現身に「成仏の大果報」を得た者は、その徳は自ずと世に広まるのであり、「法華経の行者(信者)」としてその人徳に対する賞嘆の声を、鎌倉中、日本国中に轟かせていきなさい。と大聖人が勧誡あそばされるのである。 (※ ここもあくまで「法華経の行者=法華経の信仰を命がけで貫いた行者」としての賞嘆であり、大金持ちになっただとか、職場での地位が上がったとか、という世間的な富や名声の意味ではない。) C 次の、■「あしき名さへ流す、况やよき名をや。何に况や法華経ゆへの名をや」。であるが、 世間では悪行によって有名になる人が多い。これは悪業に身を任せれば容易なことである。 しかし、世間で各自の営みの上での優秀な業績で賞嘆されることはなかなか容易ではない。 しかし、最上の賞嘆とは、「法華経を強盛に信仰したことによる名声・賞嘆」である。 これは実は、正しい法華経の信心(現時では本門戒壇の大御本尊への信仰)をすることによって誤解をされたり、あるいは悪心を抱く者達から怨嫉を受けることによって悪評が立つ場合のことをさすのである。 これは、大聖人様の御一生においてはまさにそうであった。 現在においても同様で、本門戒壇の大御本尊への正しい信心をしている方々が、いわれのない誹謗中傷を様々に受ける姿があるが、正法を受持する人には、永遠にこのような難があるのである。 それを大聖人様が身をもってお示しになり、また、この御書においてもお示しくださっているのである。 以上、沖浦君の浅はかな理解は実に的外れの稚拙な怪釈である。 ――――――――――――――――――――――――― 2、であるから、 ▼「君ね、外道は劣って言うけどね、法主よ立派な仏教以外の人沢山いるよ。その方々にね、君じゃ歯もたたないよ。」 などという痴言を吐くことができるのである。 これは、「教法の「勝劣」が、人物の世間的評価によって決まる、」というがごとき、本末転倒した妄執からくるのである。 この沖浦君の妄執の稚拙さを示す一例を挙げれば、例えばキリスト教社会では、キリスト教的概念で社会意識が構成されているから、キリスト教的言動をなす人が社会的に高い評価を受けるのは当然であり、仏教的言動が俄かに受容されないのは当然である。 つまり、機根が整っていないのである。 だからといって因果律を説ききれないキリスト教が因果を明快に解き明かしている仏教より劣る教法であることは、少しく教義を学習した通常の知能のある者なら容易に理解できるところである。 以上、簡単に沖浦君の愚論を破した。 この件もこれまで繰り返し破折し尽くしてきた内容であり、これについて正当な教義的反論がない場合、以後同内容の投稿は無駄であるから削除します。 沖浦君、頑張ってください。 尚、先ほどの警告通り、 ↓数件の沖浦君の駄文投稿は削除しました。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。134 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)00時12分37秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれ、当方宛のゴミはほとんど全て掃除し、消毒したから、次は資料整理も兼ねて、この駄文でも切り刻んでいきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ 樋田君(さくら)おはよう 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月30日(火)08時11分47秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 さくらのときは返事してあげるよ。 ――――――――――――――――――――――――― ↑いつまでも、くどい粘着質な愚人ですね。 当方と「さくら」君が別人だと、文章見て判らない頭では、なるほど、御書など読めない訳だ。 ――――――――――――――――――――――――― ▼ 身延の土産本尊は見た事ないんですよ。 ――――――――――――――――――――――――― ↑ハイ、どうぞ。相貌でも確認していただきましょうかね。 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html で、この「相貌」の件で沖浦君が未だに反論不能になっている件。 ↓ http://toyoda.tv/minobu.htm 今後、この↑破折に対して正当な反論がない限り、身延の土産本尊に関しての駄文投稿も全て削除します。 さ、頑張りましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。135 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)14時02分4秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| イキがいいうちにさばいておきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 馬鹿が喚いている様なので 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)07時08分22秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 ▼1「 身延の御本尊をコピーしてヒラつかせた、痴れ者がおりました。 どうしようもない馬鹿でしたね。 知性の欠片もない、大聖人様に対する尊敬の姿勢も皆無。の、謗法者です。」 ▼2「 今あらゆるところが敵に回り、宗門からも末寺からも厭まれる負け犬の敗残者です。」 ▼3「この大馬鹿が、私共に身延の本尊を拝め。と、身の程知らずの喧嘩を売りました。」 オイ!!オオバカ野郎の樋田!!! コラ!!! テメ〜〜〜、上等だよ。 ▼4「今度身延に行って大聖人様直筆の御本尊様が開示してあれば拝んでくると言ってんだ。 テメ〜〜、其の写真見たら法華講をやめろ!!」 イイナ”! 根性の欠片もない癖しやがって、大口ったくんじゃね〜〜!!! 待ってろよ。 テメ〜が売った喧嘩だぞ、絶対にがさネ〜〜〜〜!!!! ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ ▼1「」については、既に↓で詳細に破折済み。 沖浦君は未だに反論不能のまま。 教義的に反論できない悔しさに怒り心頭、煮えたぎった修羅根性剥き出しに、ただの遠吠えを繰り返しているだけ。 この件も、↓に教義的に反論でいないのなら、今後同様の繰言は削除します。 ポイント http://toyoda.tv/copy.htm 全体 http://toyoda.tv/okiura.kensyo ▼2「」については↓に沖浦君が捏造常習犯である証拠をアップしておきました。 http://toyoda.tv/netuzo.htm これに関連する事項は↓ここに詳細に記録されています。 http://toyoda.tv/okiura.hituti これに関して、沖浦君は一度も根拠のある証拠を提示し事実関係を証明していません。 まさに捏造常習犯ですね。 ▼3「」について。 これも全く事実無根のイチャモンですね。 当方の言は以下の通り。 【引用】 ――――――――――――――――――――――――― 大好きな戸田先生にまでこっぴどく叱られて、惨めなものである。呵々大笑。 投稿者:管理人(樋田昌志)投稿日:2006/01/30(Mon) 15:26 身延の話が出たから、ちょうどいい。身延のみやげ物屋で売られている大聖人御真筆御本尊の複製掛け軸と、貴公が拝んでいるニセ掛け軸とどこがどう違うのか、教義的に説明せよ。 当方からしてみれば両方とも全く功徳のないただの紙っぺらであることは幾らでも説明できるが? 大聖人直属とかいうのならば、今のニセ掛け軸よりは身延の土産物屋の掛け軸の方が貴公ぐらいの程度には似合っているのではないか? 何故、簡単に手に入るみやげ物大聖人御真筆複製掛け軸でなくて、大石寺26世日寛上人御書写の御本尊を更に改竄・変造してあるニセ掛け軸を拝むのか? その教義的怪釈をできるなら(絶対むりだろうが。呵々)してみたまえ。 ――――――――――――――――――――――――― ↑ご覧の通りで、別に沖浦君に身延の本尊を拝め!などと一言も発していません。 沖浦君がいかに狂気を彷徨っているかよくわかる箇所ですね。 ▼4「」について 沖浦君が大聖人の御魂が住まわれない、身延の本尊を拝むという大謗法行為をするのは勝手ですが、そのことにより当方が法華講を脱講しなければならないということには全く結びつきませんね。 なぜそういう結論が導き出されるのか、詳しく説明してくださいませんか? よろしくお願いしますね。 その他の言は、沖浦君がもはや人界の境界に居ることすらできず、生きながらに三悪道・四悪趣に堕ちている何よりの証拠ですね。 (余談ですが、そういえば宮川某という脱落僧も、当方にほとんど同じ言葉使いでしたね。 やはり、三宝誹謗の者どもは似た境界に堕ちるのですね。) |
| 沖浦対樋田法論を検証する。136 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)17時09分20秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ただの与太者の悪態と言った喚き声だけになっているので、以下の粉砕・清掃・消毒を続けましょうかね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ わざわざ買って拝む必要もないしね。 家に大聖人様御図顕の御本尊様がおられます。 ――――――――――――――――――――――――― ↑この痴言については既に徹底的に破折済みであり、相変わらず沖浦君、反論不能のままである。 ↓ http://toyoda.tv/katagi.htm この件についても、反論できない場合は以後削除します。 いつまでも馬鹿の繰言に付き合っている暇はないので。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。137 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)17時27分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼ お守り様も私と耕治がそれぞれいただいておりますしね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑これは、「お守り」どころか、全くの魔札・鬼札であり、常に言うがごとく、糞尿よりも数千倍劣る、どころか、エイズなど、根治不能の病原体よりも数億倍恐ろしい猛毒物である。 この創価学会が販売しているペンダントタイプの実に安っぽい代物は、かつて脱会した青年は「7000円で買わされた。」と言っていたが、家庭でぶら下げる偽装掛け軸タイプが概ね3000円だから(←人によって、地域によって値段が違ったりする。幹部がピンハネでもしているのか?)、安っぽい作りにしては妙に高い。 これは、このペンダントタイプをもらえば即、新規会員となり、家族の承諾も、謗法払いも不要という実態からして、このタイプの方が販売しやすく、収益が得やすい。が故に高値に設定して大きな儲けを想定しているのかも知れませんね。 沖浦君の受けているのは日蓮正宗からお貸し下げされているお守り御本尊と思われるが、これまた、その願主が三宝誹謗の主であるから、それは身延の寺領と同様に、大聖人の御魂は住まわれていない。 やはり、現時では「お守り」とは全くならない。 であるから、今の沖浦君のように、全く三悪道の化身のような醜態を晒し続ける人生となってしまうのですね。 これほど判りやすい現証を示してくれる人も、珍しいし、有難いですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。138 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)20時16分25秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さ、続き ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ もし、▼1「御本尊様」がなくて、身延の土産しかなければ、▼2「相貌を確認」して御安置致しますよ。 若しくはネットでコピーして拝みます。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑いよいよ、悩乱の極みに達してますね。 1、まずもって沖浦君には、▼1「御本尊様」の定義が全く定まっていない。 ↓ http://toyoda.tv/syosya.htm (←沖浦君、未だに反論不能) 2、本尊観が全く定まっていないから、沖浦君にしてみれば、身延の土産本尊もネット上の曼荼羅の画像も「本尊」足り得る。 しかしこれは、全くの妄見である。 破折 ↓ http://toyoda.tv/miyage.htm つまり、現時の沖浦宅にある御本尊があろうが、無くなろうが、身延の土産本尊などはこの先、正真の本尊にはなりようはずがない。 3、▼2「相貌を確認」 沖浦君はまず、↓に反論不能であるから、「相貌」云々を述べる資格すらない。 http://toyoda.tv/minobu.htm しかも、沖浦君はかつてこう発言している。 引用 ――――――――――――――――――――――――― ● 法華講 北山本門寺の貫首も「蓮祖御図顕」の御本尊を書写していますし、大聖人様御図顕の御本尊様とそっくりです が、そちらではいけないのでしょうか? また、この板で常に話題になる、身延の売店で売られている本尊は、大聖人様御図顕の御本尊をそのまま写真に撮り、縮小して印刷したものですが、それではいけないのですか? もしもいけないのであればその理由は何ですか? ここも、やはり御文証をしっかりお見せいただきたいです。 ▼ 沖浦君言 『見ていませんし、私は専門が本尊書写ではありません。 そちらの専門家(法主など)にお聞きなさい。』 ――――――――――――――――――――――――― つまり、沖浦君には御本尊のことは全く判らない。と図らずも吐露しているのである。 そんな者が、御本尊の「相貌」について云々できる訳がない。 できるというのから、さ、遠慮はいらない。とくとくと説明してくれたまえ。 追い詰めれれた沖浦君、実に見ものである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。139 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)20時24分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| あれ〜〜?? 沖浦君、当方の破折文、読まないんじゃなかったの? 気になって気になってしょうがないんだね。 ↓ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ お守り様のこと 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)19時57分48秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 父が達師と懇意でした。 直接頂いたものを先年私が受け継ぎました。 他人にとやかく言われる筋合いのものではありません。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 一信徒の癖に 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)20時02分10秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 達師のお守り様にけちをつけた不心得者のことは、然るべきところに報告しておきます。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑感情に任せて、前後の見境もなく不用意に発言し、都合が悪くなると、臆面もなく前言を覆す。 まさに、頭破七分の姿そのままですね。 それが、三宝誹謗の極悪果報ですよ。 そんなことでは、人から信用などされる道理は全くありませんね。 実に惨めな老年期ですね。 いつまでに気がつくことやら。 今世では無理なのか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する。140 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)22時37分36秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、消毒の続きいきますかね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼ 今はね、其の必要がありません。 なししろ拙宅には御四帯もいらっしゃいますから。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ 1、ニセ本尊 2、ニセ本尊ペンダント 3、日蓮正宗からお貸し下げいただいている御本尊 4、同じくそのお守り御本尊 ということですね。 1、2、は問題なく猛毒のゴミ本尊です。 文証・理証は、当HP上の随所で書いてあります。 現証は耕治君のポイントのずれた投稿ですね。 あと、法論時での異様な言動・振る舞いなども挙げられますかね。 今、沖浦君を教義的な絶句状態に追い込んでいますが、これが片付いたら、今度は耕治君を破折していきますか。 そうすれば、ニセ本尊を拝んでいるという頭破七分の様態が更に鮮明に現われてくるでしょう。 3、4が現時では全く血脈の通わない功徳のない御本尊であることは↓で明証済みですね。 http://toyoda.tv/nittatsusyonin.htm ですから、現在沖浦君宅では、何をどのようにしても、功徳は積まれません。 実に哀れ極まりない、白馬での悪逆・謗法三昧生活 といえましょう。 無惨! |
| 沖浦対樋田法論を検証する。141 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月31日(水)22時46分18秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| > [投稿日時]
2007年10月31日(水)22時15分42秒 > [題名] 野の蜂 さん > [投稿者] 沖浦克治 > どうして私共に功徳の曄が咲き続けるのでしょう?? > > 偽本尊ならありえませんね。 > > 私はね大罰も受けましたし、そこから立ち上がりました。 > 故に一闡提ではありません。 > 経文に明白ですね。 > また、魔の通力は最初だけの現象です。 > 大罰から変毒為薬出来る道理がありません。 > 故に私の功徳は魔の通力ではありえません。 > 仏法の常識ですね、これは。 > > では何故私共に功徳が、それ半端ではないお力が御本尊様から出てくるのですか? > > 明快なお答えを期待いたします。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑くどいですね。 健忘症か、痴呆症ですか? 既に、完摧済みです。 ↓ http://toyoda.tv/okiura.1.ma これで最後です。 以後、教義的反論できないまま、同内容の愚痴を投稿してきたら削除します。 以上、申し付けました。(沖浦君風に) |
| 沖浦対樋田法論を検証する。142 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)10時56分54秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| これは↓お笑いですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 野の蜂 さん おはようございます 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)06時19分11秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 最近物凄い功徳がでております。 時に熱原公演に本気で取り組みだしてからは▼「人生を一変さっせるような境涯革命が顕著です。」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑▼「人生を一変さっせるような境涯革命が顕著です。」??? ↓これが沖浦君の言う▼「人生を一変さっせるような境涯革命が顕著」した人の「現証」ですか・・・・ いやいや、恐れ入りました。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 樋田 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)06時22分52秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 も一度確認するぞ。 お前俺に喧嘩売ってんだな!! 消したら売ったと言う事だぞ。 ――――――――――――――――――――――――― 馬鹿が喚いている様なので 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)07時08分22秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 身延の御本尊をコピーしてヒラつかせた、痴れ者がおりました。 どうしようもない馬鹿でしたね。 知性の欠片もない、大聖人様に対する尊敬の姿勢も皆無。の、謗法者です。 今あらゆるところが敵に回り、宗門からも末寺からも厭まれる負け犬の敗残者です。 この大馬鹿が、私共に身延の本尊を拝め。と、身の程知らずの喧嘩を売りました。 オイ!!オオバカ野郎の樋田!!! コラ!!! テメ〜〜〜、上等だよ。 今度身延に行って大聖人様直筆の御本尊様が開示してあれば拝んでくると言ってんだ。 テメ〜〜、其の写真見たら法華講をやめろ!! イイナ”! 根性の欠片もない癖しやがって、大口ったくんじゃね〜〜!!! 待ってろよ。 テメ〜が売った喧嘩だぞ、絶対にがさネ〜〜〜〜!!!! ――――――――――――――――――――――――― ホント赤福樋田 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)07時13分22秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 馬鹿で愚かだ。 ――――――――――――――――――――――――― さくら 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)10時46分39秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 お前は引っ込んでろ。 コレは樋田が俺に売った喧嘩だ。 いくら高くついても買ってやるっていってんだ。 女の出るまくじゃね〜〜!! ――――――――――――――――――――――――― 樋田 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)10時48分24秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 テメ〜も情けない野郎だ。 女の陰にこそこそ隠れやがって。 サッサと出て来い!! ――――――――――――――――――――――――― コラ!樋田!! 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)11時23分53秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 何時まで隠れてやがんだい! サッサと出てこねーか! 信徒資格剥奪が目前なんだぞ、テメ〜は!!! 手遅れになる前にサッサと出て来い!!!!! ――――――――――――――――――――――――― さくら、おまえ 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)13時19分3秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 引っ込んでろって言ったろうが。 樋田が出てくるまで出るんじゃね〜〜! ややこしくなるだけだぞ!! いいな。 ――――――――――――――――――――――――― オイ!樋田 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年10月31日(水)15時44分19秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 能書きは要らないんだよ。 喧嘩売ったのはそっちなんだ。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑このような、野卑で、粗雑、無教養且つ低劣・醜悪な怒声を公の掲示板で臆面もなく、執拗に繰り返せること、それ自体が、全く「境界革命していない」姿じゃないですかね? 畜生界とか修羅界などにどっぷり漬かり込んでいるだけなのでは? このような低劣な「境界」の方が、↓このようにいうのがまた笑える。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 所感・・・・・・・・ 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)08時14分57秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 法華講ってもう駄目みたいですね。 対話会話ができません。 自分たちの価値観を無理強いするだけです。 ▼2「やくざと同じ」です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑▼2「やくざと同じ」?? それは上記の御自分の発言をよく読んでみて、果たして自分の言動がどうなのか、熟考してみたらいかがですかね。 こういう慢心・名聞が異様に強く、勝多の念に囚われている者を大聖人様は天台大師の言葉を引かれ一言で劈いている。 ■「第四に修羅道とは、止観の一に云はく「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」文。 また、自らの非を省みれない愚か者についても厳しい御指南がある。 ■疵を蔵して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙の人なり。(中略)記の四に云はく「疵を蔵す等とは三失を釈せるなり。疵を蔵して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省みること能はざるは我慢を釈し、無慙の人とは不信を釈す。」 と。 ■「自ら省みること能はざるは我慢を釈し」=自分を反省することのない者は「我見慢心の者」ということですね。 ■「無慙の人とは不信を釈す」=信仰の筋目に対して、自分の行動に少しも恥じ入る心のない者は「不信=信心がない者」ということですね。 こういう一時を見ても沖浦君がいかに正しい信仰を実践していないか、如実に判るものですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。143 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)11時28分8秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 書くほどに幼児性丸出しですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 読まないよ 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)11時10分48秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 樋田君、後二週間少しで直接会うんだから、力まないでいいよ。 ゆっくりしなさいよ。 人生あせったら負け。 なにやら少しヒステリックだね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑▼「読まないよ」とまず、言い訳を入れているところが子供じみてますね。 本当に子供がするのなら可愛いと思いますが、もう60になんなんとするいい初老の男がする行為とはね。 精神的に相当未成熟ということですかね。 で、読まないのに、なぜ、どこが▼「少しヒステリック」なのかが分かるのかな? こんなところも、▼「人生を一変さっせるような境涯革命が顕著」な人のなす言動とはおよそ思えないですね。 実に浅はか、愚か、未熟 ですね。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。144 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)11時47分5秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君、どんどん”おいしい”ネタ連発してくれて、恥の上塗りですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 十月で 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)07時26分44秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 昨年の半分を売り上げました。 功徳ですよ。 現世利益です。 創価学会辞められません。 おいしいですよ〜〜!!! ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑以下の御指南では、「現世の栄え・潤いなど、所詮成仏の大果報からしたら虚しいものである。」とおおせであるが、御書を暗記しているはずの沖浦君はここだけ忘れたのでしょうかね。 それとも、我見・慢心・妄執深くして、大聖人様の御言葉が心に浸みない、ということですかね。 実に、浅薄な捉え方しかできない、仏法の素養のない悪果報悪因縁の生まれ育ちの人ですね。 ▼「十月で 昨年の半分を売り上げました。功徳ですよ。現世利益です。」 などと浮かれている者は、大聖人様の仏法の深遠で広大無辺の大功徳を全く分かってないただの虚け者ということですね。 【文証】 ■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。(主師親御書) ■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。(守護国家論) ■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。(聖愚問答抄) ■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。(持妙法華問答抄) ■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。 (持妙法華問答抄) ■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。?利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。 ■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。 ■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。 ■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。 ■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。(松野殿御返事) ■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。145 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)12時22分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| どれ、これもまだ暖かいうちに、潰してスッキリさせていきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ほととぎすさん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)06時39分59秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 ▼1「現世利益を否定したり、現世以外の出来事が現世より優れている。と、言う宗派は大聖人様の教えの正反対に位置します。」 法華経にも、御書にも、徹底して現世利益が説かれています。 その延長線上に来世があります。 仏法は世間に流布いたします。 その世間での出来事は、物質面であれ、精神面であれ、全て現世利益です。 その現世利益の最たるものが、臨終正念です。 コレで現世は終了し、来世がまた現世んいなります。 何処まで行っても現世以外に仏法は活躍できないようになっています。 さくら君は、現世利益を否定しました。 既に仏法者ではありません。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ▼1「現世利益を否定したり、現世以外の出来事が現世より優れている。と、言う宗派は大聖人様の教えの正反対に位置します。」 沖浦君、のっけからスベってますね。(壮年部優勝!ですから無理ないか。) しかし、雪面で滑るのはご勝手ですが、大聖人様の仏法をスベって怪釈してはいけませんね。 ■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。(主師親御書) 国王・大臣ほどの栄耀栄華を極めてみても、大聖人様をそれを「夢の中の栄華・幻の中の楽しみ」と喝破せられて仰せである。 ただ、法華経→三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊に対する清真な信仰を貫き「即身成仏」を遂げ、後生に向かって三世亘る事の一念三千の大果報を得るべきである。と御指南されているのである。 国王・大臣ほどの栄耀栄華を極めること などは間違いなく「現世利益」であり、「三世に亘っての事の一念三千の大果報」からすれば、「夢・幻」という「劣」である。 事の一念三千を体達することこそ「勝」であり、今生の大目的なのである。 であるから、沖浦君の我説は▼「大聖人様の教えの正反対に位置します。」 ということですね。 つづく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。146 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)13時58分26秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ▼2「 法華経にも、御書にも、徹底して現世利益が説かれています。」 はて?、法華経や御書のどこに、「”徹底して”現世利益が説かれています」かね? 法華経には、「現世で大金持ちなることが大事だ。」とか「どこかの大会で優勝して有名にあることが衆生の本懐だ。」などとは全く説かれていませんが? 御書の御指南 ■小事たる今生の御いのりの叶はぬを用(もっ)てしるべし。大事たる後生叶ふべしや。(法門申さるべき様の事 文永七年一二月 四九歳) →大聖人様は 今生の利益 →小事 後生の大果報→大事 とはっきりお示しであられる。 ■後生の仏は疑ひなし。なんぞ今生にそのしるし(験)なからむ。(上野郷主等御返事 弘安五年一月一一日 六一歳) 後生に三世に亘っての大果報である成仏を為せるのであれば、その予証として現世においてその現証が現れる、という意義であり、「後生の成仏」という一大事を基準にされて、その上で今生に現証が出現することを仰せである。 しかもその「今生の験」も、「ワックス売って金持ちになる」だとか「スキー大会で優勝する」だとかいう世間的評価という次元を特定して仰せになっていない。(もちろんそれを完全に否定するものではないが、そのような世間的な一時の成功や評価が、仏道修行の真の目的ではない、ということを領解しなければ正しい仏道修行の姿とはいえない。) 後生の成仏疑いない方は、今世においてその修行による人徳が現れてくる、との意義と拝するのである。 ■法華経の行者を心に入れて数年供養し給ふ事有り難き御志かな。金言の如くんば定めて後生は霊山浄土に生まれ給ふべし。いみじき果報かな。(南条殿御返事 弘安四年九月一一日 六〇歳) 大聖人様へ真心の御供養を終生続けられた南条殿へ、その果報として「後生は成仏間違いなし。大変尊く有難い果報である。」と仰せであり、今世の仏道修行の果報として「現世で大金持ちになる」だとか「地位や名誉が上がる」などと仰せではない。 ■殿岡(とのおか)より米送り給(た)び候。今年七月の盂蘭盆供(うらぼんぐ)の僧膳(そうぜん)にして候。自恣(じし)の僧・霊山の聴衆・仏陀・神明(しんめい)も納受随喜し給ふらん。尽きせぬ志、連々の御訪(とぶら)ひ、言(ことば)を以て尽しがたし。何となくとも殿の事は後生菩提疑ひなし。(四条金吾殿御返事 弘安三年一〇月八日 五九歳) 大聖人様へ、@ 盂蘭盆の先祖・故精霊の供養をお願いし、A 御供養申し上げ(大聖人様は”御僧侶”であられる)、B 登山参詣した四条殿へ、「今生で特に煌びやかな利益など仮になくとも、後生は必ず成仏するぞよ。」と仰せと拝するのである。 つまり、ここでも、今生の利益に主体が置かれていないことは顕然である。 因みにこの大聖人様時代の御奉公の@〜B全て、今の創価学会員が為していない仏道修行であり、創価学会が如何に大聖人様の仏法から遠く離れた似非仏教の外道集団であるかが明白である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。147 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 1日(木)17時52分39秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| おっ、来ましたね。 沖浦君の過去の投稿を検索しながら、特にもはや破折するレベルのものはないな〜。と思っていたら。 では、早速行きますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ フェイさん 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 1日(木)15時46分16秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 『一切は現証には如かず』 (教行証御書) これら御文の後に罰の現証が述べられてあります。 現世の罰ですね。 邪教を現世の罰を持って責められるならば、門下を現世の利益を持って励まされる事は当たり前です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ これまた、浅薄なることトイレットペーパーより薄い”怪釈”ですな。 この段は、権教無得道・法華得道・法華誹謗は無間地獄 のけじめを厳しく仰せなのである。 その証明にこの段の前後を引文させていただく。 ――――――――――――――――――――――――― ■ ■@「諸経の勝劣は成仏の有無なり。」慈覚・智証の理同事勝の眼、善導・法然の余行非機の目、禅宗が教外別伝(きょうげべつでん)の所見は、東西動転の眼目、南北不弁の妄見(もうけん)なり。牛羊よりも劣り、蝙蝠(へんぷく)鳥にも異ならず。依法不依人の経文、■A「毀謗此経(きぼうしきょう)の文をば如何に恐れさせ給はざるや。」悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)の無明の悪酒に酔ひ沈み給ふらん。 『一切は現証には如(し)かず。』 ■B「善無畏・一行が横難横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や。」観仏相海経(かんぶつそうかいきょう)等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何(いかん)が候や。一行禅師の筆受の妄語、善無畏のたばかり、弘法の戯論(けろん)、慈覚の理同事勝、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)が余行非機、是くの如きの人々の所見は、■C「権経権宗の虚妄(こもう)の仏法の習ひにてや候らん。それほどに浦山敷(うらやまし)くもなき死去にて候ぞや」と、和(やわ)らかに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調(ととの)へて閑(しず)かに言上すべし。 ――――――――――――――――――――――――― 普通に拝せば、そのままの意義であるが、謗法の妄執深き沖浦君には心に浸みぬであろうから、詳しく通解します。 @仏教の目的・仏の御出世の本懐は、つまりは、衆生の成仏にある。 であるから、■「諸経の勝劣は成仏の有無なり」つまり、成仏できるかできないかが仏教の正邪・勝劣を判ずるに一大事・最重要の課題なのである。 この御文は権実相対の辺においての御指南であるから、 法華経=成仏=勝 権教(以下の経々も含む)=不成仏=劣 との一往の意義である。 再往、成仏出来る法は、末法今時では「法華経→三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊」以外有り得ない。=勝 それ以外の法は「劣」となる。 (もちろん、創価学会は「劣」中の最悪・極悪の「劣」である。それは、この唯一成仏できる三宝をあからさまに、直に誹謗しているからである。) さて、この権経は誰が勧めたかといえば、この御文の前から列挙されている、 曇鸞、道綽、善導ら、念仏者、この御文では、慈覚・智証・法然ら、他、禅宗の一類、等である。 これらの者どもは、権宗に執着し広めるばかりか、法華経を時に激しく、時に巧妙に褒め上げ機を下し、結局誹謗していたのである。 因みに「一行」とは、中国唐代の真言僧であるが、理同事勝を提唱した者である。 これらの不成仏の法を広め、剰え、法華経を誹謗した者たちの末路はどうか?それが ■B「善無畏・一行が横難横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や。」 である。 この死に様のことを、大聖人様は、 ■『一切は現証には如(し)かず。』 と決判されているのである。 つまり、『不成仏の法を広め、法華誹謗の者の末期は、非業の死。という『現証』を示すのであり、真の正しい仏法の行者ならばそのようなことは有り得ないはずである。』と仰せなのである。 それは、 ■C「権経権宗の虚妄(こもう)の仏法の習ひにてや候らん。それほどに浦山敷(うらやまし)くもなき死去にて候ぞや」 との御文にても確認せられるところである。 「権教は虚妄の法、不成仏の法であるから、死に方も決して羨ましくもない。(悲惨な死に方の現証が現れる。)」との意である。 であるから、ここで仰せの「現証」とは、成仏・不成仏を基準に置いた上での死の姿であり、決して、沖浦君の固執する、「世間で有名になる。」だとか、「金儲けをする」だとか、その他諸々の世間一時の栄華栄達を仰せではない。 現世の利益 とは、まさに即身成仏が最重要の基本であり、その即身成仏の果報から自ずと円満な人徳が溢れ出し、衆生世間も含め、森羅三千、宇宙法界全体からの福徳に包まれるということなのである。 沖浦君はこの即身成仏出来る法に全く暗く、ただ、世間の成功が現世の利益、と妄執しているが故に全く大聖人様の御心から遠く離れているのみならず、三宝誹謗の限りを尽くしているのであるから、(■A) 『一切は現証には如(し)かず。』 で、上記の御文の■Bのごとくの、 「横難横死、身体全体が腐って異様な悪臭を放っての死、(一説に弘法の死)」 また ■「或は閻魔王の責めを蒙り、或は墓墳無く、或は事を入定に寄せ、或は度々大火・大兵に値へり。」 などの死に方をするのではなかろうか。 現世のちまちました利益や小事に現を抜かして、浮かれている場合ではないと思うが。いかがか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する。148 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 2日(金)00時10分4秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| ここも↓、全く筋違いの妄執ですね。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 法華経薬草喩品第五には、現世安穏、後生善処。と、説かれています。 大聖人様はしばしばこの御文を引用なされておられます。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ この現世安穏とは一義にはまさに即身成仏のことである。 【文証】 ■ 四条金吾殿御返事 建治二年六月二七日 五五歳 @「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽(ゆうらく)なきなり。経に云はく「衆生所遊楽」云云。此の文あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。」 (中略) A「遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏(げんぜあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは是なり。」 「現世安穏」とはまさにこの境地である。 @ 現時においては、本門戒壇の大御本尊を信じ奉って「南無妙法蓮華経」と本門の題目を唱えさせていただく。 このことがそのまま、自受法楽であり、遊楽であり、法華経の「現世安穏」ということなのである。 A この三大秘法の本門の題目を純真に唱え奉るとき、戒壇の大御本尊様 即 大聖人様 即 久遠元初の自受用身如来様 と我が身が勿体無くも一体不二となり、そのまま事の一念三千と開き、我が色身、自受用身の仏の当体であることを開覚するのである。 この境界はまさに本門戒壇の大御本尊に境智冥合なくしては有り得ない境智であり、この即身成仏が衆生の最高の「遊楽」であり、「現世安穏」であり、その境界は信を以って三世永劫に続くが故に、「後生善処」なのである。 であるから、大聖人様の御指南の真意を拝するとき、沖浦君の言うような、 「経営で成功する。」 「舞台公演が盛況」 「スキーの大会で好成績を収める。それによってワックスの売り上げをあげて儲ける」 などという次元で「現世安穏」という語も、義も用いられておられないのである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。150 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 3日(土)14時38分16秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 私共はたとえ現世の利益がなくとも退転は致しません。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ ↑既に、大聖人様の出世の御本懐であらせられる本門戒壇の大御本尊様への信心が元よりない沖浦君。 (参照 http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737 「おれはもともと(戒壇の大御本尊なぞ)信じていない!」 に、「退転」などないのは当然ですね。 つまり、端から正しい大聖人様への信仰をしていないですから。 『種々御振舞御書』 ■ 「日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(新編一〇六六n) ただ自分勝手に我見に任せて大聖人様を敬ってもそれは当人の、人格が破綻し、家庭が崩壊、国家が滅びる原因にしかなりません。 その「現証」が今日の沖浦君の数々の人格破綻した言動ですね。 参照 http://toyoda.tv/okiura.hituti |
| 沖浦君へ警告 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 4日(日)00時44分38秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦君へ 貴公は、執拗に 私が 「信徒資格を喪失する。」 「信徒除名される。」 等の全く根拠のない虚偽・捏造を投稿しているが、まず、この件は具体的な事実を例示した案件であるので、このまま放置できないことをまず告知しておきます。 また、以後、同内容の虚偽・捏造投稿があった場合は削除します。 ただし、投稿があった事実はしかるべき処置をするために、そのまま証拠事案として保全しておきます。 尚、この件に関しての現時での最終投稿 ● 2007年11月 3日(土)20時21分11秒 については、証拠保全した後、削除しました。 警告しておきます。 沖浦君、いよいよ貴公の常軌を逸した虚偽による名誉毀損に対して、具体的な行動を起こすことにします。 参照 http://toyoda.tv/netuzo.htm |
| 沖浦対樋田法論を検証する。151 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)15時03分21秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter
7 沖浦「この法論での法華講側の開眼の論証が日蓮正宗の伝統教義に照らして適法なのかどうか、日蓮正宗宗務院に確認をとる。必ずやりましょう。確認と取ったら必ず発表する。当然やりましょう。(趣意)」 と発言している。 当方らの開眼に関する論証は概要以下の通りである。 http://toyoda.tv/okiura.siryo2 さて、沖浦君はこの件を宗務院もしくは内示部に確認を取ったのか。 (付言しておくがこの件は沖浦君が自分で言ったことである。当方がけしかけたことではない。 今までの沖浦君の穢いやり口からいって、当方から宗務院を追求するように言われたから、そのように行動した。とでも言うのであるから、予め釘を刺して置こう。 そのような姑息な詭弁は通用しない。) しかし、未だに沖浦君はその結果を発表できていない。 つまり、確認してはいないのである。 (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) この点においても沖浦君とは口から出任せの、その場しのぎでウソを平然と述べ立てる軽薄で無責任な人物であることが実に良く分かるというものである。 さて、それでも発表できるというのなら、 @ 問い合わせた正確な日時。 A 問い合わせ先 何課等 B 担当者 C 正確な内容。(あとで当方も照会する。) 最低でも以上を明示しなければ全て沖浦君の虚偽捏造の妄想話ということである。 沖浦君、何時になったら自分の発言に責任が取れるのか。 で、この件を証明できなければ、 そもそもこの件は、「双方の主張は自義かどうか。」ということから始まっている。 ■今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。 沖浦君のいうことなど一から百まで悉く「経論」に基かない「自義」である。という当方の破折に沖浦君が猛反発したものである。 当方の主張は「経論」を元にし、かつ、日蓮正宗の伝統教義に沿って発言している。 この日蓮正宗伝統教義はかつての創価学会も信じ拝していた教義・信条である。 沖浦君はそれとは全く別のことを勝手気ままにほしいままに放言しているのである。 沖浦君は当方が日蓮正宗の教義的解釈に基かないで主張していたらそれも「自義」ではないか。と反駁したのであるから、もし、当方の主張が日蓮正宗の教義解釈に反するということを証明できないのなら、結果、沖浦君自身が放言していることは間違いなく「自義」であるということを認めた形となる。 さ、沖浦君、どうせ沖浦君にしてみればここまで勝手気ままに適当なことを言い続けていれば、もはや大聖人の仏法の教義とは程遠いものであるが、自義を吐き仏法を私する者は、間違いなく頭破七分となり、無間地獄必定である。 ■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332) 沖浦君の言うこと悉く御文の意義を理解できていない、的外れな引文であって、的確な文意による引文は皆無である。 その無様な姿はまさに「謗法となる根本」である。 謗法→堕獄必定 よって、沖浦君も堕地獄は決成の者ということである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。152 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)18時10分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「もし、あなたの開眼の論証が宗門の見解と同じだった場合、ああ、なるほど樋田さんの見解と宗門の見解がたまたま同じだったという知識が増えるだけで、有難いことですわ。」 ↑ここもやはり口から出任せ人間の本領発揮である。 そもそも、当方の主張が”自義”かどうかを確認するために、当方の「開眼の論証」が宗門の見解と同様なのか、齟齬はないのか、確認すると言ったのである。 そこで、もし齟齬がないということが確認されたならば、当方の主張は自義ではなく、逆に沖浦君の言っていることが我見に任せてすき放題放言している自義であるということを認めなくてはならないやりとりだったのである。 それを冒頭のごとく言い逃れるなど、実に姑息な”伏線”というべきである。 (因みにこちらの想定通り、案の定、耕治君がなにやら相変わらず、ピンボケなことを言っているが、既に釘を刺していることすら読み解けないほどの理解力のなさを露呈したに過ぎない。 【引用】 ――――――――――――――――――――――――― (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) ――――――――――――――――――――――――― このように↑既に指摘しているにも拘らず、↓のように言ってくるとは、11.24の質問会のポイントのずれた返答が思いやられるというものである。呵々 【耕治言】 ――――――――――――――――――――――――― 前にも、あなたから裏を取りたいといわれてここの板にかきましたよ 投稿者:耕治 投稿日:2007年11月 5日(月)16時43分40秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 //問い合わせた正確な日時。 3回かけてますが、前にも書きましたが法論の3日後に父と私の2回 、時間帯は過去ログが流れてしまったが昼過ぎだったかな?携帯からかけた。父はその後で電話をした 3回目は、腐れ馬鹿ナオトのご本尊書写強要の件でかけた、これは、私が山に上がる前日だったので、日付は7月11日だったはずです。 //A 問い合わせ先 何課等 //B 担当者 大石寺、ないじぶ、きょうがくぶ(彼等は、電話では名乗らない) //C 正確な内容。 身延護持の真筆本尊を、君がプリントアウトしてただの紙じゃとやっていた。 それは、お宅の支持か? //(あとで当方も照会する。) 二ヶ月も前に、この板にこの旨書き込んだところ、あなたから、上記のごときといあわせがあって、詳しくおしえたはずですよ? あなた、そのとき、確認」しますと言ったではないですか? もう二ヶ月も前の話ですよ?わすれたんですか? |