沖浦対樋田法論を検証する。1  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月25日(月)13時57分12秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  今回の法論で、実に多岐に亘り多数露見した沖浦親子の邪義。
その全てに対して詳細に検証していきましょう。

chapter 2 沖浦親子の開眼に対しての考え方

1 克治氏のラッピングの例えについて。

そもそも、沖浦氏は、何故、自分たちが口を極めて攻撃する「日蓮正宗」の御歴代上人が御書写された御本尊を拝むのか、その教義的裏付けを論証できていない。
ただ、▼「功徳があるから。」と繰り返すのみである。
しかし、その「”功徳”と感じるもの」については法論上で、

【魔の通力】

http://toyoda.tv/okiura.1.ma

↑の文献を用いて破折したが、それに対して沖浦氏は反論出来ていない。
(映像参照 http://video.google.com/videoplay?docid=6718645913611419246   )

であるから、▼「御本尊に「功徳」さえあれば、それを綺麗に包もうが(開眼をする)、粗雑に包もうが(開眼をしない)関係ない。」との例えは、その前提根拠自体が成立していないが故に、全く採用され得ない比喩である。

2 次に耕治氏の主張について。

@ 読誦の例えについて。

@ これは▼「読の題目の功徳も、誦の題目の功徳も同じだから、同様に、御本尊を開眼をしようがしまいが御本尊の功徳は同じ」と主張したいようであるが、ここも、そもそも、耕治氏は克治氏とは別意見である。と前置きした上で、「開眼不要」と宣言しているのであり、「不要」ということは、する必要がない、してはならない、ということであり、この点の論証には、上記の”比喩”は全く用を成していない。

A 後に耕治氏は▼「誦の題目は、御本尊の前できちんと読の題目を唱えないと、功徳が薄い」等と発言し、読誦の題目の厚薄・浅深を主張しており、この時点で既に自らの論拠と自語相違している。
(尚、これについては克治氏が▼「些末なこと」とフォローしていたが、それは見苦しい言い訳・言い逃れに過ぎない。)

A ▼「破門の直後に功徳が直ちになくなる、ということが信じられない。」との発言について。

@ それは耕治氏の個人的な信心のレベルの問題であって、教義の本質論ではない。

A 例えば、電気料金を未納であれば電力会社から電力供給を停止されるのであり、また未納分を支払えば電力を供給してくれるのである。しかし、その間、供給を受けていた時も、そうでない時も、家庭内の電化製品の機能・性能自体には全く変化はない。
ただ、通電して使用できるか、使用できないか、だけの違いである。
電力の供給が止まれば、その”瞬間に”電化製品は使用不可能になり、通電すればこれまた直ちに使用可能状態になる。
この原理と現実を疑う者などおよそ文明社会ではいない。
もしいるとすれば、それは電気と電化製品の仕組みを知らない、ただ「無知な者」だけである。

沖浦親子は、そもそも、「御形木御本尊」という、御書に説かれていない、「日蓮正宗の化儀」に則った御本尊を、その意味も意義も分らずただ盲目的に拝んでいるだけであるから、こういう原理が理解できない。ただそれだけのことである。
よって、その不信・不解・無知・浅識の耕治氏個人の「感情・思い込み」を根拠に「開眼」を否定することができないことは、子供でも理解できる道理である。
沖浦対樋田法論を検証する。2  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月25日(月)21時15分24秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ▼「牧口会長時代から御授戒の儀式が始まった。」について。

これなどは、全くの根拠がない。

■ 一 等雨法雨の事
 仰せに云はく、(中略)等しく法の雨をふらすとは能弘(のうぐ)につけたり。等しき法の雨ふりてと云ふ時は所弘(しょぐ)の法なり。(中略)等雨法雨の法体(ほったい)は南無妙法蓮華経なり。今末法に入りて日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり。(中略)日本国の一切衆生の為に付嘱し給ふ法雨は題目の五字なり。所謂日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり云云。(中略)所詮等とは南無妙法蓮華経なり。法雨をふらすとは、今身(こんじん)より仏身に至るまで持(たも)つや否(いな)やと云ふ受持の言語なり云云。(御講聞書)

■第十に不謗三宝戒とは、爾前の諸経の心は仏は不謗三宝戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は謗三宝第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不謗三宝戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不謗三宝戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の三宝を謗(そし)りて成仏せしめず。能化の仏未だ謗三宝罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと三返。(本門戒体抄    弘安二年  五八歳)

等の御書の御文により、現在の形そのままではないにせよ、何等かしらの「授戒」の作法・儀式が大聖人の時代より存在したであろうことは間違いない。
であるから、▼「」の発言など、沖浦氏のただの妄言である。
沖浦対樋田法論を検証する。3  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月25日(月)21時22分57秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  沖浦氏へ反論します。
――――――――――――
少し、幼稚すぎますよ  投稿者:沖浦克治  投稿日:2007年 6月25日(月)14時49分34秒 softbank221104080129.bbtec.net   返信・引用

  ●>そもそも、沖浦氏は、何故、自分たちが口を極めて攻撃する「日蓮正宗」の御歴代上人が御書写された御本尊を拝むのか、その教義的裏付けを論証できていない。

 ▼御書は御本尊様を拝む権利を、

 ■1『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 末代幼稚。と、仰せです。

 又、御本尊様は法華弘通の旗印。と、仰せです。

 ■2『 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』
 (日女御前御返事)

 更にこの後段には、

■3『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』

 全てが備わり欠けたところがない。と、輪円具足。と仰せになられ完全体であることを証明され、信を持ってのみ入ることが出来るとおおせです。

 輪円具足なれども法主開眼のみかけている。との記載はありません。

 末法の凡夫は、法華弘通を目指し、大聖人様を御本仏様と信じるなら、誰でもご本尊様を拝む権利があります。

 御書を貴方は否定するのですか?
――――――――――――
■1〜■3すべて沖浦さんが引用した御文は大聖人自らが顕された御本尊のことを指しています。
沖浦さんが日達上人が書写された御本尊を拝む根拠とはなりません。
沖浦対樋田法論を検証する。4  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月25日(月)21時54分46秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  もと沖浦克治さんへの反論です。

●> >、▼「功徳があるから。」と繰り返すのみである。
> しかし、その「”功徳”と感じるもの」については法論上で、
>
> 【魔の通力】
> ↑の文献を用いて破折したが、それに対して沖浦氏は反論出来ていない。
>
▼>  これも愚かなほど悲しい反論ですね。
>
>  私の功徳は魔の通力の可能性がある。
>  こう言う事です。
>  大聖人様の御本尊様の功徳の可能性もある。
>
>  では、闇の中ですよ。
>  貴方の証明はね。
>  貴方の論理は、私の功徳を完全否定していません。
――――――――――――
●ですから、
■「今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。」(守護国家論   正元元年  三八歳)
の通り、経論を根拠としなければ全て自義で、堕獄の要因となります。
ここは、沖浦さんが自説の正しさを▼「功徳があるから」と自らの功徳を根拠としたが故に破折したところです。
(映像参照 http://toyoda.tv   の  功徳があるから正しいか?

そもそも、日達上人(日興門流の貫主)が御書写した御本尊を拝むことを明示した御文は御書にありません。
そこで、沖浦さんが拝んでいる御本尊を書写された、その日達上人御自身が仰せられた明確なお言葉あります。

■日達上人
「戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく人を救うところの力もないのであります。」

これまさに、沖浦さんが拝んでいる日達上人御書写の御本尊のことであります。
ですから、現時に於いては沖浦さんが拝んでいる御本尊には■「生命もなく人を救うところの力もないのであります。」
であるならば、沖浦さんが感じる功徳らしい現証はまさに魔の通力ということですね。
しかも、■「人を救う力もない」のですから、もし沖浦さんが人間に属するのであれば、救われない=地獄行き。という原理であります。
沖浦対樋田法論を検証する。5  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月25日(月)23時43分6秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  沖浦克治さんへ反論です。

●> >沖浦親子は、そもそも、「御形木御本尊」という、御書に説かれていない、「日蓮正宗の化儀」に則った御本尊を、
>
▼>  いいえ、御形木様の存在は興師が仰せです。
>  従いなさい。
――――――――――――
↑さて、日興上人はどこで御形木のことを仰っているか。

今回の法論条件は御書の御文のみ。(後加文は除く)ということだったから、御書全集に掲載されている日興上人の御文中、「形木本尊」については以下の御文のみですね。

■一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。(富士一跡門徒存知事    延慶二年)

さて、この御文には五老門流が大聖人様の御本尊を版木に彫り、刷って矢鱈にばら撒いていることを誡めの意義を篭めて示されておられます。
反面、日興上人の化儀は、不自惜身命の信心を貫いた者にのみ、大聖人の御本尊を”書写”して授与為されています。
この御文のどこにも「日興門流の後の貫主上人が御書写した御本尊を形木にして刷ったものを拝む」という意義は見出されません。
ここでも、沖浦さんが自分が口を極めて誹謗している日蓮正宗(日興上人門流)の貫主上人が書写した御本尊を形木にして拝む矛盾を説明できなかったようですね。

更に、沖浦説によると
『御本尊は誰が書いても良いのだから、小学生でも、パソコンでも、禅宗も坊主でも、身延の管長でも、自分が書いても「本尊」になる。』
ということですね。

このような「本尊雑乱」の様相が絶対に許されるはずのない文証がこの日興上人の御文ではないのですか?
つまり、この御文からすれば、「何時でも、誰でも、何処ででも、粗製濫造できる「本尊」」など、大聖人・日興上人の御心に叶うはずがないことなど、火を見るより明らかですよね。

またもし、沖浦さんの言う通りに▼『「法華を心得たる人」の「開眼」が不要』とするのならば、この世に存在する「南無妙法蓮華経の文字曼荼羅」は全て”正当な本尊”ということになってしまいますね。
つまり、「誰が書いても、誰が印刷しても、何に書いても、どこに映しても、全部”本尊”ということになり、まさに本尊雑乱の大狂態を容認すること」となり、大聖人の厳格な仏法の本義からいって甚だ不可でしょう。

沖浦さんの主張は、この御文に御指摘の
■「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)」
との行為を積極的に容認することとなり、日蓮大聖人・日興上人への背反・師敵対の謗法行為になりますね。

因みに「創価学会はこの御文に説かれる”不信の輩”ではない」と強弁する向きもあるでしょうが、それは全く認められないですね。
日興上人門流ではあくまで、時の御法主上人である日興上人が書写された御本尊を授与されるのであり、たとえ大聖人お筆の御本尊の形木といえども、時の御法主上人である日興上人のお認めならないものは不可であった訳です。
創価学会がしている行為はまさにこの、
■「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。」と同類ですね。
時の御法主上人の開眼を認めないということは、結果的には文字曼荼羅なら何でもいい。ということになり、それはやはり日興上人が制誡された謗法行為となるわけですね。
つまり、沖浦さんの主張はどの角度から追求してみても結果的に日興上人が厳禁された謗法行為を容認することになるのであって、全くの邪義・魍説というべきでありましょう。
沖浦対樋田法論を検証する。6  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月26日(火)16時40分14秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  沖浦克治さんへのお返事です。

>  蓮祖興師が御形木様を否定したと貴方は言うのですか?
>
>  最初にその点を明確にして下さい。
>  何時も、言い逃げばかりですよ。
>
>  蓮祖興師が御形木様を否定している証拠をお願い致します。
>
>  もし否定していないという立場をとられるなら、その理由を明確にしてください。

――――――――――――
誰も↑のようなことは言ってないですね。

■一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

この御文をよく拝すれば日興上人の御意は自ずと領解できるもとと思います。

日興上人の御心



日向・日頂・日春等(御当代御法主上人である日興上人に背く輩)
⇒大聖人御真筆御本尊を版木に彫り、多数刷って広く浅く頒布していた。
⇒邪行・謗法行為



日興上人(御当代御法主上人)の門流でしかも不自惜身命の僧俗
⇒日興上人(御法主上人)が大聖人の御本尊を書写された御本尊を授与
⇒正しい化儀

さて、この原理に沖浦説を重ねて見ますと如何に謗法の考え方かが明瞭になります。

沖浦説

創価学会執行部(日興上人門流の御法主上人を否定、悪口雑言の限りを浴びせている)のどこの誰だか分らない人が
⇒誰が書いてもいい曼荼羅(子供でも、禅宗の坊主でも、ローマ法王でも、・・・・)を
⇒創価学会という会へ入会した会員へ広く浅く頒布。
⇒荒唐無稽の邪義

因みに創価学会の現状は

「自分たちにこそ大聖人の血脈が直接流れている!」
「途中の人師など関係ない!」
などと、日興上人門流の御歴代上人を否定しながら、
⇒日興上人門流の第26世日寛上人が書写した御本尊を、写真に撮り、授与書きを削り取るなど相貌を自分勝手にほしいままに改竄を加え、
⇒ある創価学会会員には日顕上人の御本尊を取り下げさせ、(その後正当に返却もせず不敬を働き)
また、ある創価学会にはそのまま新規に販売し、広く浅く頒布している。(私の直接知る人は神棚も、邪宗の仏壇も、勿論考え方も邪宗・謗法の者そのまま、なのにこの日寛上人の御本尊を元とした改竄複写曼荼羅掛け軸(通常こういうものはニセものと呼びますが)を学会の会館で買った。と所持していました)
⇒これ、明らかに日興上人の示された邪行、謗法行為

と、こういうことです。

つまり、日興上人の御心は、御当代御法主上人の許可のない形木・印刷・書写を含めそういう曼荼羅本尊は全て謗法物である。ということですね。
沖浦対樋田法論を検証する。7  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月26日(火)18時52分20秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  以下の沖浦さんの主張に反論します。
――――――――――――
どうも法華講諸氏は  投稿者:沖浦克治  投稿日:2007年 6月17日(日)23時22分28秒 softbank221104080129.bbtec.net    返信・引用
    大聖人様に対する尊敬の念に欠けますね。

 樋田さんは、山下さんと共に、蓮祖御真筆のご本尊様をプリントアウトしてひらひら振りかざして平気な顔をしていましたし、73さんは、寛師書写、蓮祖御図顕の御形木様を、魔札、と、呼んで平気です。

 毒気深入の姿ですよ。
――――――――――――
ネット上にある、大聖人御真筆本尊集内の

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html

にUPされている画像をそのままプリントアウトしたものを、沖浦さんの自説の矛盾を示す為に資料として提示した。
これだけのことですね。
別に謗法でも何でもないですね。
このプリントアウトしたものを「本尊」として拝む対象として扱えばそれは謗法です。

そもそも謗法の定義とは、

■天台大師の梵網経疏(ぼんもうきょうしょ)に云はく「謗は是乖背(けはい)の名なり。(かい)を是(これ)解とせば理に称(かな)はず、言(ことば)実に当たらず、異解して説く者を皆名づけて謗と為(な)すなり。己が宗に乖(そむ)くが故に罪を得(う)」文。(十法界明因果抄   文応元年四月二一日  三九歳)

と大聖人が天台大師の言葉を引用せられて仰せの如く、謗法とは、正しい教理に背き、自分勝手に好き放題に自説を述べ立てる者のことを言うのですね。

「御本尊は誰が書いてもいい。」などと、全く大聖人・日興上人の仏法の道理・文証からはずれた沖浦さんの謗法の妄執・妄言を鋭く指摘する為に提示した今回の資料は何の問題もありません。
沖浦さんのその肺腑を深くえぐったためにあのように”過剰反応”しているでしょう。

また、現場での印象は、さくらさんが既に指摘している状況でしたね。

引用(少々長いですが、実際の印象をよく伝えていますね)

「  たとえば百科事に大聖人様の御本尊がのってたとします。それをコピーして資料として指し示したとしても、それが何か問題あるんですかね〜?
お見かけしたところ、かなりいい御歳の熟年男性ですが、あの姿は分別がないただの見境なくのぼせた説教オヤジと同じですね。

それに以前に掲示板でよく土産本尊の話は出てたでしょ。
私にはあなたがたの行動は
「きっと樋田が身延の土産本尊を持ってくる。
これを突きつけられて、
「これと、今学会で出している本尊とどう違うのか、御書の御文で証明して見せろ!」と言ってきたら反論できない。
どうする?
「 そうだ、とにかくどなりつけてごまかしちゃえ。
なんでも樋田を…“御本尊をコピーした御不敬者”に仕立て上げ、不信な輩の所業と叱り飛ばして、勝ったフンイキを演出しちゃえ。
内容なんてどうだっていい。
とにかく何か言い負かしたような感じが撮れれば。OK.」
と入念に見学者と打ち合わせて来た通りを、“台本”通りにやって見せた。としかみえませんでしたよ〜。
実に滑稽でした。
…でもって、すごく”芝居”がかってましたね。
でも“演技”は下手ですね。
直ぐに見破れましたもん。

よく他人に反論も出来ないような事を言われた時、慢心の強い人はタダ相手を“怒鳴りつけ”て、一方的に黙らせるでしょう。
それと全く同じにみえましたよ。
そぅでなかったらなぜきちんと反論しなかったのですか?
出来なかったのですか?
そぅ!!あなた方は“本尊論が目茶苦茶”だから反論さえできなかった。
だから罵声をとばした  それだけの事ですよ。

そして樋田さん達に怒鳴り声をあびせる事により、あたかも御不敬を印象付ける!

そんな事しか出来ないんですか!!
学会員の様々な“でっちあけ゛”の姿そのものを見せてもらいましたよ。
それも目の前て゛。

ですから、今日のカキコみてると「大勝利!!」なんて、ほんと、 呆れ果てたものですよ(^_^;)
全く本尊観がわからない姿を日本国にわざわざさらし、可愛そうなもんですね。
それが違うなら冷静に論理で反論してみたらいかがですか?

そんな”芝居”を演出して、「大勝利」なんて驕慢{←字ちがいますが携帯でないのです}謗法も甚だしい極みですね。」

以上

「御本尊は誰が書いても一緒」と放言する沖浦さんにとっては、この”資料”も「本尊」となる理屈ですが、実際には「本尊ではない」と断言しています。
これなども自己矛盾の極みです。
それが説明つかないからとにかく怒鳴り飛ばして誤魔化してしまおう。との魂胆が見え隠れしていましたよ。
よく格闘技でも、組んだ者は相手の細かい心理が見える、そういう感触です。

それを親の写真などを引き合いに出して感情論で自分の激昂を正当化していましたが、

■「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

とあるがごとく、大聖人の御晩年には「謗法の地には御自分の御魂はお住まいにならない。」と弟子方に仰せでしたから、謗法にまみれた他宗他門に蔵される御真筆御本尊には、そもそも、大聖人の御魂はいらっしゃらないのですね。
その御魂が抜けられた御本尊は現時においては尊信の対象ではありません。
こういう正しい本尊観が信解できていないから、親の写真云々などという妄執論を放言できるわけです。

更に

■仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事    弘安二年一〇月一日  五八歳)

と仰せの如く、戒壇の大御本尊こそが大聖人様御出世の本懐であらせられるのですから、戒壇の大御本尊以外の御本尊は大聖人一期の御施化の中で、一機一縁の御本尊であり、直接我々一切衆生を救済される御本尊ではなく、方便・未究竟であるといましょう。

ざっと、以上の論証で沖浦さんの上記の主張は、根拠のない、浅識・無知な浮言ですね。

■文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。(法華真言勝劣事   文永元年七月二九日  四三歳)

と大聖人様からそれこそ厳しく叱責を受ける姿であります。
沖浦対樋田法論を検証する。8  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月27日(水)00時12分1秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  以下の沖浦さんの主張に反論します。
――――――――――――
しかも、

 又、樋田さんは、御書に御形木様と書かれていない、その御書にない御形木様を創価学会員は平気で拝むからおかしい。などと、珍説を披露されました。
 休憩後の発言で明確に言ってます。
 日蓮正宗は御形木様は無いんですか〜〜??
――――――――――――
↑人の言葉がそのまま理解できない心が歪んでいる典型的な症例ですね。

日興上人の正統な門流である日蓮正宗では、大聖人御入滅後の御本尊については全て御歴代上人の御指南に依ることは周知の事実ですし、歴史的にも厳然としています。
その歴史の中で牧口・戸田両氏は、その日蓮正宗へ入信した訳です。

さて、日蓮正宗では、

■仏宝・法宝は必ず僧によて住す。(四恩抄   弘長二年一月一六日  四一歳)
■血脈の次第 日蓮日興
■『御本尊七箇之相承』
「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n)

等の御指南から御歴代上人の時々の御指南によって御形木御本尊の化儀の正当性は立証された中で尊信しています。
ところが、沖浦さんは、上記の御妙判に背き(←謗法)日興上人以降の日蓮正宗の御歴代上人の尊い存在意義を全否定しています。
にもかかわらず、日蓮正宗の御歴代上人である66世日達上人御書写の御形木御本尊を拝み、また日蓮正宗の御歴代上人である26世日寛上人の書写御本尊を改竄した模造掛け軸を流布する創価学会に与しています。

今回の法論の条件は、「御書の御文のみで自らの信仰姿勢の正当性を論証すること」であるから、御書のどこにも説かれていない「御形木本尊を信仰の対象とする」ということは一体誰から教わったのか。その化儀の元は一体どこから出てきたのか?ということを突くために、
「御書にない「御形木御本尊」を、しかも、自分たちが全否定している日蓮正宗御歴代上人の「御形木御本尊」を本尊としているのは自己矛盾の最たるもの。頭破七分ではないか。」
と指弾しているのであります。
それは映像の流れを見ればよほど心の歪んだ人でなければ、どなたでも容易に理解できることでしょう。

このような誰が見ても理解できる筋道と現実の映像があるのに、上記のごとくの難癖をつける姿は、まさに正当な反論ができない者が、何でもいいからイチャモンつけてねじ込んでやれ。とゴネている姿に他なりません。
そういう類の”職業”かたにそっくりの行動パターンですね。
沖浦さんの名誉の為にも、少し自重した方が宜しいのでは、と思いますが。いかがでしょうか。
沖浦対樋田法論を検証する。9  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年 6月27日(水)14時44分41秒 p3048-ipbf205yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  以下の沖浦さんの邪難に対して反論します。
――――――――――――
 木絵二像の説明も、質問で最初とまったく違う事を言って気付きません。

 最初、この木絵二像は文字曼荼羅(蓮祖の御本尊様)の事だ。と、散々お二人で強弁ごり押ししながら、創価学会員の厳しい質問に、それは権教の本尊です。と、本音を言ってしまっています。

 だからね、パソコン、や一夜漬けの資料に頼ると駄目な見本ですよ。
――――――――――――
↑どこをどう読んだらこのような曲がった解釈ができるのか驚いております。
思うに、とにかく自分が勝ったことにしたくて仕様がない沖浦さんにはどんなことでも自分に都合の良い事に見えてしますのでしょう。

■今の諸宗の学者等も亦復(またまた)是くの如し。所詮仏教に依って邪見を起こす。目の転ずる者、大山転ずと欲(おも)ふ。

自分が謗法の酒に酔ってクルクルと止め処なく狂い回りしているのに、不動で泰然自若としている山塊そのものが廻っていると思い込む。このような姿なのでしょう。

では、沖浦さんが指摘している当該箇所の本文を挙げます。

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。

この御文は三段に分かれて説かれています。

1■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

2■今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入りて人の命をうばふ。

3■鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。

さて、1■は、まさに今回の論証の核となる、御妙判ですね。
これについては既に詳細に論述してあり、当日もこの論文を元に述べておりますので以下の論文をお読みいただければ当方の主張は理解いただけると思います。(理解不能な方も中にはいらっしゃるようですが)
http://toyoda.tv/okiura.siryo2

1■の意義は、「法華を心得た人が、木絵二像を開眼供養しなければ、魔となる。」という意味ですが、それは逆に言えば、「木絵二像を、法華経により、法華経を心得た人が開眼供養すべきである。」との意味となります。
ですから、「木絵二像」が、権仏である大日如来等の仏像でないということは、この「木絵二像は、法華経を以って開眼供養すべきである。」との文意から明白です。
何故なら、大日如来を法華経によって開眼供養すべきなどと、大聖人が仰せになる道理はないわけです。
つまり、もし、この「木絵二像」が大日如来等だとすれば、法華経に依って法華経を心得たる人が開眼供養すれば、その大日如来が純円・生身の仏=末法の教主・自受用報身如来 になってしまうという大矛盾が生じ、当然のことですが、そんな馬鹿げたことがあり得るはずがないからであります。

【参照御文】

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり
■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

さて、では次の2■についてですが、ここの「日本の仏」とは権宗・権仏たる大日如来等の仏像のことを指すのであります。
それは、「今真言を以って・・・供養すれば」と具体的な事例として「真言」を挙げているからであります。

簡単に以上の論証から、上記の沖浦さんの邪難は全く的外れも甚だしい妄言と言えましょう。
沖浦さんが勝他の念に焼き焦がされて、苦し紛れに難癖をつけた、それだけのことですね。
後々映像のほうでも確認していただきましょう。