沖浦対樋田法論を検証する。167  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)10時04分35秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter  9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

沖浦言 「ビートルズが使ったコード進行はそれまでの音楽理論の常識にはなかったが、それが良かったから今みんな使っている。理論はあとから付いてくる。それと同じように、まず現証です。」

↑なんて、浅はかな捉え方か。
このレベルでは大聖人様の仏法の深旨など分かりようがないはずである。
このような低脳な邪義はもう既に完全に粉砕してある。

参照 http://toyoda.tv/okiura.1.ma
(沖浦君、11.18 11.24の質問会から逃げ回るのには必死に足掻いているが、この↑論証には全く反論不能なままである。呵々)

天理教が普及したのは安産祈願と病気治しからである。ある種の通力によって安産だったり、病気が治った事例もあったのであろう。だから、立教当時、関西を中心に相当な勢いで広まったのである。やがて教団が拡大するに従って、教義をこじつけて整備していったのである。

この天理教も「現証」がまずあり、「理論」は後から適当に寄せ集め、こじつけをしていった。(”人間はドジョウから生まれた。”などという誰が聞いても噴飯モノの荒唐無稽のものである。)

さて、沖浦君の幼稚極まりない説だと、この支離滅裂な教義を説く天理教も「正しい」ということになってしまうが?いかがなものか?呵々
それと、創価学会の信仰による「現証」と、天理教による「現証」の、正邪・善悪の違いをどう説明できるのか?呵々呵々。

まさに、 「沖浦君、全く仏教の初歩中の初歩も知らぬ大馬鹿者である。」 呵々大笑。

http://toyoda.tv

沖浦対樋田法論を検証する。168  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)11時01分16秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

沖浦言 「創価学会の最初の指導は戸田は関西の地から貧乏人と病人を無くすために来たんだ。云々、そこなんですよ。仏法というのは!」

まぁ、とにかく、一言一言ピント外れですね。

1、今回の条件は「御書だけで自説の正当性を証明する。」であった。
戸田会長の発言などこの法論においては全く根拠となる文献ではない。
沖浦君、耄碌したものである。呵々

2、沖浦君が一体、いつから、大聖人様の深遠なる仏法を、「そこなんですよ。仏法というのは!」などと偉そうに、こういうものだとか、ああいうものだとか、断定できる身分になったのか?
沖浦君は大聖人が予証した「仏」なのか?
大笑いである。呵々大笑!

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沖浦対樋田法論を検証する。169  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)12時06分1秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  chapter 9  http://video.google.com/videoplay?docid=-4183461578696163527

山下言 「戸田会長はその頃は、”日蓮正宗の信徒”であることを自認していましたよね。」
(↑日蓮正宗の正統な本尊・教義を広めることでこの社会から不幸を追放する!との決意だった。という意)

沖浦言 「そんなことを言ったら、大聖人様だって最初は天台沙門だった訳ではないですか。」
(↑戸田会長は仮に日蓮正宗に帰属していただけで、その本心は現在の創価学会の姿である。との意であろう。)

↑もう、ほんと、一言言うごとに 愚薄 ですね。

1、大聖人様が真実の意義として「天台沙門」と名乗られ、「余は天台宗の余流である。」などとの言も無ければ、その義もない。

【文証】

戒体即身成仏義 21歳御作

■ 唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。

↑ここで、御年21才にして既に明確に天台宗の不備を突いておられる。

守護国家論 38歳御作

■ 其の上世間を貪る天台・真言の学者、世情に随はんが為に法華・真言等に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依って釈迦・多宝並びに十方の諸仏の御評定の令法久住於閻浮提広宣流布の誠言を壊り、一切衆生に於て一切三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ。偏に是「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、乃至悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる」が故なり。

↑と、立宗宣言以降も初期でも、痛烈に往時の天台宗を(そもそも大聖人様当時は既に純粋な「天台宗」など消滅してしまっていた。)破折されている。

つまり、大聖人様は修学の為に比叡山に登られたのであり、心身共に「天台沙門」になどなっていない。
沖浦君、あまりに勉強不足である。

■ 一、五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍って公所に捧(ささ)ぐる状に云はく、天台沙門(しゃもん)云云。又云はく、先師日蓮聖人天台の余流(よりゅう)を汲む云云。又云はく、桓武聖代(かんむせいだい)の古風(こふう)を扇(あお)いで伝教大師の余流を汲み、法華宗を弘めんと欲(ほっ)す云云。
  日興が云はく、彼(か)の天台・伝教所弘(しょぐ)の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣(ぐせん)し給ふ法華は本門なり、此の旨具(つぶさ)に状に載(の)せ畢(おわ)んぬ。此の相違に依って、五人と日興と堅く以て義絶(ぎぜつ)し畢んぬ。( 富士一跡門徒存知事    延慶二年)

この日興上人の仰せのごとく、大聖人様を「最初は天台沙門であった」などと軽侮する沖浦君などは、もう既に日興上人より「義絶」されているただの薄汚れた謗法者ということである。

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2、戸田会長は生涯「日蓮正宗信徒」であり、葬儀も「日蓮正宗」の化儀に則り、下種三宝であらせられる御歴代上人によって執行されたのである。
沖浦君の論法で言えば、戸田会長が最初は方便として「日蓮正宗」の信徒となったとすれば、後に真実の宗教に入らなくてはならないはずである。
つまり、今の創価学会のごとくに、戸田会長自ら、日蓮正宗から離脱して、日蓮正宗とは全く関係の無い別の「創価学会」となり、創価学会発行の「本尊」を発表しなければ、戸田会長は「本懐」を遂げたことにならないはずである。

沖浦説、日蓮正宗=方便 創価学会=真実 であるとすれば、戸田会長は、方便教のままで死んだことになる。
つまり、戸田会長は未だ悟りを得ないまま死んだことになり、戸田会長を慕う根拠すら総崩れとなる。
沖浦君は邪盲深き故に、この矛盾が全く解けない。
永久に自義・己見・妄見のなかで、グルグルと回り続けるしか脳がない。
ご苦労さんなことである。呵々大笑。

因みに戸田会長の奥様は脱会し、そのご逝去の折には息子さんも創価学会を嫌い、日蓮正宗の化儀に則り御僧侶を招じて葬儀を営まれた。
この事実は、戸田会長以後の創価学会がいかに戸田会長の遺志とは正反対の方向へ暴走したかを強く示唆するものである。

沖浦君、少しは黙って正しい歴史と教学を勉強したらいかがか?呵々大笑

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沖浦対樋田法論を検証する。170  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月10日(土)12時53分5秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
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沖浦言 「現証が出ないと民衆は信用しない。」

実に頑迷ですね。
その「現証」は何によって起こるのか、「民衆」には判別つかないのである。
であるから、あくまでも教義としてまず、信用すべき文証をが大事であり、しかも、その内容がどこまでいっても論理的・合理的に整合性があることが大事なのである。
そのような過程で比較相対し、最勝・最尊の教義と本尊を択ばなくてはならないのである。
現証とはそうした正しい教法を実践した場合に善因善果の道理からおのずから生じるものである。

参照 http://toyoda.tv/okiura.1.ma

ほんと、仏教の初門にすら理解できない、そもそもからして謗法の限りを尽くすために生まれてきたような者を相手にすると骨の折れるものである。呵々。

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