| 沖浦対樋田法論を検証する。160 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 8日(木)15時41分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 樋田言「沖浦さんは、御書に「御形木御本尊を拝め。」という直接の御指南がないのに、それを拝むその根拠は?」 沖浦言「戸田先生が「拝め」といったからですよ。」 ↑全く、話にもならない愚論ですね。 矛盾 1 まず、沖浦君は @ ”大聖人の御書の文証しか自身の信仰する根拠として認めない。”と主張している。 が故に、この法論でも、「御書(しかも後加文は除く)しか引文しいない条件」であった。 一方、御書には A 「日興上人以来の御歴代法主上人が書いた御本尊に題目を唱えなさい。」 という直接の御指南は存在しない。 にも拘らず、沖浦君は B 御書に説かれていない日蓮正宗という宗派の第66世日達上人が書かれた、御本尊を印刷した通称「御形木御本尊」と言われる御本尊を拝んでる。 @ABの主張と行動は全く自語相違・自己矛盾である。 もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。 矛盾 2 沖浦君は、当方らの開眼の論証を @ 「直接、御書に”御形木御本尊の開眼はかくかくしかじかにせよ。”と書いてないから、信じられない。」と主張している。にも拘らず、 A 御書に直接御指南のない御形木御本尊を拝んでいる。 これも、@の主張とAの自分の行動が全くあい矛盾している。 ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。 矛盾 3 今回の法論での @ 自身の主張の根拠は「御書」によるのみ。との条件であったはずである。 にも拘らず、A 「戸田先生がそう言っていたから、自分はそうするのだ」と放言して憚らない。 全くの無知な自己矛盾である。 ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。 矛盾 4 沖浦君は@ ”大聖人の御書の文証しか自身の信仰する根拠として認めない。”と主張しているにも拘わらず、その御書に書いてないことを為す根拠が 戸田さんの「教え」だとしたら、戸田さんが、大聖人より上回るのか?呵々 ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。 矛盾 5 その戸田会長は↓こう発言している。 「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている」 (『大白蓮華』昭和34年7月号9頁・戸田城聖) この言葉に従い、親の責任として、息子の耕治君が拝む、創価学会販売のニセ模造掛け軸は魔性・魔の力が入っているのであるから、大至急取り上げなくてはいけないのではないか。 因みに、この戸田会長の発言を「方便」として逃げを打つ沖浦君に釘を刺しておくが、「方便」であるからには必ず真実の発言があるはずである。 が、根本尊崇の対境としての御本尊に関して、戸田会長のその後、この発言を「方便」であった。と断定する発言は存在しない。 であるから、戸田会長と全く『別人』である沖浦君が自分勝手に人の言を「方便」と決め付けることなど到底でき得ない愚行である。 ここでも、もし、この矛盾に気がついてないとすれば、よほどの 馬鹿 か、頭破七分者 である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。161 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)10時56分45秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 樋田 「功徳とはどういうことですか?」 沖浦 「こういう生活をすることですよ。こういう人間になることです。」 ↑驚愕の返答である。 またまた、大笑いですね。ここは本当に笑えました。 沖浦君のような生活をすることが功徳? その上、沖浦君のような人間になることが功徳? 実に、馬鹿も休み休み言いたまえ。というところですね。 この件に関して、ひとつ最近の沖浦君の異常人格が顕著に顕れた事案があるので、ここ掲示しておきますか。 以下は沖浦君の”「実名」ということを検証できない、カッコだけの「実名掲示板」”とやらに投稿されていた愚稿です。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 皆様方に 投稿者:沖浦克治 投稿日:2007年11月 8日(木)18時42分36秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 つい先ほど創価学会松本平和会館から電話がありました。 T副会長からです。 以前、樋田君がメールを披露し、私が創価学会員から非難をされているという書き込みを致しました。 そのような事実は全くありません。との、断言でした。 私が長野の最高責任者です。 責任を持ってお伝えいたします。 そのような事実はありません。 とのことでした。 これで樋田君の捏造が明らかになりましたね。 捏造男樋田。 この呼び名が定着致しました。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ この唐突の投稿は、73氏も指摘されている通り、実に噴飯ものの捏造・与太話である。 1、この投稿があった直後、当方へある学会員から間接的に連絡が入った。 2、この方からは以前から当方へ、「沖浦君の言動が余りひどいので、同じ学会員として見るに絶えない、樋田さん相手にしないで下さい。あの人は学会の恥です。(趣意)」等の連絡が間接的に入っていた。 3、今回上記の投稿をみられて、この学会員の方は創価学会松本平和会館へ確認したが、沖浦君の投稿のような事実は全くない。沖浦さんは大変な嘘つきです。とのことだった。(教えていただいた市外局番から千葉県の方ということがわかる) 4、その上、73氏の御指摘の通り、全国の学会員が沖浦君を非難しているかどうかの一々を、一県の責任者程度でどうして掌握できるというのか?実に大笑いである。このようなウソひとつとってもこの男の頭の程度が知れるというものである。 5、しかしこの捏造与太話には、沖浦君の心理と現状が実に良く顕れていて面白い。 @ 沖浦君のでっちあげた”当方が「信徒除名」される云々”という虚偽捏造の件を、当方が所轄機関へ被害届けを提出する、という告知を見て、もともと学会本部の意向に大きくズレていた沖浦君に追随することに対して薄々不安感を抱いていた周辺の創価学会員がいよいよ危機感を強くして、11.18での当方への質問会での、質問者として沖浦宅へ参加することに抵抗感が出てきて(表向きはいろいろな理由をつけて)辞退するものも現れてきた。 A このままでは”俺が声をかければ千人でも集められる”と大口を叩いたにもかかわらず(参照 http://toyoda.tv/okiura.taigensogo)たった”質問者が約10名”すら集められない・・・・と大いに動揺した沖浦君、本来は、11.24の耕治への質問会を流すために、この11.18も流してしまう段取りだが、万が一、開催となってしまった場合は、ここはびびる学会員を安心させ呼び寄せねばならない。よし、いっちょいつもの口八丁・手八丁をかましてやるか。てなもんで下手な芝居を打ったわけですね。 B 加えて、憎っくき樋田のイメージダウンも謀れるし。と。 6、以上のような心理状態で、自分から「質問会の条件摺り合わせ以外のことは投稿禁止」と明言しているにもかかわらず、上記のような全く無関係なウソを書き込んだわけである。 その他、この沖浦君の卑劣極まる人間性など、このHP上に標本として陳列してある全てを見れば、吐き気がするほど強烈に理解できるというものである。 およそ人間としてここまで下劣に醜悪にはなりたくないな。としみじみ感じ入るに十分な”展示品”である。 子供の教育の資料としても、実に貴重な”展示物”であろう。 そのような汚物である人物がから ▼「功徳とは自分のような人間になることです。」 と百万回言われても、絶対にこのような人間だけにはなるまい!と固く心に誓うのみである。 そのような人物の口から ▼「大聖人様の生き様が云々」 などとは、大聖人様に勿体無い。実に汚らわしいことである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。162 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)13時13分55秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 沖浦言 「ここは悟りの問題ですからね〜。残念ながらあなたに説明のしようがないですね。」 ↑またもや心底笑わせてくれる発言の連発ですね。 沖浦君が悟っている?何を? ■ 第九 不聞法華経(ふもんほけきょう) 去仏智甚遠(こぶっちじんのん)の事 御義口伝に云はく、不聞とは謗法なり。成仏の智を遠ざかるべきなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、仏智開悟の者にして成仏の近き故なり。(御義口伝) 「戒壇の大御本尊(=法華経)などはじめから信じていない!」と断言する沖浦君が長年してきたことは口に南無妙法蓮華経を唱えても、それは不聞法華経=法華経である戒壇の大御本尊を不聞=不信する。ということで、つまり謗法である。 沖浦君の信仰姿勢は実は全く正しい仏道修行ではなく、だた謗法行為を長年積み重ねて来ただけの事である。 言ってみれば、身延の信徒が長年「南無妙法蓮華経」と唱えてきたようなもので、邪宗日蓮宗系の害毒としてよく例示される、 頑迷 言動が豹変する 一家離散 家系に精神的疾患が多い 不慮の大きな災難に見舞われることが多い。 などの傾向がある。 沖浦君本人、また家族周辺の事情では果たしてどうか? 大いに考えさせられるものがあるのではないか。 であるから、謗法者、沖浦君などが「悟る」はずなど天地が逆さになっても有り得ない道理である。 ■「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、仏智開悟の者にして成仏の近き故なり。」 この御文の元意は、三大秘法の本門戒壇の大御本尊を信じて本門の題目である「南無妙法蓮華経」を唱え奉る者は、「悟り」が近い者である。」ということである。 故に、重ねて呵責しておくが、戒壇の大御本尊を信じない沖浦君など、どう間違っても、万に一つも「悟る」などということは絶対に有り得ない。 にも拘らず ▼「ここは悟りの問題ですからね〜。残念ながらあなたに説明のしようがないですね。」 などと言うとしたら、それは以下の御文のごとくの、 ■「我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証」の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。此の人の罪報具に聞くべし。今時の念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。」(得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳) 未だ得ざるを得たりといい、未だ証せざるを証したと思う、大増上慢の輩である。 しかも、沖浦君はその上、下種三宝尊であられる御歴代上人を口を極めて誹謗し続け、軽賎し切っている。 この者は、まさに、■「念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。」 との極悪罪報の者、当然として無間地獄必定の大悪人である。 大聖人様にこれほど明確に叱られているにも関わらず、あいもかわらず謗法人生を歩むとは、実にみっともない、ナサケナイ、悪因縁の生まれ育ちである。 ああ、無慚。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。163 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)15時04分27秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 沖浦言「(チェコである体験をしてから)世間の名聞名利に興味がなくなった。」 ↑これは、本気で言っているのか? 1、だとしたら、沖浦君、言動がコロコロと変わる、定見のない、実に無責任男である。 2、それとも、名聞名利の意味を取り違えているのか? 名聞=名声が世間に広まること。世間での評判・名声。ほまれ。 名利=名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち。 3、その上で一度自分の発言をチェックしてみたらどうか。 ▼1「 少し御書を勉強しなおしたほうがいいですよ。 蓮祖はね、世間で勝て。と、明確に仰せです。」 ▼2「> 世間で勝てずしてどの面下げて地涌の菩薩ですか。 > 片腹痛いですね。」 ▼3「> さ〜! > やってきた勝負の年です。 > 創価学会員の底力を世間に示しますよ〜〜〜!」 ▼4「仏法者は世間に勝利の実証を示さねばなりませんよ。 蓮祖の仰せです。 (中略) 今この人生で勝利の実証を示せずして、何の臨終正念でしょう。」 ▼5「世間に実証を示す。勝負はこれしかありません。」 ↑これら全て、まさに、上記の「名聞」「名利」の意味説明の通りの根性である。 参照 http://toyoda.tv/okiura.myomon 沖浦君、高邁でさも偉そうなことを得意になって放言しているが、実際は言動が全く不一致である。 こういう者こそ、世間では信用されず、必ず「負け」の人生となることが非常に多い。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。164 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)15時53分25秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 前段で沖浦君のかつての発言を検索していたら、実に興味深いものを発見した。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 小樽法論 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 1日(金)07時15分2秒 在家と出家の ▼「したたかさの差が勝敗を分けた」 のです。創価学会は在家集団ですから、当然 ▼「世渡りが上手」 です。(中略) あの際、 ▼「法会論の現場での議論の勝ち負けなどはどうでもいい」 のですよ。 ▼「会場での雰囲気と、後の宣伝が大事」 です。 ▼「事後処理」 にも差がありましたね。創価学会は機関紙等で、 ▼「勝った、勝った。と、大宣伝をした」 のですが、対して身延は沈黙しておりました。これが ▼「世間での勝敗を分けた」 のです。世間知らずの出家集団が、 ▼「したたかな在家に勝てる道理が無い」 のです。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ ↑なるほど、この書き込みから沖浦君の姑息な人間性が実に良く見て取れる。 沖浦君の勝敗観とは、”とにかく法義の内容などどうでもよく、ただしたたかに、世渡り上手に、策でも、謀略でも、なんでも使って、勝ったという雰囲気作りをすればいいんだ。”ということですね。 まさに6.16法論では、当方の追求により本尊論に行き詰まり、返答不能なることは目に見えているから、予め大勝利あたりの愚癡の者を騙り ▼「したたか」 に ▼「世渡り上手に」 事前打ち合わせなどして、いざ本尊論に行き詰まったら、とにかく大声で罵声を浴びせ、怒声を張り上げ、ただ相手を叱り飛ばしているような、 ▼「会場の雰囲気」 を演出し、その後の ▼「事後処理」 でも、狂ったように ▼「勝った。勝った。と、大宣伝をし」 世間の評価も雰囲気だけでも勝ったこと持って行きたかった。 (参照 http://toyoda.tv/okiura.kakiko.htm) ところが、当方の冷静な破折の再検証によって、その筋書き通りにいかなくなり、イラつき出した。 (参照 http://toyoda.tv/okiura.kensyo http://toyoda.tv/okiura.kensyo2 http://toyoda.tv/okiura.kensyo3) そこでことあるごとに、虚偽・捏造で「ウソも百遍言えばホントになる」とばかりに、相手を不当に貶め、 (参照 http://toyoda.tv/okiura.siryo3 http://toyoda.tv/okiura.hituti また、不当な条件を掲げては、再法論を持ちかけ、当方が受諾しないと、逃げた。臆病者。とまた ▼「大宣伝をし」 とにかく、自分が勝ったという構図を ▼「したたか」 に見せ掛けたかった。 (参照 http://toyoda.tv/okiura.saihoron http://toyoda.tv/okiura.hakuba http://toyoda.tv/okiura.shitsumon 上記の経緯を見れば一目瞭然である。 ただただ、臆病にして姑息、世間の評価に異常に執着する小心者・・・ただそれだけの人間ですね。 しかも、「したたかさ」と「世渡り上手」を美徳としているような価値観。 実におよそ正しい仏法を修行した者の果報ではないですね。 これではダメですね。全然。 まさに、謗法を長年(創価学会員歴44年間でしたね。)やったらこのように姑息な人間になるという、人生をかけた”実験証明の献体”ですね。 このような人間の口から「仏法」などという言葉が出ること自体、実に身の毛もよだつほどおぞましいことです。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。165 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)19時55分58秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 沖浦言 「異国の地で試合を前にホテルで題目をあげていた。10分か15分た経った時、「青年よ世界の指導者たれ。」と池田先生の言葉が頭に閃いた。一瞬遅れて「新しき世紀を開くものは青年の熱と力である。」という戸田先生の言葉が閃いた。その時、創価学会員であったことがどれほど幸せだったかと気づいて体が震えるほどの喜びだった。(趣意)」 ↑さて、これが一体「悟り」などと言えるものなのか? 1、このような感動体験など、どこの宗教の信徒にもごまんとあるでしょう。 邪宗を破折に回ってみると、みな似たようなことを言ってますね。 「戸田先生・池田先生」という箇所が「浅井先生・庭野日敬」などに置き換えられ、「創価学会」が「顕正会・立正佼成会」などに変わるだけのことですね。 このようなただの個人的な感動と感慨をもって「創価学会」だけが正しい。などとの証明になど全くなりません。 それをこのレベルの体験談を得意になって法の正邪を決するという法論の場でとくとくと話すなど、よほどのピントのずれた精神構造ということですね。 はっきり言って全く仏法のイロハからして無知ですね。 沖浦君、実に浅はかな44年の学会員人生だった。ということですね。 実に愚かです。 2、■「仏法伝来記に=一巻信救作=「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲す。諸宗朝廷に群集して即身成仏の義を疑ふ。大師智挙の印を結びて南方に向かふ。面門俄かに開けて金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我我入の争ひ即身頓証の疑ひ、此の日釈然たり。」(日本真言宗事 文応元年 三九歳) これが法論時に沖浦君を破折した時に引文させていただいた御文です。 このような沖浦君の小さな感動体験などが足元にも及ばないほどの燦然たる”現証”が起こっても、真言宗が正しくないということなど周知の事実ですね。 まして況や、”会長の言葉が頭に浮かび、ああ、創価学会員で良かった。と感激した。”だなんて、実に取るに足らない感慨ですね。 掃いて捨てるほどの瑣末で個人的な思い込みに過ぎません。 これを”悟り”などと勘違いしているとは、沖浦君の程度が知れるというものですね。呵々大笑。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。166 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 9日(金)21時39分9秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 8 http://video.google.com/videoplay?docid=-8715639746811828319 ● 樋田言 (沖浦君の体験をさして)前段のごとく破折する。 「弘法大師などは、みなの目の前で金色の毘盧遮那仏となって見せても、やはり真言は邪教であることには違いない。であるから沖浦君の体験談など、創価学会が正しいと証明する根拠には全くならない。あくまで法の正邪は経文・法義を基として検証しなくてはならない。」 更に http://toyoda.tv/okiura.1.ma を要約しながら「魔の通力」について概説し、沖浦君の体験もその範疇ではないか。と指摘する。 それに対して ▼ 沖浦言 「弘法大師の通力の話は、直接我々の実際の生活と関係ない。我々が一番大事なのは明日の飯代がどうかとか、確たる人生を生きていけるんだろうか、年金問題とか、我々の年になると死ぬことを考える、自分が死んだときにまた法華経の行者の家に生まれるんだろうか、そういうことがすごく興味がある。御書というのは対機説法だから、ここにこう書いてあるからと言って、他の箇所では完全に違うことも一杯ある・・・・」 ↑もはや、沖浦君、完全にしどろもどろである。 一体何を言いたいのかさっぱり論旨不明。支離滅裂。 ただ口から出任せにダラダラと冗長に牛の涎のように「おしゃべり」をしていただけである。 つまりは反論不能の醜態を晒しただけであった。 映像は実に正直なものである。呵々。 |