| 沖浦対樋田法論を検証する 95 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月29日(土)23時17分33秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 沖浦説 ▼「輪円具足とある完成品の御本尊に他の誰かが何かをしなければならないというのはおかしい。蛇足である。(趣旨)」 ↑これもまた実に滑稽な痴言である。 ■十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此には輪円具足(りんねんぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも名づくるなり。(日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳) この御文でお示しのごとく、「十界互具」の意義を「曼荼羅(梵語)」と云い、これを漢訳すれば「輪円具足」となり、「功徳聚」という。との御指南である。 日寛上人はこの「輪円具足」の意を更に詳細にお説き下されている。 ■本門の本尊とは、十界の聖衆、中央の妙法蓮華経に帰入するなり。十界の聖衆は衆輻の如く、中央の五字は轂の如くなり。十界、一界も漏れず、皆悉く妙法蓮華経に帰す、故に即身成仏なり。妙法を離れて十界なく、十界を離れて妙法なし。十界互具・百界千如・一念三千の本尊なり。故に輪円具足の本尊というなり。(妙法曼陀羅供養見聞筆記) 輻=車のや。轂(こしき)と輪をつらねささえるため、轂から輪に向かって放射線状に組まれた細い捧。 轂=車輪の中央にあり、軸を通して、輻(や)の集まっているところ。 さて、ここで仰せの ■十界互具・百界千如・一念三千の本尊なり。故に輪円具足の本尊というなり。 との御指南の意義するところが誠に実に深いのである。 この中の一念三千の三とは、五陰世間・衆生世間・国土世間 の三世間であることは周知の事実である。 この三世間は有情と非情とによって構成されている。 ■衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳) 御本尊はこの有情・非情を一切含めての成仏の法体である。 十界曼荼羅御本尊が真の生身の仏である御本尊に成り得るにはこの「非情」が成仏していなくてはならない。 その有情・非情に亘って成仏している法体こそが「輪円具足の本尊」というのである。 この「非情」を成仏させることを草木成仏といい、その深義が「開眼」である。 ■有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。 この御文では、「塔婆を開眼供養することによりその塔婆が「草木成仏」し「非情が成仏」する。」と仰せである。 また別の御文では、 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。(木絵二像開眼の事 文永九年 五一歳) と、「梵音声と心法に欠ける「非情」である「仏の像」に、法華経の心法を投影すれば、その像が草木成仏し「生身の仏」になる」と仰せである。 更に次下の御文には ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 とあるがごとく、この 非情を草木成仏なせる深義=「法華経を心法と定めて投影する」=「開眼供養」 は「法華経を心得た方」にしかできない行為である。 以上検証してきたごとく、「御本尊」とは、「十界互具・百界千如・一念三千の当体」であり、一念三千を構成しているものが非情・有情であるが故に、非情を草木成仏させるには開眼供養が必要であり、非情を成仏させなくては「御本尊」とは成り得ない。 故に、「輪円具足の本尊」とは、既に「非情」を成仏させた=開眼により草木成仏した上での「御本尊」の「功徳聚」としての意義を仰せであるということを知るべきである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 98 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月 4日(木)23時36分2秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、11.18 白馬、沖浦宅での、創価学会側10名、法華講側10名、双方が双方の弁士へ交代で質問をする。という沖浦さん提案の質問会の件も、あとは当日の実現を待つだけとなりましたので、前回の法論の”復習”を済ませましょう。 11.18までにできるだけ先に進みましょう。 Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦 「御本尊は輪円具足で完成品である。だから、そこにわざわざ「開眼」などという「蛇足」をつける必要はない。(趣意)」 樋田 「では、どの時点で御本尊は完成するのか?」 沖浦 「我々が、御本尊に自行化他にわたる題目を唱えた時点でしょうね。」 またもや、思わず吹き出す稚論である。 実に矛盾だらけ。 1 そもそも自語相違・論理破綻している。 「輪円具足であり完成品である御本尊に何か蛇足のようなものをつける必要がない。だから開眼は不要。」と言っておきながら、当方の「いつ完成するのか?」との問いに、「自分らが題目を唱えた時」だなどと、真顔で答えるとは! では、沖浦君が題目を唱える前は、御本尊は一体どんな状態なのか? 「輪円具足」で「完成品」でははなかったのか? 沖浦君が題目をあげてあげなければ「未完成品」ということか? 全く、破折する対象にすらならない 痴言 である。 こういう論理破綻していることを真顔で平然と言ってのけることができるその愚鈍さこそ 頭破作七分 というのである。 これまさに、三宝誹謗の極悪果報である。 ■陀羅尼品に云はく「若し我が呪に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること阿梨樹の枝の如くならん」と。 まさに沖浦君が長年為してきた行為である。 2、「自行化他の題目」とは、三大秘法に唱え申し上げる題目である。 日寛上人 依義判文抄 ■寿量品に云わく「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず、時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」云々。此の文に三大秘法分明なり。所謂初めの二句は本門の題目なり。「時我及衆僧」等は即ち本門の本尊なり。「霊鷲山」と言うは即ち是れ本門の戒壇なり云々。 初めの二句の中に「一心欲見仏」とは即ち是れ信心なり。「不自惜身命」とは即ち唱題の修行なり、此れに自行化他有り、倶に是れ唱題なり。三大秘法抄に云わく「今日蓮が唱うる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」云々 この御指南に明確なごとく、「自行」とは「本門の本尊」(戒壇の大御本尊)に「本門の戒壇」において「一心欲見仏」の信心を以って、「不自惜身命」の唱題をさせていただくことである。(この「本門の戒壇」に事と義がある) つまり、三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊への深い命懸けの信心がない「南無妙法蓮華経の繰り返し」など、大聖人様の仏法の「自行」になど全くならない。 沖浦君はそもそも戒壇の大御本尊を軽侮・揶揄・不信・しているのであるから、沖浦君の唱える「南無妙法蓮華経」は全く「自行」にならない。 そのような愚行を長年繰り返してきているから、やはり、頭破作七分 と成り果てて、言うことが豹変し、自身の言に責任が持てなくなっているのである。 実に哀れ極まりない惨状を呈している。 しかしこれも、三宝誹謗の醜い悪果報を知らしめんがための御仏の慈悲と拝する。 そういう意味において、沖浦君の今世の役割は実に重大なものがある、といえましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 99 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月 5日(金)23時06分14秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦 「開眼しないと功徳がないわけで、逆に言えば功徳があるということは開眼している訳じゃないですか。」 樋田 「じゃ、開眼を認める、ということですか?」 沖浦 「そうじゃない。我々が御本尊に祈れば「開眼、開眼」と言わなくても勝手に開眼している。ということ。」 ↑ここも、実に無茶苦茶な 痴言 である。 沖浦説をまとめるとこうなる。 御本尊は下付されたそのままでは「開眼」されていない。 →信徒がそこへ唱題をする。 →するとその御本尊は勝手に「開眼」する。 →そこではじめて功徳が生じる。 これはとんでもない幼稚な言である。 ■凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。 故に妙楽大師の弘一下 十一 に云く「仮使い発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。若し正境に非ずんば、縦い偽妄無きも亦本種と成らず」等云云。( 日寛上人 取要抄文段) 沖浦説だと、下付された御本尊に信徒が題目を唱えてはじめて”勝手に”「開眼」する。ということであるから、信徒が題目を唱える前は「未開眼」で、功徳はない。と言っている。 そのような「御本尊」は未完成であり、正中の正の御本尊となならず、つまりは「不完全な本尊」ということになる。 そのような不完全な御本尊に幾ら信徒が題目を唱えても、■「境若し邪なる則は智行も随って邪なり。」であり、その題目も不完全となり、結局は邪行・邪智となる。と仰せである。 そもそも、■「本尊とは所縁の境なり」であり、唱題をさせていただく側(所縁)の「境」なのである。 ■三大秘法の中の本門の題目とは、但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。今の観心もまた爾なり。能信能唱を観心と名づく。(観心本尊文段上) つまり、完全無欠の本門の本尊を無二に信じて唱える題目が真の本門の題目である。 ▼「下付されたままでは開眼していない、功徳がない御本尊へ、(そのように御本尊を軽々しく認識しているのに)その”御本尊”へ信徒が題目を唱えたら勝手に開眼し、功徳が出るようになる。」 などの荒唐無稽な駄言は、この本門の本尊(能)と信行者(所)の、能(積極的能動の主体者)所(能動の主から被る従の立場)の筋目・縦分けが全く理解できていない、ただの謗法者の言である。 あくまで、完全無欠な御本尊(能)を、我々信行者(所)は、純粋に無二と信じ、身命を帰命して、唱え奉ることが「唱題行」なのである。 図にすればこうなる。 正 完全無欠の「御本尊」(能)←「信行者」(所)が信じ題目を唱える →信行者が即身成仏する。 邪 「信行者」(所)が題目を唱える→不完全な「御本尊」(能) →御本尊が勝手に開眼する。 能と所が全く逆。 ―――――――――――――――――――――――――― また、沖浦君は、本尊へ信徒が題目を唱えると、本尊が完成する。という考え方であり、本尊を離れて題目が存在しているという迷妄である。 つまり、三大秘法義の基本中の基本が分からないのである。 ■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。 との仰せのごとく、本門の本尊が開かれて本門の題目となるのであり、題目だけ、本尊とは別格に存在などしない。 故に、本尊が正なるが故に、その本尊に唱える題目も正になるのであり、「本尊が未完で、信徒の唱える題目によってその本尊を開眼する。」などとは、根本の境である本尊を蔑ろにして、自ら唱える題目のみを「正」とする、全くの愚見・悪見・酔見 の類である。 そのような、邪信を長年続けてきたから、憶病・卑怯・卑劣な根性が治らず、その上、名聞名利や勝他の念に心を焼き焦がし、虚勢を張る、醜い人間性と成り果てたのである。 実に、これも謗法の醜さを戒める実験体・生きた現証として、仏様から遣わされた役割ということであろう。 我々にとっても、今後の謗法を懼れ戒めるために実に参考になる存在である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 100 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月19日(金)17時14分42秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 ●樋田「開眼の解釈は、沖浦さんは「あんたの解釈はそれはそれでいいんじゃないか。だが、自分はそうは思わない。だから、お互いがそれぞれの信じる道を行けばよい。」ということでしたね? ▼沖浦「その通り。」 ●樋田「でも大聖人様はそうは仰っておられない。「天に二日なし。」であり、この世に二つと正しい宗教はない。」 ▼沖浦「貴方が正しいかこちらが正しいか、時のしからしむるのみでしょう。五老僧はあれほど苦労したのに後に退転した。しかし、創価学会という形で日興上人の教えが残っている。世界190カ国に800万、1000万人と広まっている。これが例えば10億人になり、大聖人が御本仏でそれを唯一継がれたのが日興上人である。と分かれば二箇相承があろうがなかろうが(創価学会が)正しいとうことになる。」(敬称略) ―――――――――――――――――――――――――― ↑やはり実に痴言である。 沖浦君の程度が知れる幼稚な主張である。 1、「大聖人が御本仏であり、第二祖の日興上人が僧宝。」と立てる宗派など実に多くある。 近くは顕正会しかり、正信会しかり。遠くは北山、西山などなど。数多である。 沖浦君説だと、これら全てが「正しい宗教」ということになってしまう。 もし、創価学会と違うというのなら、法義上その違いを明確にしなくてはならないはずであるが、沖浦君にはそれが出来ない。 沖浦君ぐらいの浅い、浅薄な教学力では無理なのである。 2、創価学会が「大聖人が御本仏であり、第二祖の日興上人が僧宝。」と立てる宗派の中で現時では一番大人数会員が居る。このことを以って創価学会が正しい、ということにはならない。 @ まず沖浦君は「広宣流布」の定義自体が全く分かっていない。 広宣流布の定義(その一義) 創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。 (今創価学会が為していることは、ゴミ屑、糞尿の類にも劣る、魔仏、ニセ札掛け軸を販売してその購入者を「会員」と称してその”販売数”つまり”売り上げ高”を自慢しているだけであり、それは例えば身延の土産曼荼羅を大量に普及販売しているのと同様の行為であり、国が滅ぶ原因を日々募らせているだけである。 その「ニセ曼荼羅」を拝む者が、いくら日蓮大聖人を御本仏と思おうが、日興上人を尊敬しようが、全く意味がない。 ■日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はヾ国亡ぶべし。(種々御振舞御書 建治二年 五五歳) との仰せの通り、三大秘法の当体、人法一箇の戒壇の大御本尊(=日蓮大聖人)を蔑ろにして、いくらニセ曼荼羅に手を合わせようが、国が滅ぶ元凶である。 つまり創価学会員がニセ曼荼羅に唱題すればするほど、国が滅んでいくのである。 真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。 三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。 戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。 つまり、ここを分かりやすく言えば、本門の本尊である戒壇の大御本尊様の御許で、唯授一人・血脈相承・血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題をさせていただいてこそ、本門の題目であり、その場が本門の戒壇となり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことを許される人を増やすことが「広宣流布」の本義である。 そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。 創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、繰り返すが、国が滅ぶ元である。 沖浦君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。 だから、ただ創価学会員が多人数であることを以って、創価学会が正しい、などという幼稚な妄言を吐くことが出来るのである。 まさに ■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」 の醜態を地でいく愚かしさである。 広宣流布の『根源』である、本門戒壇の大御本尊に対しての素直な信行を忘れ果てたが故に(もともと無かった。と沖浦君は言っていたが。参照 http://video.google.com/videoplay?docid=-8224750060188669737) 人格破綻して、無いことをあると、またその逆などと妄言して憚らず、自分が言い出したことも平気で覆す、我見・慢心・偏見・執着に囚われ、名聞名利の侵され、成仏など思いの外の境界に陥ってしまうのである。 しかもその不信謗法の惨めな生き様に気づくことも出来ず、更に謗法を重ねることに日々費やしているだけの哀れな人生なのである。 こういう者を無慙の人というのである。 つづく。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 101 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月19日(金)21時59分51秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君 「皆さん方法華講は、「御本尊のことは御法主上人以外は窺い知る事は出来ない。」とよくいう。我々は会則で御本尊のことは会長の専任事項になっている。我々は窺い知る事は出来ません。といえばそれまで。」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ここもまた、まことに他愛も無い 痴言 である。 大聖人滅後にこのような 馬鹿 が現われ出でることが予見されるからこそ、その御配慮として「御本尊」に関して厳格に相伝において定められているのである。 御本尊七箇之相承 ■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。 ■ 本尊書写の事一向に日興が之を書写し奉るべきこと勿論なるのみ。 この御相伝書の二箇所の御指南においても、日興上人以来の御歴代上人のみに御本尊に関する一切の御権能が遊ばされること明確である。 @ 「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」=この語によって分かることは、大聖人は二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人が御本尊を書写すべきことを既に規定されていた。 A 「代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。」=その嫡々代々の御歴代上人はまさにその御内証が日蓮大聖人である。との大聖人のお定めである。 この意義は以下の御文とまさに同義である。 ■仏宝・法宝は必ず僧によて住す。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳) (仏宝・法宝とは、突き詰めれば人法一箇の御本尊のことである。その人法一箇の御本尊は僧宝によって住する。ということは、まさに別して二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人によって「住す」ることができるのである。 逆に言えば、二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人以外の者・例えば創価学会の会長など、仏法の次第から言えば、どこの馬の骨とも知らぬ者などが、人法一箇の御本尊を云々できる立場ではないことを大聖人様が既にはっきり定められているのである。 つまり、創価学会の会則そのものが、大聖人の御教えに真っ向から背いている、「大謗法規約」ということである。) ■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。(『真言見聞』 608) (この「三宝一体」という意義こそ、■「代々の聖人悉く日蓮と申す意なり」と同義である。 大聖人の御内証と全く等しい、三宝一体だからこそ御本尊を書写できるのである。 であるから、この御文も御本尊に関する権能が別して二祖日興上人以来の嫡々代々の御歴代上人にのみ存する明確な文証である。 ただ邪心に凝り固まった者どもには読めない。ただそれだけのことである。 そういう者をこそ 馬鹿 というのである。) であるから、沖浦君の痴言など全く取るに足らぬ浅はかなたわ言に過ぎない。 更に、この御文の意をそのまま具体的に示されているのが、以下の御文である。 ■直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄) 弘安三年一月一一日 五九歳) ■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。(法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 弘安五年一〇月一一日 六一歳) この御文が如何に後加文であろうと、義において上記の御真筆と全く同義であればこれを用いるのは大聖人の御教えの定跡である。 ■一、御筆抄に御書毎に於て法華本門の四字を加ふ、故に御書に之無しと雖も日興今義に従って之を置く、先例無きに非ざるか。(富士一跡門徒存知事 延慶二年) ■ 第三 義(ぎ)の字の事 御義口伝に云はく、義とは観心なり。其の故は文は教相、義は観心なり。所説の文字として心地に沙汰するを義と云ふなり。 (尚、後加文についての疑難についての詳細な破折は→参照 http://toyoda.tv/neirakuji.htm#27 ) |
| 沖浦対樋田法論を検証する 102 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月20日(土)21時21分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「例えば、東芝の会社に勤めているものにソニーの会社の社訓を守れ、と言ったって守らないじゃないですか。会社が違うのだから。(と同様に、宗門と創価学会は別団体なのだから御本尊に関する規定が違って当然。それぞれ別にやればいいこと。との意を言わんとしている例え。)」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 沖浦君が繰り返し使う 的外れな駄言 である。 1、そもそも、ただの「電化製品」を作る会社と、末法の衆生が「即身成仏でき得る御本尊」を下付する宗教を、一律に並べて論じることが実に馬鹿げているのである。 このような子供でも分かることが全く理解できていないとしたら、もはや 狂人 か余程の 低脳者 である。 @ 電化製品などどこの会社の何を使おうが別段大きな差などない。どの会社の製品でも、長所短所・得意不得意分野があり、使用者が自分の好みで選択すればいいことである。 A だが、即身成仏し得る御本尊 となれば、そういう訳にはいかない。 末法で我々凡夫が即身成仏でき得る御本尊とは、三大秘法でしかない。 三大秘法→一大秘法→本門戒壇の大御本尊 この本門戒壇の大御本尊を信じて題目を唱えないと、それは本門の題目とならず、三大秘法は成立せず、即身成仏は絶対にしない。 では、信じるとはどういうことか。 ■ かつ(餒)へて食をねがひ、渇(かっ)して水をしたうがごとく、恋て人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたち(形容)よき人、べに(紅)しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし云云 (上野殿御返事 弘安二年四月二〇日 五十八歳) と有難くも仰せのごとく、法華経=三大秘法=一大秘法=本門戒壇の大御本尊 が恋しくて恋しくてお会いしたくてどうしょうもない、という素直な信心がなくては、本当の「本門の題目」とはならない。 よって、即身成仏しない。 であるから、今生、後生に必ず後悔するような目にあうと仰せなのである。 ■参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし。(南条殿御返事 弘安四年九月一一日 六〇歳) 人法一箇の本門戒壇の大御本尊はそのまま即日蓮大聖人様である。 その日蓮大聖人様が 「参詣が久しく途絶えておるぞ。(※早く丈夫になって←南条殿はこの時重病であったが故に、激励の意味も篭められておられるお言葉である。)急いで参詣をされなさい。ここにて(現時では、本門戒壇の大御本尊即日蓮大聖人ご在所の大石寺)で待っておるぞ。」 と仰せられておられれば、何をさて置いても馳せ参じるのがまことの「信心」である。 それを、「自分の家で拝んでいるからいいんだ。」などと嘯いている輩は、まさに不遜・傲慢であり、およそ素直で純粋な信心などとは言えない。 (それが仮にニセ本尊でなくても、である。ましてやゴミ屑・糞尿よりも汚らわしい魔仏・ニセ本尊などを拝んでいる者など、その罪業計り知れない。) よって即身成仏など絶対にできない。 即身成仏できない者は詮ずる所は、結局無間地獄行きなのである。 であるから、本門戒壇の大御本尊へ参詣しない者は、須らく、即身成仏など思いの外、無間地獄行き必定の者たちである。 ■『寿量品談義』日寛上人 「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(中略)其の三大秘法の住する処こそ何国にてもあれよ霊山会場寂光の浄刹なるべし。」(富要一〇―一三一n) ■【日達上人】 戒壇の大御本尊様を忘れてしまったならばいかに信心してもたとえ何々上人の御本尊であると言って拝んでみても大聖人様の血脈は通じてこない。 ■日達上人 戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく人を救うところの力もないのであります。 ■『戸田城聖全集』 「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」 ■『折伏教典』 「富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」(三一四n) 沖浦君の 痴言 などまさに風の前のチリ である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。151 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)15時03分21秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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7 沖浦「この法論での法華講側の開眼の論証が日蓮正宗の伝統教義に照らして適法なのかどうか、日蓮正宗宗務院に確認をとる。必ずやりましょう。確認と取ったら必ず発表する。当然やりましょう。(趣意)」 と発言している。 当方らの開眼に関する論証は概要以下の通りである。 http://toyoda.tv/okiura.siryo2 さて、沖浦君はこの件を宗務院もしくは内示部に確認を取ったのか。 (付言しておくがこの件は沖浦君が自分で言ったことである。当方がけしかけたことではない。 今までの沖浦君の穢いやり口からいって、当方から宗務院を追求するように言われたから、そのように行動した。とでも言うのであるから、予め釘を刺して置こう。 そのような姑息な詭弁は通用しない。) しかし、未だに沖浦君はその結果を発表できていない。 つまり、確認してはいないのである。 (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) この点においても沖浦君とは口から出任せの、その場しのぎでウソを平然と述べ立てる軽薄で無責任な人物であることが実に良く分かるというものである。 さて、それでも発表できるというのなら、 @ 問い合わせた正確な日時。 A 問い合わせ先 何課等 B 担当者 C 正確な内容。(あとで当方も照会する。) 最低でも以上を明示しなければ全て沖浦君の虚偽捏造の妄想話ということである。 沖浦君、何時になったら自分の発言に責任が取れるのか。 で、この件を証明できなければ、 そもそもこの件は、「双方の主張は自義かどうか。」ということから始まっている。 ■今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。 沖浦君のいうことなど一から百まで悉く「経論」に基かない「自義」である。という当方の破折に沖浦君が猛反発したものである。 当方の主張は「経論」を元にし、かつ、日蓮正宗の伝統教義に沿って発言している。 この日蓮正宗伝統教義はかつての創価学会も信じ拝していた教義・信条である。 沖浦君はそれとは全く別のことを勝手気ままにほしいままに放言しているのである。 沖浦君は当方が日蓮正宗の教義的解釈に基かないで主張していたらそれも「自義」ではないか。と反駁したのであるから、もし、当方の主張が日蓮正宗の教義解釈に反するということを証明できないのなら、結果、沖浦君自身が放言していることは間違いなく「自義」であるということを認めた形となる。 さ、沖浦君、どうせ沖浦君にしてみればここまで勝手気ままに適当なことを言い続けていれば、もはや大聖人の仏法の教義とは程遠いものであるが、自義を吐き仏法を私する者は、間違いなく頭破七分となり、無間地獄必定である。 ■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332) 沖浦君の言うこと悉く御文の意義を理解できていない、的外れな引文であって、的確な文意による引文は皆無である。 その無様な姿はまさに「謗法となる根本」である。 謗法→堕獄必定 よって、沖浦君も堕地獄は決成の者ということである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。152 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)18時10分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「もし、あなたの開眼の論証が宗門の見解と同じだった場合、ああ、なるほど樋田さんの見解と宗門の見解がたまたま同じだったという知識が増えるだけで、有難いことですわ。」 ↑ここもやはり口から出任せ人間の本領発揮である。 そもそも、当方の主張が”自義”かどうかを確認するために、当方の「開眼の論証」が宗門の見解と同様なのか、齟齬はないのか、確認すると言ったのである。 そこで、もし齟齬がないということが確認されたならば、当方の主張は自義ではなく、逆に沖浦君の言っていることが我見に任せてすき放題放言している自義であるということを認めなくてはならないやりとりだったのである。 それを冒頭のごとく言い逃れるなど、実に姑息な”伏線”というべきである。 (因みにこちらの想定通り、案の定、耕治君がなにやら相変わらず、ピンボケなことを言っているが、既に釘を刺していることすら読み解けないほどの理解力のなさを露呈したに過ぎない。 【引用】 ――――――――――――――――――――――――― (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) ――――――――――――――――――――――――― このように↑既に指摘しているにも拘らず、↓のように言ってくるとは、11.24の質問会のポイントのずれた返答が思いやられるというものである。呵々 【耕治言】 ――――――――――――――――――――――――― 前にも、あなたから裏を取りたいといわれてここの板にかきましたよ 投稿者:耕治 投稿日:2007年11月 5日(月)16時43分40秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 //問い合わせた正確な日時。 3回かけてますが、前にも書きましたが法論の3日後に父と私の2回 、時間帯は過去ログが流れてしまったが昼過ぎだったかな?携帯からかけた。父はその後で電話をした 3回目は、腐れ馬鹿ナオトのご本尊書写強要の件でかけた、これは、私が山に上がる前日だったので、日付は7月11日だったはずです。 //A 問い合わせ先 何課等 //B 担当者 大石寺、ないじぶ、きょうがくぶ(彼等は、電話では名乗らない) //C 正確な内容。 身延護持の真筆本尊を、君がプリントアウトしてただの紙じゃとやっていた。 それは、お宅の支持か? //(あとで当方も照会する。) 二ヶ月も前に、この板にこの旨書き込んだところ、あなたから、上記のごときといあわせがあって、詳しくおしえたはずですよ? あなた、そのとき、確認」しますと言ったではないですか? もう二ヶ月も前の話ですよ?わすれたんですか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する。151 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)15時03分21秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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7 沖浦「この法論での法華講側の開眼の論証が日蓮正宗の伝統教義に照らして適法なのかどうか、日蓮正宗宗務院に確認をとる。必ずやりましょう。確認と取ったら必ず発表する。当然やりましょう。(趣意)」 と発言している。 当方らの開眼に関する論証は概要以下の通りである。 http://toyoda.tv/okiura.siryo2 さて、沖浦君はこの件を宗務院もしくは内示部に確認を取ったのか。 (付言しておくがこの件は沖浦君が自分で言ったことである。当方がけしかけたことではない。 今までの沖浦君の穢いやり口からいって、当方から宗務院を追求するように言われたから、そのように行動した。とでも言うのであるから、予め釘を刺して置こう。 そのような姑息な詭弁は通用しない。) しかし、未だに沖浦君はその結果を発表できていない。 つまり、確認してはいないのである。 (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) この点においても沖浦君とは口から出任せの、その場しのぎでウソを平然と述べ立てる軽薄で無責任な人物であることが実に良く分かるというものである。 さて、それでも発表できるというのなら、 @ 問い合わせた正確な日時。 A 問い合わせ先 何課等 B 担当者 C 正確な内容。(あとで当方も照会する。) 最低でも以上を明示しなければ全て沖浦君の虚偽捏造の妄想話ということである。 沖浦君、何時になったら自分の発言に責任が取れるのか。 で、この件を証明できなければ、 そもそもこの件は、「双方の主張は自義かどうか。」ということから始まっている。 ■今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。 沖浦君のいうことなど一から百まで悉く「経論」に基かない「自義」である。という当方の破折に沖浦君が猛反発したものである。 当方の主張は「経論」を元にし、かつ、日蓮正宗の伝統教義に沿って発言している。 この日蓮正宗伝統教義はかつての創価学会も信じ拝していた教義・信条である。 沖浦君はそれとは全く別のことを勝手気ままにほしいままに放言しているのである。 沖浦君は当方が日蓮正宗の教義的解釈に基かないで主張していたらそれも「自義」ではないか。と反駁したのであるから、もし、当方の主張が日蓮正宗の教義解釈に反するということを証明できないのなら、結果、沖浦君自身が放言していることは間違いなく「自義」であるということを認めた形となる。 さ、沖浦君、どうせ沖浦君にしてみればここまで勝手気ままに適当なことを言い続けていれば、もはや大聖人の仏法の教義とは程遠いものであるが、自義を吐き仏法を私する者は、間違いなく頭破七分となり、無間地獄必定である。 ■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332) 沖浦君の言うこと悉く御文の意義を理解できていない、的外れな引文であって、的確な文意による引文は皆無である。 その無様な姿はまさに「謗法となる根本」である。 謗法→堕獄必定 よって、沖浦君も堕地獄は決成の者ということである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。152 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)18時10分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「もし、あなたの開眼の論証が宗門の見解と同じだった場合、ああ、なるほど樋田さんの見解と宗門の見解がたまたま同じだったという知識が増えるだけで、有難いことですわ。」 ↑ここもやはり口から出任せ人間の本領発揮である。 そもそも、当方の主張が”自義”かどうかを確認するために、当方の「開眼の論証」が宗門の見解と同様なのか、齟齬はないのか、確認すると言ったのである。 そこで、もし齟齬がないということが確認されたならば、当方の主張は自義ではなく、逆に沖浦君の言っていることが我見に任せてすき放題放言している自義であるということを認めなくてはならないやりとりだったのである。 それを冒頭のごとく言い逃れるなど、実に姑息な”伏線”というべきである。 (因みにこちらの想定通り、案の定、耕治君がなにやら相変わらず、ピンボケなことを言っているが、既に釘を刺していることすら読み解けないほどの理解力のなさを露呈したに過ぎない。 【引用】 ――――――――――――――――――――――――― (ここも付言しておくが、確認事項はあくまで当方の「開眼の論証」である。それ以外の何を聞いてみたところで、自身の発言に責任を取ったことにならない。 資料としての曼荼羅をプリントアウトした紙云々の件など、その状況の表現の仕方でどうにでも歪曲して恣意的に告げることができるので、この件のことなどを幾ら自分に曲げた解釈で取り上げてみても、全く意味を成さない。 しかも、その担当者を明示できない。内容の客観的な証拠記録を提示できない。ではお話にならない。 つまりは沖浦君の虚偽捏造話に過ぎない。) ――――――――――――――――――――――――― このように↑既に指摘しているにも拘らず、↓のように言ってくるとは、11.24の質問会のポイントのずれた返答が思いやられるというものである。呵々 【耕治言】 ――――――――――――――――――――――――― 前にも、あなたから裏を取りたいといわれてここの板にかきましたよ 投稿者:耕治 投稿日:2007年11月 5日(月)16時43分40秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用 //問い合わせた正確な日時。 3回かけてますが、前にも書きましたが法論の3日後に父と私の2回 、時間帯は過去ログが流れてしまったが昼過ぎだったかな?携帯からかけた。父はその後で電話をした 3回目は、腐れ馬鹿ナオトのご本尊書写強要の件でかけた、これは、私が山に上がる前日だったので、日付は7月11日だったはずです。 //A 問い合わせ先 何課等 //B 担当者 大石寺、ないじぶ、きょうがくぶ(彼等は、電話では名乗らない) //C 正確な内容。 身延護持の真筆本尊を、君がプリントアウトしてただの紙じゃとやっていた。 それは、お宅の支持か? //(あとで当方も照会する。) 二ヶ月も前に、この板にこの旨書き込んだところ、あなたから、上記のごときといあわせがあって、詳しくおしえたはずですよ? あなた、そのとき、確認」しますと言ったではないですか? もう二ヶ月も前の話ですよ?わすれたんですか? |
| 沖浦対樋田法論を検証する。153 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)19時07分6秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦言「ご本尊のような大事なことは大聖人様は御書で明快に仰られます(趣意)」 ↑どこまでも浅学の迷妄者ですね。 大聖人様の究極の奥義は唯授一人の口伝相承によって相伝・伝持されているのである。 沖浦君なぞの三宝誹謗の下劣な謗法者の窺い知ることなど永劫に有り得ない深旨である。 【文証】 ■ 又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。 法華本門宗血脈相承事 弘安五年太歳壬午十月十一日 日蓮花押 (※後加文云々については、http://toyoda.tv/gokabun.htm 沖浦君も引用しているので、邪難は認められない。呵々) ■ 秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず。(就註法華経口伝) ■ 聖人言(のたま)はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給(のたま)ひて留め畢んぬ。(産湯相承事) 日寛上人 ■ 一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其の 已下をや。唯日興一人に譲りたまふ故に唯授一人の相承と名づくるなり。(三宝抄 ) ■ 五百年が間、唯授一人なり。 各相伝あり。故に能く身の病を治す。「譬如良医」の釈尊もまた上行菩薩に一大事の秘法を伝う。 二十二二十八に云く「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり」等云云。 外十六四十一に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五年壬午九月 日 日蓮在御判 血脈の次第 日蓮日興」 「日興が身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す本門寺に掛け奉る可し」(取意)云云。 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(妙法曼荼羅供養抄) ■ 本尊七箇の口伝、三重口伝、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや。(取要抄文段) (※日寛上人の御指南に服すべきことは http://toyoda.tv/nichikansyonin.htm に明示。沖浦君未だに反論不能である。) |
| 沖浦対樋田法論を検証する。154 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)20時55分14秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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7 沖浦言「創価学会では本尊のことは会長の専任事項になっている。(趣旨)」 ↑まさに馬鹿丸出し! では会長は仏か?呵々大笑! 沖浦君の愚かさはこういうの↓と同じである。 「顕正会では本尊のことは浅井会長の専任事項になっているんです!」(沖浦君説「東芝とソニーの例え」だとこれも正しいことになってしまう。呵々大笑) そもそも、大聖人様滅後約700年ほど後に生まれた、「原田」などというどこの馬の骨とも知らない人物に、どうして一切衆生を成仏させる「本尊」を云々できる資格があるというのか? 大爆笑である。 殊、本尊のことこそ、大聖人様以来厳格な規定が定められているのである。 日寛上人 ■ 一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其の 已下をや。唯日興一人に譲りたまふ故に唯授一人の相承と名づくるなり。(三宝抄 ) (※この「一大事の秘法」とは当然、「御本尊」の御事である。) |
| 沖浦対樋田法論を検証する。155 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)21時17分8秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦言「大聖人様の仏法は自行化他に亘りての「南無妙法蓮華経」だから、今は、『南無妙法蓮華経 日蓮』 と書かれた本尊を広めていくことが大聖人様の「南無妙法蓮華経」なわけですよ。(趣意)」 ↑またも、一読噴飯 である。 結局ここが沖浦君の限界点・思考の上限 なんですね。 これ以上考えが及ばない。 だから、繰り返し繰り返し、聞き飽きた痴言を、壊れた再生機器のように執拗にエンドレスするしか”脳”がないのですね。 およそ人間ならば思索して思考が深化するものだが沖浦君には全くそのような学習ができない。 これを三毒の愚癡=愚かで癡(おろか)=つまり 馬鹿 というのですね。 沖浦説だと「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれていればどんな本尊でもいいのである。 ワープロでも、子供が書いても、・・云々云々。 詳細 http://toyoda.tv/syosya.htm そのような、「本尊」そのものに惑っている者が、自行化他だの、広宣流布だのを口に出す資格などない。 本尊に迷って一体何を広めるのか?呵々大笑。 ■ 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(日寛上人・妙法曼荼羅供養抄) 沖浦君の姿は、薬学に全く無知なものが、ニセ薬を掴まされて見分けられず、それを真顔で本物と信じて、血相変えて普及しようとムキになっているようなものである。呵々呵々大笑! |
| 沖浦対樋田法論を検証する。156 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)22時36分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦言 「『法華を心得たる人』(木絵二像開眼の事)というのは非常に漠然としていて。南無妙法蓮華経の意義など分からないじゃないですか。俺にも分からないよ。」 ↑その通りですよ。沖浦君。正解です。 三宝誹謗の沖浦君などに分かりようはずがない。 その分かっていない沖浦君が本尊に迷うのは当然の結果ですね。 「南無妙法蓮華経」 とはそのまま一大秘法=本門戒壇の大御本尊に究竟されることは大聖人様の仏法の初門の常識である。 その深義こそが、唯授一人・血脈相承によってたった御一人に伝わっているのである。 戒壇の大御本尊(南無妙法蓮華経)の御内証が、以下の御文のごとく御一人から御一人に御相伝されているのである。 ■「血脈の次第 日蓮日興」 ■「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」 ■ 五百年が間、唯授一人なり。 (中略) 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。(妙法曼荼羅供養抄) この御内証を伝持・相伝されておられるから御歴代上人が御本尊を書写され,授与を許可することができる唯一の御方なのである。 実に単純明快な道理である。 ただ、謗法の逆徒には信じられないだけのことである。 まっ、今回の発言で、沖浦君は「法華を心得たる人」でないと白状した。(当然過ぎるほど当然だが。呵々) よって、本尊のことにも全く無知であるし、大聖人様の御文についても云々できる立場では全くない、ことも自明の理である。 はい、沖浦君、ご苦労さん。呵々大笑。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。157 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 5日(月)23時57分3秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| これで、横からの下らない雑音もなくなったことだし、この沖浦君の荒唐無稽・滑稽至極の邪説をじっくり念入りに清掃し消毒し漂白していきますか。 chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦君「三宝の話など知らなくても、題目をあげれば功徳がでるじゃないですか。(趣意)」 ↑もう、ほんと 愚論 である。呵々 【正】 @ 三宝の話は知らなくても純粋に日蓮正宗の正統なる御本尊へ題目を唱えれば功徳を積めるのである。 【邪】 A 三宝を誹謗し、大聖人様以来の正統なる唯授一人・血脈相承を護持する日蓮正宗が「ニセモノ」と断定した掛け軸状の模造品にいくら題目を唱えても、頭破七分になりこそすれ、功徳など天が地になっても有り得ないことである。 【邪】 B 日蓮正宗の正統な御本尊に題目をあげても、三宝を誹謗した根性では功徳など全く積まれない。沖浦君のように人格が破綻し、虚偽・捏造常習犯と成り果てるだけである。 沖浦君はこの↑「正邪」が見極められない、ただそれだけのことである。 ――――――――――――――――――――――――― ●御僧侶(←下種三宝の内の僧宝)を軽善するその報いは実に深いものがある。 ■「(法華経)八の巻に云はく「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎き欠け・醜き脣平める鼻・手脚繚戻し、眼目角らいに、身体臭穢・悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文。」 【通解 法華経、普賢菩薩勧発品第二十八にはこのように説かれている。 三大秘法である本門戒壇の大御本尊を受持信行する者(御法主上人は勿論のこと、戒壇の大御本尊と御法主上人に連なる全ての僧俗。)の過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等などの罪をあげつらう者は、たとえその内容が真実であっても、ましてやただの悪口、虚偽、捏造、誤解であった場合はなお更のこと、その誹謗した者は、現世において皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種やそれに類する医学で治療できない重病などに罹るであろう。 また、御法主上人をはじめ本門戒壇の大御本尊を受持信行する者を軽蔑し、嘲笑する者は、来世以降、生まれてくる度に、 歯が部分的に欠損していたり途中で欠けたり、 唇が醜く、 鼻も低く醜悪。 手足がねじ曲がり自由に伸びない状態となり、 瞳の方角が偏り、正常にものを見る事が出来ない姿となり、 身体は醜く汚く臭く、 悪性のできもの、腫れ物が多発し、 血の中に膿が混じったり、また膿の血が染み出してきたり、 腹部に濁水が充満し腫れ上がり、 酷い喘息などで息が詰まり呼吸困難になったりする。 その他諸々の悪重病に侵され続けるであろう。」 沖浦君などは、今のままでは間違いなくこういう惨めな姿を未来永劫に繰り返し繰り返し現じ続けるであろう。 一刻も早くその誹謗を止め、心より反省懺悔して御法主上人に許しを乞わないと、取り返しがつかないことになる。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。158 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 6日(火)12時40分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦言「 何も知らなくても「南無妙法蓮華経」と唱えたら、功徳があるでしょう。(その後、沖浦君、御書を暗記しているはずであるのに、以下の御文をうろ覚えにたどたどしく途切れ途切れに囀る) 「問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。」(四信五品抄)」 ↑沖浦君、どうやらこの御文で我説を立証したかったようであるが、全く ダメ ですね。呵々 まず根本・基本が見えていない。 1、「南無妙法蓮華経」 とはその元意は三大秘法にある。 つまり、三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊を離れた「南無妙法蓮華経」など全く大聖人様の正意ではない。 身延・池上・立正佼成会・霊友会・・・・その他諸々も宗派が唱える「南無妙法蓮華経」はこの一点が外れているから、全く何の意義もない。 ただの猿真似の邪行である。 創価学会・顕正会も同様である。 2、■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。(真言見聞 文永九年七月 五一歳) 仏宝・法宝・僧宝は一体なのである。 つまり、一口に「南無妙法蓮華経」といっても、その内体は三宝一体の意義があらせられる。 であるから、下種三宝尊への尊信のない、あまつさえ誹謗をなす根性で「南無妙法蓮華経」を鼻血が出るほどムキになって唱えても、全く功徳にはならない。 参照 http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno38.htm つまり、仏宝・法宝を内証に相伝・伝持される御歴代上人を誹謗して唱える「南無妙法蓮華経」などには、全く功徳などない。 では上記の御文関して言えば ■「汝が弟子一分の解無くして」 の箇所を根拠にして、「難しいことなど分からなくても、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えればいいんだ。」と浅はかな愚論を展開する馬鹿者が往々にして居るが、この御文に既に ■「汝が弟子」 と、師弟相対した姿が説き置かれているのである。 弟子には師匠が居られる事当然の理である。 師匠とは誰か? 根本の御師は大聖人様 大聖人様亡き後は日興上人 では日興上人亡き後は?云々、と「血脈の次第」は連綿と続くのである。 それが、「僧宝」の意義であり、現時で大聖人様よりの血統正しき直接の師匠のない連中は悉く邪行に堕しているのである。 であるから、 ■「汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。」 との御文は、現時において、大聖人様からの由緒正しい「師匠」を拝して、その弟子分として一分の解もなくともただ素直に、純粋に本門戒壇の大御本尊を信じて唱える「南無妙法蓮華経」には絶大な功徳が生じ、その唱える者の位は大変なものである。との御義である。 大聖人様からの血脈を明証できない、ある日突然現れたただの人を「師匠」となど仰ぐ者は、この御文に示される師弟相対の大前提に反しており、一分の解があろうとも、なかろうともその者が唱える「南無妙法蓮華経」では、絶対に成仏など不可能であり、今生の真の幸福も夢のまた夢、である。 ここでも、沖浦君の実に浅薄で愚昧な”怪釈”では 全くダメ ということが露見したわけである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する。159 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年11月 6日(火)22時30分20秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| chapter 7 http://video.google.com/videoplay?docid=-9190310988424519668 沖浦言「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳 666 法華を心得たる人とは、大聖人様と同じ一念を持っている人、同意の人、という意味。大聖人様のような広宣流布へを見据えてそこへ自分の人生を持っていく、という生き方が大聖人様と同意だと思うわけであります。(趣意)」 ↑もう、しっちゃかめっちゃかですね。 実に浅はかな捉え方である。 ――――――――――――――――――――――――― @ ■「日蓮と同意」 とは、大聖人様が広められた三大秘法を広めなければ「同意」とはならない。 三大秘法→一大秘法=本門戒壇の大御本尊 であるから、「戒壇の大御本尊なんかはじめっから信じていない!」と嘯く沖浦君など、「日蓮と同意」なわけがない。 ――――――――――――――――――――――――― A 木絵二像開眼の事 ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 ■法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。 この両文は、非情成仏を説かれておられる箇所で、その点において同義である。 つまり、 「法華を心得たる人」→開眼供養→非情の木絵二像→草木成仏 「法華を悟れる智者」→死骨供養→非情成仏→死骨成仏 であるから、「法華を心得たる人」とは別の表現では「法華を悟れる智者」ということである。 「法華を悟れる智者」とは、法華経とは三大秘法であるから、この三大秘法を悟られた智者とは大聖人以外には居られない。 一方、■「日蓮と同意」とは、その直前に■「日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。」とあることから、日蓮大聖人を信じ、果敢な広宣流布への戦いにおいて惹起するいかなる迫害にも屈せず、生涯命懸けで門下として大聖人様に付き従う人々のことを仰せである。 つまり、「法華を心得たる人」=「法華を悟れる智者」とは、能所の筋目においていえば衆生を化する側である能化(仏)にあたり、 「日蓮が一門」としての「日蓮と同意」の人とは、能化(仏)に化導される側の所化(衆生)にあたるのである。 「法華を心得たる人」=能化=師 「日蓮と同意」の一門=所化=弟子 という関係である。 ――――――――――――――――――――――――― B その 能化=師 の立場は大聖人滅後は「血脈の次第 日蓮日興」と「次第」して、その 仏としての師 という御内証は御歴代上人に唯授一人・血脈相承されて相伝・伝持されているのである。 参照 http://toyoda.tv/ketumyaku.htm ――――――――――――――――――――――――― 以上の簡単な論証から、沖浦君の自分勝手な思い込みは全く的外れで、正しい解釈ではない。 あいも変わらず自分勝手にほしいままに放言して自分で酔い痴れているだけのエセ信徒である。呵々 |