| 沖浦対樋田法論を検証する 51 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 6日(月)15時20分2秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| さて、久しぶりに時間が少し取れたので、少々進めますか。 ―――――――――――――――― Chapter 5 木絵二像開眼の事 1 当方の主張 ■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」 との御文の「木絵二像」とは、一往、「木像・絵像の本尊」 という意義を表にしているが、再往は、本尊として存在するための”非情=物質・物体”を意味しているのであり、この”非情=物質・物体”は、そのままでは「本尊」たりえない。 必ず「法華を心得た人」による、「開眼供養」が為されなければ「本尊」として成立しない。 沖浦さんの返答 ▼「その主張はそれはそれでいいと思う。そう解釈するのは自由。だから、日蓮正宗では開眼供養をすればいい。ただ、創価学会の本尊について開眼を要求する根拠にはならない。(趣意)」と主張している。 ↑これは、全くの浅識による無知な発言ですね。 大聖人の御心が全く分かっていない。似非信行者そのものですね。 そもそも、日蓮正宗においては「開眼供養」が必要なことなど、大聖人様以来の当たり前の伝統教義である。 ■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳) この佐後=発迹顕本以後の御書に「塔婆」を必ず「開眼供養」すべき旨をお説きになっているのに、最重要の「曼荼羅御本尊」に「開眼供養」の必要がない、などと仰せになる道理がない。 ■草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。止観の明静なる前代にいまだきかずとかゝれて候と、無情仏性惑耳驚心等とのべられて候は是なり。此の法門は前代になき上、後代にも又あるべからず。設ひ出来せば此の法門を偸盗せるなるべし。然るに天台以後二百余年の後、善無畏・金剛智・不空等、大日経に真言宗と申す宗をかまへて、仏説の大日経等にはなかりしを、法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば、皆人此の事を知らず、一同に信伏して今に五百余年なり。然る間真言宗已前の木画の像は霊験殊勝なり。真言已後の寺塔は利生うすし。事多き故に委しく注さず。(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳) この御文から、概ね以下の事が判明する。 @ 本尊 とはいってもその元は絵の具(墨含むことは勿論である)とか、木材からできている。 A であるから、その絵の具(墨)や木材に魂魄を入れなくてはならない。(開眼供養) B それは、法華経(文底では三大秘法=一大秘法)でのみ可能であり、それが天台大師のさとり(一念三千の法義)より為し得る。 C しかも、この開眼供養の法門は、もともと天台大師が所持されていた深秘の法門であり、それを盗んで広く紛いごとを行っているのが真言宗である。←つまり、開眼供養の法門は真言宗を単に破折するためだけに説かれているのではない。もともと法華経にしかない、草木を成仏せしめる深秘の法門ということである。 以上の検証から、本尊と成り得るには法華を心得た人による開眼供養は必要不可欠であることは火を見るより明らかである。 沖浦さんの主張の矛盾点を突く。 1、▼「日蓮正宗ではそうすればいい、異議を差し挟む気はない。創価学会の本尊を拝まなければいい。(趣意)」との痴言について。 沖浦さんは反論できなくなると常にこの言い訳・言い逃れに逃げ込む。 しかし、これは全く大聖人の御心が心肝に染まっていない証拠の言ですね。 ■本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳) と明確に仰せであり、日蓮正宗の開眼供養された御本尊と、創価学会発行の開眼のない濫造模造掛け軸と、比較検証して「すぐれた本尊」を用いなくてはならない。 両方がそのまま正しい本尊である、などということはあり得ない。 もし、そう思い込んでいるとしたら、沖浦さんは大聖人の仏法を正しく行じている者ではない。 口先だけの似非信徒である。 真の仏弟子であるならば、間違った本尊を徹底的に駆逐するのがその役目である。 「開眼供養」が必要か不要か?とは実に重大な法門であり、「どっちでもいい。」などと軽々しくほざいているのは、大聖人の仏法を軽んじている証拠である。 これはつまり、沖浦さんが拝んでいる御本尊は日達上人が開眼供養されたお形木御本尊であり、その他の創価学会員も同様の開眼供養された御本尊を拝んでもいる。(しかし、現時では大聖人の御魂魄は住まわれていない)しかし、耕治君他大勢の創価学会員はまた開眼供養のない、模造掛け軸を拝んでいる。 双方が混在しているまさに ■「諸宗は本尊にまどへり」 の狂相を呈しているのが創価学会である。 この矛盾を説明できないために、ただ言い逃れをしてこの問題から回避するしか手がないだけのことである。 「開眼が不要」 と主張するのならば、その不要なはずの得体のしれない「開眼供養」の教義や、それが為された本尊は、”不純物”が混入した魔仏、ということになり、徹底的した破折の対象であるはずである。 創価学会の開眼がない模造掛け軸本尊が正しいのなら、日蓮正宗の開眼供養された御本尊は間違っているということになるのであるから、沖浦さんは日蓮正宗の開眼のある御本尊を教義的に破折し尽くし、駆逐すべきである。 それが仏弟子の務めである。 ■「若し善比丘有って法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是我が弟子真の声聞なり」 ▼「日蓮正宗ではそうすればいい、異議を差し挟む気はない。創価学会の本尊を拝まなければいい。(趣意)」などの痴言をぺらぺらと冗長に喋り続ける沖浦さんは、この御仏の戒めを忘れ切った、退転謗法者以外の何者でもない。 そのような見せ掛けだけの似非信徒が、何をどう語っても、周りは白けて、肌寒くなるだけである。 そういう点で、暑い夏には重宝な存在かも知れない。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 52 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 8月 8日(水)00時18分52秒 p4117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| 沖浦さんの主張の矛盾点を突く。(前段の続き) 2、沖浦さんが拝んでいる御形木御本尊は日達上人が御書写され、御開眼された御本尊ですね。 で、その日達上人は以下のように御指南されている。 (予め釘を刺しておくが、「日達上人の御本尊は信じ、御指南は信じない」などという子供だましの言い訳は通用しない。) ■「本尊という解釈を分かりやすくいえば、本有勝尊―昔からありのままで尊く勝れたもの、あるいは本末尊崇―本来から崇め奉るもの、あるいは根本尊貴―根本から尊いもの、といいます。」(日達上人全集第二輯第三巻325) もし、「開眼供養を認めない」とするならば、以下の矛盾点が起こる。 @ もし、▼1「非情がそのまま本尊となってしまう」のであれば、世界中の非情=物質がすべて御本尊、ということになってしまうからであり、そのようなことはあり得ない。 A また、▼2「十界曼荼羅が書かれているものは全て「御本尊」となってしまう」のならば、再三指弾しているように、十界曼荼羅を誰が書いても、それをどこに何万枚コピーしようが、全て「御本尊」となってしまう、ということであり、そのような破廉恥な「御本尊」など、尊信の対象となど成り得ない。 つまり、そのようなものは本尊に成り得ない。 この@Aとも、以下の ■本尊とは勝れたるを用ふべし。(本尊問答抄 弘安元年九月 五七歳) との御文や、上記の日達上人の御指南と併せ考察しても、その主張の正当性は全く認められない。 つまり沖浦さんのような開眼不要論者は、大聖人の御教えを全く無視した、外道義を吐く似非信者 ということですね。 沖浦さんのように何十年信心しても御文の真意を全く解せない者を大聖人は以下のように指弾しています。 ■なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日 五八歳) このような退転者の傾向性は、まさに沖浦さんの姿も同様ですね。 臆病 =正々堂々とした条件では法論ができない卑怯者。 今回の法論ですら、自分に不利な条件は悉く回避して、それでもその結果が見るも無残な敗北であったが故に、更に姑息に、その都合の悪い条件から逃げ、一方的に一人で決めつけ、それを受けない当方を、「法論から逃げた。」と遠吠えし、さも自分が勝ったように見せかけるように懸命にポーズをとり、繕っている。 こういう者を 沖病者 いやもとい、 臆病者 というのですね。 物をおぼえない =沖浦さんのいう開眼不要説がいかに馬鹿馬鹿しい痴論であるか、など、子供が聞いても分かる理屈である。 それが、いい年をして分からない。=つまり、何年やっても 物をおぼえない愚か者 ということでですね。 欲ふかい =いつでも勝他の念に焼け焦がれて、周囲によく思われようとじたばた足掻いて、焦っている醜態 これまさしく 名誉欲に取り憑かれた見苦しい姿ですね。 疑い深い =大聖人の仏法の根幹である、戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承を信じることが出来なかった退転者 まさに、疑い深い者 ですね。 こういう退転者は仏法の道理を聞いても、漆に水をかけたようにはじいてしまって心中に染まらない。 また、空中を切っても、何の益もないように、何年信心してみても、成仏の境涯から程遠い生命なんですね。 実に愚かしく、惨めな因縁です。 これが沖浦さんの今世の姿なんですね。 まことに哀れです。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 84 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)18時41分30秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter 5
8分ごろ 沖浦言 「これは私見だが、御本尊からは声が出ない。ところが唱題していく中で自分の声なのか御本尊からなのかわからなくなるときがある。これが境智冥合であって、こういうときが開眼であり、梵音声を添えたことになる、のではないか。そういう気がする。(趣意)」 実に噴飯ものの、まさに、 私見 である。 どころか、話にもならない 我見・妄執 の類である。 1、「境智冥合」について。 三宝抄 ■「信力堅固に本尊に向かう則んば一念三千皎らかに目前に在り。吾本尊を礼すれば本尊吾を礼したもう、譬えば鏡を礼するに影亦吾を礼するが如し、境智冥合して事観此に達するなり。」 と日寛上人が仰せのごとく、一念三千の観に事の上で達することである。 沖浦君が言うような、「声がどうのこうの」などという、浅はかな状態のことを言うのではない。 実に、愚かである。 仏法を知らなすぎる、というものである。 2、であるから、「開眼」「梵音声」についての 怪釈 も全てただの自分勝手な思い込み・根拠・文証のない我見・妄執そのものである。 沖浦君の言い分など全てこの類の駄言である。 今世、ただただ謗法をするだけのために生まれてきた悪因縁の醜悪な謗法者。 実にご苦労なことである。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 85 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 6日(木)22時22分38秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chaper
5 9分あたり いよいよ、無知炸裂である。 沖浦言 ▼「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。」との御文にある、「盲目を開く」、「目を開く」、ということが「開眼」ということだと思う。(趣意) ↑またまた、実に、一読噴飯の 痴言 である。 これについては既に法論前に当板で破折仕切ってある。 我見の塊の沖浦君には難しくて理解できなかったのであろう。 今に至るまで全く反論不能である。 【編集し再掲】 (中略) この段の趣意は ”末法弘通の正体は三大秘法であり、衆生の不幸の原因である根本の迷いの煩悩である根本無明惑を断破し、開かしむる功徳がある。衆生が無間地獄に堕ちる根本原因である無明を断尽するのであるから、無間地獄へ堕ちる道を塞ぐ事ができるのである。” ということであり、「盲目」の「盲」とは”衆生本来の覚体に暝いという”迷い”、「目」とは”衆生本来の覚体を覚知した姿”、と言えましょう。 つまり、「盲」も「目」も、あくまで「衆生の機」に約した表現であります。 一方「開眼」とは、非情の草木を一念三千の悟りから開かれたところの原理によって、草木成仏為さしめ、以って生身の仏=本尊と為す。との意義ですから、「法体」に約した概念であり、表現であります。 【傍証】 ■所詮眼の一字は一念三千の法門なり。(御講聞書) (眼=一念三千 と仰せであるから、まさに「開眼」とは一念三千=非情成仏=草木成仏 との原理を明示された御文である。 つまり、開眼の意義は、木絵二像開眼の事、草木成仏口決、以外の御文にもこのように首尾一貫として明示されてあり、読み取る力のある者にとっては、実に明快な御教示なのである。 が、三大秘法の法体に迷う謗法者どもには全く読み解くことができない。 沖浦君のように、自見・我見を盲滅法に振り回すしか能がないのである。 結果、一文を”怪釈”すれば、このように他の御文と整合性が取れなくなる、という醜態を晒す羽目になるのである。 これが、三宝誹謗を生業にすべく生まれた者たちの哀れさである。) この「衆生の機情に約した語」と、「法体に約した語」を混同・錯誤しているのが沖浦さんの主張です。 ここでも、沖浦君はまたもや大きな失態を演じたようである。 ■「機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり。」(撰時抄 建治元年六月一〇日 五四歳) 法体と衆生の機を混同錯乱して、その筋目が全くわからなくなって、支離滅裂な我見を振り回しているのが沖浦君のせいぜいの限界点である。 だから、いい年をしても幼児性剥き出しのまま、成長した大人の社会人とは到底思われないような哀れな人間性を形成してしまい、しかもその事実に気がつかないのである。 |
補足
| 沖浦対樋田法論を検証する 87 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 7日(金)13時58分48秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chaper
5 沖浦言 ▼「(「木絵二像開眼の事」において)「木絵二像」とは具体的にはどのような像をいっているのか分からないが、推測するに、木像・絵像において三十一相までは表現できるが、三十二相目の梵音声だけは表現しようがない。だから、阿弥陀仏ならば、その前に観経を置くとか、ということで、仏の声を顕そうとしたのではないか。(趣意)」 ↑まさに、その通りである。 それは以下の御文に既に明白に説かれてある。 ■仏に三十二相有り、皆色法(しきほう)なり。最下の千輻輪(せんぷくりん)より終はり無見頂相(むけんちょうそう)に至るまでの三十一相は、可見有対色(かけんうたいしき)なれば書きつべし作りつべし。梵音声(ぼんのうじょう)の一相は、不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。 が、沖浦君の言では、それが「開眼」を否定する根拠には全く為っていない。 順を追って通解する。 @ 大聖人様はこの御文の後、「三十一相の木絵二像の前に経を置いても、それは三十二相を具足はするが、「真仏」には成り得ない。」と仰せである。 ■木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。 A ここに↑はまた、「真の仏と為すには、「梵音声=経」と、真に実相を悟られた「心法」が具足されなければならない。」とも仰せである。 同義の御文■仏滅後は木画(もくえ)の二像あり。是(これ)三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法(しんぽう)かけたり。 B しかし、その三十一相の「木絵二像」の前に法華経を置けば、その像は純円の真仏となる。と仰せである。 ■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。 さて、ここで、法門未熟の者どもは、惑乱に陥るのである。 大聖人様が「純円の仏=末法下種の本仏」と示されたものは、果たして何なのか? どんな浅学の者でも容易に知れることである。 つまりは、文字曼荼羅御本尊の御事以外には有り得ない。 (附文の辺において何を御説きであろうとも、「純円の仏」とは元意の辺においては、三大秘法の御本尊以外に有り得ないのである) であるから、ここの「三十一相の仏」とは、その元意は文字曼荼羅御本尊の御事である。 この文字曼荼羅御本尊様御自らは「梵音声」を発しない。 であるから現に、大聖人よりの正統な血脈相伝を伝持する当宗の御曼荼羅御本尊の御前には「法華経」をお供えしている。 これは、まさに、この御文の「御仏の「梵音声」」との意義を表する化儀である。 C 一方、「心法」についてはどうか。 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。 ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 ここに明確に開眼の意義が顕されている。 「三十一相の木絵の像が全体生身の仏(草木”成仏”)となる」いわれるのであるから、「生身の仏」「成仏」との意義を末法で持つことが出来るのは、三大秘法の御本尊以外にはない。(もし、他のものがそうであるというのなら、明示してみていただきたいものである) であるから「法華を心得たる人」が「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像(自ら梵音声を発しない文字曼荼羅御本尊)に印す」=「開眼供養」することにより、はじめて、「全体生身の仏なり。草木成仏といへる」のである。 であるから大聖人以来の正統な血脈相伝を伝持する現日蓮正宗では、御導師席の前に「法華経」を安置し、この「三十一相の木絵の像に印す」「開眼供養」の義を表するのである。 以上の論証から、やはり、生身の仏=御本尊様となるには「開眼供養」が必要不可欠であり、沖浦君の言は全く「開眼供養」を否定することにならないことは明白である。 まっ、我見・我意でしかものが言えない沖浦君には少々難しく理解不能であろうが。 理解できないまま、沖浦君はまたぞろ繰りかえしのコピーか、人の言の陰にコソコソと隠れてしかものが言えない醜態を際限なく繰り返すでありましょう。 その三宝誹謗の悪果報で、正統な教義が理解できなくなったが、悔しさ人一倍の、ぶざまで滑稽な様子を眺めるのも、また一興である。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 88 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 7日(金)23時34分39秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter
5 沖浦言 ▼「梵音声を表現しようのない絵像・木像は言わば未完成であった。だから、そこへ他宗は観経とかを置いて開眼供養した。これが、当時の仏教界での必要不可欠な常識であったと推測する。仏法というものは常識を非常に大事にする。だから、大聖人もその”常識的所作”について、▼1「示同凡夫の立場」で、木像・絵像の前には、爾前教ではダメ。法華経を置かなくてはダメだよ。と言われたに過ぎない。(趣意)」 ↑実に浅薄そのものの 駄言 である。 1、沖浦君の浅薄さ その1 この主張の中で、▼「示同凡夫」という意義と語句は全く不適当・不適格な表現である。 我見・己義でしか仏法を知らず、真の意義も分からずに適当に何でも仏法用語を並べるからこのようなマヌケなドジを踏むのである。 2、沖浦君の浅薄さ その2 御文には↓こう仰せである。 ■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。 ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。 では、沖浦説では、大聖人様は、絵像・木像の、阿弥陀仏でも、大日如来でも、釈迦仏でも、何でも、その前に法華経を置いて「開眼供養」すれば、それらは全て草木成仏して、生身の純円の仏=末法の本仏・本尊 となる、とご教示されたということであるが、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。 初学の者が聞いても分かる道理である。 3、沖浦君の浅薄さ その3 沖浦君はここで、明白に「当時の仏教全般の常識として、必要不可欠な儀式として「開眼供養」した。」と言っているが、 @ ではその「開眼供養」とは一体どのような法義による、どのような作法だと言うのか。 A 次に沖浦君は「大聖人が、阿弥陀仏などの木絵二像を爾前教で開眼供養してはダメ。法華経により開眼供養しなければダメだ。と仰せになったのがこの御書。」と言っているが、 では、大聖人が勧められたという、”法華経による阿弥陀仏などの開眼供養” とは一体全体、具体的には、どのような化儀・作法なのか? 実に噴飯ものの 痴言 である。 このように己義・邪見の塊で、常に口からでまかせのいい加減な法螺を吹いている沖浦君には全く答えられまい。 沖浦君の痴言などかくも荒唐無稽の出鱈目のオンパレードである。 悔しかったら、正々堂々と教義的に反論して見せたまえ。 (まっ、天地が逆さまになっても無理だろうが。) さ、では、また悔し紛れに、教義的には全く触れられず、ただの遠吠えに終始するか? さもなくば他の謗法者たちに替わりに何か言ってもらって、自分は蔭でコソコソしているか? それとも捏造常習犯と化してまたウソをぶち上げるか? 因みに、創価学会員が、私へ、一体、いつ、誰が、正式な「法論」を申し込んだのか? 私にはそのような申し出は一切ない。 沖浦君、またもや教義的に反論不能の苦し紛れに、捏造かね。 しかし、実に見苦しい老醜の敗残者であることよ。 さ、沖浦君、立証していただきましょうか。 出来なければ、ここも正式に謝罪していただきましょう。 |
| 沖浦対樋田法論を検証する 89 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年 9月 8日(土)22時58分7秒 p2105-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp |
| Chapter
5 沖浦説 ▼「常識を仏法では非常に重要視する。 ■「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」等云云。智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能(よ)く能く心へて候を智者とは申すなり。 ■仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。 など 世間の常識を守りなさい、というところが数多く出てくる。」 ↑ここも、実に浅はかな 稚論 である。 1、■「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」との御文は、 一つの世間法を挙げるならば、実はその一つの世間法そのものが全部の仏法であり、仏法を挙げれば、それが一切の世間の姿であるという意義である。 決して▼「世間の常識を重要視せよ。」という浅薄な意味ではない。 2、■「智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能(よ)く能く心へて候を智者とは申すなり。」との御文は、 仏法を正しく体得した智者は、世間の営みの中において、正しい法を受持した徳を持って振舞っていくものであり、世間の営みを離れて(山林に閉じ篭りなどして)仏道修行などするものではない。 また、仏法に一切の世間法が包含せられているが故に、仏法においての智者とは、仕事にせよ、事業にせよ、国政にせよ、世の営みを安定させ、繁栄させていく道をよくよく心得ているものである。 との意義と拝するのである。 ここにも、決して▼「世間の常識を重要視せよ。」などという浅薄な意味はない。 3、■「仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。」との御文について。 これは、仏法の邪正が治世の根本であり、世間の一切の営みは、仏法の正邪の是非・善悪がそのまま反映するものである。 悪しき仏法が流布したり、人々が仏法を悪しく行じていれば、必ずその世間一切の事象は悪しく歪み、荒み、穢れるものである。 との意義と拝するのであって、ここにも▼「世間の常識を重要視せよ。」などという沖浦君の痴言の意味など微塵も存在しない。 4、その上で、留意しなくてはならないことは、 ■「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」 という御指南の通り、仏法を受持する我々は人間としての振る舞いにおいてもきちんとしていなくてはならない。人に対し、真の慈悲をもって接し、やさしく、温かく、また必要に応じて厳しく、さらに高い道徳心を持って、世間の人の範となるように努めるべきである。 その姿がそのまま仏道である。 そのような意味において、世間の法のなかに真実の道が存している、という意義と拝するのである。 5、では、沖浦君はどうか。 @ 教義的に明確に自身の主張ができない。愚かさ これに過ぎたるはなし。 A 自分が勝った事に何としても思っていたい。との勝他の念にとり憑かれ、 また、人にも勝ったと思ってもらいたい、との名聞名利の下劣心にも激しく囚われ、ひたすら執拗に無為な書き込みを繰り返したり、もはやまともな反論が出来ないので、同じ内容投稿を何度も際限なく貼り付ける。 B それでもまだ”俺が負けていると人に思われているんではないか???”との不安が拭えず、ウソでも何でもいいから捏造して、相手が不味い立場となっている状況を虚偽により作出するなどの、捏造常習犯。 しかも、その捏造のウソを指弾されると、頬被りをしてしらばっくれ、遁走。 C それでも悔しさに身を焦がし、幼稚な悪態を吐く。 D 自分では教義的に全く歯が立たないので、人の書き込みを転載してその蔭でコソコソする。 ・・・・・・ 一体、これが、 ■「常識を仏法では非常に重要視する。」と法論中に偉そうにのたまっていた人の”振る舞い”なのか? これは沖浦君が、長年の三宝誹謗による極悪果報によって、いかに言動不一致、支離滅裂、頭破作七分、精神の幼児化、下劣化、の臭怪な唾棄すべき人間に成り果てたかが、実に顕著である。 三宝誹謗の”優秀”な”生体実験例”が沖浦君の今の姿である。 現時また後世に、三宝誹謗の悪果報の醜さ、見苦しさ、浅ましさ、を伝えるよき”伝道者”である。 |
[投稿日時] 2007年 9月28日(金)15時54分54秒
[題名] 沖浦対樋田法論を検証する 92
[投稿者] 管理人(樋田 昌志) [メール]
power@toyoda.tv
Chapter
5
沖浦君、またもや我見の無理押し。報恩抄の一節を引き
「一切衆生の盲目を開く功徳 目を開く 開眼とはこういうことだと思う。(趣意)」
これもまた実に愚か極まりない駄論である。
これについては既にHP上で破折仕切ってあるので、ここに編集再掲する。
――――――――――――――――――――――――――
Re:
開眼ってなんでしょうね〜〜?
> 目を開く事ですね。
>
絶対条件として開かれるべき目を持っていないといけません。
>
>
『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、』(報恩抄)
>
>
大聖人様様はね、開眼をこの様に仰せです。
>
> 一切衆生の盲目を開くのだ。
>
そして、無間地獄への道をなんとしても塞いでしまう。
>
> 明快でしょう。
> 法華講さん方。
>
御書を素直に読みましょうね。
>
> 法主の開眼???
> 何ですか〜〜????
>
それは?????????
―――――――――――
余りの牽強付会にこちらが一瞬たじろいでしまうような主張である。
1、この「盲目」とは、末法弘通の教法の正体を知らない衆生の根本無明惑を表された御文と拝すのである。
その証明の為に、この段を引文させていただく。
■ 問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、何物ぞや。答へて云はく、
三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正
法なり。求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊
とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。
三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべ
し。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮
華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。(中略)日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。
通読すれば容易に領解できるところです。
この段の趣意は”末法弘通の正体は三大秘法であり、衆生の不幸の原因である根本の迷いの煩悩である根本無明惑を断破し、開かしむる功徳がある。衆生が無間地獄に堕ちる根本原因である無明を断尽するのであるから、無間地獄へ堕ちる道を塞ぐ事ができるのである。”
ということであり、「盲目」の「盲」とは迷い、「目」とは衆生本来の覚体、と言える。
つまり、あくまで「衆生の機」に約した表現である。
一方「開眼」とは、一念三千の悟りから開かれたところの原理によって、非情の草木を草木成仏為さしめ、以って生身の仏=本尊と為す。との意義ですから、「法体」に約した概念であり、表現である。
【傍証】
■所詮眼の一字は一念三千の法門なり。
この「衆生の機情に約した語」と、「法体に約した語」を混同・錯誤しているのが沖浦さんの主張である。
当該御文に戻ると、「三大秘法は衆生の根本無明惑を破り、開く(趣意)」であるが、その”三大秘法”といってもその本尊としての対境・法体は、まさか空中に浮かんでいる曖昧なものではなく、確たる存在物である訳である。
ここに示される、
■「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」という本尊=存在物 ということである。
「開眼」とはその「元草木である本尊=存在物 を草木成仏為さしめる。」ということである。
その意義関係は以下の如く
非情の草木
→本尊としての形状を形成
→法華を心得た智者による『開眼』
→草木成仏
→生身の仏=衆生の『盲目』をひらく真の力用を備えた御本尊
という構図になり、
「開眼」された御本尊(能開)によって衆生の「盲目」(所開)がひらかれる、
という能開・所開の関係になるのである。
この能開・所開には厳然たるけじめがあり、これを混同・錯乱してならない。
あくまでも能開の御本尊によって、所開の衆生の盲目が開かれるのであり、「開眼」とはこの能開の御本尊においての深義なのである。
沖浦君は、この能開の御本尊に関する深義と、所開である衆生の盲目とを混同・錯乱・悩乱しているだけのただの無知な老醜者である。
つまり沖浦君はこの能所の筋目が全く理解できていない、仏法の初門にすら到達していない、実に浅薄極まりない幼稚なただの謗法者ということである。