日昌上人惣檀方へ状、祖滅三百二十年、主師の要山盟約殊に僧分輸入ほ在来寺衆の悦ぶ所とならず種々

の紛情をも生じたりしが如し。左の文書は其一半の史実なるべきを以て且らく此に列す、総本山に在り



愚僧当山の堪忍成り難く候条々の事。

一、三箇年以前より衆中の心意悪口とも迷惑に御座候条退出致すべき覚悟に候事。

右、別して悪僧等やゝも(動)すれば野心をかまへ(構)僧檀 ふれ(触)まわり(廻)我等を濱出い

たし先上(主師)を招くべき存念顕然に侯、其の外何事を申し付け侯とも一返二返にてはきゝ(聞)申

されず侯、然りと雖も且は小事を大事に及ぼし当寺退転の儀迷惑なり、且は細(再)々貫首退転外聞(

内部のことが他人に知られること)如何に存じ侯故、今迄は堪忍仕り候へども事かさな(重)れば是非

に及ばず候。(当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない。どうしようもない。しか

たがない。やむを得ない)

一、然るべき御代官御中居御座無く侯はゞ何時も世出共に調ひ難く侯はん事。

右、衆中の口は過ぎ意は及ばざる故なり、口の過ぎと申すは惣じて万事の油断退転を貫首一人にかけて

悪口するが故なり、
意の及ばずとは万事闕如の事どもたすけ(助)すゝめ(勧)て精を入るゝ人一人もなき(無)が故なり


一、衆中毒心の事
一、諸番油断の事
−、不信懈怠の事

  以上

  慶長第第六年六月二日                   日昌在り判。

      大石寺惣檀方衆中参。

【考察】

何故、日主上人は付弟を要山から招聘したか?

1 大石寺門下に真の師弟相対した僧が居なかったからではないか。
2 戦国時代、政情不安定 強い庇護者が必要

主師→昌師 慶長元年(1596)豊臣秀吉最晩年

もし主師が承諾すれば、主師再登座となったであろうが、史実は違う。
つまり、この時の衆檀の行動は主師も認めておられなかった。ということである。
であるならば、この衆檀の行為・行動は主師にも背く行為である。