金原氏の主張
▼「日興跡条々事の弘安二年の大御本尊とは万年救護本尊」に反証す

�@「結論から言えば、筆者は、「草案」に見える「大本尊」との表記によって、これが保田妙本寺に伝来する通称、万年救護本尊ではないか、と推測している。
万年救護本尊は、宗祖御本尊中唯一、讃文に御自ら「大本尊」と記された御本尊」

�A「この御本尊に授与書きがないことも、文永十一年に御図顕されてから直ちに授与されたものでないことを物語っているように思われる。」

�B「日精自筆の残る「家中抄稿本零編」に、「日興跡条々事」を解説して次の如き記述を見る。」

�C「大石寺発行『富士年表』の弘安二年の項に、「日興に文永十一年十二月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う」(四五頁)としてあるのは、これら日精の記述に依ったものであろう。」

�D「当の大石寺においてさえ、「跡条々事」の「一所給弘安二年大御本尊」について、見解に揺れを残しているのである。」

日精上人の日蓮聖人年譜と家中抄の記述の相違について考察


該書【152頁】

引用

「日興跡条々事」が記す弘安二年に宗祖より日興が給わった御本尊とは如何なる御本尊であろうか。
※�@「結論から言えば、筆者は、「草案」に見える「大本尊」との表記によって、これが保田妙本寺に伝来する通称、万年救護本尊ではないか、と推測している。
万年救護本尊は、宗祖御本尊中唯一、讃文に御自ら「大本尊」と記された御本尊で、後に日目より蓮蔵坊を継承した日郷によって保田にもたらされた御本尊である。
日目滅後はその当初より日郷がこの御本尊を伝持したことは、康永三年(一三四四)四月十六日に、万年救護本尊の讃文を書写していること(正本宮崎定善寺蔵、『宮崎県史 史料編 中世』一五三四頁)や、文和二年の日郷筆になる「本尊聖教譲状」によって知られる。

> 安房国北郡吉浜村中谷二箇メ置キ奉ル本尊聖教ノ事
一、日蓮聖人御自筆本尊一鋪 文永十一年甲戌十二月日
(……)
文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判(富要八―七二)

右伝来の経緯から、日興より、日目を経て日郷に伝わったと思われ、日興が宗祖より賜ったのが弘安二年であった可能性は否定できない。
※�A「この御本尊に授与書きがないことも、文永十一年に御図顕されてから直ちに授与されたものでないことを物語っているように思われる。」

しかも、万年救護本尊を日興が賜ったとする伝承は、他ならぬ大石寺にあって、十八代日精の「家中抄日興伝」には、

> 此年(文永十一年)十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ(富要五―一四九)

とあり、また、

> 弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云うは是なり、日興より日目に付属して今房州に在り(富要五―一五四)

とある。

さらに、※�B「日精自筆の残る「家中抄稿本零編」に、「日興跡条々事」を解説して次の如き記述を見る。」

> 日興が身に宛て給る所等とは是
万年救護御本尊也、今在房州妙本寺也
御堂とは板本尊マシマス故也、墓所とは大聖人の御骨マシマス故也(研教六―三六一)

文中、「万年救護」「房州妙本寺」に抹消線を引き、それぞれ「板」「当山」に書き換えてあるが、堀日亨はこの末梢線の部分について

> 日享記 享云板ノ字は精師ニ似タレドモ当山ノ二字ハ全ク因師ナリ、また二所ノ消シ方精師ノ例ニアラズ、また師ニ万年救護ノ説アル事年譜ニハ弘安二年ニ□(※態=わざ)トカケタリ常在寺ニハ万年板本尊ヲ本堂ニ安シタリ(同六―三六一)

と補注して、抹消線加筆の改字が三十一世日因によるものであることを指摘し、万年救護本尊が弘安二年に日興に授与されたとの説は、日精元来の見解であること、それが「跡条々事」の「日興宛身所給弘安二年大御本尊」の文に依っていたことを伝えている。

※�C「大石寺発行『富士年表』の弘安二年の項に、「日興に文永十一年十二月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う」(四五頁)としてあるのは、これら日精の記述に依ったものであろう。」
つまり、※�D「当の大石寺においてさえ、「跡条々事」の「一所給弘安二年大御本尊」について、見解に揺れを残しているのである。」

小結

このように、「日興跡条々事」は、「草案」並びに「正本」を検討する限り、これに記された「大本尊」「大御本尊」が大石寺の「戒壇の板本尊」を示す根拠はなく、それどころか、本状の記述は「戒壇の板本尊」を示していないと判断されるのである。これは同時に、本状が日興真撰である可能性を高めたといえるのではあるまいか。 (引用以上)

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▼ ※�@「結論から言えば、筆者は、「草案」に見える「大本尊」との表記によって、これが保田妙本寺に伝来する通称、万年救護本尊ではないか、と推測している。
万年救護本尊は、宗祖御本尊中唯一、讃文に御自ら「大本尊」と記された御本尊」

氏はまず、主張の根拠として
日興跡条々事の草案にある「大本尊」との語が万年救護本尊にも同様にあり、それが他本尊にない特徴である。
と挙げる。

しかし、そもそも日興跡条々事の正本にも、「大御本尊」とあり、わざわざ草稿を持ち出す必要はない。
氏は、戒壇の大御本尊は弘安二年には存在しなかった、という独善的な断定から、弘安二年の大本尊=大御本尊とは戒壇の大御本尊以外の何か別の本尊と限定して考察しているが、当方は弘安二年時戒壇の大御本尊紙幅説を採っているので、氏が該書で指摘してきた全ての疑念は払拭されている。

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▼※�A「この御本尊に授与書きがないことも、文永十一年に御図顕されてから直ちに授与されたものでないことを物語っているように思われる。」

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文永十一年に日興上人に授与されていない。と主張しているが、それは氏が自ら引用した以下の文と矛盾している。

■ > 此年(文永十一年)十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ(富要五―一四九)

ここに明かに日精上人は家中抄に文永十一年に万年救護本尊を「日興に給う」と記しているのである。

また、日蓮聖人年譜にも
■(※文永十一年)十二月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ。  とある。
ここでも、明確に「文永十一年に日興上人」へ授与していると明記しているのである。

しかし同じ家中抄に

■> 弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云うは是なり、日興より日目に付属して今房州に在り(富要五―一五四)

とあるが、ここには日亨上人の頭注があり、

■ 万年救護の本尊は文永十一年なり。本師誤まる。

と記されている。
氏はこの日亨上人の注記を故意かそれとも勉強不足でか伏せているのである。
(これほど資料の精査に長けている御仁が日亨上人の頭注を見落とすとはおよそ考えられないからして、故意に伏せて自義を押し通したと考えられる)

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※�B 草稿(家中抄零編)について言えば、まず大前提として、正本こそが著者の真意であることは世の常識である。

その家中抄の正本にはこうある。

■ 日興が身に宛て給ふ所等とは是れ板御本尊の事なり今当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有る故なり、墓所とは大聖人の御骨まします故なり、(富要 5−189 日目伝)

日精上人の御真意はここに明確である。

ではなぜ草稿に一旦は「万年救護本尊」と書かれたのであろうか。

草稿(零編)

■ 日興が身に宛て給る所等とは是万年救護御本尊也、今在房州妙本寺也
御堂とは板本尊マシマス故也、墓所とは大聖人の御骨マシマス故也(研教六―三六一)

後段の、「御堂とは板本尊マシマス故也」とは、日興跡条々事の本文では

■ 一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ、日目之を管領し、、、

この箇所のことであるから、日興上人の最晩年の御堂のことを指し、そこには板御本尊が安置されていた。と記述されている。
と言うことは、草稿のまま文意を訳すと

「弘安二年に日興上人の身に宛て給わる所の大本尊とは万年救護御本尊のことである。それは今房州妙本寺にある。
そして、「御堂」というのは戒壇の大御本尊が安置されている所である。云々」

通常の伝統的な教義理解では、戒壇の大御本尊こそが弘安二年に日興上人の身に宛てて給わった大御本尊であるから、その文脈に万年救護御本尊が挿入されていれば、万年救護御本尊こそが日興上人の身に宛てて給わった御本尊という意味となって、教義的に破綻をきたす。
金原氏もまさにそういう解釈をして自義の裏づけとしている訳である。

しかし、唯授一人の血脈相承の法体として戒壇の大御本尊を御相承されている御当人の第十七世の日精上人にとっては、戒壇の大御本尊が根本の御本尊であることは余人の誰よりも知悉されているわけである。

その「戒壇の大御本尊が御堂に安置されている」と記して、日興跡条々事の次項の「日目上人が管領していく旨を示されている文」の意義を並べて挙げているということは、

�@ 戒壇の大御本尊の法体相承を、御堂に安置されているという現実の事相において示され、

さらに

�A 弘安二年に相伝されたという伝承のある万年救護御本尊 

この�@�Aを同時に同文に説き込められたのではあるまいか。

万年救護御本尊を「大本尊」と記されたのも、戒壇の「大御本尊」との選別の意を顕すためにあえて選ばれたのかもしれない。

しかし、後々熟慮推敲する中で、この草稿の表現では後人に誤解が生じる危険性を慮られて、正本の表現に直されたということではなかろうか。

事実後の時代にまさに金原氏のように、この草稿の文に蹴躓いて途方もないあらぬ方向へ暴走し迷論を述べる輩が現れた訳である。

さらに、日亨上人が以下のごとく指摘されているように、

■ 日享記 享云板ノ字は精師ニ似タレドモ当山ノ二字ハ全ク因師ナリ、また二所ノ消シ方精師ノ例ニアラズ、また師ニ万年救護ノ説アル事年譜ニハ弘安二年ニ□(※態=わざ)トカケタリ常在寺ニハ万年板本尊ヲ本堂ニ安シタリ(同六―三六一)
(因みに「年譜に」 と記されているが、「家中抄」の誤りである。
日亨上人の記述を100%絶対と過信する者もいるようだが、富要集の誤植もあり、日亨上人御自らにも多少の錯誤があられることも想定しておく必要はある。)

日精上人は草稿であるが故に放置されていたのを、後に日因上人が御覧になって正本に即して訂正された、ということではなかろうか。

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※�C 富士年表の「弘安二年」「日興に文永十一年十二月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う」(四五頁)としてあるのは、これら日精の記述に依ったものであろう。」

これも氏の特徴である、「独断が先行してあらゆる資料が自義に都合よく見えてくる」 という傾向を顕著に示している箇所。
弘安二年万年救護御本尊が日興上人へ授与されたという伝承が存在しており、それを日精上人は記述した。
それをそのまま年表に記録した。
ただそれだけのことである。

だからといって

�@ 弘安二年に大聖人が戒壇の大御本尊を御図顕し日興上人へ密付嘱 あるいは 親付 された。
�A 弘安二年のそれとは別時期に(あるいは同時期に)万年救護本尊は日興上人へ授与された。

この�@�Aの二つの史実は全く別の案件であって、双方の史実が存在していたとしても何ら矛盾は生じない。
むしろ金原氏が偏向した妄執つまり「戒壇の大御本尊は日禅師本尊を籠抜きして後に造立した」という前提で資料を見るから矛盾を感じてしまうだけである。

■ 所詮仏教に依って邪見を起こす。目の転ずる者、大山転ずと欲(おも)ふ。(寺泊御書 文永八年一〇月二二日 五〇歳 484)

まさにこの姿である。

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その上で日精上人の日蓮聖人年譜と家中抄の記述の相違について考察する。

■ (※文永十一年)十二月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ。(富要5−133)年譜
■ �@ 此年(※文永十一年)十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ (富要5−149) 家中抄
■ �A 弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是なり、日興より又日目に付属して今房州に在り、此西山に移り、うる故今は西山に在るなり、(富要5−154)
※日亨上人頭注 
★ 万年救護の本尊は文永十一年なり、本師誤る
★ 西山にありしは寸時なり、直に房州に返る
■ (※弘安二年に)日興が身に宛て給ふ所等とは是れ板御本尊の事なり今当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有る故なり、墓所とは大聖人の御骨まします故なり、(富要 5−189 日目伝)
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日精上人の家中抄の�@�Aの記述には確かに矛盾がある。
この矛盾はどう考えるか。

可能性 

1 �@と�Aの両方の伝承があった。
日精上人はその両義をそのまま書き留められた。
が故に、家中抄 草稿にも�Aの伝承を残されようとした。

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2 日精上人の記述自体にかなりの漏れ・史実でないことが書き加えられている事案・錯誤などが存在する。

参照

富要5−180 家中抄中

然るに祖師の伝不同なきには非ず、日順の血脈抄極略にして未だ窺ひ測りやすからず、
日時三師の伝(※頭注 三師ノ伝ハ道師ノ作ナリ 本師已ニ誤ル ※樋田 であるが、最近の研究では日時上人作の説もあり)はわづかに一二の行業をあげて未だ詳審ならず、
日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違ふ事あり、
亦富士五所の所伝にすこし差会あり。(※頭注 西山及ビ富士ノ諸伝今存在セズ)

 是れによって予、寛永庚辰の春、日瑤中陰のうち別に報謝の儀なく、此ノ三伝を集めて一巻として報恩謝徳の一分に擬したてまつりき。
其ノ後御筆本尊并に遺弟の書籍記文等を拝見するに、諸伝相違の事甚だ多く、亦諸書に載せざる行相亦幾許ぞや。
爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し、諸伝の善説には之に順じ、善ならざるは頗るために改め、易へ次第前後をたゞす。
猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し、或は国々門徒へ持参し、所伝の法門は住侶闕減に習ひ失ひ、唯見聞の及ぶ所、纔に之を記録して未だ精密ならざるなり。豈、ことごとく興師の道を尽すにいたらんや。
庶幾は所所散失の御筆并に本尊記文等、見聞にしたがつて之を記して其ノ缺を補ひ給はゞ、是レ吾がねがふ所なり。
時に寛文第二 玄黙摂提格 季冬十八日、武州江戸下谷常在蘭室に之を誌す。行年六十三 日精 在判

編者曰く、本山蔵正本再治本に依る。但し首ノ二丁缺失す。此等は各転写本にて補ふ、
正本猶誤脱多し、間々此を改むといへども強いて悉くに及ばず、
又説、正史料に背くものは止を得ず天註に批訂する所あり、
先師に対して恐れありと云へども却つて是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり、
但し中下巻には此事を贅せず、
又本書は漢文態あり、仮字交りあり、其ノ漢文も擬態なれば易読の為に延べ書にす、中下巻亦同じ。
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【本文の現代語訳】

しかし、祖師の伝記には異同がないわけではない。
日順の『血脈抄』は極めて簡略で、その内容を十分にうかがい知ることが難しい。
また、日時上人の三師の伝記も、わずかに一、二の御事績を挙げるだけで、まだ詳細で行き届いたものではない。
日辰の祖師伝は、多くの場合、西山に伝わる説を記しており、御筆の記述と食い違うところがある。
また、富士五所に伝わる内容にも、多少の相違がある。

こうした折、私は寛永十七年(一六四〇)の春(※AIが干支で算出)、日瑤の中陰の期間(日瑤が亡くなって四十九日までの期間)に、ほかに報恩感謝の気持ちを表すこともできなかったので、この三つの伝記を集めて一巻にまとめ、御恩に報い、御徳に感謝する営みの一端にしようと献上した。
その後、御筆の御本尊や、弟子たちの書籍・記録などを拝見すると、諸伝の記述が食い違う事柄が非常に多く、また、どの書物にも載っていない御事績も数多くあることが分かった。
そこで今回、御筆を第一の根拠とし、弟子たちの記録のうち採用すべきものを書き留めた。
諸伝のうち適切な説には従い、適切でないものは必要に応じて改め、記述の順序や前後関係を正した。
それでも残念なことに、御筆や記録の多くは天下の大乱によって散逸し、あるものは各地の門徒のもとへ持ち運ばれている。
また、伝えられてきた法門も、寺に住む僧侶が不在になったり減少したりするにつれて、伝承が失われてしまった。
そのため、私が見聞きできた範囲を、わずかに記録したにすぎず、まだ十分に精密なものではない。
どうして、これだけで日興上人の道を余すところなく明らかにできたといえようか。
願わくは、散逸した御筆や、御本尊に関する記録などを見聞きした方々には、それを書き留め、本書の不足を補っていただきたい。それが私の願いである。
寛文二年(一六六二)壬寅、十二月十八日、武蔵国江戸下谷の常在の蘭室において、これを記す。六十三歳、日精。署判あり。

〈編者日亨上人の説明〉

本山に所蔵されている、改訂を施した正本に基づいた。
ただし、冒頭の二丁が失われているため、その部分は各種の写本によって補った。
正本にもなお誤字や脱字が多く、ところどころ訂正したが、無理にすべてを直そうとはしなかった。
また、その説に正確な史料と食い違うものがある場合には、やむを得ず、上部の注で批評・訂正を加えたところがある。
先師に対して恐れ多いことではある。
しかし、これはかえって、本師が跋文で述べられた趣旨にかなうことであり、亡き先師からも必ず御承諾をいただけるものと考える。
ただし、中巻・下巻では、この説明を繰り返さない。
また、本書には漢文調の文章と仮名交じりの文章がある。
その漢文も漢文の形式にならった文章なので、読みやすくするため、書き下した形にした。
中巻・下巻も同様である。

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その上、
『家中抄』は一度に書き上げられた著作ではない。
現在確認されている成立事情では、
草稿本は明暦3年(1657)、
上巻は寛文2年(1662)に成立し、
その後も中巻等には加筆・再治の過程がある。
最近の史料調査でも、『家中抄』には草稿・正本・写本という複雑な伝存過程があったことが確認されている。

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日精上人は史実を精査せずにあらゆる伝承をそのまままとめて書き残されていた傾向がある。
それが後に日亨上人の厳しい史料批判に繋がっている。

また日精上人が家中抄や年譜のまず草稿を書かれ、それが後に正本・再治・写本と繰り返されていく過程で、�@と�Aのような矛盾する記述として現在の形にまとまってしまった可能性もある。

が故に、「弘安二年 万年救護御本尊が日興上人へ授与」という伝承自体、確証のないものであった可能性も排除できない。

�Aに記述に対して、日亨上人の頭注となったのかもしれない。

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1、2の可能性も考察しつつ総括的にいえることは、万年救護本尊が弘安二年に日興上人へ授与されたという伝承があり、それを家中抄に採用された。
しかして富士年表はその家中抄の記述を一往そのまま採用しただけ。

いずれにせよ、金原氏が力説する「弘安二年に日興上人へ授与された本尊が万年救護本尊「のみ」である」ということを証明する文献も伝承もない。
ただ氏がそう強執しているだけのことである。

よって、※�D「当の大石寺においてさえ、「跡条々事」の「一所給弘安二年大御本尊」について、見解に揺れを残しているのである。」
との指摘は全くの的外れである。