Top / 教義的資料  / 日興跡条条事に対しての邪難を破す 


日蓮正宗史の研究

日 興 跡 条 々 事    高橋粛道師  (※読み易さの便のため、行替え、句読点、「」、他文献へのリンク、視覚的な編集をなどを加えた。樋田)


 『日興跡条々事』は日興上人から日目上人への付嘱状であり、大御本尊の御名の記された最初の文献として大石門流にとっては二箇相承と並んで重要な書である。
 現在、総本山には『日興跡条々事』の案文(以下草案という。線が引かれて訂正されたり、書き加えられている下書きである)と正本(下書きを清書したもの)の二本共に現存し、春の御虫払い会の砌に公開される。
このうち正本は『日興上人全集』(※興風談所 発行)などに写真が掲載されていて眼福を得られるが、草案は法会に拝せるのみで写真などでは一度も公開されたことがない。
 『日興跡条々事』に関しては他門からさまざまに批判をされてきたが、その原因の一つに非公開の為に生じた誤解がなかったとは言い切れない。
いつの時代かには全面公開されることと思うが、今はその時でないようである。
しかし正本は非公式ながら公開されているのだから、古文書学などからの接近は可能である。
要は大石寺でいう正本が日興上人筆か否かであり、その事が確かめられるところまで来ているのである。

 私は先に宗門の古文書解読の専門家某師に草案と正本が同筆のものか、更には二書とも日興上人の正筆かの文献調査依頼した。
師は長期に亘る綿密な調査の結果、二書ともに日興上人筆であることを断じられた。
その研究成果は富士学林図書館に収められている。
私自身真贋の比較研究が出来ていないので某師の判定をもとに論述する。

 筆跡の上から草案・正本ともに興師筆と認められた以上、どのような巧みな文を作り上げたとしても真実には勝てるものではない。
それでもなお且つ疑義を懐く人の為に答えていくことにした。

 元日蓮正宗に籍があつた、現在正信会の研究グループによれば、

▼ 本状には置状・譲状としては年号のないことや全体の筆使いから、日興上人筆には疑義が提出されている。(日興上人全集一三〇)

と、積極的ではないが、偽作説に同意している。
正信会の研究グループの研究傾向として、彼等は公平中立の立場というかもしれないが、富士の伝統教義に異を唱えるようになってきている。
正信会の中には、一部であろうが、そういう学問態度は正信会をますます異流義化させる、と警鐘を打つ人もいる。
正信会は富士の清流を守るというが、部外者にはその守るべき実体が見えてこない。
『日興跡条々事』を正筆と立証することも清流を守ることになるのではなかろうか。

 さて、戦後最大の偽作論は日蓮宗宗務院発行の『創価学会批判』の書である。
それによれば

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第一条について

▼ 日目が閻浮の座主と定められたならば、座主が半分しか領しないと云う事があらうか。一国の大王にしてその半分しか領有しない国王がどこにあるか。(五〇)

と記しているが、松本氏はこのような悪口を言うのは

●「中世の習慣を知らないからで」(富士門徒の沿革と教義六〇)、

その実例を、吾妻鑑にあると引用し、一人が半分を領有するのは

●「如何にも鎌倉時代の風を良く見せてゐる事に著目すべきだ」

と述べられている。

つまり、これは歴史を知らぬ者の批判にすぎない、といえる。

 また、『創価学会批判』には、

▼ この時に本門寺建立を予期し全世界の帰状を当然のこととして日目の生存中に半分の山寺を与へろと云ふやうな事態を興師が考へるとすれば興師は余程老耄してゐると云はねばならぬが師にそんな事があらうとは到底考へられぬ。(五〇)

と記している。

仮に後世の人が偽書を作ったとするなら、もっとわかり易く作ったはずであり、このような高度な文を誰が作れるであろうか。

 『日興跡条々事』第一条の

■「本門寺建立之時新田卿阿闍梨日目為座主」

の文は、日目上人が天奏することで必ず天皇の庇護のもとに大本門寺が建立されるという、日興上人の思いが込められている。
特に鎌倉末期になると天皇が親政を執る可能性が見えてきたので、弘安五年に下賜された『御下文』が現実のものとなれば国主の帰依を得、本門寺建立も夢ではなく現実味を帯びてくる。
日目上人が、七十四歳の高齢で、躁(くるぶし)を痛めながらも代理を立てず自ら京都に足を運ばれたのも『御下文』の確実な返答を求めるものであった。
日興上人はこのことに期待を寄せ、「「日目の天奏」によって必ず国主が帰依するはずだ」という希望と確信のようなものがあった。
その時は日目上人の生存中であり、当時の家督の分配方式に倣って「半々にせよ」と記されたと思う。
宗門において本門寺建立の可能性と熱意が高まったのは一度だけで、その時が日興上人最晩年である。@

 後世、本門寺思想が遠い理想の存在になってしまった時に、家督の分配などどうでもいいことではないか。
何故に日目上人の名を借りてこのような文を作る必要があろうか。
これはどう考えても、日目上人に広宣流布を期待し、それを実現してくれると信じた、日興上人の御遺状であろう。

国主帰依は三類の強敵と戦われた宗祖の理想であり、それが可能に近づいたやに思われた日興上人の、日目上人に与えた広布後の官領権の指示である。
日目上人に期待を寄せられた日興上人の御心中が理解されよう。


 次に、

▼『日代等付属状』は「正本もなく真書でない」(批判有二)が、この書にあるように、東国を日目上人に、西国を日華・日仙に、北陸道を日満に付属した分譲の形態こそ真実性があるから、第一状は認められない

との主張である。

 富士門流の中にも、あえて言えばそれぞれの受け持ちの布教地があったであろうが、それは教線拡張の上での担当のことであり、第一条の本門寺建立後の管領権のこととは次元が異なる。
地方の小師を束ねるのが大師の役であり、その辺を混同しているようである。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第二条は宗門に伝わる大御本尊を日目上人に授与するという明確な意味であるが、日蓮宗は次のごとく否定する。

▼ もし弘安二年の本尊があったとしてもそれは日代に譲られたもので日目に譲られるはづはない。
  事実大石寺にも弘安二年の本尊が現存してゐない点から考へて最初からなかったのではないか。
  なかったのを石門の権威をつくる為に日代に譲られたかも知れない本尊を日目に譲られたかの如くに「条々」に記載したのであろう。(中略)
  興師に与へられた本尊が一鋪しかなく、それが日代に与へられた事は石山の権威を失ふことであり、到底これに耐へられぬ所からどうしても日興宛本尊を事実上石山門徒の初祖である日目に授与された如く仮装してせめて条目だけを作り添へ本書は紛失したかの如くよそほったものと考へられる。
而して後世になって板本尊を作り出すことになるのである。(中略)
随って少数の開山直授の本尊の在否は大石寺にとって重大な権威の問題であると考える理由もわかり、それを所有する為には偽物を作っても致し方ない心情も推察出来るわけである。(中略)
生存中に半分を与へろと云ひながらこの条ではせいぜい大石寺の管領をして広宣流布を待てと云ふのは本条々いささか矛盾してゐるやうに見られる (五二〜五四)。

 
▼「大石寺に弘安二年の本尊は最初からなかったのではないか」と言うが、これは誤りである。
願主は 「弥四郎国重法華講衆」 であるが与えられたのは日興上人である。
詳しくは別の機会に譲るとして、日道上人の『御伝土代』には、

■ さてあつわら(熱原)の法花宗二人ハくひ(首)をきられおハんぬ。その時大聖人御かん(感)あつて日興上人と御本尊にあそはす。(歴全一−二六六)

とあり、この御本尊は大石寺の大御本尊のことである。

 ところで、日蓮宗の誤りは『日代置文』を興師正筆と考えたことである。長文だが引用しよう。

▼「正中二年十一月十二日ノ夜、於テ(二)日蓮聖人御影堂ニ(一)日興ニ所(レ)給之御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、並日興カ影像一l鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱被(二)盗取(一)畢ヌ。
日興帰寂之後、若シ弟子分ノ中ニ、号シテ(二)相続人ト(一)令ル(レ)出サ之輩者(ハ)、可キ(レ)為ル(二)門徒ノ怨敵大誘法不孝之者(一)也。
於テハ(二)謗法ノ罪ニ(一)者、可シ(レ)蒙ル(二)釈迦多宝十方三世諸仏日蓮聖人ノ御罰ヲ(一)。於テハ(二)盗人ノ科ニ(一)者、為シテ(二)御沙汰ト(一)可シ(レ)仰ク(二)上裁ヲ(一)。
若シ出来ル時ハ者、日代闍梨相(二)続シテ之ヲ(一)、可シ(レ)為ス(二)本門寺ノ重宝ト(一)、仍テ為メ(二)門徒存知ノ置状如(レ)件。
正中二年十一月十三日」  (宗全二−一三六)

重須から重宝が盗まれたことは『日順阿血脈』に

●「嘉暦第一の暮秋には嶮難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ」(富要二−二三)

とあることから事実であろうが、日代門流はここからヒントを得て、この『日代置状』Aを偽作したと考えられる。

天正九年、西山日春が合法的に重須から重宝を奪い取ろうとした史実があるが、かつてはこういうことを平気でする門流であったから、嘉暦元年の盗難も西山門徒がからんでいることは想像できる。
一応、盗人を門徒の怨敵・大謗法・不孝の者と批判し、宗祖の御罰を受けるといい、最後には、日代が相続せよと落度なくおさめている。
非常に作意の感じられる書である。
西山は重須に非常に恨みをもち、本来、重須の重宝は全て西山のもの、という意識が強いから、おそらく西山門徒が盗難に一枚加わっているであろうと思う。
『宗祖御遷化記録』が西山にあるのは、この置状をもって正統化しようとしたにちがいない。

 『日代置状』が偽作であるなら、『置状』にある

▼「日興に給わる所の御筆本尊」

という表現も疑ってみる必要もある。

日蓮宗は『日代置状』の

▼「日興に給わる所の御筆本尊」



『日興跡条々事』の

■「日蓮が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」

とを同一のものとした上で推論したのである。
その結果、

▼「弘安二年の本尊は日代に譲られたものである」

とか、

▼「日目に与えられた本尊がないから条目だけを作り、のちに板本尊を作り出した」

と言うのである。

けれども偽書を真書とみての推論であるから全くの見当違いである。

蛇足だが、盗難は重須の事件であり、大石寺とは無関係であるのに混同しているのではないか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 第三条は大石寺と墓所の付属である。
日蓮宗は、

▼ 生存中に半分を与ヘろと云ひながらこの条ではせいぜい大石寺の管領をして広宣流布を待てと云ふのは本条々いささか矛盾してゐるやうに見られる。(五四)

と批判している。

第一条は国主帰依が疑いないと思われての指示であり、第三条は根本道場の付属と墓所の付属であり、少しも矛盾するものでない。
広宣流布に確信をもちながら、今はまだ国主帰依がなされていない、未到達時の指示である。
特に墓所に関しては身延山での五老僧の振舞いを思い起こされての記述であろう。

 次に墓所について日蓮宗では、

▼ もし墓所が日蓮聖人の御骨を埋葬した所であるとすれば本条々はこれだけで偽書たる明証を述べることとなる。
何故ならば興師は絶対に聖人の御墓を曝いて遺骨を収取して持って帰るやうなことはしてゐないからである。
聖人の遺骨を持って帰ったなどとは、興門上古の人でも云はぬ所で (中略) 五人所破抄でさへも御骨をもって帰ったなどとは云はず、却って身延が御真骨所在地だと云ってゐる位である (中略)本条々に云ふ墓所が石門徒の云ふ如く聖人御遺骨を葬った墓所であると云ふならばこれのみでも偽作であると断定することが出来る。(五五〜五六)

と記している。

 確かに『富士一跡門徒存知事』 (新編御喜一八六八) や 『五人所破抄』 (新編御書一八八〇)、『日順雑集』 (富要二−九四) によれば、
「砕身の舎利(御遺骨)によらず、全身の舎利 (法身)によるべきこと」を説かれ、身延の墓参を禁じられている。
その意味では第三条に見られる墓所とは全身の舎利を指す、と言うべきが正しい見解かもしれない。

 ただし、御真骨が身延山にありや、大石寺にありや、ということに論点を絞って考えると、謗法充満し、再び身延山が清涼地に戻らないとみて下山された日興上人が御遺骨を捧持せず、身延の廟に安置したまま下山されたとは信仰上考えられないのである。
弟子としてそういう事はできないことだと思う。
御遺骨は当時の状況から、埋葬されていたのでなく安置されていたようであるから、移動することが不敬になるとは思われない。B

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 最後に年号についてであるが、日蓮宗は、

▼ この譲状には年号が入ってゐない。但に『十一月十日』とのみあるだけで、これでは譲状の完全な効力は発生すると云ふことは出来ぬ。
こうした文書は当座のみならず後代に至るまでの証拠となるものであるから年月日のない、或は月日だけのものはいつそれが書かれたものか、或はたとへ月日の記入があっても如何なる年号の何年にかかれたものであるか判明しないやうでは何の役にもたたぬわけである。(五六)

と批判している。

これに対し、松本氏は

●「譲状は本堂の内陣に隠れて読み難い本尊脇書と異なり、政府の官人に見せることもあるものだから、政治上の配慮から年号を書かれなかったものだらう」
●「譲状は証拠として政府に提出する場合が予想されるものだから、消息文の例に従って年号を欠くこともやむを得ない」
●「日目譲状が偽作とすれば偽作者は年号を外すやうなことはせぬ筈、若し年号を入れる事さへ知らぬやうな者なら、外にも幼い誤をしてゐたであらう」(富士門徒
の沿革と教義六六〜八)

と答えている。

当時の状況として、大石寺は南条家有縁の日目上人によって長い間管理されていたことは周知の事実であり、あえて年号にこだわる必要がなかったのであろう。
置状がなければ主導権争いが起こるというような状況ではなかったのである。

また、松本氏が指摘されたように、南朝の年号にすべきか、北朝の年号にすべきか、政治的配慮から年号を省略されたかもしれない。
偽書を作るぐらいの人なら年号を省略するような失態を残すはずがないから、年号がないの不必要と判断したか、何か書けない理由があってのことであろう。

===========================



ところで、この論文の完成間近な頃、保田妙本寺の鎌倉修郷師著の▼「『日興跡条々事』の誤写を糾す」と題した論文を見る機会を得た。
跡条々事の特に第二条にさまざまな写本があり、どれが正しいのか迷わせてしまう。鎌倉師は比較的好意をもって書いているが、他門の人は辛辣な批判を加えている。
いつまで放置できない問題なので一個人の意見を述べることにした。


A、一、本門寺建立之時新田卿阿閣梨日目為座主於日本国乃至一閻浮提之内山寺等半分者日目為嫡子分可令管領所残半分自余大衆等可領掌之
一、日興宛身所給弘安二年大御本尊並御下文日目授与之
一、大石寺者云御堂云墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也
 右日目十五之歳値日興信法華以来至于七十三歳老体敢無達矢之儀十七之歳詣日蓮聖人所甲州身延山御在生七年之間常随給仕御遷化之後自弘安八年至元徳二年五十年之間奏問之功依異他如此所書置也  仍為後証状如件
十一月十日 日興花押 (正本C) ※添加・削除される前の正本

B、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉懸本門寺
 元徳四年三月 日興花押 (祖師伝)

C、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之

 元徳四年三月十二日 日興花押 (家中抄)

D、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之
 仍為後証状如件
 元徳二年十一月十日 日興花押 (十九世日舜上人第二番目弟子円明日□) (多宝蔵)

E、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之可奉掛本門寺
 仍為後証状如件
 元徳二年十一月十日 日興花押 (明細誌)

F、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之
 仍為後証状如件
 十一月十日 (法之道)

G、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉懸本門寺 (聖典昭和二七年刊)

H、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊並御下文日目授与之 (聖典昭和三六年刊)

T、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉懸本門寺 (聖典昭和五三年刊)

J、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊弘安五年(ニ月廿九日)D御下文日目授与之 (富要八巻)

K、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之可奉懸本門寺 (法主全書一巻)

L、一、日興充身所給弘安二年大御本尊日目□□□□授与之 (宗全二巻)

M、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉懸本門寺 (両上人伝)

N、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉懸本門寺 (新編御書)

論文中に引用されたもの

0、一、日興宛身所給弘安二年大本尊日目授与之可奉掛本門寺 (撰時抄文段)

P、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉掛本門寺 (物語佳跡)

Q、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊日目相伝之可奉掛本門寺 (日量上人御開帳法門略記)

削り取られたもの

R、一、日興宛身所給弘安二年大御本尊ロロロロ(並御下文)日目授与之 E


現在、写真で正本の第二条を見ると

「日興充身所給弘安二年大御本尊日目□□□□相伝之可奉懸本門寺」

となっている。

草案(下書) を清書したのが正本なら正本に欠字があってはならないし「相伝」の二字が重ね書きしたようにも見える。

その上、堀上人は、

● 「掛ケ奉ルノ文字本文二無シ、四百余年漫二此誤ヲ伝フ、悲ムベシ」 (富要一−一九四の頭注)

と、正本にはじめは

■「可奉掛本門寺」 

の六文字はなかったと指摘され、四百余年の誤伝を悲しむべきであるといわれている。

また、四字分ほどの欠字は写真では空白にしか見えないが、実は削り取られたという。
堀上人は

●「□凡四字者、後人、故意ニ(二)損シ之ヲ(一)、而「授与」下ハ、以テ(二)他筆ヲ(一)加フ(二)「相伝之可奉懸本門寺」ノ九字ヲ(一)」 (宗全二−1三四の頭注)

と記されている。

どういうことかと言えば四字分と「授与」を削り取って、「授与」 の変わりに「相伝」をあて、「可奉掛本門寺」を新加したのである。
四字分の空白には何がしたためてあったのか、同本の堀上人の手沢本には、

● □□□□ハ草本 「並弘安五年二月廿九日御下文日興一期之後」 トアルニ考フヘシ。

と記されている。

手沢本には具体的な文字を挙げられていないが、私は「並御下文」の四文字があったと推測している。
もし二行書きであったとすれば「弘安五年御下文」が二行に書かれていたはずである。
二行書きは可能性として考えられるだけで、やはり「並御下文」とあつたと思う。

このことからすれば昭和三十六年刊の『日蓮正宗聖典』(H)が正本の原形を示していることになろう。

J は二行書きの場合であり、(二月廿九日)は堀上人の私注であり、原本にないことを顕わしている。
L は□□□□を大御本尊の下に入れなければならない。
G・T・K・M・Nは原本の形を示さず書き改められた本である。

少しく分類してみる。

 相伝 B・G・T・M・N・P・Q

 授与 A・C・D・E・F・H・J・K・L・0・R

 可奉懸 (掛) 本門寺 B・E・G・T・K・M・N・0・P・Q

 仍為後証状如件
  有 A・D・E・F
  無 B・C

 日辰が写した案文は、所謂大石寺の草案とは異なるもので、大納言は草案・正本共日辰に見せていない。
大石門流ではこのような重書を他門に見せないのが伝統であり、日辰は御正筆を見せてもらえなかった。
日辰の言う案文は御正筆でなくその写本ということである。
けれども日精上人は日辰本を写しておらず、内容といい、日付といい異なったものを書写されている。
このことからすると大石寺には何本かの異本が存在していたことを窺わせる。

 先に跡条々事の第二条はもともとはAやHの如くであつたと述べたが、上古に 「御下文」 を紛失したためにその責任を痛感してか、四字ほど文を削って 

「日興宛身所給弘安二年大御本尊日目授与之」

とした。

これを写したのが日精上人の家中抄である。

ところが「授与」の箇処を削り、「相伝」と書き改めた上で、更に「可奉懸本門寺」を付加した文を作った。
相伝書に筆を入れたことで 「仍為後証状如件」 の文は加えることが出来なかったにちがいない。
これを写したのが日辰の祖師伝である。(後には七字が加えられるようになった)。

 このように考えられるなら、異本の『日興跡条々事』は「御下文」を削除した本と、「可奉懸本門寺」を加筆したもの、「仍為後証状如件」 の七字があるもの、ないもの、合わせて四系統に分類出来ると考える。

ただ E や K のように、特に E の場合、「授与」とあり乍ら「可奉掛本門寺」とあるのを見ると、「授与」という語句は「可奉掛本門寺」が付加され、しばらくたってから 「相伝」 と書き改められたことを示しているようである。

この E を入れると五系統に分類できる。

なぜこのように多くの異本ができたのか不可解であるが、その原因は正本が表装もされず流布本に押されぎみだったからではなかろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 次に日付について考える。

大石寺に蔵する日興上人正筆の草案には年号月日もないが、正本には十一月十日と記されている。
明治以降の出版物は全て十一月十日となつており、漸く A が正本として面目を表したのであろう。

本文を見ると数本の異本になるが、それでも一つの系統から流伝して変化する過程が見えた。
がしかし、年号月日にっいてはいささか不可解である。
年号からすれば四種の写本に分けられるが、なぜこのようなことが起きたのであろうか。

考えられることは、正本が当時日興上人の花押がありながらも長く非公開であったから、流布本のほうが正本を書写したものと広く考えられていたからではないか。
それと草案には年号月日がないことから、何かの理由づけで元徳四年三月とした本が作られたのではなかろうか。

日精上人も年号日付は十一月十日とする正本によらず、元徳四年三月十二日とされるぐらいだから、日付に関しては正本よりほかに写本が重んじられていたのかもしれない。
しかし、本文は日辰本によらず、正本と同じ内容になつている。(ただ日精上人の時代には削除された後だから「並御下文」の文字はない)。
十二日という日付は日精上人が御自身で付加されたと思う。そういう写本はなかったのではないか。

 元徳二年十一月十日の『円明本』や『大石寺明細誌』は元来十一月十日とのみあったものに対し、他宗からの批判にそなえ、本文の内容から判断して元徳二年を加えたものであろう。
個人の私見を付加されたのであって円明房が元徳二年十一月十日付の異本を書写したということではないかもしれない。
しかし、考え方としては円明本の日付をもつ本が広まっていた可能性があり、円明房はその本を書写したというのが正しいかも知れない。

 また、元徳四年の付加は堀上人・日淳上人・日達上人の説でもあり、もとからこの年号月日をもつ異本があったと言うことではないが、日辰説のながれを受けている。
 この推測が成立するとすれば年号から見た異本は、あえて言えば正本 (無年号) と日辰の見た大納言将来本の二つに分けることができる。

 いずれにしても、『日興跡条々事』は内容といい日興上人の御正筆であることにいささかの疑いもない。

====================

    注


@ 三位日順の時に重須に小規模の本門寺が建てられたが、国主の帰依とは無関係に建てられ、日興上人の御構想とは全く違質のものであった。
重須が自門の優位を顕示する為に建立したにすぎない。

A 本書の 『「日代八通譲状」 の偽作論』に詳しく偽作説を述べている。

B 一説には分骨したとする文献もある。その意味で第三条の墓所とは御遺骨のある正墓との考えにも納得出来るのである。

C 正本とは削除して訂正したり、付加される以前の原本を言う。歴代法主全書なども正しい記述になっていないから H のようにすべきであろう。

D 富士宗学要集八巻一八頁には五月とあるが二月の誤植である。

E 以上が私の知り得た資料である。
恐らく多宝蔵には更に多くの記録書(古文書)が保存されていると思うが、現資料だけでも資料不足とも思えないので私の蒐輯した文献をもとに論考することにした。



Top / 教義的資料  / 日興跡条条事に対しての邪難を破す