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日亨上人の 日興跡条条事 に関する見解


冨士日興上人詳伝 文庫版 161〜

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【正文書】  日興が跡条々の事    

 ○、一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日日に之を授与す。

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 大石寺所蔵の日興上人御正筆の目師への御譲り状のなかの一文である(富士宗学要集第八巻史料類聚@・一八)。
ここでは、御下し文すなわち園城寺申状についての官辺の文書を宗大事として付属せられた史料として、これを引用するが、在来の目師への御譲り状の御文は、中世よりの誤読を、そのまま襲用しておる。すなわち、

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【伝説史料】  祖師伝日目伝 日辰(富士宗学要集第五巻宗史部@・三一)

 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉る可し。

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【伝説史料】 家中抄・日目伝 日精(富士宗学要集第五巻宗史部@・一八八)

 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目に之れを授与す。

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【伝説史料】 大石寺明細誌 日量(富士宗学要集第五巻宗史部@・三二七)

 一、日興が身に宛て給る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す、本門寺に掛奉るべきなり。

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 この三伝ともに「弘安五年御下文」の文を欠いておる。
もっとも辰師は、西山、北山の両本門寺には、長時きたり、おりしも大石寺には時の貫主日院上人と交渉不成立のためか、一回もきたらず、本文のごときも
● 「大石寺の使僧・大納言(交名)の将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て書写せしめ畢んぬ」 と付記しておる。

 むろん、本書ではなく、写しであったろうで他の現文にも相違がある。

このの永禄二年にすでに、写誤せられて 「弘安五年」 等の文がなく、かえって 「可奉懸本門寺」 の文が行末に加わっておるのみならず、「授与」が「相伝」と誤れておる。

家中抄のは「授与」は正本のとおりで遺憾にも「弘安五年」等が省かれており、
明細誌のは同じく「授与」は正本どおりであるが、前二本とともに「弘安五年」等を省いてあり、祖師伝のごとく「可掛本門寺」が加わっておるが、「懸」字が「掛」字と変じてある。

いまこれらを案ずるに、「御下文」および「御影」等が大石寺を去りて、後の当事の仁の計らいとしてわざと写誤せしめたのが、日辰記の永録以前であって、その後の人は「跡粂々事」の譲り状を正確に見きわめず、みだりに記録によってのみ伝えたものであろう。

精師も多分に漏れずの辺もあろうが、「授与」をその正本どおりに、「可奉懸」等を加えざりしことは、いまより感謝せねばならぬ。
一度誤りて万年にわずらいを残すことは、残念千万ながら、一向の謹信の上から、強いてとがむべきでないかもしれぬ。

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【正文書】 日興上人御遺跡の事(富士宗学要集第八巻史料類衆@・一八)

 日蓮聖人御影並に御下し文園城寺申状。上野六人老僧の方巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此の条日興上の仰に依って支配し奉る事此の如し、此の旨に背き異議を成し失たらん輩は永く大謗法たるべきなり、

  誠めの状件の如し。

  正慶二年癸酉二月十三日  日善在り判 日仙在り判 日目在り判

※注 日興上人御入滅(2月7日) 直後

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 正本二通大石寺にあるが、この中の「巡」の字を、正本がいまの字画のとおりなるにかかわらず、精師が「迄」と誤読(富士宗学要集第五巻宗史部@・一九〇)せられてより以来、今日までも誤りを伝えており、愚僧すら宗学要集に漫然、誤りを伝えたのほ汗顔である。
ひとり房山の慶長度の切紙相承の中に「巡」と正読せられてあるばかりである。

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【参考史料l】  日蓮聖人の御影並に御下し文、又薗城寺申状の事(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集二八八、富士宗学要集第八巻史料類聚@・一六七)

  此の三の重宝は故上の御遺言に依り上野老僧日目、日仙、日善三人、大石寺に於て三十日を十日番に守護し奉る処、日目は古上の置状に違背し、日仙は天日一同の義なり、仍て日善一人許さるべき由、衆檀評定し了ぬ、其後、日善の計ひとして上野の惣領南条五郎左衛門尉に之を預け置き畢ぬ、其の預り状、歴然なり、之に依て日蓮聖人御影像計り之を取り了ぬ、絶工の重宝は時長取り籠めて之を出さず、今国方(くにかた)沙汰に及び残らず之を取り、本門寺の重宝たるべきなり、仍て存知の為に置き状件の如し。
   延文元年十月七日                   日助 在り判

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 西山本門寺中古の写本によるが、文面不可解の点多々なれども、みだりに放置すべき文献にあらず、大いに宗史に参校に供すべく検討を要するが、いまは単に「御下し
文」および「薗城寺申状」を重宝として扱いたる例証に引くのみである。

ただし「目師が興師の置状に違背す」とは、いずれの置状または何の文なりや。
二月(三師誠状)より、十月の西上(天奏のため ※目師御遷化)まではようやく八か月の短期であり、
仙師が二品読誦問題で西下せられしは、十二か月の後であることは史実としても、
時すでに道師・郷師の事故・南条家の両立におよび、正慶二年より延文元年本書記年までは、二十四年にまたがり、
大石・小泉問題(富士宗学要集第九巻史料類聚H・三五以下)のほかに、なんらの文献もなきに、研究困難であり、「其の預かり状、歴然なり」と記してあれど、今はその転写本すら影が見えぬ。
また、この御影が大石寺御影(今は房山にある)なりや、東光寺御影と伝称せられたものなりや、これまた不明であるが、西山本門寺では、関係文献さらにない。

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【伝説資料】  本尊問答抄の奥書  本抄は文亀三年、日向にて日要の講を日杲(こう)の聞書なり、今の奥は日杲なりや否やを知らず。

 ○、大石寺三箇の大事とは、一、御影像、一、園城寺申状、一、御下文なり。今は、東台(とうだい)がいと (谷戸) (富士上野上条の東光寺なり) に之有り、○。

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 これによれば、文亀三年(※ 1503年 聖滅222年) ころには「申状」と「御下文」とが、正しく東光寺にあったようで、この時代は東光寺は西山本門寺に重大関係があったと思わる(今は北山本門寺末なれども)。
しかれば、この二文書はまったく西山系でいずれの時代か紛失して現今は空筐のみが存在しておるのであり、大石寺の目師譲状の御文に「弘安五年御下文」の七字がいつとなしに抹消せられたのも、かかる共同隣山の不体裁の因縁とそれに即離の関係らしき石泉関係のためであろうと推察せられんでもない。


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■ 詳伝 原本 277

【正史料】  興師より目師へ譲り状(富要8史料類聚@・18  正本大石寺に蔵す


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富要8史料類聚@・18 ↓

目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、
正本案文共に総本山に厳存す

日興跡条々の事。

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主として日本国乃至一閻浮提の内に於いて山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。

一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。

一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を官領し修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり

右日目十五の歳日興に値ひ法華を信じてより已来た七十三歳の老体に至るまで敢て違失の儀無し、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣り御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二(四)年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり、仍て後の為に証状件の如し。
 (元徳四年)十一月十日 日興在り判。

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■ 詳伝 345

【正文書】 日興跡条々の事

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以上、日亨上人が 日興跡条条事 を日興上人の御正筆である、と断定されていたことは疑いようがない。



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