’21年度善正寺御会式法話
御師匠様をお偲び奉りて

 本日は、コロナ禍のなかにも関わりませず、皆様方お一人おひとりの篤(あつ)き御信心をもって、「善正寺御会式法要」に御参詣された仏道修行により、私達一人ひとりが共に功徳を拝受できる、とても有り難く、また心嬉しい日でございます。
 皆様、御会式誠におめでとうございます!

 私は、松原市の弘妙寺をお預かりいたしております柳坂特道と申します。
 拙い話しかできませんが、一生懸命、お話をさせて頂きますので、宜しくお願い申し上げます。
 さて、本日のお話しは、表題の如く、私の師匠である日蓮正宗第六十七世日顕上人が、
平成二十二年一月に『妙修房日成大徳 第三十七回忌に当たりて』と題されまして、御母堂(ごぼどう・母上)である「妙修房日成大徳」の追憶談をものされました。

 私は初めて、この書を拝見した時、誠に不遜(ふそん)な譬えですが、あまりにも素晴らしく涙なしには拝読せずにはいられませんでした。

 今年で私の師匠・日顕上人の「第三回御忌」と言う事も有り、その御高徳を偲び奉り、
さらには、私達の信心修行・陶冶(とうや)の為に御紹介させて戴きますので、暫く御聴聞下さい。それでは、始めます。
 尚、文中の( )内のルビ、および解説は、私が書き添えたものです。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 『妙修房日成大徳 第三十七回忌にあたりて』

    緒  言

 此の度、亡母(もうぼ)妙修房日成(みょうしゅうぼう・にちじょう)の第三十七回忌に当たり、
思い出の小冊子を作らせて頂くことに致しました。

 然(しか)るところ、御当職六十八世日如上人猊下におかせられましては、唐突(とうとつ)の願いを快く御受納(ごじゅのう)頂き、法務(ほうむ)洵(まこと)に御繁忙にもかかわらず、母に関し、有り難い数々の御言葉を賜り、妙修尼(みょうしゅうに)も、深く感激合掌の事と存じます。
 厚く御礼申し上げます。

 また、時は遡(さかのぼ)りますが、(第66世)日達上人御親修(ごしんしゅう)亡母五七日忌法要」の砌(みぎり)に、賜(たまわ)った同上人の御言葉も、この際掲載させて頂きました。

 更(さら)に、これに関し藤本日潤重役・高野日海能化ほか、在勤等による母と旧知の方々からも、記念に想い出の文を数多く頂き、これまた心より御礼(おんれい)致す次第です。

 宗門最後の尼として、信仰一筋に生きた亡母の心情につき、末尾に述懐、短歌、俳句、写真等と、付録として『大日蓮』寄稿文を掲載致しました。
 御一覧願えれば幸甚(こうじん)と存じます。

 日如上人より、新たな広布の御命題を頂き、勇躍出発する宗門の輝かしき新年に当たり、諸師・諸兄のいよいよの御健勝を祈ります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 平成二十二年一月
                               日  顕 識
 『妙修房日成大徳 第三十七回忌に当たりて』  (平成二十二年一月十八日)
 
   母 妙修尼(みょうしゅうに)について
 
 本年一月十八日は、亡母(もうぼ)妙修房日成大徳の第三十七回忌に当る。
 私も昨年の十二月十九日に八十七歳を迎えた。
この一生を顧(かえり)みるに、必ずしも満足できる孝行息子ではなく、母には種々の心労をかけたことが、申し訳ない気持ちと共に思い出される。
そして、母の回忌法要をお願いできることも、これが最後と思われるのである。

 宗内には、過去に私の知る限りでも、四人程の尼僧(にそう)がおられたと思うが、次々に物故(ぶっこ・逝去)せられ、最後に残った尼僧が、母妙修であった。

 母は、大正六年に入信したと思われ、当時の年齢は二十歳であったろう。
母方の姓を名乗り、彦坂須磨子といった。
 (五十六世)日應上人は、明治四十一年十一月、日正上人に金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の付嘱を遊ばされ、御隠尊となられて後、帝都(東京)布教の為、深川東元町を振り出しに、大法弘宣(ぐせん)の歩みを進め給うた。
かくて法輪(ほうりん・布教所)を(東京)市内各地に転じ給い、大正五年に麻布我善坊町に潜竜閣(せんりゅうかく)が創立された。

 その後、母は縁あって大法を聞くことが出来、我善坊へ伺うようになったと思われる。
 入信後、間もなく母は強い出家の願望を持ち、日應上人に出家を願い出たという。
 日應上人は、

 「そのような願いがあれば、やがて将来、叶えられることもあろうが、今はまだ若いのだから、好い縁があれば結婚するように…」

との趣旨のお諭(さと)しがあったと、母から聞いている。
 それにしても、二十歳そこそこで「尼になりたい」という願望は、どのような心理状態から生まれたのか、それと後年の実際の出家とも併せて、何がそのような意志を作ったのか、その原因について、  
 「唯(ただ)、尼になりたかったのだ」
という答え以外の理由は、一生涯の間に母の口から聞くことはなかったのである。

 母の子供の頃の家庭環境は、貧窮(ひんぐ)、甚(はなは)だしいものであったらしい。
 母の父は徳川時代からの旗本の血筋で、石川貴友(※知か)と云い、中川家八百石の武家に生まれ、石川家三百石の、やはり旗本の家に養子に入った。
 同じ兄弟が中川家より亀井家への養子に入ったという。
この人は武家出身でありながら、商才に勝れていて出版事業に成功し、現在の「三省堂」にまで拡張する元を作ったという。

 それにたいして石川貴知氏は、清廉ながら頑固一徹の面があり、折角の資産も、人に騙されたこともあって、すっかり無一文となったと聞く。
 その前後か、石川家家付の夫人は、渡米して貴知氏と離別同然となり、そのあと豊橋の筆問屋の出であった、彦坂ぶんが、後妻に入ったことにより、明治三十年に母が生まれた。

 その後の生活情況は相当に苦しく、母は十三歳の時から外へ出て働いたと聞いたが、幼少期から、かなり家計の負担を助けたように思われる。
 それから、入信するまでの間、どのような環境で成長したのか詳しい話はなかったが、かなり、物心両面で苦労したことが想像される。
 その半面、信仰心から、あちこちの寺を巡った、ということを聞いた記憶がある。

 思うに、天性と境遇の両面から生じた信仰心が、日蓮大聖人の大仏法に巡り合い、「これこそ本当」という気持ちによって「尼になりたい」という一念が湧出(ゆうしゅつ)し、日應上人に訴願(そがん)したものであろう。
 ともあれ、日應上人の御慈悲による御言葉があって、大正十年、二十四歳の時、当時、常泉寺住職だった阿部法運師(六十世日開上人)の許(もと)へ嫁ぎ、以来、昭和三年に日開上人が総本山へ晋山(しんざん・猊座に付かれること)されるまで八年程、常泉寺に於いて裏方として御奉公させて戴いた。

 当時は、今のように様々の宿泊所も少なく、種々の都合や総本山その他へ、用務で東京を通過する宗内の教師が多く常泉寺に宿泊され、為に月の内、その夕食の支度をしなかった日は三日くらいだったと聞いたことがある。

 母は何事も思い立ったら直ちに実行するという性格で、私を僧道につかせたいという一心から、まだ小学校へ上がる一年前に、さっさと住職(日開上人)の許しと指示を得て、当時、常在寺住職の桜井仁道御尊師を師僧として得度させた。 (しかし幼少の為、常在寺へ直ちに在勤することはなかった)。
この件は、子供心にも、母が中心に推し進めた印象が強いのである。

 次の年(昭和四年)、私が小学一年生となった頃だったと思うが、忘れられないことがあった。
それは母に所用があり、私を連れて常泉寺より言問橋を渡り、浅草観音裏に徒歩で差し掛かったときである。
いきなり足を止めて私を振り向かせ、

 「お前は、この御法(日蓮大聖人の仏法)の為に、命を捨てる覚悟はあるか」

と詰問(きつもん)されたことである。
 その時のこわい顔は、今でもはっきりと眼に焼き付いている。
殆ど見当もつかないながら、その見幕(けんまく)に押され、また既に得度した自覚も少しあったせいか、やヽ戸惑った後、

 「うヽ、ある」

と答えたら、さっと表情を戻して歩き出した。

 その時、子供心にも、何か大変なものがあると感じたが、今になってみると、それは母の大仏法への信心の溢(あふ)れを子に期待するものであったこと、また私の心の奥底に何物かが刻み付けられたことだったように思えるのである。

 昭和六年九月に、東京・常泉寺近くの仮住居をたたんで、母と祖母・ぶんと私の三人が、日開上人が御当職(ごとうしょく)の総本山大石寺へ移った。

 初め縁故ある蓮成坊に暫く居住したとき、母より大坊への在勤を持ちかけられた。
 つまり、同じ大石寺の中ながら、母とは別になり、大坊で小僧として勤めることである。

 かくて小学三年より大坊の修行に身を置いたが、この頃の私の記憶が、その後、昭和二十年に焼失した書院の再建、また六壷の立て替えや、山内整備の発想に繋がった様に思う。
 
 昭和十年春、私は上京して中学一年の時から、師僧・桜井仁道御尊師のもと、常在寺に在勤した。
その年の夏に休暇を頂いて、当時、総本山内・石之坊に住居して母のところへ帰った時、びっくりしたのは母スマが妙修となり、頭を丸めた尼の姿で私を迎えたことである。

 幼児から髪のある姿しか記憶になかった私は「あの母が、どこへ行ったのか…」との思いが込み上げて、かなり感傷したことを記憶する。

 しかし、母としては「長年の願望がやっと成就できた」との喜びでいっぱいだったのであり、私の心の小さなひずみなどお構いなく、陽気に迎えてくれた。

 日開上人は、此の年六月に隠尊(いんそん・隠居)となられ、同年十一月に復興した蓮葉庵に、以後、昭和十八年十一月の御遷化(ごせんげ)までお住まいであったが、母妙修尼は同じく蓮葉庵にて、総本山在勤として、御開扉や満山供養(まんざんくよう・総本山での法事)等に出席すると共に、日開上人に尼としてお仕えしたのである。

 日開上人御遷化(ごせんげ)の後も、引き続き蓮葉庵の居住と管理を許されていた。

 而(しか)るに、昭和二十二年五月、私が本行寺の辞令を受けた結果、昭和二十年に戦災で焼失した東京・本行寺を、昭和二十三年十一月に私が復興させて戴き、その後、多少の増築等も出来た昭和二十五年の春、妙修尼及び祖母・ぶんと長男・信彰が移って来た。

 移って十三日目に、ぶんは八十五歳で永眠し、妙修尼はその後、昭和三十八年に私が京都・平安寺に転ずるまでの十三年間を本行寺で過ごし、また昭和四十九年入寂(にゅうじゃく・逝去)までの十一年間を、私の住職地・京都平安寺で過ごしたのである。

 もともと元気で働き好きの母は、この時期においても率先して家事を始め、色々なことに気を配ってくれた。
その行動性は相当なもので、何かのことを行うか否かの話しが出ても、まだ、ろくに決定せず、「その内に」などと思っていても、もう、さっさと独りで動き、決めてしまうのである。
また、自発的に何かと采配するのは、それが生き甲斐であるかのようだった。

 しかし、僧侶の道については、あれ程、出家を熱望したにも関わらず、出家してから宗門の法規に伴う所化・学衆の進叙(しんじょ・昇級)により、教師の最下位の権訓導(ごんくんどう)までなったものの、大坊在勤によって可能となる、それ以上の僧階進叙(そうかいしんじょ)のことには、まったく意に介せず、ただ、三宝様と師僧・日開上人にお仕えして、諸事の切り盛りを勤めていた。

 日開上人御遷化後、本行寺・平安寺と移ってからも、此の姿勢は変わることなく、為に僧階は、常に最下位の権訓導に終始したのである。
 このあり方も、母の出家した時からの考えだったと思われるのは、私と家内あての遺言の下書きの方にあり、本書には除いてある一節に、

 「私の今世の一生は、微力(びりょく)乍(なが)ら、それとなく若い方達の小さな土台石となって来た事に生き甲斐を感じ、満足でした」

とあり、また入寂直前、余命も暫(しば)しの心で綴った、先師(第六十六世)日達上人への丁重な御礼の言葉のあと、と断って、述懐二条を残した中の後の文は、

 「吾(わ)れに名も無し位も無し。道の端(は)の雑草に似(に)たれども、踏まれても 恵みの露(つゆ)と、太陽の幸を受けて起き上がる生命の有り難さ、妙法の慈愛の中に 吾(わ)が命を感じぬ」

と書いていることからも覗(うかが)えるように思われる。

 私の養育にたいしては、一人息子のせいか、甘やかす弊害を考えてのことだったろう。
 躾(しつけ)はかなり厳しかったように思う。
つまり我が儘や、無駄遣(むだづか)いを厳格に誡(いまし)めるという態度であったが、啓発(けいはつ・教育)の面では、かなり心を配ってくれた。
 子供の頃、常泉寺を出てからは(生活は)楽ではない筈の中で、『教育談義全集』という十何冊かの本や、『修養全集』などを買ってくれたり、毎月、『少年倶楽部』を取ってくれたことで読書の癖がつき、文字の習得と感受性、表現性などの国語の分野での知識を得られたことは、本当に有り難かったと思う。

 また孫・男女二人の、色々な養育面についても、良いと思ったことはすぐに取りかかる実行癖でよく面倒を見てくれたように思う。

 また、母は若い頃から色々な面で意欲的であり、生花(いけばな)は、池坊(いけのぼう)龍生派(りゅうしょうは)の師範となり、既に昭和初期、東京在住の頃から若い娘さん達が習いに来たのを記憶する。

 総本山塔中へ移ってからも、十五年程の間に周辺のかなり多くの娘さん方に華道を教えており、その写真も残っている。
 更に、本行寺へ移ってからの晩年は、砂絵や土絵、また盤景(ばんけい)にも手を染めて、その作品を知り合いの僧俗に呈上(ていじょう)していたようである。

 家事でも、有効と思ったことは積極的に挑戦するたちで、総本山蓮葉庵での生活においても、第二次大戦以前よりの物資不足の中で、あちこちから学んで味噌・醤油は一年中の分を自家製で作り、大坊よりお借りした土地(現在の東の坊から本種坊にかけてのかなり広い面積)を畠として、知人の農家の助力を受けて、野菜は常に自給自足の状態であった。
 私も一緒にゴボウ抜きをしたことがあり、ゴボウがいかに地中深く入っており、抜くのが大変なのかを体験したのである。

 さて、母の病気の症状は、昭和四十六年に東大で腸の手術をしたあと、暫くは平穏だったが、四十八年の十一月頃から急に悪くなり、十二月の検診ではもう手の尽くしようがない、という診断だった。
母にはその結果を云わなかったが、当人は既に死期が迫っているのを自覚していたと思われる。

 しかし、自らそのことを誰にも云うことなく、従容として死を待っていたように記憶する。

 特に、十二月の終わりには息が切れるらしく、いつも働いていた平安寺の二階の台所には、さすがに行かなかったが、三階の茶の間に正月用のおせち作りの野菜を持って来させ、黙々(もくもく)として包丁を使っていた。

 傍(かたわ)らで見ていた私は、母の余命が既に間もないことが解っていたので、涙が溢れてくるのを母に気取(けど)られまいと、精一杯こらえたことを憶えている。

 また、蓬莱山(ほうらいさん・床の間の正月飾り)や、お供えの餅の飾り付けも、苦しい身体をこらえつヽやってくれた。

 年も明けた一月十三日には、日達上人が勿体(もったい)なくも、わざわざ総本山の大聖人御報恩御講を終えられた後、光久御仲居(大石寺主任理事)を伴い、お見舞い下さり、母を激励して戴いた。
本当に有り難いことであった。

 かくて母は、昭和四十九年一月十八日、平安寺の居間で息を引き取ったのである。
 寝たきりになって家人の世話にならないよう、常に配慮していたと見えて、発病より示寂(じじゃく・僧侶の逝去)まで、実に早急にして、鮮やかな息の引き取り方であり、死に顔は生前と変わらず穏やかであった。

 葬儀には、永年、宗門内に勤めた事もあり、多くの教師、寺族、知人等の方々に参列して戴いたが、特に日達上人には、法務御繁多にも関わらず、再度下向(げこう)を賜り、通夜、葬式に大導師を賜り、有り難くも弔歌(ちょうか)と弔句(ちょうく)を戴き、特に三十五日忌には日達上人より、     「平安寺へ下向して自ら法要を行う」
という、破格の有り難い御言葉を賜り、再々度の御下向を戴いた。


 また、その際には御慈悲溢るる懇(ねんご)ろなる御言葉を賜ったこと、更には一周忌・三回忌にも御下向を戴き、親しく大導師を戴いたことは、遺族・関係者は勿論、妙修尼も感泣して、日達上人の御慈悲に合掌し奉ったことと信ずる。

 思い出を筆にまかせて書き綴って来たが、母の一生は、ただ広宣流布を念じ、三宝様を拝信(はいしん)し、お仕えするという一事にあったように思う。

 故に、現在の宗門が、六十八世日如上人の卓越した御教導により、堅き僧俗一致の団結の下に大折伏の実践、即ち広布への大前進が行われつつあることにおいて、深い悦びに浸(ひた)っていることと思う。
 それと、私への遺言の一節にある、


 「大聖人の御膝元(おんひざもと)に日開上人が御待ち下さる所に伺います。
そして、何様(いかよう)に微力でも、何度でも、生を受けて広布のお手伝いを致します。
因縁によって結ばれた親子、又あいましょうね。
生有るうちは苦しい事も多いですが、信心があれば後には返って それが懐(なつ)かしく、總(すべ)て広布の礎石(そせき)の一分(いちぶん)と思えば、喜び身にあふれます。」  
 「示寂(じじゃく・御年)七十八歳」

との意志に依り、既(すで)に正法に縁ある処に生じて(産まれて)、更に二世(現在・未来)の御奉公の準備に入っているのかもしれない。

 永遠の生命の中の衆生の生死は計り知れないが、すべてが因縁の上につながっていることは聖訓(せいくん)の通りである。

 目に見えねども、法の上に生き、また生きようとした母との深い因縁が、現当(げんとう・現在と未来)に通じていることを感じつつ、三十七回忌に於ける追憶とする次第である。

平成二十二年一月                  日 顕  識

                           『日顕上人「お言葉集」』

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 如何でしょうか、皆様。
 いつも申し上げているように、私達一人ひとりの生命は、三世(過去・現在・未来)にと、繋がっていることは、御承知・御理解頂いていると思います。
 しかし、漠然(ばくぜん)と理解はしているものの、本当にお分かりでしょうか?
 
 この最後の御母堂・妙修尼様の遺言の一節を拝した時、私は後頭部を、思いっきり叩かれた思いがしました。
皆様も同じだと思います。

 何故ならば、私達は、縁あってこの世に生まれ、さらに、縁あって日蓮大聖人様の正法・正義に目覚め、そして、有り難くも自受法楽を目指し、勤行・唱題・折伏に励んでいます。


 しかし、それは、この今世(現在の世)のことだけではありません。
 また来世にも、この大聖人様の教えに縁し、広宣流布のお手伝いに邁進するのです。

 故に、今現在、ノンビリと信心修行をしている方は、また、来世にも同じ運命を辿(たど)るかもしれません。
それでは、また、それなりの苦労が付きまとうことでしょう…。
 
 今こそ、私達は縁あってこの世に生まれ、家族・親族となった縁者を目覚めさせ、さらに、先立った御先祖達への大いなる恩返し、つまり追善供養のためにも、今世で後悔のない信心修行に励む時です。

 そして、次の世にまた、一緒に御奉公ができ、互いに幸せな人生を送ることができるのです。

 最後に、師匠・日顕上人の御指南の中で、私がいつも口ずさんでいる御指南を御紹介して、今日のお話を終わりにしたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日顕上人 「御指南拝読」

「私の若い時の話ですが、私にも、辛く、苦しく、涙がポロポロこぼれながらも、
真剣に唱題をした経験が何度もあります。その時は、

「なぜ、私だけがこんなに苦労しなければならないのだろう…」

と、泣きながら唱題を続けていた中で、見事に願いが叶ったことが何度もあります。
つまり、お題目を真剣に唱えると「必ず願いが叶う!」ということを確信しました。

よって、皆様も苦しいことがあったら、しっかりお題目をあげてください!
このお題目によって、苦しいことが必ず突破できますから、むしろ苦しいことがあったら、

「自分は大聖人様から、これをもって苦しめ!と言われているのだ。
この苦しみは、大聖人様から授かった苦しみなのだ!」

と、思ってもらいたいのです。

それで、しっかりとお題目を唱えると、必ず大きな体験ができるのです。

そして、このことこそが、皆様がこれから一生を通じて、正しい修行に励んでいく、一番の元になると、私は確信するものであります。」
                          
                           『日顕上人 お言葉集』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                           

 如何でしょうか、皆様!
 御本仏日蓮大聖人様から血脈を相承された猊下様でさえも、かっては来る日も、来る日も、それこそ寝食を忘れ、滂沱(ぼうだ)の涙と共に、唱題を重ねた日々があったのです。

 それに引き換え、凡愚(ぼんぐ)・煩悩(ぼんのう)・業苦(ごうく)に塗(まみ)れた私達が、そう簡単に罪障消滅できるわけがありません。

 しかし、そんな救い難い私達でさえも、必死で泣きながらでも唱題を重ね、さらには折伏に励めば「必ず、願いが叶うのである!」と、身をもっての御指南なのです!

 さぁ、皆様!
 今こそ御報恩のため、そして家族や親族、さらには有縁の人々、そして、世のため、人のため、さらには、我が身の幸せな人生のため、日々の勤行・唱題・折伏に励みましょう!

 そして、この世での勤めが終わり、大聖人様がおわします霊山浄土に於いて、日顕上人に再びお目通りを戴き「よく、頑張りましたね!」と、お褒めのお言葉を賜ろうではありませんか!
 そしてまた、日顕上人のお供をして来世において、共々に、広宣流布のお手伝いに励んで参りましょう!

 最後にお願いを申し上げます。
この原稿を、何度も何度も、御拝読ください。
 特に、最後の黒い太文字の箇所である、妙修尼様の御遺言と、日顕上人の追憶を、暗記するまで、お読み下さいますよう、お願い致します。

 御清聴、誠にありがとうございました!