新池御書    弘安三年二月  五九歳 1456

 思(おぼ)し食(め)すべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一期生(ごしょう)の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝(すぐ)れたりと仏は説かせ給ひて候。此の経にあ(値)ひ奉りぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮かびて釈尊の御恩報じ尽くしがたし。かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ。皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。




 今経の受職灌頂(かんじょう)の人に於て二人あり。一には道(どう)、二には俗なり。道に於て復(また)二あり。一には正しき修学解了(しゅがくげりょう)の受職、二には只信行の受職なり。俗に於ても又二あり。道に例して知んぬべし。比丘(びく)の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行(げぎょう)は信行の比丘の始信に同ず。何を以ての故に、比丘能(よ)く悪を忍べばなり。又比丘は出家の時分に受職を得(う)。俗は能く悪を忍ぶの義有りと雖(いえど)も受職の義なし。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。経に云はく「当に知るべし、是の人は如来と共に宿(しゅく)せん」と。又云はく「衆生を愍(あわれ)むが故に此の人間に生まれたり」と。是の故に作法の受職灌頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し恭敬(くぎょう)せん事、仏を敬ふが如くすべし。「若し法師に親近(しんごん)せば速(すみ)やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」が故なり。(得受職人功徳法門抄   文永九年四月一五日  五一歳 590)

受職灌頂
修行を積んできた菩薩が仏から秘法を伝授され、阿闍梨(弟子を教授し、その規範となるべき師)の職位を受けるときに行う儀式。仏が智水を菩薩の頂きに注いで伝授する儀式をいう。

出家功徳経に云はく「高さ三十三天に百千の塔婆(とうば)を立つるよりも、一日の出家の功徳は勝れたり」と。されば其の身は無智無行にもあれ、かみをそり、袈裟(けさ)をかくる形には天魔も恐れをなすと見えたり。大集経に云はく「頭を剃り袈裟を著(つ)くれば持戒及び毀戒(きかい)も天人供養すべし。則ち仏を供養するに為(な)りぬ」云云。(出家功徳御書    弘安二年五月  五八歳 1371)