日蓮宗僧侶破折

二箇相承の証明

 今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難いが、存在したという証拠は多分にある。
今、二箇相承が存在したという証拠文献を大略次第してあげてみると次の通りである。

(一)聖滅27年(1308

徳治三年九月二十入日日頂の本尊抄得意抄添書?に

●「興上人一期弘法の付嘱をうけ日蓮日興と次第 」 の文あり(宗全一−四四)


※日蓮宗宗学全書 『本尊抄得意抄副書』(1巻P44)
興上人一期ノ弘法ノ付嘱ヲ受ケ、日蓮日興ト次第シテ、日興ハ無邊行ノ再来トシテ末法本門ノ教主日蓮ガ本意之法門直授タリ、」
「徳治三年九月二十八日」

(二)聖滅99年(一三八〇)康暦二年六月四日、妙蓮寺日眼の五人所破抄見開に

●「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明也」 の文(富要四−八)

(三)聖滅187年(一四六八)応仁二年十月十三日、住本寺十代(要山十六代)日廣、重須にて二箇相承全文書写、其の奥書に 云く、

●「日廣云、於 富士重須本門寺 以 御正筆 奉書畢、応仁貳年十月十三日(傍系)

要山十八代日在私云、先師日廣上人 詣 富士 之時 如此 直拝 書之 給也云云 (雪文三十大遠日是転写本。夏季講習録二− 八富谷日震)

(四)聖滅207年(一四八八)長亨二年六月十日、左京日教「類聚翰集私」に二箇相承全文引用(富要2314)(正系)

(五)聖滅208年(一四八九)延徳元年十一月四日、左京日教「六人立義破立抄私記」に全文引用(富要四−四四)

(六)聖滅233年(一五一四)永正十一年、越後本成寺日現「五人所破抄斥」に全文引用(宗全七−一八一)(反系)

(七)聖滅264年(一五四五)天文十四年四月、日我申状見開に「身延池上の両相承」云云の名目を出す(富要四−81112

(八)聖滅266年(一五四七)天文十六年、要山日在、富士立義記(日叶作)を添削前後補接百五十箇条として二箇相承全文引用 
(富要2182

(九)聖滅275年(一五五六)弘治二年、要山日辰重須に於いて日耀をして二箇相承を書写せしむ(西山蔵)

●(一〇)聖滅278年(一五五九)永禄二年、重須日出、要山日住に二箇相承を拝見せしむ(要五−五六)

編者挿入 参照

同十二日戌刻、日住が為に笈の戸を開き霊宝を拝見せしむ、日出自ら笈中より出し二箇の御相承、本門寺の額並に興師の総付嘱日妙別付嘱を拝見せしむ、時に日辰日玉優婆塞一人なり、同日亥の刻日興自筆の一代五時の図を以って本の如く之れを写す、同年二月三日此の一代五時の図を持って蓮祖御筆の一代五時の図と校合せしむ【其本今所持す】、同日八通御遺状等之を写す、去る正月二十日未の刻日興総別付嘱二通御筆勢の如く之を写す、重須に於て都合五座の説法を作す。

(一一) 聖減292年(一五七三)天正元年、日主上人二箇相承書写(大石寺蔵)

(一ニ) 聖滅298年(一五七九)天正七年、北山本門寺宝物目録に二箇相承を挙ぐ(富要九−ニ○)

●(一三) 聖滅300年(一五八一)天正九年三月、武田勝頼の臣重須を襲い二箇相承等を奪う(要九−一七・ニ○)

●(一四) 聖滅301年(一五八ニ)天正十年、重須日殿二箇相承返還を訴え憤死す(富士年表・日蓮教団史九ニ)

(一五) 聖滅301年(一五八二)天正十年十月十五日西山日春甲府総檀中へ書をおくり二箇相承返却方を促す。(西山蔵・蓮華三−ニ二)

(一六) 聖滅300余年、房山日我等二箇相承紛失証明を記す(要九−二二)

●(一七)聖滅330年(一六一一)慶長十六年、家康駿府城に於て重須より奉持の二箇相承を拝す(駿府政事録・駿国雑誌三十一 −中−七四)

(一八) 聖滅330年(一六一一)本光国師二箇相承を道春(林羅山)より得て日記中に記す(仏教全書、本光国師日記一−一 六五)

(一九)聖減336年(一六一七)元和三年、要山廿四代日陽、重須に至り二箇相承を拝す(要五−六〇)

(ニ○) 聖滅375年(一六五六)明暦二年、西山一八代日順、日耀写しの二箇相承の日辰奥書に重ねて奥書す(西山蔵・富士 門徒の沿革と教義 四五)


● 以上の二十項目は二箇相承の曽存を裏付けするに充分な正系・傍系・反系の史料である。

●尚日興上人は大聖人よりの二箇相承とい う譲り状があったので之に例して日日譲状なるものを作られたのであるということを思い合わせるとき、これらの文献によって二 箇相承の曽存は認めざるを得ないであろうと思う。 


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駿府政事録の慶長十六年二月十五日の項には、
                                  
 ● 今晩 富士本門寺校割(重宝の意)ニケノ相承(日蓮筆) 後藤少三郎備(二)御覧(一)二。(諸記録四−三二)

とある。
天正十一年(※武田勝頼強奪)から約三十年をへて、家康は二箇相承を拝したのである。
これには「日蓮筆」とあるが、重須で一度失った正本を見ることが出来たのであろうか。

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 また、『古老茶話』にも『駿府政治録』と同様の記事がある。

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 また、崇伝(本光国師)が公儀の写した二箇相承を道春(林羅山)から得たことを記した日記の末文に、

 ● 右之両本文在(二)公儀(一)写二通、慶長十六亥十二月十九日 道春より得(レ)之、写留也。(大日本史料第十二編之九−一三〇)

とあり、家康のもとにあったことを窺知させる。

その後、二箇相承は久能山讃妙院にありと伝えられるに致った(諸記録四部附記) が、いまだに発見されてない。

 二箇相承は武田勝頼の滅亡と共に散失したか、或はそれが家康のもとに届けられて途中で散失したか、どちらかであろうが、いつか発見出来ることに夢を託したい。

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付  嘱

 釈迦如来は神力品で上行菩薩を上首とする四菩薩に妙法蓮華経を付嘱し、嘱累品で全ての菩薩に法華経を付嘱した。
前者を別付属、後者を総付嘱と名付けている。

大聖人の場合、『一期弘法付嘱書』を総付嘱、『身延山付嘱書』を別付属と呼んでいる。

地名から取って前者を『身延相承書』、後者を『池上相承書』とも言っている。

平成の新編御書は従来の付嘱地からとる呼び名にかえ、内容からの書名にしている。このほうが分り易い。

 『日蓮一期弘法付嘱書』は日興上人に宗祖一期の弘法を付嘱し、本門弘通の大導師と、富士山に本門寺戒壇の建立を命じたものであり、

 『身延山付嘱書』は釈尊五十年の説法を付属し、身延山久遠寺の別当(身延山の遺付)を識したものである。

 二書を要約すれば、

@ 日興上人が大導師であった

A 本門寺の戒壇建立を命じられた

B 久遠寺の院主(住職) であった

となり、この三点を論証すれば二つの相承書の成立が可能となり、富士門流の偽作とする彼等の主張は粉砕されることになると考える

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@ 日興上人が大導師であった

 日興上人が大導師を自覚され、吐露された文が『原殿御返事』にある。

■ 身延沢を罷出候事面目なさ、本意なさ申し尽くし難く侯へども、打還し案し候へば、いづくにても聖人の御義を相継進せて、他に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当て覚候へば、本意忘るること無候。(歴全一−一七二)

 この書は正応元年十二月十六日の書状で、五老僧達が皆師匠の日蓮大聖人に敵対しているから、私日興一人が師匠の正義を継承して正法広布に尽力する覚悟であり、宗祖の本意を忘れることは無いと述べたものである。

 ここに日興・私のみが正法を弘通するという大導師意識がはっきりと表われている。

堀上人は 

■「六人は年歳(とし)不揃であり乍ら、夫々の背景はあった。
日昭、日朗の鎌倉中心の武相の間に、
日向の房総の野に、
日頂の下総の北部に、
日持の駿河の西方に、

殊に日興上人は伊豆・駿河・甲斐・遠江果ては佐渡一円に其弟子・檀那が繁殖したので、年臈などは問題でない。
始終随逐の御修行と、
不断の弘教と、
門葉の盛大と、
身延の深緑とで、

六人の上に、厳然と頭角が顕はれているから、何処から見ても大聖の後継者であることは、既定の事実であつた
」 (正宗教報、昭和十年九月号)

と記されており、説得ある文章である。

ほかにも類似した文献があるが省略する。

 日蓮大聖人は日目上人を代官として弘安四年、朝廷に申状を奏せしめ、翌五年、さらに日日上人に天奏を命じられた。
それは国主の力で法華経本門を流布したいとのお考えからであった。

伝教大師最澄が桓武天皇に庇護され、天台大師智が陳隋両帝の帰依を受け、日本と中国に法華経は広く弘まった。
法を広く弘める上に於いて国主の帰依は必要条件であり、大聖人は自ら度々国諌を試みられたけれども聞き入れられず、身延の深山に入られたが、けっして国主の帰依を諦められたわけでなかった。
代理として弟子を遣わされ、弘安五年には園城寺の『下文』を朝廷から賜わった。
この『下文』とは、朕 (天皇) が法華経を信ずることがあったら富士に求める、という内容のもので国主帰依の好機がおとずれたのである。
日目上人によってもたらされた『下文』を見て身延の深山では一同が歓声を上げられたであろう。

 三大秘法抄では戒壇について詳説されたが、建立地は未来のこととして特定されなかった。
しかし、ことここに来て国主帰依の期待がかすかに持てた今、日興上人が富士山に本門寺の戒壇建立をと宗祖に具申され、それを大聖人が許容されたのである(大聖人は富士山を実相寺での勉学中や南条兵衛七郎の墓参などで幾度となくご覧になられていた)。

富士山に戒壇を建立すべく総指揮を委任された人は、日興上人を置いて他にいない。

六門流中最大の教団であるだけでなく、教勢が富士にも及んでおり、師から最も親任の篤かった一人の日興上人が宗祖滅後の大導師となっても何の不思議もない。

 弟子の三位三順は日興上人から二代目の学頭識を任ぜられた人であるから、日興上人を熟知する一人である。
その日順の著書には日興上人を大導師と記述する文が各所にある。

  抑久遠の如来は首題を上行薩?に付嘱し、日蓮聖人の法門は日興上人に紹継し、紹継の法体は日澄和尚類聚す。(富要二−一六)

  日興上人は是日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり。稟承五人に超へ、紹継章安に並ぶ。所以は何ん。五老は同く天台の余流と号し、富山は直ちに地涌の春属と称す。章安は能く大師の通説を記し、興師は広く聖人の本懐を宣ぶ。
  昔智者の法を学するの人、一千余にして達すること章安に在り。今法華宗と呼ぶの族、数百輩にして得ること興師に帰す。(富要二ー二二)

  抑此の血脈は高祖聖人、弘安五年十月十一日の御記文、唯授一人の一人は日興上人にて御座候 (富要二−八四)。

 このように日興上人が大導師であったことは説明を要しない。

 また、『摧邪立正抄』には、

 抑大聖恭くも真筆に載する本尊、日興上人に授くる遺札には白蓮阿闇梨と云云。(富要二−五〇)

と記されている。

日興上人に授けた真筆本尊や遺札には白蓮阿闇梨と日興上人の名があったというが、現在では本尊に関して白蓮阿閣梨としたためたものは一幅もない。

嘉暦元年 (一三二六) の本尊盗難事件に被害がなく、『推邪立正抄』の著わされた正平五年 (一三五〇) にも本尊はあったが、天正九年 (一五八一) に武田勝頼に奪われて以来紛失したようである。S

(※ S 松本佐一郎著 「富士門徒の沿革と教義」69)
                 
 白蓮阿闇梨の名称に関する調査は山口師の論文 (21) に詳しいが、使用例は弘安五年十月八日の『宗祖御遷化記録』と『一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』の三例のみである。

(※ 21 山口範道著 「日蓮正宗史の基礎的研究」45 )

この三例のうち遺札といえば二箇相承を指していることは言うまでもない。
そうだとすれば少なくとも祖滅七十九年まで相承書の存在が確認出来ることになる。

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A 本門寺の戒壇建立を命じられた

 文永十年五月二十八日の義浄房御書(22)が三大秘法の語句の初見であり、

(※22 新編 669)

翌十一年一月十四日の法華行者値難事(23)には本文でなく追伸の中に 「戒壇」 の語が見られる。

(※23 720)

又同五月二十四日の法華取要抄(24)や、

(※24 738)

建治二年七月二十一日の報恩抄(25)1036、建治三年三月二十一日の数行証御書(26)に戒壇の名目はあるが、詳しい説明がない。

(※26 「此の本門の戒の弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なるべし。抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」 (平成新編御書二一〇頁)。

漸く弘安五年(27)四月八日の三大秘法抄に戒壇について具体的に述べられるようになった。

(※(27)山口範道師は「百六箇抄の下種本迹勝劣四十三条に「三箇の秘法建立の勝地は富士山」云云(日蓮正宗聖典三六七頁)と、最勝の地を富士山と指定されている。にもかかわらず、弘安五年四月八日の三大秘法抄に「最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(聖三〇二) と仰せられて、未だ富士山とは明示されていない。
百六箇抄の写本には系年の無いものと、有るものとがあるが、この書を弘安三年一月に系けると「就中定六人遺弟」 の時期と、三大秘法抄の 「最勝の地を尋ねて」 の文に矛盾が出てくる。
このような矛盾のある百六箇抄を弘安三年一月に系けるには疑点があると思う。
したがって百六箇抄は後加文を切離し無年号として弘安五年十月八日以後に置くべきであろう」 (四六)

と述べられている。
しかし「白蓮阿闇梨」 のある後加文は祖滅百年頃の成立であるから百六箇抄の系年(成立)と切離して考えるべきであろう。
当然戒壇建立地の明されていない三大秘法抄は百六箇抄より早い成立になるわけで、三大秘法抄は日時上人の写本により大石寺では弘安五年四月八日としているので、百六箇抄はこれ以降の成立と考えるべきであろう。
ただし身延等では三大秘法抄を日親本によって弘安四年四月八日の成立としている。)


 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閣浮提の人俄悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王、帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき。(平成新編御書一五九五)


 ここでは霊山浄土に似た最勝の地に戒壇を建立すべきで、この戒法が立ってからは延暦寺の戒壇は理戒だから利益がないと述べられている。

 大聖人は三大秘法抄を著わされた御心中を 「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲讒言を加ふ一べし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候」 (一五九五)

と述べられており、一期の御化導の中で三大秘法抄は重要な位置にあると言える。

 比叡山の迹門の理戒に対し、本門の事戒の殿堂建立は宗祖の出世の総上げであり、悲願であったと拝される。

それを日興上人に託されたのである。

 古くから三大秘法抄は他門では真偽未決、或いは偽撰の扱いをして来たが、近年特に立正大学の学者などのコンピューターを使っての研究によって真撰説が叫ばれるようになった。

叡山の理戒・迹門の戒に対し、事戒・本門戒の戒壇堂の建立を大聖人が末弟に委ねたことが漸く学問の分野で他門が認めだしたということである。

しかし彼等は信仰の分野ではけっして認めることが出来ないであろう。
それは本尊造乱・不確定によって宗祖の真の御精神を失って久しいからである。

宗祖の御精神に乘背(じょうはい)した大きな理由に戒壇堂建立否定が一番に挙げられるであろう。

 戒壇建立が日興上人の創唱でないことは先に論じたが、『富士一跡門徒存知事』には

■「最も此の御に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」 

の文があるが、この 「奏聞」 という語に大きな意味がある。
仮にこの 「奏聞」 を日興上人の国諌とみた場合、日興上人の現在知れる三通の申状の中に 「本門寺建立」 の記述は見当たらない。
また日興上人の代理として天奏を試みた日日上人の申状にも 「本門寺」 の名称は見られない。

そうであるなら、日興上人が 「本門寺」 建立を国主に上奏したと解すべきでなく、日興上人が大聖人に富士山に本門寺を建立すべき旨を具体的に言上されたと理解出来るであろう。

 そのように解釈すれば大聖人が本門寺建立の御意志を持たれたことは明白なこととなる。
それだけでも三大秘法抄の真撰説は裏付けされるが、当初大聖人はいずれの国、いずれの処とも建立地を定められなかったことは御書にお示しの通りである。
しかし、のちに大聖人は日興上人の意を入れられ、日本第一の名山である富士山を本門寺建立の地と定められた。

本門寺建立は御存生の間に実現をみなかったので、日興上人に本門寺戒壇を御遺命とし残されたのが日蓮一期弘法付嘱書である。


※樋田 註  日蓮大聖人が戒壇建立を志向されたことは明白。
その「戒壇建立」の責任者を定め、後事を託すのは必然。
六老の中で日興上人以外に、その後事を託された門弟がいたか?
その明白な文証は?
→ 全く無い。


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B 久遠寺の院主であった

 日興上人が身延山の住職であったことを示す文献は多い。

(弘安五年)十二月十一日の日円状に、

 ● 「まことに御きやうをちやうもんつかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給候御ゆへとこそ
 ひとへに存候へ。よろづけさんに入り候て申べく候。」(宗全一−一九七)

と、日興上人の唱えるお経を聴聞して、日興上人の身延住山を喜んでいる。

 また、弘安八年一月四日の日円状に、

 ● 「はるのハしめの御よろこひかたかた申こめ候ぬ、さてハくをんしにほくゑきやうのひろまらせをハしまして候よし
 うけ給ハり候事めてたくよろこひ入て候。さて御わたり候事こしやう人の御わたり候とこそ思候ひし。(富要八−三)
  (錯簡訂正後の文)

と、日興上人が身延に入山されたことは大聖人が入山された事と同じであると思っていると喜んでいる

 また正応元年十二月五日の波木井清長誓状に、
                              
 ● 「もしみのぶさわを御いで候へばとて心がわりをもつかまつり(らず)候。おろ(か)にもおもひまいらせ(ず)候(富要八−一〇)

と、日興上人が身延離山される直前の自分達の心境を語っている。

 そのほかに正応二年正月二十一日の日円状には日興上人の身延離山の決心を翻すよう越前房に依頼した文がある。

また、日興上人が身延山の院主(住職) の地位にあったからこそ民部日向を学頭職に任免出来たのである。


 以上、見たように日興上人が宗祖御遷化の後、身延山の院主・大導師であったことは論ずるまでもない程明白である。

それを示すのが身延山相承書である。


 ところで日蓮宗では日位の『身延山久遠寺番帖事』(池上本)をもとに院主の一月交替の輪番を主張し、日興上人の院主を否定して来たが、漸くここに来て池上本を偽書とする見解が他門(28)からあがり始めた。

(※28 『日蓮教学の諸問題』所収・本間裕史 「日蓮聖人御遷化記録」考217 )

遅きに失したとはいえ勇気ある発言である。

池上本の偽書説は『富士学報』の創刊号に詳しいが、私としても稿を改めて論じておいた。

 西山本の 「定 墓所可守番帖事」は正本が西山に現存しているが、祖廟を輪番で守ることが四老僧の間で証印までして協議し決定しておりながら直弟は管理する気がなかったようである。
始めから無理な約束であったと指摘されるが、一年として守れない無責任ぶりである。

松本氏はこのへんを、輪番を皆で申合せておいて、其を実行しなかったといふのは僧としてあるまじき振舞で、若し鎌倉の仕事が忙しくて手放せないといふならば代人を立てても行ふべきものだ。其をしなかったのはしなかった丈の理由が有らう。行けば興師に対して弟子の礼をとらねばならぬ。其が煙ったかったのではあるまいか。ソンナ無道心な上人方だとは言ひたくないが、其では師匠の御墓を興師に任せっ放しにした無道心が責められることになる。(五八)

と述べられている。

 老僧方は全てを日興上人に押つけて頬被りしてしまった。

第一身延の住職を一月交替で当番制にすること自体有り得べくことでない。
まして六ケ月間は二人で院主を務めるというのだから話しにならない。
墓所の輪番はあっても院主の輪番などあるはずもなく、日興上人一人が院主として身延山に常駐していたのである。

松本氏が

興師付弟のことは五老に於て御存知有ったことは当然である。それだから身延を興師に任せっ放しにしてお墓参りをしなかったので延山の貫主が定まってゐなかったならば当然輪番で登ってゐたであらう。ただ興師が甲斐の人だったといふ理由だけで身延に在山せられうるものではない。付弟だから身延に居られ、又それだから五人が煙ったがって、教線の仕事にかこつけて登山しなかったのだ」 (七一)、

と指摘するのは正鵠を得ていると言うべきであろう。

そして、堀上人は日蓮宗の誤れる理由を、

● 身延山を興師に遺付せらるる事は、他の五老、又は一般の門中に、異説あるべき事でない。
其を彼是云為するは、自他ともに、当時代の認識不足の駄見である。
(中略)此は
第一に、興師の門葉の広大なる事を知らず、
第二には、行学日朝大成以前、即ち草創の身延の微弱なる事を知らず、
第三には、波木井実長は、南部の六男で、漸く山地の、波木井大野の地頭で、小身なりし事を知らぬ、
等から来たものである。(正宗教報・昭和十年十月号)

と、列記されている。