慧妙記事を元に加筆編集・参考資料の添付を加えた。
まず、彼奴等がなしている誹謗は、日如上人御書写の御本尊の「南」の字と「写」の字が、いずれも、御筆至の勢いのしからしむるところにより、「上に突き抜けている」という点に目を付けて、「誤字だ」と難癖(なんくせ)を付けたものである。
だが、筆勢によって文字が突き抜ける、というのは「誤字」でも何でもなく、肉筆ゆえの、他に2つなき特徴である。
畏れ多くも、日蓮大聖人御筆の御本尊においても、同様の「南」の形が拝される。
(※ 加筆・樋田 例 弘安年間と比定される御本尊だけに絞り、しかも鮮明に確認できる御本尊だけに限定しても、以下の如く多数あらせられるのである。
立正安国会発行御本尊集の番数に準ずる
52 | 年月日削損 | 佐賀県 勝妙寺 |
57 | 弘安元年十一月二十一日 | 静岡・沼津 光長寺 |
58 | 京都市 要法寺 | |
64 | 弘安二年六月 | 千葉県市川市 法宣院 |
67 | 弘安二年十月 | 戸田市 妙顕寺 |
81 | 弘安三年三月 | 鎌倉市 妙本寺 |
92 | 弘安三年五月八日 | 京都市 本能寺 |
101 | 弘安三年十一月 | 三島市 妙法華寺 |
102 | 弘安四年二月二日 | 東京大田区 池上本門寺 |
107 | 弘安四年四月二十五日 | 京都市 本満寺 |
加筆部分以上)
また、それ以外の御文字についても、上(もしくは下)に御筆の突き抜けている事例は、第2祖日興上人はじめ御歴代書写の御本尊にも拝されるのである。
―差し出口は天目と同一轍―
よって、これらは「誤字」などではなく、『フェイク』の疑難は、御本尊の御筆致の事など何も弁えていない、?慢(きょうまん)謗法の輩(やから)の悪口にすぎない。
なお、こうした?慢の輩は、大聖人御在世からもいたようだ。
■ 「日蓮の蓮字に点を一つ打ち給う事は、天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間、亦一点を打ち給いて後の玉いけるは、予が法門に墨子(ふすべ)を一つ申し出だす可き者なり」(聖典380頁)
すなわち、大聖人御筆の御本尊を拝した弟子の天目が、
「蓮の字の点が一つ余分です」
と批判めいた発言をしたところ、大聖人はこれを退(しりぞ)けられて、さらに点をもう一つ加えられた、との仰せである。
要するに、御文字を認めるのは凡身(凡夫即極の凡身)に握った御筆であっても、御筆をもって顕わされた御本尊は絶対無二の仏の御当体であって、これに対し衆生(たとえ弟子であっても)が差し出口をすることを、大聖人は断じてお許しになっておられないのである(※この天目は後に、迹門不読の邪義を構えて異流義の徒となっている)。
されば、その批判が、「点が一つ過ぎ候なり」であっても「棒が突き抜けている」であっても、いずれも大聖人の御意に適(かな)わぬ?慢謗法たることは明らかである。
しかして、日蓮大聖人が謗法の輩の過去世を明かして、
■ 「法然(ほうねん)が一類、大日(だいにち)が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて制止を加へて、権経の弥陀(みだ)称名(しょうみょう)計(ばか)りを取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月をさす指、只文字をかぞ(数)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(御書581頁)
と仰せられている理に照らすならば、?慢から異流義化した天目の末流の者共が、今日、池田創価学会の中に出来(しゅったい)して、またも御本尊の御文字に口を差し挟(はさ)んでいるのではないか、と思われるのである。まさに、過去世からの謗法のなせる業(わざ)というべきであろう。
【相伝により御内証を「書写」し奉る】
―「書写」と「模写」の別も知らぬ『フェイク』編集子―
だが『フェイク』は、「戒壇の御本尊を書写し奉る」という意味が、そもそも解っていないのだ。
その深意について、日達上人は、
●相承を受けて、御本尊をお認(したた)めするのは、けっして面には「書写」と書いてあるけれども、(※経文をそのまま書き写す、というような)書写の行ではなくして、御本尊造立なのである。ただただ、その姿を、戒壇の大御本尊にちなんでお書きし奉るから「書写」と書くだけ(『日達上人全集』第2輯第1巻545頁)
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と仰せられ、御本尊書写とは、いわゆる写経のように、ただ本門戒壇の大御本尊の御文字(相貌)を書き写す、ということではない旨を示されている。
また、67世日顕上人は、
●根本は申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊でこざいます。
その御本尊の内証を拝して御書写申し上げました御本尊が本日ここに入仏いたしました(第67世日顕上人
S56.4.18
教光寺落慶入仏法要の砌)
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と仰せられ、本門戒壇の大御本尊の内証を拝して御認めになることが、御本尊書写である旨、明かされている。
さらには56世日応上人も、『本門戒壇本尊縁由』に
●当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊(※本門戒壇の大御本尊)の御内証を、代々の貫首職、一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り、授与せしむる(『日應上人全集』第1巻9頁)
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と御教示あそばされている。
以上のことから明らかなように、歴代の御法主上人は、唯授一人の相伝の御法門によって本門戒壇の大御本尊の御内証を拝し、御本尊を御認めになっているのであり、これを御本尊書写と申し上げるのである。
したがって、御本尊書写とは、大御本尊の相貌として示された御文字を単に「模写」する(姿形をそのままに写す)ことではない。
そして現に、第2祖日興上人以来の御歴代上人が「書写」あそばされてきた御本尊の相貌は、それぞれ、戒壇の大御本尊の相貌を寸分違わず模写されているわけではないのである。
しかるに『フェイク』は、「書写」と「模写」の区別もつかず、
"戒壇の御本尊の「南」と日如上人御書写の御本尊の「南」の形が違うから書写とはいえない"
などという難クセを付けてきた。
まさに、相伝なき輩(やから)の無知蒙昧な疑難であり、笑う外(ほか)はない。
【「こんな首題見たことない」だと!?】
―大聖人の御本尊の首題を拝してみよ―
次に『フェイク』は、「歴代法主が書写し奉る『戒壇の御本尊』の『南』の字は突き抜けてはいない」と言いながら、本紙から「日蓮大聖人御筆の御本尊においても、同様の『南』の形が拝される」「それ以外の御文字についても、上(もしくは下)に御筆の突き抜けている事例は、第2祖日興上人はじめ御歴代書写の御本尊にも拝される」と破折を受けたことに対し、
などと、言い訳にもならない言い訳をしている。
仮に『フェイク』の言うように「約1割」だとしても、大聖人御認めの御本尊の中に"「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている"事例が多々ある以上、これまで『フェイク』が書き殴(なぐ)ってきた"僧も書道家も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である"との悪口が、誤りであったことは明らかである。
また、さらに言っておけば、確認したところによると、「約1割」ではなく、大聖人御筆の御本尊のうちの約3割が、「南」の9画目が上に突き出ていることも付け加えておこう。
ともあれ、このような「南」の認(したた)め方が「誤字」でも何でもないことは、もはや誰の目にも明らかであって、これをもって御法主日如上人を誹謗(ひぼう)してきた『フェイク』の所業は、まさに、白を黒と言いくるめようとする、邪義・奸曲(かんきょく)以外の何ものでもないのである。
【「『ウ冠』の『写』はない」だって!?】
―実際には複数の書体字典に例示が―
ところが、大冊である『草露貫珠 草書大字典』の「寫(=写の旧字体)」の項に、また普及版の『書体字典』の「写」の項に、線が冠の上から突き抜けた書体が、ちゃんと載(の)っているのである。(写真①②)
また、かつて一般紙に載った書家の文字も、筆の運びは同じである。(写真③)
したがって、日如上人の認められた「写」の文字の御筆致が、全く正当であることは明らかである。
さらに、ここまで『フェイク』の主張のデタラメが明らかになった以上、『フェイク』が自説の論拠としてきた「B展審査員の著名な書道家」なる者は、自ら名乗り出て、この本紙の批判に対し堂々と再反論すべきである。
それができぬのなら、『フェイク』は、架空の書道家を登場させてまで日如上人を(さらには日如上人御書写の御本尊を)誹謗した、ということを認めるべきであろう。
いずれにせよ、『フェイク』編集子もその関係者も、自らの邪(よこしま)な悪業を自覚して、後生を畏(おそ)れるがよい。
【怪文書が怪文書をネタに意趣返し】
―やはり『フェイク』の差し出口は謗法だ―
なお、『フェイク』は、本紙から"御本尊の御文字に差し出口をすることは天目と同一轍の大慢謗法の者だ"と破折された意趣返しとばかりに、
などとも書いているが、これまた事実を全くねじ曲げた与太話である。
大草氏にも碓認したが、真相は、昭和57年当時、赤澤朝陽で彫刻された板御本尊の御文字に、なんと数ヶ所の彫り残し(!!)があり、これを指導教師を通じて御法主上人に御報告したところ、「それはおかしい!」ということになり、直ちに赤澤朝陽に注意をして手直しを命ぜられた、というものであった(※この件は過去に活字にもなっている)。
つまり、この件は「板本尊の『誤写』を指摘し」たなどというものではなく、赤澤朝陽の杜撰(ずさん)な彫刻が問題になった事件なのだ。これを全くデタラメな話に作り変えてくるのだから、やっぱり『フェイク(=いかさま師)』は『フェイク』でしかない。
なお、『フェイク』は、この与太話の出処として、以前の学会怪文書『勝ち鬨』の内容を挙(あ)げているが、怪文書が怪文書を出典にして、嘘(うそ)の上塗りをしても、結局、何の信憑(しんぴょう)性も生まれないという事例である。
いずれにせよ、大聖人が禁じたもうた御本尊の御筆致への差し出口をした『フェイク』編集子が、天目と同様の?慢(きょうまん)謗法の徒輩であることは間違いない。御本尊の右肩には「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱する者は頭七分に破る)と認められているが、その御本尊のことに差し出口をして難癖をつけ、日如上人を悩まそうとさんざん画策した『フェイク』編集子の末路がいかに恐ろしいものか、憐憫(れんびん)の情を禁じ得ないものである。
『フェイク』がついに血迷った。
日如上人御書写の御本尊の御文字についての、自らがつけた難癖(なんくせ)の手法を、
「本尊の書写は、神聖な宗教的行為。一般紙や書道の資料を例に挙(あ)げて騒ぐのは噴飯物(ふんばんもの)」(第1125号)
とあざ笑ったのだ。
▼『フェイク』
・著名な書道家や中堅僧も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である
・"埼玉県在住の著名な書道家""B展審査員の著名な書道家"なる者の批評として、「『写』を『字』と書き間違っている」(第1063号)「『書写』か『書字』か、判断に迷う文字は当然、書き直すべき」(第1065号)
・「念のため『明清行草字典』『行草大字典』『書体字典』『草書大字典』など『書』に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような『写』は全く見当たらない」(第1108号)
●『慧妙』の反論
・『草書大字典』『書体字典』に「ウ冠の写」の文字が掲載されていること、さらに、一般紙にも、やはり突き抜けて「ウ冠」の形となった「写」の文字が載(の)っていることを紹介
・中央首題の「南」については、大聖人の御真筆御本尊にも中央9画目が突き抜けた形の御本尊が約3割あることを示す
▼『フェイク』の自家撞着
・本尊の書写は、神聖な宗教的行為と捉(とら)えていたが、『慧妙』が一般紙や書道の資料を例に挙げて騒ぐのは噴飯物
かつての主張
↓
・著名な書道家や中堅僧も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である
・"埼玉県在住の著名な書道家""B展審査員の著名な書道家"なる者の批評として、「『写』を『字』と書き間違っている」(第1063号)「『書写』か『書字』か、判断に迷う文字は当然、書き直すべき」(第1065号)
・念のため『明清行草字典』『行草大字典』『書体字典』『草書大字典』など『書』に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような『写』は全く見当たらない(第1108号)
・本尊の書写は、神聖な宗教的行為と捉(とら)えていたが、『慧妙』が一般紙や書道の資料を例に挙げて騒ぐのは噴飯物
まさに頭破作七分