日亨上人の評価について(仮題)

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【日精上人に対する批判の理由】(『大白法』H16.4.1)
宗門史全般にわたる大業を成し遂げられた日亨上人が、なぜ日精上人に対して厳しい批判の目を向けられたのか、その理由について3点を挙げて説明する。

<先入観による誤解>

 700年間の長期にわたる広汎な史料、宗門内外の膨大な文献、これらを詳細に解読し、且つ的確に判断することは、凡人の成し得る業ではない。大学匠と讃仰(さんごう)された日亨上人であっても、その研究の中で史料の読み違いや誤解が生じたとしても仕方がないことであった。
 仮に要法寺の寿円日仁や北山日要などの日精上人造像説と『随宜論』の内容を重ね合わせて判断すれば、誰もが日精上人が造像家であったという印象を持っても不思議ではない。
しかも日精上人は、造読論を強硬に主張した広蔵日辰の影響が強く残っている要法寺の御出身であるということ。
このような先入観をもって、『日蓮聖人年譜』を読めば、文中において見極めがたい日辰の説を引用した部分を、そのまま日精上人のお考えと判断されたこともやむをえないといえる。
また『家中抄』には、日辰の『祖師伝』をそのまま引用して要法寺三師の伝記としていることにも、造像の意図が反映されていると見えたことであろうし、
文中に日辰の言葉で「久成釈尊を立ツる」とある部分にも頭注を加えて指弾すべしとの思いを起こされたことであろう。
 もし日亨上人が、『日蓮聖人年譜』において日精上人が明確に日辰の邪義を否定し破折されていることを認識しておられたならば、その他の文書に対する判断も日精上人に対する評価も、まったく違ったものになっていたことは容易に推察できる。
また日因上人が日精上人を批判されたことについても、同様のことがいえるのである。
 つまり、日亨上人が日精上人を造像家と判定されたことは、実像と異なった先入観に基づく文書の読み違い・勘違いであり、不幸な誤解によるものとしかいえないのである。


<他門からの非難に対する予防措置>

 他門日蓮宗と信仰的に一線を画してきた本宗にあって、日亨上人は広く史料を収集するために、他宗他門の学者と交流された。
また御登座以前には、立正大学の要請を受けて、同大学の「特別講座日蓮正宗部」を担当し講義された時期もあられた。
そのような折、しばしば他門の学者から本宗の宗義や宗史に関する質問が投げかけられたという。
 こうした中で護法精神の厚い日亨上人は、本宗に伝えられる文献や史実の中に、将来他門から攻撃を受けると予想される部分には、できうる限りの手当と予防策を講ずる必要があると考えられた。
 『富士宗学要集』に収録された相伝書の中に、後加文について傍線をもって区分されているが、これも立正大学に赴かれた頃にお考えになられたものであるという。
 日亨上人にとって本宗の文献の中でも、日精上人が要法寺流の造読を主張しているように見える部分は、特に気がかりであったと推察される。
 『日蓮聖人年譜』や『家中抄』を含む『富士宗学要集』を出版することは、世間に初公開になることも考慮され、他門からの非難攻撃を未然に防ぐためには、一宗の学匠として、その責任の上から御自分で日精上人の文言の非を指摘する必要に迫られたものと拝察する。
 すなわち、日亨上人は日精上人について誤解されていたところもあるが、先に挙げた解説文や頭注に見られる厳しい指摘は、このような部外者からの論難を意識した結果であり、その根底には、唯一正しく宗祖の血脈を継承する日蓮正宗を永劫に衛護せんとする強い護法の真心がおありだったのである。


<血脈継承の御境界からの同体意識>

 日精上人は、宗祖以来の法脈を伝承されたお方であり、受け継がれてきた法水は日精上人なくしては伝わってこなかったことを、日亨上人は充分に承知されていた。
 しかも日蓮大聖人の仏法を血脈相承遊ばされる御法主上人の御内証の当処は大御本尊と一体であり、御歴代の異なりや時代の壁を越えて一味平等の御境界にあらせられる。
日亨上人は、御身に伝えられた法脈の尊さを深く認識された上で、その血脈継承の方に法義上の誤りは絶対にないとの確信に立っておられた。
 なればこそ、日亨上人はたとえ御歴代上人の御著述であっても、後代に対する配慮や宗門厳護のために、必要と思われる事柄に対しては闊達(かったつ)自在に批評を加えられたのであり、それによって法脈に微塵も傷をつけるものではないとお考え遊ばされていたのである。
 代々の御法主上人が御内証において一体の御境界にあられることから、その尊い同体意識をもって、御先師の文書の非と思われる点を指摘補足されたからといって、それを取り立てて部外者が誹謗の具とすることは許されざる悪業である。

【日精上人に対する日亨上人の尊崇】(『大白法』H16.4.1)

日亨上人は、日精上人の法主としてのお立場に対しては、微塵も疑義を差し挟んではおられない。むしろ日精上人を尊崇されていた御姿を拝することができる。その証例の一端を挙げる。

<日精上人造立開眼の宗祖御影「腹ごもり御本尊」を御書写>
 日亨上人は昭和25年に、常在寺に安置されている宗祖大聖人御影像の御腹ごもり御本尊を御書写遊ばされている。
 その脇書には次のように記されている。
●五十九世日亨八十四歳 昭和二十五年八月八日 東京都雑司谷区霊鷲山常在寺 日精上人造立御影像腹籠也

<『日蓮門下十一派綱要』での日精上人顕揚>
●日精上人始て江戸に教勢を張り又本山の規模を拡張す、此間専属の学林を起し教運漸く開く。(『日蓮門下十一派綱要』291頁)
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この書は、昭和初期の日蓮門下各派の教義および歴史の綱要について、他門の宗学者、北尾日大が編纂した学術書である。その中の「第2篇 日蓮正宗綱要」は日亨上人の執筆によるものであり、日亨上人は仏教関係の学者は勿論のこと、日蓮門下全般に広く読まれるであろうこの書において、特に日精上人の名を挙げ、その業績を顕揚されている。


<『続家中抄』日精伝には頭注なし>
 日精上人の御著述に対して頭注を加えられた日亨上人は、第48世日量上人の『続家中抄』についても種々頭注を加えられているが、「日精伝」中の、
 「諸堂塔を修理造営し絶を継き廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か。」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
との日精上人の業績を賞賛された記述には一言の批判も訂正も加えられていない。

【日精上人に対する誤解の解消は日亨上人の御本意】
 日亨上人は、永年宗史学者として研鑚を積まれた中で、一篇の史料によって従来の学説が覆されることは、当然のこととして承知されていた。
 真実を追究することがすべての学問における大目的であり、日亨上人におかれても、時代の経過の中で史料文書がより正確に解読され、正法を伝える宗門の歴史がより深く正しく解明されることを、最も望んでおられたことは言うまでもない。
 したがって、近年の研究によって、日精上人の御著述にいささかの誤りもなかったことが明確になった事実に対して、日亨上人には霊山において必ずや欣然(きんぜん)として首肯遊ばされるものと拝察する。(『大白法』H16.4.1)

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後賢の更なる研究を望む

■文書に疑ひあるものあれども未だ検討の余力なし、偏に後賢を俟つ。(富要9-39)

■日応上人隠棲の蓮葉庵に於て因師自記之佳跡上巻を捜し得・整理貼合して完本と成す。歓喜して尚存す、然に中下両巻今に其影を見ず憾むべし々、斯本読難く漸く写し漸く訂す。後賢更に厳訂を加えば又幸なり。(富要1-258)

■編者曰く重須本門寺蔵日興上人の正本に依り岩本実相寺の古写を以て参校す。
但し御正本の誤字等は旁註を加へ蟲損等には□符を以てし又愚推を旁註にするあり。猶不明の□符には後賢熟校を吝むなかれ、(富要10ー316) 

■偏に後賢の研究を仰ぐ。(富要8-330)

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日亨上人血脈観

■古往今来化儀化法秋毫(しゅうごう=いささかも)も乱れず、殊に宗旨の本源基礎確立して宗祖以来歴世之れを紹隆し始終一貫未だ曽て微塵も異義を雑(まじ)へたる事あらざるは実に是れ宗祖の正統血脈相承を紹継せる現証にして祖書経巻を解決するに純潔正確宗祖の正意本懐を顕彰し各派に独歩超出せる所以の者も亦之れ血脈相承あるが故なり。

(中略)

蓋し相承に経巻あり血脈あり、就中血脈相承を最とする所以は経巻相承と云ひ師資相承と称するも皆血脈相承に附随含有せらる、故に富士派に於て血脈相承と云ふは主要なるを以てのゆへにして敢て師資経巻の相承なきに非ず、総て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、彼の顕本の所謂経巻相承なる自己勝手に名称せるものとは其の轍を異にせるなり。

而して富士派は血脈相承ある故に師弟相資け法統一系連綿紹隆し血脈相承ある故に経巻の正意を誤らず微塵の異解なく宗旨の本源確立し宗門の基礎鞏固(きょうこ)に万古に渉つて変ぜず各宗派に卓絶し鎮へに法威を輝(かがやか)す所以は則ち宗祖正統血脈相承を特有せるを以てなり、(富要7-381〜)


●此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(第59世日亨上人・有師化儀抄註解『富士宗学要集』1巻116・117頁)

仏と云っても、菩薩と云っても、これは共に久遠元初の仏・菩薩 同体の、名字即の御本仏である。
それは末法に御出現された日蓮大聖人の御本体である。
尚更に一層それを端的に言えば、日蓮大聖人・第二祖日興上人以来の血脈相承を承けられた歴代の御法主上人のことである。歴代の上人こそが血脈の直系の伝承者であるからである。

■現在六百有余の宗教がありますが、最上なものは一つ。只一つでなくてはならないのであります(中略)信仰も一つに統一致しますのが、大聖人の目的であらせられるのであります。そして世界中を全部日蓮正宗に帰依させた上、無数にある星の世界迄も正宗にするのが、大聖人の御真意であります。(堀御隠尊猊下・創価学会臨時総会における特別講演 聖教新聞1951年8月1日付)


参考 富士宗門史を語る

■精師もそのものも、でき上ってきたんじゃないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなった。(中略)精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなった。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといっても、たゞその、身体をもらっただけです。(堀日亨上人『富士宗門史【増補版】』所収「堀上人に富士宗門史を聞く」日亨上人崇敬会 P97)
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日達上人が日亨上人の説を覆した例

熱原法難で三烈士が命を落とした年月日を、『富士日興上人詳伝』には、
●神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。(同書91頁)
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『富士年表』では種々検討した結果、弘安2年10月15日としてきた。
『仏教哲学大辞典』(第3版)
「熱原法難」
◆10月15日※、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人は事件の発頭人というかどで斬罪に処せられ(※弘安2年・同書33頁)
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『富士日興上人詳伝』創価学会刊行

『仏哲』(初版)
◆処刑の日は、弘安2年10月15日と、翌3年4月8日の両説がある。(同書1-62頁)
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『大白蓮華』昭和53年12月号・池田大作
◆かつての堀日亨上人の文献によれば、三烈士の刑死の日は、熱原法難の翌年にあたる弘安3年4月8日であるとの説であったが、猊下※の御説法によって示された弘安2年10月15日というのが、私達も本当にその通りであると思う。(※日達上人・同書95頁)
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日顕上人

●法主が無謬(むびゅう)とか無謬でないとか、そんな子供のけんかのようなことを言うのがおかしいのです。たとえ血脈相承を受けた法主であっても、思い違いや多少の間違いがあるようなことは、当たり前なのです。
 大聖人様にも『観心本尊抄』に「章」という余分な一字をお書きになっている所があります。同様に、それ以下の法主だからといって、そういう思い違いやちょっとした間違いぐらい、だれもないなどとは言っていません。(中略)創価学会の者どもは、日寛上人と日亨上人をこれ以上ないほど持ち上げますが、日亨上人がどんなに学匠だからといっても、絶対に無謬ということでもないのです。
 今、日蓮正宗に『富士年表』というのがあります。これはずいぶん苦労したのです。日達上人の御指南で私どもが作りましたが、全部を作り上げるのに20年ぐらいかかりました。そのときに、史料の上の難問は山積しており、今までの説を改めるべき色々な問題が出てくる。そうすると、やはり「日亨上人がこうおっしゃっているけれども、ここは違うから、このようにしよう」ということで訂正した箇所もありました。何もそれは日亨上人の研究を否定するということでなく、新たな資料の発見などによって当初の考えから、より真実に近づいた結論が出たからです。また、膨大な資料をお一人で見る場合に、やはりどうしても色々な意味でちょっとした思い違いなどもありうるのです。 要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』62頁)

参考・池田発言

◆700星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、1点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました。(同第6巻12頁)