本因妙抄口決 日順之を記す

三大秘法抄に云はく題目に二意有り云々、能く能く之を習ふべし。

これを三大秘法抄の記述の初出と見る。

日順師は1294年生〜1356年寂 

この書は、1354年(聖滅73年目)と推定されている。

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堀上人に 富士宗門史を聞く(一) (富士宗門史 増補版 堀日亨上人 p89)

語る人 第五十九世御隠尊猊下 堀日亨上人

聞く人 教学部長 小平芳平
    教理部教授 秋谷城永
    教學部教授 多田省吾

富士日興上人詳傳に引きつづいて本誌五十五號より掲載されておりました富士宗門史は、堀上人の御都合にて一時中断しておりました。
そこで、要集編纂等で御多忙の堀上人に特にお願いし、畑毛にお伺いしまして、日時上人より日寛上人ころまでの宗門史を語っていただきました。

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戰國時代の富士教學

○ 大石寺五世の日時上人のころは、ちょうど保田の日郷の方と、大石寺の方とが、係争の眞最中だと思いますが、そのころ、日時上人の書かれた本因妙抄のお寫しが大石寺にあるということはやはり、日興上人以来の正しい教學というものを相當大石寺の方で強く打ち立てておられたものと思われますが、いかがでしょうか。
宗祖滅後百年ごろには妙蓮寺日眼師がおられたし、又もっと以前には三位日順師もおられたのですが……

堀上人 それはですね、北山にそういう古い文献がないんですよ。そして大石寺に本因妙抄等がある。
それによって、大聖人の教義を大事にしていたというしるしにすることができるのです。
それに、三位日順のあゝいう一連の各書類がですね、北山に一冊もなくて、みんな大石寺にある。
もっとも北山には、日順の直接の筆ものがあるけれども。それは重大なもんではないですよ。
日順の筆に相違ないですけれどもですね。
それは、ほとんど御開山の教義を直接に書いたものではなくて、ほかからきたのを日順が寫しておいたというような、そういうものは北山にある。
いつか寫眞で大白蓮華に説明したことがありましたですね。
とにかく大事な日順の誓状始め、あゝいうものが北山にないです。

そして戰國時代の寫本が大石寺にあります。
しかし、その書いた人の行蹟がわかりません。
まあ、その寫された時代は戰國時代から織田・豊臣時代までですね。
このような戰國時代としては古い方の書類が、全部大石寺にきているんです。
もう少し研究すると、その寫本の主人公がわかりますがね。
今では名前だけで行蹟が全然わからん殘念です。

○ 特に教義とか歴史とか……

堀上人 いえ、三位日順のすべてのものがほとんど、どこにもないのです。
あるのは大石寺に一度きたのを、要法寺の人が寫して、そして要法寺へ持っていって、それを今度は北山に寫してあげたのが北山に殘っている。
ですから大石寺の三轉本ですね。
大石寺のが一番古くて――古くてといってもですね、日順の本じゃないんじゃ、日順の本を寫した人が、何人かあって、それが日順の古い本を、みんな大石寺にもってきた。
どういう動機でもってきたかも、寫本の主の経歴がわかりませんから不明だし年代もわからんです。
ただ紙や筆法でもって、この時代じゃろうといって、わたしどもが鑑定するだけのものでね。

○ そうすると、三位日順の本因妙抄口決なども?

堀上人 えゝそうです。口決などもそうです。
あゝいうものが、ほかにないから、本因妙抄口決などを要法寺あたりでは、偽書だなんていっている。
それに、文體が他の物と違うですらね。
普通の三位日順の立派なこしらえ上げた、修理された漢文體のものはたくさんある。
けれども書きっぱなしのものが、保田の妙本寺から出たですね。
それは妙本寺日安あたりが書いたものですから。
日安というと、お山の日有上人時代ですね。
とにかくそれは漢文體でなくて假名混り漢文體のいたってまずい文體になっていますね。
それからみると、本因妙口決などは、漢文にはなっていますけれども、文體がほかの三位日順の修正された文章にくらべてみると、ほとんど似つかない拙文です。
それで、これは偽書だというのです。
けれど、その、ほかに日安の寫した古いものによってみるというと、同じ種類の日順のものがあったのです。
ですから拙文だからといって偽書ではありません。


本因抄口決(要集2−69〜)

日順之を記す

本文略

2−84
編者(※日亨上人)曰はく本山棟師本巻頁に
「本因血脈詮要抄秘すべし秘すべし伝うべ し伝うべし  日棟之を釈す」
とあり今此れを台本とし日俊師及び日寛師写本を以て校合を加ふ。
但何れも難読の書にして漸くに延べ書に為す事を得たり。