考察

本門寺棟札

お疲れ様です。
早速ですが一つ目の質問でございます。
私は限られた地域ですが、神社参拝をする立場でございます。
日蓮正宗系の教えですと、神社参拝、入る事を頑なに禁じます。
ですが、大石寺の歴史も調べたのですが、
かつて大石寺にも天王堂、垂迹堂があり
祭神も天照八幡と当初祭ってました。
しかし、今現在は無くなってしまってます。
同じ富士門流ですと、
北山本門寺では
再建ではありますが、
垂迹堂はあります。
こちらも現地に行って
確認させていただきました。
何故天王堂、垂迹堂を
無くしてしまったのでしょうか?


ちなみに
自分の見解ですが、
この廃堂にしてしまった
原因は創価学会にあると
私、考えている次第であります。




 YouTubeコメントからの、常円寺は邪宗日蓮宗みたいですね。
質問一については立正安国論からの『謗法の国土を諸天善神が捨て去った』がいちばん有効かなと。
日蓮宗は、大聖人ごしんせきしか認めない感じが強いですが立正安国論からなら、間違いないのではと。
それと私も撤去された経緯など調べてみまして以下が調べたものです


『. 天王堂・垂迹堂の概要と歴史的背景

(1)天王堂

概要:
天王堂は、大石寺境内に存在した堂宇で、天照大神(伊勢神宮の主神)と八幡大菩薩(八幡神)を祭神として祀っていた。

日蓮正宗では、諸天善神(天照大神、八幡大菩薩など)が法華経(本門戒壇の大御本尊)を守護する存在とされる(『新池殿御返事』新編1349頁)。

歴史:
大石寺創建(1290年、日興上人)以降、鎌倉時代から江戸時代にかけて、天王堂は諸天善神への報恩と国土安泰を祈る施設として機能。

江戸時代(17-18世紀)、幕府の神仏習合政策下で、天照大神や八幡神が仏教寺院に祀られることは一般的だった(例:東大寺の大仏と八幡神)。

『大石寺史』(日蓮正宗宗務院)によると、天王堂は17世紀頃に建立され、八幡宮形式の神祠として維持された。

(2)垂迹堂
概要:
垂迹堂は、神仏習合思想に基づく堂宇で、垂迹神(本地仏の仮の姿として現れる神々、例:天照大神=大日如来)を祀る施設。

日蓮正宗では、末法の本仏(日蓮大聖人)の教義に基づき、諸天善神は法華経の守護神として従属する(『観心本尊抄』新編186頁)。
歴史:
垂迹堂は、鎌倉時代から室町時代にかけて、神仏習合の影響で大石寺に設置された可能性が高い。

『法華経』「提婆達多品」に基づく本地垂迹説(神は仏の仮現)が、幕府や他宗(天台宗、真言宗)の影響で取り入れられた。
(3)祭神:天照八幡
天照大神:
伊勢神宮の主神。神仏習合では、大日如来や阿弥陀如来の垂迹とされた。

日蓮正宗では、『立正安国論』(新編26頁)で天照大神が法華経を守護する神として登場。
八幡大菩薩:
八幡神(応神天皇)は、仏教の守護神として全国の寺院に祀られた。

『報恩抄』(新編365頁):「八幡大菩薩は法華経の行者を守護す」。
大石寺の位置付け:
天王堂・垂迹堂は、諸天善神への報恩と、正法護持を願う施設として機能。

しかし、末法の本仏(日蓮大聖人)の教義では、戒壇の大御本尊が絶対の信仰対象であり、諸天善神は従属的(『観心本尊抄』新編186頁)。
2. 天王堂・垂迹堂の撤去理由
(1)教学的理由:謗法排除と正法護持
謗法の排除:
日蓮正宗の教義では、戒壇の大御本尊(本門戒壇の大御本尊)が唯一の信仰対象であり、他の神仏や本地垂迹説は謗法(法華経を貶める行為)とされる。

『法華真言勝劣事』(新編1337頁):「文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず」。

天王堂・垂迹堂の神仏習合的要素(天照=大日如来など)は、末法の正法(南無妙法蓮華経)にそぐわないと判断。

『新池殿御返事』(新編1349頁):「諸天善神も心の汚れたる人の供養はうけない」。

天王堂・垂迹堂は、諸天善神を正しく報恩する施設として機能したが、明治以降の神仏分離や宗門の教学深化に伴い、戒壇の大御本尊への純粋な信心を優先。
日寛上人の指導:
日寛上人(26世、1665-1726年)は、『六巻抄』(『文底秘沈抄』)で、戒壇の大御本尊以外の信仰は謗法と断ずる。

「事の戒壇(大石寺)に帰依せざれば、国難を免れず」。

天王堂・垂迹堂の神仏習合的要素は、日寛上人の教学に基づき、謗法として排除された。
(2)歴史的理由:神仏分離と建築変遷
明治の神仏分離令(1868年):
明治政府は、神道を国教化し、仏教と神道の分離を強制(『日本史大辞典』)。

全国の寺院から神祠(八幡宮、天照社など)が撤去され、大石寺の天王堂も影響を受けた。

天王堂は、1870年代に一時閉鎖または縮小された可能性(『大石寺史』)。
宗門の教学深化:
明治以降、大石寺は日寛上人の教学を基に、戒壇の大御本尊中心の信仰を強化。

20世紀初頭、59世日亨上人(1917-1957年在位)は、謗法払いの運動を推進。

天王堂・垂迹堂は、神仏習合の名残として、1920-1930年代に段階的に撤去されたと推測。
建築の更新:
検索結果(、)によると、大石寺の主要建物(御影堂、宝蔵、五大堂)は頻繁に再建・改修。
例:御影堂(1465年建立、1998年再建)、五大堂(2002年建立)。

天王堂・垂迹堂は、老朽化や地震リスク(富士山麓の地震頻度、気象庁)を理由に、維持が困難と判断された可能性。

1925年、石之坊の天王堂が移転()。これが大石寺全体の天王堂撤去の契機か。
(3)実践的理由:戒壇の大御本尊中心の信仰
信仰の純化:
大石寺では、戒壇の大御本尊への信心が三災七難(台湾有事、地震)を防除する(『報恩抄』新編365頁)。

天王堂・垂迹堂は、諸天善神を祀る補助的施設だったが、信徒の誤解(神仏平等視、謗法)を防ぐため撤去。

『観心本尊抄』(新編186頁):「本門戒壇の大御本尊を受持する者は即身成仏す」。
儀式の集約:
諸天善神への報恩は、御影堂や五大堂での勤行(丑寅勤行)で十分。

例:五大堂(2002年建立、)は、戒壇の大御本尊を祀る中心施設。
現代の状況:
検索結果(、)に天王堂・垂迹堂の記載なし。現在の大石寺は、御影堂、五大堂、宝蔵を中心に構成。
宝物殿()では、日蓮大聖人や日興上人の遺品を展示し、戒壇の大御本尊の歴史を強調。
3. 教学的意義と現代の応用
(1)謗法排除の重要性
鎌倉時代との連続性:
日蓮大聖人は、念仏・禅・真言を謗法として破折(『立正安国論』新編25-27頁)。

天王堂・垂迹堂の撤去は、念仏謗法が元寇(1274年、1281年)を招いた教訓に基づく。

『受職人得功徳法門抄』(新編696頁):「此の師を謗ぜん人は罪を無間に開く」。

天王堂・垂迹堂の撤去は、諸天善神への報恩を、題目と戒壇の大御本尊への信心で代替。

??

5. 結論
(1)天王堂・垂迹堂の撤去理由
教学的理由:
謗法排除:神仏習合(天照=大日如来など)は、戒壇の大御本尊中心の信仰にそぐわない(『法華真言勝劣事』新編1337頁)。

正法護持:戒壇の大御本尊への信心が諸天善神の加護を招く(『新池殿御返事』新編1349頁)。

日寛上人『六巻抄』:戒壇の大御本尊以外の信仰は謗法。
歴史的理由:
明治の神仏分離令(1868年):天王堂の祭神(天照、八幡)が撤去対象。

宗門の教学深化:59世日亨上人の謗法払い(1920-1930年代)で、天王堂・垂迹堂を撤去。

建築更新:老朽化と地震リスク(富士山麓)で、維持が困難()。
実践的理由:
信仰の純化:戒壇の大御本尊中心の信心を徹底。

儀式集約:御影堂・五大堂で諸天善神への報恩を完遂。
(2)現代の意義
天王堂・垂迹堂の撤去は、謗法排除と正法護持の象徴。』

というのが調べた結果ですが、正確性にやや欠けるところもあるかも分かりません。歴史的な当時の国家の働きや、様々な事情が垣間見えます。きちんと調べないと分からないので、また改めて調べてみます

1日夜7時からは私も参加出来ると思いますので、よろしくお願い致します



御法主日達上人猊下御講義

┌──────────────────────┐
│ 総本山大石寺諸堂建立と丑寅勤行について  │
└──────────────────────┘



------------------------------------------------------------------------------
表紙の写真は、享保年間の総本山を描いたものです。
これは狩野舟川の筆によるもので極彩色で畳三畳分
くらいの大きなものです。
題は御法主上人猊下より御揮毫を頂きました。
------------------------------------------------------------------------------
目次
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25行目
草創期・・・・・・・・・・・・・・・・・41行目
上代の大石寺・・・・・・・・・・・・・139行目
江戸前期・・・・・・・・・・・・・・・337行目
江戸後期以降・・・・・・・・・・・・・561行目
結・・・・・・・・・・・・・・・・・・684行目
参考史料・・・・・・・・・・・・・・・716行目
------------------------------------------------------------------------------

[ 序 ]

私が今日お話したいと思いますのは、本山に於ける丑寅勤行のことでございます。

先日ある所で

「丑寅勤行について書いてくれ。」

といわれた人がありましたが、よく分からないというので止めたそうです。

これについて、私の考えている事を少々申し上げたと思います。
これはその史料(後に掲載)でございます

このことについて、結論から申しますれば、丑寅勤行に五回(五座)に分けて御経をあげると言うことは本山のあちこちに堂が建ちまして、例えば御堂とか本堂とか、或いは天経(天壇)というふうに、或いは客殿、或いは六壷と昔から順々に建ちまして、これかの堂について丑寅勤行を行った。

その為、最初はあちこちで御経をあげたのですが、それを後世には一括して、客殿の一ヶ所で御経をあげるようになったので、五回(五座)に分けるのでございます。
その時間は昔から朝の勤行と言えば当然丑寅勤行のことなのであります。
結論はこういうことになりますが、史料を追って順々に申し上げたいと思います。

[ 草創期 ]

まず第一に、日興上人が身延を出られて、正応二年(西暦1298)十月十二日からこの大石ガ原を開墾して大石寺の建立を始め、正応三年十月十二日に建立が成就したのでございます。

これは一往六壷ということになっておりますが、大坊であります。
大坊が出来て同時に、
日目上人が正応三年十月から十一月にかけて蓮蔵坊をお造りになり、
引き続いて正応三年かその翌年初めにかけて理境坊日秀が理境坊を、
日仙が百貫坊、
日尊が久成坊、
日華が寂日坊、
日円が観行坊、
日弁が蓮蔵坊、
日禅が少輔坊(現在の南之坊)
というように造られて、後の東の方の坊は少し遅れて出来たと思うのでございます。

 そうしますと、既にこの正応三年の時代は「大石の寺」即ち、大石寺といっている(詳伝243頁・聖典628頁)大石寺と言っている以上は坊が沢山あっても坊だけでは「寺」と言えない即ち、既に本堂が出来ているわけです。
寺の中心に本堂を造ってあるわけです。
それから御影堂があり、大坊があり、その大坊の中に六壷があると思われるのです。

 堀日亨上人の六壷の図面によりますと、大坊は十二間四面と言うことになって、東南の部屋に仏殿、その後側が居間、西北が寺務所、西南が集合所となっております。
然し乍ら、事実そうであったかどうかは分かりません。

 我々の考えから行きますと、六壷と言えば六つに分けたことは当然であります。
六つに分けると真中の奥が仏間であり、真正面が向拝であり、右の奥(東北)が住職の部屋、西北の部屋が台所、西南の所が茶の間とするのが普通の考えであります。

 どっちにしてもそれは坊である。
そうすると一番大きく造ったから大坊です。
それ故、必ず初めから御堂や本堂が出来ていると考えられるのでございます。

永仁六年(西暦1298)二月十五日、重須に御影堂建立と言うことになって日興上人は重須に往かれ、そこに住せられております。
然し乍ら、重須に居住して全く大石寺から離れてしまったという意味ではありません。
一往、大石寺は日目上人を番頭として守護せられておりますが、あくまで日目上人は蓮蔵坊にお住まいになっているのです。
故に日興上人は大坊に居住せられ、北山に往ったり、当方に還ってきて種々の御指図をせられていると言うことは明かでございます。

それは、日因上人が『日有上人御物語聴聞抄佳跡』(要集1−187)にお書きになっているのに、

「当山建立は正応三年十月十三日ニ之を成就し畢ル 日興上人同日ノ御内ニ此の寺以て住持日目ト之を定む」(これは補処の内定といういみですね。)

「御座替ノ御本尊是レ其ノ証拠なり。但シ大石寺付嘱ノ譲状ハ元徳四年(西暦1332)壬申十一月即正慶元年なり、此表趣ノ御遺状なり」

ということが出ております。
そうしてみますと、やはり日興上人は永仁六年(西暦1298)に重須を造ってからも大石寺に来られ、住職としてお住まいである。
一宗の棟梁として大石寺に住せられていたことは明かです。

(日目上人への御付嘱は)いよいよ最後の譲状、『日興跡条々之事』で、はっきり分かるわけであります。

「一、大石寺は御堂と云い墓所と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(聖典513頁)

で、これは元徳二年十一月十日であります。
しかし、元徳二年にこの譲り状をお渡しになったとは考えられません。
ここに日因上人の仰せ有る通り元徳四年即ち正慶元年十一月に実際に渡されたというのが、本当ではないかと思います。

 ここにはっきり「御堂と云い墓所と云い・・・」とあり、これは本山の歴代上人の御説法によりましても、御堂とは大聖人の正御影様の御座す御宮殿(ごくでん)をもって御堂と云い、墓所とは大聖人の御灰骨を指して申されたとなっております。

 これは事実そうでありますが、これを敷衍して考えた時に、やはり実際に御堂が建っていたと考えなければならない。
それでなければ、身延から(今は保田にあるという)あの大きな御影様をかついできて置く場所もない。
また戒壇の御本尊様を安置する場所もないわけである。
六壷は六壷として日興上人が安置の本尊をお書きになっておりますし、また自分が住むところに(御影様や戒壇の御本尊を)安置するのは申し訳ない事です。
初め何もお寺がなかったときには六壷に安置したかも知れませんけれども、結局、その大坊や塔中の後方の中心に本堂を造って戒壇の御本尊を安置し、そして御影堂に御影様を安置するのが当然かと思われます。

 ここに御堂ということは、御影様の御宮殿(ごくでん)とするのが当然かと思いますが、大きく敷衍すれば、立派で大きな御影堂が出来ていると言えます。
何故なれば「之れを管領し、修理を加え」とあり、特に、傷んだならば必ず修理をしていきなさいと言うことがはっきり出ている。
こうしてみると、御堂というものが別に出来ていると考えるべきであります。

 「勤行を致し、」ここでは丑寅勤行とは申しておりませんが、この自分の勤行というのは必ず早朝であります。
夜明けのまだ太陽が昇る前、朝になりかかった時御経をあげるのであります。
夜、日が落ちれば休み、もう太陽が出る前には起きるということは、昔からの習慣で当然であります。

『上野殿御返事』に
「三世諸仏の成道はねうしのをはりとらのきざみの成道也」(新定1974頁)

と説かれるとおり、仏の成道が子丑から寅の初めにかけての成道ならば、これに合わせて勤行するのが本宗の古来からの習慣でなければならないと思います。
この丑寅勤行について檀那流の相伝に

「気息 即薄墨中道也」

という言葉があります。
薄墨とは即ち、まだ本当に空けない夜明けの闇みかかったところから明ける時、
気息とは息です。
息がハーハーしてもいけないし、そうかといって遅くてもいけない。
本当の中道でいかなければならない。
だから薄墨が中道です。
この薄墨とは即ち丑寅の刻である。
この辺から我々の衣が、大聖人の時代から薄墨となっているのではないかということも考えられる。
この言葉は檀那流の相伝ですから、天台の檀那流あたりから、こういう思想が来たのかも知れません。

 (日目上人に御付嘱の)御内定は、正応三年の大石寺建立と同時に「御座替御本尊」(要集8−179)を御認めになって、日興上人が日目上人に譲られているときです。
しかし表向きの引継はやはり先の『日興跡条々之事』を渡された正慶元年十一月であります。
その時の御本尊もあります。
『御手続御本尊』(要集8−188)で正慶元年十一月三日の御本尊です。
「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す 一が中の一弟子なり」
で、これにまた日道上人が加筆せられて、
「日道之を相伝す」
という、いつも御虫払に御掛けするところの日興上人の御本尊があります。

正慶元年十一月(日興上人は正慶二年二月の御入滅ですから、その三ヶ月前)に大石寺を正式に譲り渡されて、それから後はこちらに来ないで北山に居られたということがはっきりすると思います。

とにかく、既に大石寺は御影堂、本堂というものが出来ております。

 それから後に日目上人が上奏をなされて、正慶二年(西暦1333元弘三年)十一月十五日に美濃の垂井の宿です。
野原でのたれ死にした等と、悪口を言う人がありますがとんでもないことです。
垂井の宿といえば家があるに決まっている。
たとえ五軒でも十軒でも家があったから宿である。 
この垂井の宿で御入滅になり、そこでお供をしていた日尊と日郷は、日目上人を荼毘に申し上げ、日尊は御遺骨並びに宝物・上奏の申状等を持って京に上り、日郷が分骨の御遺骨を奉じて富士へ帰られた。

 このことにまた一つの問題があります。
富士へ帰った日郷が日目上人の御遺骨を下之坊に埋けたので、御正墓は下之坊にあると言われています。

 これについて私も異議がありますが、この問題はまたいつか、教師講習会の時にでもやりたいと思います。(写真:下之坊の日目上人の御正墓)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[ 上代の大石寺 ]

 それはともかくとして、とにかく大石寺は日道上人が跡をお継ぎになってやっております。
日道上人はその時下之坊に居られ、そこから大石寺へ入られた。
また、、日郷が富士に帰られ蓮蔵坊に入ったのです。
何故なれば蓮蔵坊は日目上人の住坊であり、日郷は日目上人の弟子であります。
そして大坊が日興上人のものでありますから、日目上人は最後まで即ち、正慶元年十一月まで大坊には入られず、蓮蔵坊に居られる。
それにお供して日郷が蓮蔵坊に居られたのだと見ると、日目上人が大坊に入られて後、日郷が蓮蔵坊の留守居として入られているのが当然であります。
故に、日郷が京都から帰られてから蓮蔵坊に入ったわけです。

 そこで、今度は道師と日郷の間に大石寺の相続争いということが起きて約三年間争った後に日郷は保田の方へ行かれ、吉浜の中谷に法華堂を造られた。
その時に御堂の御影様を持っていったと言うことになっております。

すると今度は、本山の御堂に御影様がないから嘉慶二年(西暦1388)十月十三日に第六世日時上人が越前法橋快恵に等身の御影を彫刻させまして、これが今の御影様です。

これに、

「敬白 大施主 奥州法華宗僧俗男女
        野州法華宗僧俗男女
        武州法華宗僧俗男女
        駿州法華宗等
 嘉慶二年太歳戊辰十月十三日
   願主 郷阿闍梨日時  在り判
   仏師 越前法橋快恵  在り判  」

のように御影様に書かれてあったのです。

ところが残念なことに昭和六年日開上人の時御影様を御衣替えした時に、残しておいて下されば良かったのですが、それを消してしまい、その上から日開上人が(書き直して)昭和六年云々とお書きになった。
但し、その終わりに「前の嘉慶二年の字が薄くなって分からなくなったから消した」と書き加えてあります。
分からなくとも残しておいて下さればと非常に残念に思いますが、とにかくその史料が残してあるから、これは間違いないと考えて良いと思います。

 で、その後日時上人の時、大石寺の東坊地の争いの上から、明徳二年(西暦1391)に中納言日伝(南条時光の孫 牛王丸)という人が東坊地のどの辺に建てたか不明ですが、多分裏の方に建てたのでしょう。
やはり西坊に負けずに自分の方にも御堂を造ったのです。

所がそれから十五、六年後の応永十二年(西暦1405)四月十三日に、大石寺の東坊地を日時上人に渡さると、はっきりこれを渡されることになった。
争論の結果日時上人が東坊地を総てもらう事になり、そこで日時上人が明らかに同年五月二十二日に日伝に大聖人の御影の返還を求め、

「・・・・・早々御影をも元の如く帰しまいらせ給い候はば目出度候由披露申させ給ひ候はば目出度存じ候々々々々々々、恐々謹言。
  (応永十二年)五月廿三日
          僧日時 在り判
 侍従阿闍梨御房 」(要集9−50)

 っという文書を送っております。
この「侍従阿闍梨御房」とは侍従阿闍梨日周(詳伝857)のことで、中納言日伝の後継者です。
で、この文書は、土地を返してもらったのだから早く御影様も返してくれと言うお手紙です。
しかし遂にこちらに還ってこないで今は保田にあるということになって居るのでございます。

それから五十四、五年経て、日有上人の時代に、

「寛正六年(西暦1465)二月、御宝蔵を小校倉造りに改む(年表)」

とありますが、この時代に御宝蔵を改めたのではなく、恐らく小校倉の御宝蔵を初めて造ったのだと私は考えます。
これは、それまで大坊に御宝物が置かれてあったけれどもそれでは不便であり、大坊に一緒に置くと心配であるから御宝物(戒壇の御本尊様や御影様ではなく、大聖人の御真翰類や普通の紙幅の御本尊様等)を納めるために校倉造りの御宝蔵を造ったのだと思います。

 ここに、特に「小校倉造り」と書いてあるのは、今の戒壇の御本尊様を安置していた御宝蔵ほど大きくなく、小さな校倉を造ったと言うことで、ここが問題です。
だから(この当時の)御宝蔵には戒壇の御本尊を安置していなかった。(このことについては本文江戸前期の項に更に詳しく述べられております)
小さい校倉を造って御宝物だけを仕舞ってあったのだろうと、こう考えます。
で、また、

「寛正六年(西暦1465)三月、客殿を創建す(年表)」

今まで大坊の中に六壷があったけれども、今度は新たに客殿を造った。
即ちこの時分になると信者も増え、地方からも参詣する人もあり、また当地に於ての色々なお参りもあるでしょう。
それ故にこの日有上人の時に初めて客殿を造られたのです。

その次の日鎮上人の時に、

「在寺五十六年、其間東西に往返し富士に帰り(大永二壬牛年(西暦1522))、伽藍を建立す所謂本堂・御影堂・垂迹堂・諸天堂・総門等なり」(聖典749)

これは「建立す」とありますから、この時本堂・御影堂が出来たと思えますが、しかしこれは以前からあったので、(この時まで)日興上人の時代から約百年も経過しておりますから、これは諸堂を修築したのでしょう。
但し総門は新たに造ったのだと思います。

 それからその次の年の大永三年に『堂参御経次第』という書き物が残っております。
これを見ると、今の五座の勤行の本(原形)というものが分かります。

「大永三年 壬未 五月一日 夜
  本堂へ十如是寿量品  一巻題目百返
  天御経へ十如是寿量品 一巻題目百返
  御影堂へ十如是寿量品 一巻題目百返
  又其後寿量品三巻 題目百返
 二日 朝
  御影堂にて  十如是寿量品 三巻題目三百返
  天御経へ参りて十如是 寿量品一巻題目 百返祈念申候
  大堂へ参りて 十如是寿量品 一巻題目一百返 祈願申候
  御影堂へ参りて 十如是寿量品 一巻題目百返 祈念申候
 以上 十二巻千二百返
     日 鎮(花押)
(大堂とは本堂です。また二日は朝ですから「祈願し奉り候」とあります)」

こうしてみると、まず一の五月一日の夜の方を見ても、本堂で本尊供養、次いで天御経は天拝(夜ですが天拝を行っています)、そして御影堂で二回御経をあげたのは、三師・歴代の供養と「其後寿量品」の方は広宣流布の(御祈念の)御経であると考えて良いと思います。

 また二日の朝も、同じく御堂に於て御経をあげるのは三師の供養、天御経は天拝、それから大堂(本堂)で御経をあげたのは本尊供養、最後に再び御堂に参って広宣流布の御経である。

そうすると、一般の回向は大坊に帰ってから六壷においてしたと考えられますから、五座の御経というのはこの時代に既にあったのだと言うことが明らかに分かります。
各堂について、それぞれ御経をあげて廻ったのであります。
また天拝(天御経)というのは天壇(台)を設けて御経をあげたことが分かります。

(写真:『堂参御経次第』の現物 総本山蔵 日鎮上人筆西暦1523年)

その後、十三世日院上人の時に、

「永禄十二年二月七日 大石寺の諸堂武田信玄の兵火に罹る(年表)」

とあります。
しかしその前に、今回見つかった井出家文書の日院上人御消息があります。
これに、

「つねづねきやくでんのうわぶきなされ候しまことにまことにかたじけなふ御有がたふ
 おもひまいらせ候・・・・。(以下略)
 霜月廿四日
 僧 日院 花押
 大いしてら
 井出右京□殿  参        」

となっております。
日有上人が客殿をお造りになってから日院上人の永禄十二年に諸堂を焼かれるまで約二、三百年間客殿の屋根は草葺きだったのでしょう。
この文書に「つねづね」とありますからその間しょっちゅう井出さんに頼んで屋根替え等をしてもらったのでしょう。
手伝ってもらったか、或いはいくらか援助してもらったのか分かりませんが、とにかく屋根を修理してもらってありがたいと言うことがこの文書より分かります。
(写真:井出家文書の現物 日院上人御消息 井出家蔵)

それから後永禄十二年(西暦1569)に、「諸堂」といいますから客殿のみならず、みな焼かれたのかも知れません。
これについて、先年大講堂の建築の際に地中より沢山の穴あき銭が出ましたが、(これは当時、私が大日蓮に載せまして(大日蓮132号(昭和32.2)25頁)武田の兵火に罹る時に隠匿したものであろうと推測しましたが)これ等の古銭は日院上人より以前のものなのです。

すると武田の兵火に罹る時、埋めたものであると、今になってはっきり分かります。
あの古銭は日本のものではなく、支那から来た宋銭及びそれ以前のもので、日院上人以前の古銭ばかりであったところを見るとはっきり分かるのでございます。

それから第十四世日主上人の時に、

「駿州富士郡上野郷大石寺中の事、往古の規矩に任せ四至傍(榜)爾境等、自今以後聊
 違乱有るべからず候。畢竟寺家の修造仏法の興隆怠慢無き様御肝煎簡要に候。造営等
 の儀は上人の御作意を得て涯分馳走せしむべく候。恐々敬白。
 (天正二年(西暦1574)か?)九月四日       跡部大炊勝資 在り判
 大石寺玉床下      」(要集8−44)

という文書、大石寺を焼いてしまったけれども安堵して造れという安堵状があります。(自分たちが焼いておきながらずいぶん勝手なことを言っていますが。)

ここに「四至傍(榜)爾境等」の四至とは四側・四方、傍爾とは掲示を出すことですから、大石寺の領地の四方にちゃんと境界線を作れというわけです。
それから「上人の御作意を得て涯分馳走・・・」の涯分とは身分相応という意味で、馳走とは今では御馳走を食べる意味ですが、ここでは御寺を建てるために走り回れという事です。
つまり、上人の意志に従い、それぞれ身分相応に走り回り(寄進や資材を集めて)御寺を造りなさいと言う意味です。

これと同じく、天正二年(西暦1574)甲戌九月十二日に武田勝頼が安堵の判物をよこしております。

「 定
 寺中の規矩並法度以下、今河(川)義元同氏真の時の如く、自今已後も聊相違あるべ
 からず候。畢竟寺家の修造仏法の興隆怠慢あるべからざる者なり。仍て件の如し。
 天正二年甲戌九月十二日         勝頼     在判
 大石寺         」(要集8−44)

と、こういう安堵状をよこしたので、いよいよ本山もまた諸堂を造るようになったのでございます。

その後、天正十一年(西暦1583)までには諸堂が出来たのです、
何時出来たかという事は文書が残っておりませんので分かりませんが、天正十一年十月五日に「定」が本山からでております。

「 定
 駿州富士上方大石寺規矩法度並寺内諸役等免許の事
 右無縁所たる間旧規の如く有る可らざるの状
(無縁所、即ちどこの国の大名に属するわけでなく、あちらに味方したりこちらに加勢
 する御寺ではないから、軍勢が御寺へ入って濫妨狼藉をしては困る)
 一、当手軍勢甲乙人当濫妨狼藉の事
 一、殺生禁断の事
 一、寺中諸沙汰真俗共速ニ裁許有るべき事
 一、権門の被官人と雖檀那と号し、寺中善悪の義綺い有るべからざるの事
  (たとえ権力ある家柄の人でも檀那と称して勝手なことをしてはいけない)
 一、寺家郎徒以下在家人等に至って自他非道の儀申しかくべからざる事
 一、門前ヲ馬場と致すべからざる事
  (門前が広いからといって馬場にしてはいけない)
 一、門前エ荷物を入れ押売狼藉すべからざる事
 一、竹木ヲ裁リ取ル事
 一、大宮の役為りと雖も別無きの儀に就いては其の沙汰すべからざる事
  (大宮とは浅間神社で、当時浅間神社は色々な労役をあちこちに課したのですが、
   たとえその浅間神社の労役でも、大石寺へ申し付けてはいけない)
 一、門前商売の物諸役有るべからざる事
 一、門前に於て前々市之なき処只今立ルの儀停止せしむる事
  (昔から門前に市はなかったのだから、今更市を立ててはいけない)
  右の条々天沢寺殿の袖判の旨に任せ堅く申し付る所なり
  若し違乱の輩に於ては早速注進の上糾明あるべき者なり
 仍て件の如し
   天正十一年十月五日
  大石寺      」(要集5−323)

こういう「定」を正式に以前から天沢寺殿の承認の印によって堅く申し付けるという事であります。
天沢寺殿とは天沢寺秀峰哲公で、即ち今川義元の事であります。

 とにかく、いま第十四代日主上人の天正年間の古地図があります(左図参照)
このように、もう坊が揃っており、本堂・天経・御影堂と並んでおります。

了性阿闍梨日乗(大学了性阿日乗 文保2年(1318)寂奥州登米の出身)の蓮仙坊は蓮成坊の上に銀杏の木の裏の辺にあったのです。
いまでもちゃんと石の香炉と水入れが記念に残してあります。

 また日禅(少輔房(阿)日禅 元徳3年(1331)寂富士川合の出身)の少輔坊。(大坊はもっと西にあるべきですが図面上こうなっています)少輔坊は子持杉の南の所にあったわけです。
それを後に南に移して南之坊とし、また蓮仙坊も一番下に移して了性坊としたわけです。

 このような図面を見ましても、本堂・御影堂等は既に昔からあったという事がはっきりします。
(写真:少輔坊日禅の墓)
( 図 :日主上人御筆 天正年間の古地図 「日興上人詳伝」249頁)
(写真:日乗上人塚)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[江戸前期]

 それから後、徳川時代の初め、寛永になって日精上人が御影堂を建立(西暦1632)した。
今度は御影堂を大きくしたわけです。

その棟札(左下の図)に「本門戒壇本堂」と書いております。
だから、この時分の本堂とは結局御堂であった。
しかし別に「御影堂」ともう一つありましたから、ここが問題です。

 とにかく、現在、御影堂と称するところに日精上人の時代は戒壇の御本尊様を祭り、本堂と称していたわけです。
つまり、これまでは本堂と御影堂が並んで建っていたのですが、日精上人の時には御影堂と本堂を一所にして今の大きな御堂を建てたのでしょう。
そして戒壇の御本尊様を安置して、その前に御影様を安置せられたのでありましょう。
これは後になってまた分かります。

( 図 :棟札 ※元原稿がFAX受信紙なので判読不能部分は■とす
若悩乱      大施主■平阿婆守忠鎮公之     (※ 別資料から補填 大施主 松平阿波守忠鎮公之御母儀 鏡(敬)台院日詔信女敬白 日精養母也)
         御母■ 敬台院日詔信女敬白
           日精 養母也
         合力 上野講衆等
        願主    日精  花押

        本門戒壇本堂
           寛永第九年壬申年
           霜月十五日造立之
福十号        大工 石川与十郎家次)


 次の寛永十二年(西暦1635)七月五日には御堂の御宮殿を造立されております。
その裏書き(左の写真)を見ると、この御宮殿はいまの御堂を建立してから三年後に出来ております。
で、これにもまた「本門戒壇御宮殿」としてあります。
だから、今の御影様の後に戒壇の御本尊様を安置してあったに違いありません。

 それからずっと後、四十数年経て延宝七年(西暦1679)に、はじめて日精上人の御影堂御影様後の板御本尊が造立されております。
故にこの時(延宝七年)に御影様後の板御本尊を造立し戒壇の御本尊様を御宝蔵へお移しになったのではないかと推測されます。
 そうでなければ、御堂が建って五十年もしてから御影様後の板御本尊をお造りになる必要がないと思います。

(写真:御宮殿裏書)

 それから今度は第二十世日典上人の代、寛文三年(西暦1663)(即ち、日精上人が御影堂の板御本尊をお造りになる五年ほど前)に『間数人別書上(かきあげ)帖』という本山の様子が載っている文書があります。

「寛文癸卯暦八月二十九日
 間数人別書上    上野村法華宗
          大石寺
  一、本堂 十四間 十七間   かやふき   壱つ
  (これが日精上人がお造りになった御影堂、即ち本堂であります)
 一、天之堂 四間 五間     かやふき   壱つ
 一、開山堂 五間 六間     かやふき   壱つ
  (この開山堂が難しいですね。或る人は六壷が開山堂である等と書
   物を出した人もありますがとんでもないことです。後になってす
   ぐ分かりますがこれは十二角堂のことです)
 一、客殿 十二間 十三間   かやふき   壱つ
 一、庫裡 十二間 十四間   かやふき
 一、小庫裡 六間 九間半    かやふき
  (これは台所が入っているのでしょう)
 一、常住居間 五間 八間     かやふき
  (住職、即ち法主の居間)
 一、雑蔵 三間 五間     かやふき
 一、門  二間 三間半    かやふき
 一、馬屋 三間 八間     かやふき
 実数 合拾貳
  (これは大坊だけです。これに対し塔中は沢山あります。例えば、その人数からい
   けば百人以上もあり、当時本山には沢山の人がいた)

―――――中略―――――――――

 一、住持 歳五十  (これは日典上人がこの時五十歳という事です)
 一、隠居屋 三間半 五間    かやふき   壱つ  大石寺隠居日舜 歳六十  (これは日舜上人が居らした。日精上人はこの頃江戸に住まわれている)

(写真:日舜上人御筆「説法講本」多宝蔵157)
(写真:加茂十左ヱ衛門寄進の御堂前石灯籠)

―――――後略―――――――――


その次に今度は第二十二世日舜上人の貞享四年(西暦1687)七月十五日の説法に、

※漢文調にレ点等有る部分は延べ書きにしています。
「一、玄関造営ノ披露、施主外神伝兵衛内方イセキ亀助ナリ。
  (玄関造営の施主が伝兵衛の身内のイセキ亀助であるということです)
 一、道珠日瑩モ自受法楽ノ喜アラン。
   (道珠日瑩もいくらか奉加したという意味です)
 一、石垣造営ノ披露、施主的場村十左衛門ナリ、施主宝前ノ高下不平ニシテ参詣労苦
   ナルヲ悲テ此度石垣ヲ造リ道路ヲ平等ニシテ参詣修行成リ易ク致被テ御座ル世間
   往来ノ路橋ヲ作ルサエ功徳無辺ナリ況ヤ仏前参詣ノ路ヲヤ
  (日精上人がこの時より五十数年前に御堂をお造りになったけれども、あのように
   整然とした敷石の参道までは造っていなかったらしいですね。
それ故、この時鐘楼や二天門の前の石段を造ったのでしょう、
その施主が的場村の加茂十左衛門(今の的場の加茂家の先祖)です。
その後参道の石畳も広くし、昭和六年には内山ワカという人が鐘楼前の階段等を直しております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

内山ワカ(うちやま わか)氏は、日蓮正宗の信徒として知られ、特に法道院(東京都豊島区)の再建や布教活動に多大な貢献をされた女性です。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

---

### 生涯と信仰

- **生年と家族背景**:明治14年(1881年)に、内山伊三郎氏(日應上人時代の信徒)を父として生まれました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

- **事業家としての成功**:戦後、池袋で飲食店や風俗店などを営み、実業家として成功を収めました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

- **信仰への転機**:後に「このような商売は信徒として相応しくない」と考え、事業を他人に引き継いだり廃業したりして、信仰に専念する道を選びました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

---

### 法道院への貢献

- **再建への尽力**:昭和30年代、法道院の再建に際し、土地の取得に多大な貢献をしました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

- **奉仕活動**:物資不足の中、モンペ姿で土木作業に従事し、夜間には火災予防のための夜回りも行いました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

- **信仰の篤さ**:大石寺に日参し、猊下様が御出向される際には、塔中の参道で伏せ拝(下座)して御見送りするなど、深い信仰心を示しました。 ([【78】【知る人ぞ知る体験・逸話-その3/内山ワカさん】Waka ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11695454926.html?utm_source=chatgpt.com))

---

### 人物像と評価

- **法道院との関係**:内山ワカ氏は、法道院の歴史において忘れることのできない存在であり、日應上人の御指導を終始一貫して受け、信心修行に励んだとされています。 ([【120】【知る人ぞ知る体験・逸話-その5/続・内山ワカさん ...](https://ameblo.jp/rufu-rufu/entry-11786795867.html?utm_source=chatgpt.com))

- **後世への影響**:彼女の信仰と行動は、後の信徒たちにとって模範となり、その精神は現在も語り継がれています。

---

内山ワカ氏の生涯は、信仰と実践の両面で日蓮正宗の発展に寄与した貴重な例といえるでしょう。彼女のような信徒の存在が、宗教団体の歴史と文化を形作っていく上で重要な役割を果たしていることが伺えます。 ([あ行 | 星界の道〜航海中!〜 - 楽天ブログ](https://plaza.rakuten.co.jp/sanmon77/17001/?utm_source=chatgpt.com))

---

([内山ワカ - YouTube](https://www.youtube.com/watch?v=nJBUB1sCbek&utm_source=chatgpt.com))
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、今回昭和三十六年に更に石畳を広げ、二天門前の階段も直し、横の石垣も従来の倍の高さに直しました
一、開山堂ハ大工隙入故ニ盆前成就セザル也。盆過キニ成就ス可キ間、彼岸ノ中日ニ
   開眼供養スベキ也
   (この時開山堂を直していたけれも、盆前はなかなか忙しく、盆には間に合わな
    いが、彼岸の中日に開眼供養できよう)
次に、開山堂の修理が出来たので、彼岸に次のように説法しております。
「貞享四丁卯八月十七日 彼岸初日開山堂建立開眼供養也。
一、去年ヨリ旧堂ヲ破却シ御書講ノ掛銭ヲ基ト為シ大石寺ノ諸檀那ノ奉加ニ依テ造営
   成就也。
   (ここに旧堂とありますから、開山堂は昔からあった。その開山堂が傷んだので
    破却し、御書講の掛け銭(御供養)を基として、それに檀家の御供養を奉加し
    て新築したと言うことです)
 一、開山堂ト申ス様子ハ又五輪堂トモ云也。開山興師ヨリ忍師迄ヲ五輪ニ刻ミ安置ス
   ル也。興師ノ五輪ハ目師ノ筆也。目師ノ五輪ハ導師ノ筆也。次第ニ先住ノ五輪ヲ
   後住之ヲ書キ安置スル事テ、皆代々ノ筆テ御座ル。
   (先住の五輪は次の住職の筆で書き、三十五日忌に五輪を刻んで開山堂に納める
    と言うことです。即ち、開山堂と云う理由は、日興上人が重須で御入滅なされ
    、そこに埋葬してしまった。そこで、大石寺では三十五日忌に、日目上人が日
    興上人の五輪をお造りして祭ったのです。それ故最初は日興上人(の五輪)だ
    けであるから、開山の名が残り、開山堂となったので、結局十二角堂のことで
    あります)

 さて、この三十五日目に刻むという事は口伝になっておりますが、実は人間が母の体内に宿って、それまでは漠然とした卵でしょうが、三十五日目には五輪の形をした人間らしい形になるというのです(医学でなければ分かりませんが)。
ここからあの世に行っても三十五日目に五輪の姿をもって祭るという事になっております。
何故三十五日忌に五輪を刻むのかといえばこのように解釈します。

 次に二十三世日啓上人の元禄元年(西暦1688)に『留守中 定』という文書(多宝蔵)があります。
これは日啓上人が同年に江戸かどこかへお出かけになるについて、その間の留守中の諸番役をしっかり勤めるよう、十二月ですから特にやかましく「定」を作られたのです。これは原本を一度大日蓮に写真で載せた(大日蓮一九〇号(昭和36−12P82))事があります。
※元文の漢文は返点を延べ書きにしました。

「留守中  定
 一、諸[事]、寺役、番役、年事、諸法度等常ノ如シ
  (普段と変わりのないようにやりなさい)
 一、火之用心大坊寺中並門前等ノ人々ニ遠慮ノ儀モ無ク互ニ下知致ス可キ事
 一、御堂宝前、寺中、大坊等之掃除其[番]役懈怠ス可カラザル事
 一、御宝蔵当番代官中居ニ相届番所ニ泊リ堅ク怠慢有ル可カラザル事、若檀那ノ用等
   ニテ叶ワザレバ、隙入ルニ於テハ其ノ様子ヲ代官中居ニ断リ遂ゲラル可キ者也。
  (御宝蔵番をこのようにやかましく云うのは、結局戒壇の御本尊を安置してあった
   からです。また御宝蔵の前には小さい番所があったのでしょう。享保年間の絵図
   面にはこの番所が書かれてあります。表紙の図面参照)
 一、一夜番者常ノ如ク丑ノ下刻ナリ常香ノ表ヲ相定メテ勤可キ也、若シ常番之表ニ於
   テ早者ハ五日、遅者ハ六日之過番、代官中居之為急度(きっと)申シ付ケラル可
   キ事
  (ここでウウし寅勤行の時間がはっきりしています。一夜番とは一晩中起きており
   、丑寅勤行をする役。御宝蔵番は番所に詰めて御宝蔵をお守りする役。この一夜
   番と御宝蔵番をもって両番役と称し、本山に於ては大切な役であります、ここで
   は香を上げる時間表を守って、その遅速ある時は可番として代官仲居がその者に
   申しつけなさい、ということです。今は起きる者も沢山おり、電気もありますか
   ら遅れる事はありませんが、昔はそうではなかったからよく寝過ごして過番にな
   った人もあります)
 一、一月五日之過銭ニ代官之役ヲ為シ帳合ヲ致シ不参之者ニ急度(きっと)過銭ヲ申
   シ付ク可キ事。
  (いろんな過銭(罰金)があったんでしょう。(其の集金の日)に不参の者には必
   ず罰金を出させなさいとの意味です)
 一、代官・中居之役、留守ヲ為シ中ハ 毎日寺中門前之善悪ヲ日帖ニ書キ誌セラル可
   キ也若シ贔屓ヲ以テ悪事ヲ隠密シ帳ニ付ケテ残シテ後日ニ其ノ聞エ之有ルニ於テ
   ハ代官中居之曲事為ル可キ也
  (代官中居でも勝手に贔屓でもって善悪をごまかすなと云うこと)
  右条々堅相守ル可キ者也、若違背之輩ニ於テハ過罪ハ時之評議ニ任ス可キ者也。仍
  テ件ノ如シ
 (右の事項に背くものがあれば評議を開いてその罪過を決めなさい。民主的ですね)
 元禄元年(西暦1688)戊辰年十二月四日   日啓 在判

と、この文書に於いて丑寅勤行が丑の下刻とはっきり出てくる。
「日興跡条々之事」ではただ勤行となっていてはっきりしませんが、後になるともっとはっきりしてきます(本稿「江戸後期以降」の「富士記」参照)

第二十四世日永上人は

「本堂及び伽藍を修理し天王垂迹堂を再建す」

と聖典に出て(聖典770)おります。

日鎮上人が垂迹堂を造ってから、ちょうど百七十年経っておりますから相当に傷んだのでしょう。
だからここで更に修理しております。

 また、このテキスト(参考史料)には出ておりませんが、今度発見されたものがあります。
元禄七年五月十三日に松平禅正忠という人の夫人が御堂に御経机を五十脚寄付しております。
その一脚が今に残っておりました。
私が子供の時分ですから約六十年も前から御宝蔵の石畳の上に置き放しになっておりましたのですが、それは鍵番が御宝蔵を開ける鍵を置いた経机です。
それが雨にさらされて置いてありましたが、二、三日前にそれを見たところ、裏にちゃんと書いてありました(左写真参照)。
全く勿体ない事をしました。

 左のようになっておりまして、御堂に於いて使っていたことは明かです。
「松平禅正忠奥信女」とありますが、松平禅正忠という人は『読史備要』によれば、松平禅正忠正久のことで、元禄七年二月十九日、若年寄に任ぜられ、
元禄九年三月十八日、若年寄を免ぜられ、奏者番になっている。
相模国甘縄(今の大船町付近)二万石の藩主であったようです。
元禄七年に若年寄に補せられたお礼としてその夫人が五月十三日御経机を御堂に御供養申し上げたのでしょう。
 その日永上人は、

「元禄十年丁丑春、新たに輪蔵を建て明本の一切経全部を納む」

ということになり、それからまた元禄十二年四月四日に御影堂を修理造立しております。
これは御影堂の棟札に出ている(下図参照)。
    /────────────────────────────────│
   / 時元禄十二己卯歳 当寺大旦那阿波守母■敬台院日詔  │
  /         寛永九壬申此及造立                │
 /         自爾以来是年六十八歳於   破損依之       │
<────────────────                    │
 \         本門戒壇本堂                   │
  \         二十四世                     │
   \         願主 日永(花押)            │
    \           石川五左ヱ門□重吉          │
     \───────────────────────────────│


今の棟札は三つありますが、
一つは日精上人の時、
一つはこの日永上人の元禄十二年に造立したもの。
それにもう一つは日応上人のであります。

(日永上人棟札の)元禄十二年(西暦一六九九)四月四日というのは、この前々年の元禄十年十月十二日に関東大地震があったわけです。(これは年表にも出ております)
すると、この地震の時に破損したために日永上人が修理なさったんだろうと思います。
故に、棟札の下の部分に「破損依」とあるのでしょう。

 此の時また、松平禅正忠正久の家中の夫人方より御影堂の擬宝珠が寄進になっている。
例せば、下の写真の如くであり、またこの他にも名前があります。

(写真:御堂擬宝珠)

それから宝永三年(西暦一七〇六)、つまり御堂修復から六、七年経て、総本山客殿の板御本尊様を彫刻せられておりますが、この間、日有上人が客殿を創立してから約二百四十年を経ておりますが、それ迄、昔のままの紙幅の御本尊をお掛けしていたのではないかと思うのでございます。
だから、御座替御本尊が大分黒く傷んでおります。
傷んでいるところを見るとやはりそれまで二百四十年ばかりの間は、紙幅の御本尊をお掛けしていたのだろうと思われます。
とにかく、十二間×十三間とかいう、中々大きな客殿ですから小さな御本尊様ではだめです。
だからあの御本尊を掲げていた。
それを日永上人がはじめて御彫刻なさって板御本尊にせられた。
その裏書きに、

「当山重宝血脈手続の大曼荼羅にして御座替りと号す、今正に之を写し
 彫刻せしめて方丈に安置為し奉り鎮に三大秘法広宣の利益を祈る
 希くは斯の修繕に酬ひ今世に於て得現華報憑みあり、未来世に於て必ず
 三身を得べき事疑い無からん。
    時に宝永三丙戌の年六月十五日
        施主 武州江戸 石田三郎右衛門
        彫主 上野上条村 清 三郎兵衛
        願主 二十四代 富士阿闍梨日永 五十七歳 敬白   」

となっております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[江戸後期以降]

 それから、その後にまた第二十七世日養上人が、

「享保五年(西暦一七二〇)〜享保八年の間に客殿を創建す」(聖典七七五)

と客殿の修復再建に着手しております。

その後、今から二百三十年くらい前になりますが、第三十一世日因上人の御筆、延享二年(西暦一七四五)六月二十八日の『富士記』に、

※漢文調にレ点等有る部分は延べ書きにしています。

「堅固ニ此ノ掟ヲ守リ今三十(※旧字)一代四百五十余歳ノ間大坊貫主一人ハ毎朝丑寅ノ刻ニ勤行
 也」(研究書16−60)

と、はっきり丑寅勤行という言葉が出ております。
日因上人が法主になられたのは元文五年(西暦一七四〇)ですから、大聖人滅後ちょうど四百五十九年になります。
だから、ここに「三十一代」と自分のことをいっておられるのです。
「四百五十余歳」即ち大聖人滅後、大坊の貫主は間違いなく丑寅勤行を続けてきているわけです。

※漢文調にレ点等有る部分は延べ書きにしています。

「十二坊百人ノ大衆ハ交代ニ毎朝出仕ス、所謂御本番一人ハ御堂客殿仏前ヘ御華ヲ散シ御手伝一人ハ御堂番、助番一人ハ御香水ヲ奉リ一夜番一人ハ貝鐘ヲ鳴シテ勤行ヲ始メ・・・」
(十二カ坊の住職並びにそこに在勤している弟子・小僧等は、かわりかわりに交代で丑寅勤行に出仕している。また、御助番とか御本番は勤行の始まる前に華香水を挙げたり、ホラ貝を吹いたり(ホラ貝は現在は吹かれていない)、半鐘を叩くという事です)

「御茶番一人ハ御湯ヲ上人ニ進ル御宝蔵番一人ハ寺中内外ヲ廻ル・・・・」
(即ちこれは一夜番御宝蔵番のことです)

「是ノ如行事大聖人開山已来ヨリ断絶セ令ムルコト無キ也。」

と、このようにはっきり書いてあります。
丑寅勤行は大聖人、そして日興上人が富士へお移りになってからずっと続けられているのです。

次に、

「寛永二己巳年(西暦一七四九)六月十二日 五重大宝塔建立。」(聖典七八〇)

即ち、この時に五重塔が建立されました。

その次に第三十三世日元上人に『宝暦行事帳』という書が残されております。
現存するものは明和元年(西暦一七六四)頃に書き改めたものです。これに、

「七月 盂蘭盆廟参御経次第
 十二角堂ニテ
  (1)方寿 祖師御経  
  (2)自我偈三十巻 代々ノ数程
  (3)自我偈十弐巻 代々両親 
  (4)自我偈三返 熱原廿四人
  (5)自我偈一返 大行霊 
  (6)方寿一座 南面シテ十二坊霊魂並日本国中
    (十二角堂で以上の如く回向するわけです。続いて)

     方寿一座 経蔵後三師 方自二返 敬台院芳春院阿波相模先祖代々
     (経蔵後三師とは寛師・詳師・永師の墓所です)

     方寿一座 高燈籠ニ法界  自一返 蓮仙坊日乗
     (蓮仙坊日乗とは蓮成坊裏の銀杏の木の所の日乗上人塚ですね)

     自一返 大門之内ニテ南之坊日禅
     (今の子持ち杉の前です。この行事は最近まであり、この後加賀前田家・
      板倉家・中黒家の墓でも自我偈一巻宛あげました。五重塔の後の山にお
      墓が移る前まで、この通り実行しておりました。)

     方寿百返 盆棚ニテ高モリ江箸立ル
      往古ハ廿五膳也 近年ハ十二膳也略歟 廿五膳ハ廿五有ノ衆生
                        十二膳ハ定メテ六道ノ意ナラン
      前後共ニ仏前ニテ御経ナシ
     (次は客殿です。客殿に来て盆棚に御経をあげる行事です)
(写真:日元上人御筆「寶暦行事帳写本」

このように総じてこれを書いてあります。

 次に『廟参御経之次第』に、これと同じ事がもう一返、解り易く書いてあります。

 「一、方便寿量 祖師」
十二角堂で一番最初に大聖人様へ向かって御経をあげ、次に

 「二、自我偈三十二巻 代々」

と、即ち先代日教上人まで(日元上人は三十三世であるため、三十二世日教上人までの回向をするの意)の代々へ御経をあげる。次に

 「三、自我偈十二巻 代々両親」

 「四、自我三返 熱原廿四人」

と、熱原の廿四人のうち三人が殺されたから、廿四人を代表して三返という事です。次に、

 「五、自我一返 大行尊霊」

 「六、方寿一座 十二坊霊魂並日本国中」

 「開山堂済」
即ち十二角堂という事です。
十二角堂のお経が済んでから、今度は別に御影堂の裏へ来ると言うことですね。

 「一、方便自我 経蔵後三師」

 「一、方自三返 敬台院 芳春院等」

 「一、方便寿量一巻 高燈籠法界」
これは六万塔の事です。

 「一、自一返ヅツ 日乗 日禅」

と、これを見ても、開山堂とは十二角堂の事であることがはっきり分かります。

 次に第三十七世日(王+奉)上人の時、

 「天明元辛丑年(西暦1781) 大聖人第五百遠忌に当り諸堂等を修理造営
  す」(聖典786)

と、五百遠忌であった為に記念事業として修理したわけです。

 「寛政二庚戌年(西暦1790)三月 御宝蔵を再建す。地形四尺石垣六尺合
  わせて一乗築き立て其上に蔵を建つ」(聖典786)

 ここで、今の御宝蔵の形ができたわけです。
日有上人が小さい校倉を造ってから、三百二十五年も経っています。
この時代は今からだと約百八十年ほど前になりますが、この時はじめて今の御宝蔵の原形ができているわけです。
「地形・・・」とありますから、回りに空堀を掘って石を積んだ。
但し、東の方はもっと低かったのだけれど、昭和四十四年に石を積み重ねて西側と同じにして堀を深くしました。

 第四十八世日量上人、天保元年 百四十年ほど前に、

 「大聖人五百五十遠忌(西暦1830)に当たる故、諸堂残らず修履す」
                            (聖典798)

と、このように修理したのとあります。

 第五十二世日霑上人は、今から百数十年前、

 「安政四丁巳年(西暦1857) 六月下旬御宝蔵修理 夏諸堂修理(年表)」

この時は日(王+奉)上人が御宝蔵を作ってから約五十六、七年経っておりますから、恐らく上屋根を修復せられたんだろうと解釈します。
だから結局、今の御宝蔵の原形は日(王+奉)上人がお造りになって、霑師の時には屋根覆いをなされた。
あの向拝の彫刻などは随分古く立派なものでございます。

第五十三世日盛上人の代になりますと、

 「元治二乙丑年(西暦1865)二月二十八日 客殿・六壷・大坊焼失(年表)」

と、せっかく今まであった大坊も全部焼けてしまったのです。
そのため、日盛上人は御隠居なされたのです。
それからまた霑尊が再び猊座へつかれた。
そして

 「慶応二年(西暦1866)六月十五日 大坊再建す再建す(年表)」

 「明治四年(西暦1871) 客殿復興す(年表)」

 この客殿は西山本門寺の客殿を買ってきて、それをここへ建てたわけです。
それから、

 「明治二十二年(西暦1896)一月一日 六壷復興・三門修築(年表)」

 これらの建物が昭和二十年六月の大坊戦災まであったわけです。
皆様ご存知の大坊・客殿・六壷などであります。

第五十六世日応上人の時、明治二十五年(西暦1892)十一月卅日に客殿の屋根を瓦葺きに直した。
それまでは草屋根、それから庫裡を修築し、対面所を建てられた。

 「明治三十五年(西暦1902)四月二十二日 御影堂大修復(年表)」

 それから第五十七世日正上人が、

 「大正八年(西暦1919)十二月三日 大書院新築(年表)」

いままでの書院は四十数畳しかなかったのを二百畳敷、上段の間が四十畳、計二百四十畳もの大きな書院を造られた。

戦災(西暦1945)で焼けたあの書院でございます。

六十二世日恭上人の時に、戦災によって大坊・大書院・六壷・客殿などが焼失して現在皆様が知っているとおりに終戦後の復興という状態になったわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[ 結 ]

 以上が総本山大石寺に於ける諸堂建立の概略であります。
それによって現在行われている客殿にての丑寅勤行の五座の御経は、いつの時代から初まったかと申しますと、勿論客殿が出来てから以後のことですが、日有上人の時代即ち寛政六年三月に初めて客殿が出来たのですから、その時からとも思われます。

しかし、日鎮上人の大永三年『堂参御経次第』が書き残されているから、此の頃はまだ各堂へ回って勤行をしていたことは明らかであります。

 あの永禄十二年に諸堂が武田信玄の兵火に罹って後、天正八、九年頃には客殿が新築せられたと思われ、それから約八十年後の日典上人の寛文三年の『間数人別書上』に、

 「一、客殿 十二間 十三間 かやふき 壱つ 」

と大きな客殿が書上げられておりますから、此の大きな客殿が天正八年頃出来た客殿でしょう。

 此の頃もまだ諸堂を回って勤行していたのでしょう。
諸堂を毎日回って勤行することは、風雨、降雪の日など甚だ歩行が困難であるし、殊に天経は日亨上人の説によれば、土壇で屋根が無かったとせられておりますから、悪天候の時は勤行できないのであります。

 また、大石寺の草創の当時は本堂・御影堂とあったが、日精上人の寛永九年、現在の御堂建立の時にそれ以前の本堂・御影堂を一つにし、現在位置に大御堂を建立なさったと思われるので、堂も一ケ所減じたことになります。

 依って寛永九年、以後に客殿に於いて丑寅五座の勤行を行うことになったと思われます。

それでも三師の御命日の七日・十三日・十五日には、丑寅勤行後御堂にて方寿引題目、一座の御経をあげる事になっております。

 かくの如く、本宗の丑寅勤行について申し述べた次第であります。

 本宗の丑寅勤行の時刻についての謂れは日寛上人が『当流行事抄』に

 「丑の終り寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり、是の故
  に世尊は明星の出ずる時豁然として大悟し、吾が祖は子丑の刻み頸を刎ねられ魂魄
  佐渡に到る云云当山行事亦復斯の若し」(聖典955)

と説かれております事によって御諒承下さい。

 かくの如く、本宗の丑寅勤行について申し述べた次第であります。


------------------------------------------------------------------------------
本書は昭和四十六年五月二十九日、寺族同心会の砌
御法主日達上人猊下の御講義を編集したものです。御講義は午後三時より大講堂大広間に於いて行われ一時間半に及びました。
以上附記します。              編集部


総本山大石寺諸堂建立
と丑寅勤行について

昭和四十六年六月二十日 印刷
昭和四十六年六月二十日 発行


編集人 蓮華編集部

発行所 静岡県富士宮市上条大石寺内事部内
    蓮華編集部
印刷所 静岡県富士宮市元城町株式会社木内活版印刷所

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大石寺と北山本門寺の歴史
 TOP

本門寺棟札について

 北山本門寺の濫觴(らんしょう)を正しく知る上で、北山に所蔵されてきた「本門寺棟札」を検証することは、避けて通れないことでありましょう。
なぜならば北山では、日興上人が永仁六年(1298)に重須の地に移られた時、この地を中心に大本門寺構想を考えられたのであり、大石寺はその「足代・腰掛け」の地にすぎなかったと主張しているからです。

 その主張の裏付けとして「本門寺棟札」の存在を持ち出しています。
以下に内容を記してみましょう。

 [表面]
 一、日蓮上人御影堂
 一、本化垂迹天照大神宮
 一、法華本門寺根源
      永仁六年二月十五日造立也
 [裏面]
  国主此の法を建つるの時は                     二月十五日
  三堂一時に造営すべき也                      日妙(花押)
  願主白蓮阿闍梨日興(花押)                    六十歳
  大施主地頭石川孫三郎源能忠(よしただ)       合力小泉法華衆等
  大施主南條七郎次郎平時光               同  上野講衆中 (歴法全一巻八八・富要八巻142)

 この史料について日亨上人は『日興上人詳伝』に、

「杉椙(すぎまさ)薄板・丈一尺五寸・厚さ四分で、楷書瘠肉の書風

であると説明されています。

 書かれている内容を概略見ていきますと、表面については、永仁六年(1298)二月十五日に、御影堂と本化垂迹天照大神宮と法華本門根源の三堂が造立されたという内容です。

 裏面については、日興上人が願主となり、重須の地頭石河孫三郎能忠と上野の南條時光とが大施主隣、小泉法華講衆等と上野講衆が合力して、表面に書かれた三堂を造立したという内容です。

 日興上人に重須の坊地を寄進し、三堂造営の大施主に連なった地頭石河氏について触れておけば、河内国石河氏が重須に領地を得て移住したと伝えられる源氏一族です。

 重須の石河氏は、日蓮大聖人より弘安四年に系(かけ)られる『十字(むしもち)御書』を賜り、宛名書に「おもすどの、女房御返事」とあります。

 「鶴寿」と伝えられるこの女性は南条兵衛七郎の娘であり、即ち大石寺開基檀那南条時光殿の姉に当たる人であることから、石河氏が日蓮大聖人の仏法を持つようになったのは、南条氏との縁にあったようです。

しかし石河殿(当主)へ直接宛てられた大聖人の御書は無く、『宗祖御遷化記録』にも石河氏の名は見られないので、同氏における本格的な信仰は日興上人の時代になってからと思われます。

 日興上人の『御本尊分与帳』には、俗弟子分として「石川新兵衛入道道念」の名が見られます。
本門寺棟札に見られる地頭「石河孫三郎源能忠」は道念の嫡子で、さらに後述する貞和三年本堂造立の施主「石河式部大輔源実忠」は能忠の子息です。
 
 さて、「本門寺棟札」にある、「国主帰依の時には三堂一時に造営すべきである」とある趣旨は、正式な三堂は未だ造立されてなく、将来の構想であることを示す表現です。

 日興上人の花押があることは、この棟札自体、日興上人がしたため残されたものであることを意味しています。

 また「二月十五日 日妙(花押) 六十歳」とあるのは後年の加筆であることは間違いありません。
重須二代を嗣いだ日妙の六十歳という年齢は、貞和元年(1345)
です。
この年は、日興上人三十三回忌に当たること以外に特別な意義は見当たりません。

 以上が、棟札から知ることのできる情報の概略ですが、問題は、果たしてこの棟札は本当に日興上人が作られたものかということです。
 写真を見ても、裏面にある日興上人の花押をはじめ、正筆であるか否かを鑑定するのははなはだ困難です。
この内容については、宗門で刊行した『歴代法主全書』には日興上人の部に収録されてはいますが、参考として収める旨の頭注がされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
依關係他史料雖難俄信爲參考收「録」(の旧字)之

関係の他の史料に依ると言えどもにわかには信じがたく参考のためこれを収録す

歴代法主全集 1巻 88ページ  本門寺棟札 日興上人の項
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この稿の中で、真偽を詳しく述べることはできませんが、これまでに指摘されてきたことも含めて、問題点を要約しておきたいと思います。

疑義

 ・棟札と言うが、題目も無く、経文も書かれていない。これについて日達上人は「標札」とした方がよいとの見解を示されている(富士学報第二号)。

 ・棟札とするならば、三堂のうちどの堂に架けられていた棟札なのか、三堂が建立されたのであれば、棟札も三枚残っていなくてはならない。

 ・表面の記述では、永仁六年に三堂がすでに建立されたことになっているが、裏面は将来に向けての構想である。この表裏の矛盾をどう考えればよいのか。

 ・三堂の意味が明解ではない。日興上人が重州に御影堂を造立されたことは当然としても、本化垂迹天照太神宮をなぜ造立するのか。法華本門寺根源とはどのような建物か。

 一応、本門寺の中心となる本堂を安置される本尊がどのようなものか、北山ではそこまで論じられていない。

 ・三堂一時に建立せよとされた大聖人・日興上人の御教示が、他に見られないのも不思議である。

 以上のように、日興上人の正筆か否かという問題は別としても「本門寺棟札」については。様々な疑問点があります。
これらを総合して考えるに、永仁六年の時点で、日興上人によって三堂がすでに建立されていたという既成事実をつくるために、日妙の加筆などによる作為がはたらいた棟札と見なくてはなりません。
実際、北山では三堂は永仁六年に同時に成ったと主張してきています。

 また、棟札とは別に、大聖人より日興上人に授与されたとされる「本門寺根源の額」と称されるものが北山にかつて存在し、天正九年、他の宝物とともに武田の軍に奪われたとされています。(富要八巻142)。
しかしこれについても、表記された内容に不可解な点が多々あり、棟札と同様、北山を本門寺根源の地と主張する材料の一つとして、後世大聖人に偽托して作られた額であったと考えられています。

 霑志問答で日霑上人は、
「富士山本門寺根源の額はおおいに不審である。もしも宗祖御在世に富士に本門寺と称する寺があれば、この額が存在しても道理であるが、いまだその寺さえないのに『富士山本門寺根源』とはいかにも怪しい筆である。まして『根源』の二字は他の本門寺に対する語である。
この時点でまだ池上本門寺も無く、西山本門寺も無い。どの本門寺に対抗して、自らを単独のものとして、『本門寺根源』などと称したのであろうか(趣意)」(富要七巻96)

 等と、そのような額が存在すること自体が、史実に合わないではないかと論じられています。
また、日亨上人は、
「この棟札も、本門寺根源の大聖人の御額も慎重に研究の余地がある」(興詳伝286)と疑義を呈されています。

 しかしながら、以上の二つの史料について、たとえ日妙等の作為があったとしても、富士山に本門寺を開き、本門戒壇を建立せんとされた日興上人の御意思を伝える史料の一つと見ることができるようです。

なぜならば、当時日興上人以外に大本門寺建立の構想を表明できる人は有り得なかったからです。
とはいえ、日興上人の御構想として、大本門寺即ち本門戒壇の建立は、今の北山本門寺という狭隘な寺域に特定されない、大石寺も北山も含めた広大な地域を想定されていたことは、ここではっきりと確認しておかなくてはなりません。

 後世、日寛上人が『文底秘沈抄』の中で、富士山に本門戒壇を建立すべき文証の第一に、「本門寺根源の額」を挙げられているのも、日興上人の御構想をうかがう一端の史料として、引用されたものと拝されるのです。

さらに、本門寺棟札の表面に記された「永仁六年二月十五日造立也」の一文については、たとえこの棟札が後に書かれたものであったとしても、日興上人が堂宇を造立して重須に移られた年月日を伝える唯一の史料として、重要であります。

 それでは永仁六年の段階で、重須にどのような堂宇が建立されていたのか、それを次項で考えてみたいと思います。
戻る  TOPへ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北山本門寺に伝わる「本門寺棟札」の真偽については、学術的・宗教的見地からさまざまな議論があります。

---

### ??? 「本門寺棟札」の概要

「本門寺棟札」は、北山本門寺(重須本門寺)に伝わる重要な史料で、永仁6年(1298年)2月15日に建立された三堂(本堂・御影堂・垂迹堂)に掲げられたとされる棟札です。 この棟札には「法華本門寺根源」と記され、日興上人の署名があると伝えられています。 ([仏教ラウンジ bodhi LOG](https://www.kosaiji.org/bodhi/log/bodhi_5_101-200.htm?utm_source=chatgpt.com))

---

### ?? 真偽に関する見解

#### ? 真筆とする立場

一部の研究者や信徒の間では、この棟札を日興上人の真筆と認め、北山本門寺が「法華本門寺根源」としての正統性を示す重要な証拠とされています。 ([北山本門寺(4)〜後世偽作疑惑の生御影を重宝のトップにしている北山本門寺 : 仏教宗学研究会・公式ブログ](https://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/3677347.html?utm_source=chatgpt.com))

#### ? 偽作とする立場

一方で、筆跡や文体の分析から、日興上人の真筆ではなく、後世の偽作である可能性が指摘されています。 特に、日興上人の筆跡と比較すると異なる点が多く、第三代住職・日恩の時代に作られた可能性があるとする説もあります。 ([正統な富士門徒を目指すなら「保田妙本寺」はこれから注目されるところ - 宗教・占い探玄](https://blog.goo.ne.jp/nanshiko1116/e/dfa310702a80a4fa77777e4d1b53fba8?utm_source=chatgpt.com))

---

### ?? 結論

「本門寺棟札」の真偽については、現時点で学術的な一致を見ておらず、真筆とする立場と偽作とする立場が存在します。 そのため、この棟札を史料として扱う際には、慎重な検討が求められます。

---

北山本門寺では、毎年4月13日に「御霊宝御風入会法要」が行われ、御曼荼羅や聖教類が一般公開されます。 この機会に実物を拝観し、専門家の意見を聞くことで、より深い理解が得られるでしょう。 ([北山本門寺(4)〜後世偽作疑惑の生御影を重宝のトップにしている北山本門寺 : 仏教宗学研究会・公式ブログ](https://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/3677347.html?utm_source=chatgpt.com))

---

問ふて曰はく日興御代に本門寺と謂ふ其の証拠御棟札是れ也、其文に云はく法華本門寺根源と何ぞ疑を生せんや、答て云はく此の文重須本門寺の証とせば誤り也其の故は此の棟札と者未来の標札なり、以何となれば国主此の法を建てられば三堂一時に造営すべしと已上此の文之を思へ、況や澄師遺状並に日代状に本門寺建立の時也と{已上家中抄の趣なり}已に乾元三年八月十三日に故寂仙房日澄師の跡を弔ひ給ふ興師の遺文には法華皆信の将来・本門寺建立の期と云ひ、棟札には国主此法を建てらる時と云ひ、目師遺状には本門寺建立の時と云ふ、三文符を合せたるが如し、若し爾らば彼の本門寺根源の額面は勿論・棟札迚も皆是れ未来に本門寺を建立すべしと云ふの支証にして興尊の在世に本門寺の号なかりしは論に及ばざるなり、但し是れは与へて論ずるのみ、若し奪って之れを云はば其の額面や棟札や皆是れ本門戒壇の根源たる当山の法威を掠め奪はん為の謀計に彼の身延相承の国主此の法を立られば富士山に本門寺の戒壇等とあるに附会し是れを偽造せる事明なり、家中抄に微く其の意を示して云はく永仁六年は日妙十四歳也、延慶三年は日妙二十六歳也、此年の本尊に猶日号を許されず況や十四歳の新発意に上人号を授けらるべけんや年代之を思へ等と云々、如何にも今下条妙蓮寺に蔵する所の妙師二十六歳・延慶三年六月十三日興師より授与し給ひし御本尊の端書には寂日坊弟子式部公に之を授与すと有りて猶日号をだに書し給はずとなり、況や何程の才知発明たりとも僅に十四歳の小沙弥として争か師と肩を並べ棟札の裏書に日号を顕し花押を加るの理あるべき、何に況や其の時本門寺を以って妙師に譲り給ひし状とて富士山本門寺日妙上人へ之を授与す永仁六年二月十五日日興判と遊されし杯申し伝ふるは更に論なく其の偽妄たるの確証なり、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は、あなたが提示された宗学的な古文書の内容を、丁寧に現代語訳したものです。語調は宗論文書らしい調子を保ちつつ、意味が明確になるよう心がけています。

---

### 【現代語訳】

問うて言う。「日興上人の時代に、すでに“本門寺”という名称があったという証拠は、あの御棟札(むなふだ)である。その文中に『法華本門寺根源』とあるではないか。どうしてそれを疑おうか?」

これに答えて言う。「そのような文をもって重須本門寺(北山本門寺)の証拠とするのは誤りである。なぜなら、あの棟札というものは“未来の標識”にすぎないからである。どうしてそう言えるかというと、『国主がこの法を信じ立てられるならば、三つの堂(本堂・御影堂・垂迹堂)を同時に建立すべし』と棟札に書かれているからだ。この文の意味をよく考えてみよ。

ましてや、日澄上人の遺言状や、日目上人の書状に『本門寺を建立すべき時である』とあることからも、それが未来の話であることは明らかである。

すなわち、乾元3年(1304年)8月13日に、寂仙房日澄上人の遺跡を弔った際、日興上人が書かれた遺文には『法華経を信じる人々が現れる将来に、本門寺を建立する時期が来る』とあり、また棟札には『国主がこの法を立てられた時』とあり、日目上人の書状にも『本門寺を建立すべき時』と記されている。この三つの文言はまるで一つに符号しているようである。

もしそうであるならば、『本門寺根源』と記された棟札の額面はもちろん、棟札そのものもまた、すべて“未来に本門寺が建立されること”を示す証拠であり、日興上人の生前に“本門寺”という名称が存在していたか否かを論じるまでもなく、それはなかったのである。

ただし、これは仮にその証拠(棟札など)が真実のものだと認めた上で議論しているだけのことである。

もし、これらの棟札や額面が偽作だとするならば、それらはすべて、“本門戒壇の根源たる当山(=自派)の法威を奪い取るための計略”であることになる。すなわち、身延系の相承者たちが、『国主がこの法を立てたならば、富士山に本門寺戒壇を建立すべし』という文言に結びつけ、これに便乗して偽造したことは明白である。

『家中抄』にもそれをほのめかす記述があり、そこにはこうある。

『永仁6年(1298年)は日妙が14歳の時である。延慶3年(1310年)は日妙が26歳の時である。この延慶3年に授与された御本尊ですら、まだ“日号(上人号)”を許されていないのに、ましてや14歳の新発意(得度して間もない者)に上人号を与えるなど、年代を考えればあり得ないことである』と。

実際、今、下条妙蓮寺に所蔵されている、日妙26歳・延慶3年6月13日付の本尊には、「寂日房の弟子・式部公にこれを授与す」と端書きがあるが、そこにもまだ“日号”は記されていない。

そのような状況で、たとえどれほど聡明であったとしても、14歳の小僧が日興上人と肩を並べて棟札の裏書に“日号”と“花押(署名)”を記すということなど、どうしてあり得ようか。

ましてや、同年に“本門寺を日妙に譲り渡した”とする譲状――すなわち、「富士山本門寺日妙上人にこれを授与す 永仁6年2月15日 日興判」などと称される文書を伝えていることは、言うまでもなく**完全に偽作であるという明確な証拠**である。

---

もしこの文章の原典(出典)や論争の背景についてさらに詳しく知りたい場合は、お知らせください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あなたが引用された文章は、**北山本門寺の「本門寺棟札」や日妙への譲与状が後世の偽作であることを主張した、宗学的な批判文**です。これは近世以降の日蓮宗内部の宗義論争の一端であり、特に「本門寺」称号や「日興相承」などをめぐっての立正安国論的正統性を巡る論争の中で使われた典型的な論法です。

以下、あなたの引用文の内容を要約・分析しつつ、その立場と根拠を明らかにします。

---

## ?? 引用文の要点

1. **棟札に書かれた「法華本門寺根源」は未来に本門寺が建立されることを示した標識であり、日興在世当時に「本門寺」という寺号が実在した証拠にはならない**。
- 「国主此の法を建てられば三堂一時に建立すべし」とある文から、「本門寺根源」は将来の願望・予告であると読み取っている。

2. **日興の遺文・日目の遺状・棟札の三つの文を照合すると、すべて「将来」に言及しており、当時すでに「本門寺」として存在していたわけではない**。

3. **「棟札」「本門寺譲状」「日妙上人号」などはいずれも後代の偽作であり、身延派が富士派の法威を奪うための策略と見なしている**。
- 特に、日妙が永仁6年当時わずか14歳であり、「日号(上人号)」を授かるのは不自然である。
- 延慶3年(26歳時)の本尊にも日号が書かれていない点を証拠にしている。

---

## ?? 立場と背景

この論考は、**北山本門寺側(日興・日目相承)に否定的な立場**から書かれています。具体的には以下のような背景があります:

- 北山本門寺を中心とする日興門流の「本門戒壇正系」の主張に対して、これを否定しようとする身延系または他門派の立場。
- 日妙に対する「上人号」や「寺の譲与」が日興の生前に行われたかを争点とする。
- 歴史資料の年代・筆跡・内容の齟齬を根拠に、「棟札」や「譲状」を偽作と判断している。

---

## ?? 学術的・宗学的に見ると…

- **学術的には、現存する棟札の文体・筆跡・素材から、後世(おそらく室町期)の作成である可能性は高い**とされます。
- **しかし、宗学(信仰の立場)においては「棟札」を正統性の証拠とみなすか否かは教義上の立ち位置に依存します**。

---

## ? 結論

あなたが挙げた文章は、「北山本門寺棟札」や「日妙譲状」が**日興在世中の真蹟であることに強く疑義を呈し、偽作であると断じる立場**の典型例です。これは近世以降、富士門流内部や他宗派との間で続いた「本門寺の正統性」をめぐる論争の文脈に位置づけられます。

そのため、**この棟札を日興の真筆とみなすかどうかは、宗学的立場・信仰的帰属によって見解が分かれる**といえるでしょう。

---

この文の出典や背景となった宗論文書にご関心ありますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
考察

七、日蓮と御判を置き給ふ事如何、*三世印判日蓮体具*。

師の曰く、首題も釈迦多宝も、上行無辺行等も、普賢文殊等も、舎利弗迦葉等も、梵釈四天日月等も、鬼子母神十羅刹女等も、天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり。
之に付きて受持法華本門の四部の衆を悉く聖人の化身なりと思ふべきか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜ撤廃したか

信徒増加に伴い、誤解して信を取り違う者が出てくる可能性も増大するが故に、廃した。

大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(日興跡条々事 元弘二年一一月一〇日 1883)





・昭和新定御書より転載

御本尊七箇之相承

 一、十界互具の事義如何。

示して云はく、釈迦多宝は仏界なり、経に云はく「然我実成仏已来乃至或説己身」@云云。
上行等の四菩薩は菩薩界なり、経に云はく「一名上行」等@云云、「地涌千界乃至真浄大法」等@云云。
舎利弗は声聞界なり、「華光如来」@云云。
縁覚界は「其求縁覚者乃至欲聞具足道」@云云、縁覚界所具の十界なり@云云。
大梵天王は天界なり、経に云はく「我等亦如是必当得作仏」@云云。
転輪聖王は人界等なり、経に云はく「欲令衆生開仏知見」@云云、「若人為仏故皆已成仏道」@云云。
婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり@云云。
竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく「竜女乃至成等正覚」@云云。
十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく「一名藍婆」@云云。
提婆達多乃至天王如来は地獄界なり。
已上是は一代の大綱、応仏の上の沙汰なり。
*此に於て十界に摂するに二義有り常の如し*。

 二、真実の十界互具如何。

師の曰く、唱へられ給ふ処の七字は仏界なり、唱へ奉る我等衆生は九界なり、是則ち四教の因果を打ち破って真の十界の因果を説き顕す@云云。
此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり。
出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。
秘すべし秘すべし。

 三、点を長く引き給ふ事如何。

師の曰く、一閻浮提の内に妙法流布せんとの慈悲深き流通精進の心なり。
水の流れ絶へざるは日蓮が慈悲広大の義なり。

 四、点を王に必ず打ち給ふ心如何。

師の曰く、法華は諸経中王の故に大王の故に、小王の時は此の点無し。
大王の経の眷属の故に、又守護なる間点を打ち加へ給ふなり。

 五、梵字は不動愛染に限る事何なる意有りて遊ばさるゝや。

師の曰く、西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成すこと目前なる者なり。
我が仏法も亦復是の如し。
遠霑の翻訳仮字を梵漢に通ずべき先兆なり。

 六、序正流通の中には何れぞや。

師の曰く、流通分の大曼荼羅なり。
流通とは末法な り。
久遠本果の名字の妙法蓮華経の法水、末代我等が耳に流入すべしと云ふ三仏*釈 迦・多宝・分身*の御約束なり。
在世は正宗が面と成り滅後は流通が面と成ること経文解釈分明なり。

 七、日蓮と御判を置き給ふ事如何、*三世印判日蓮体具*。

師の曰く、首題も釈迦多宝も、上行無辺行等も、普賢文殊等も、舎利弗迦葉等も、梵釈四天日月等も、鬼子母神十羅刹女等も、天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり。
之に付きて受持法華本門の四部の衆を悉く聖人の化身なりと思ふべきか。

 一、師の曰く、法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり。
法界即日蓮、日蓮即法界なり。
当位即妙不改無作本仏の即身成仏の当体蓮華、因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり。
 又本尊書写の事、予が顕はし奉るが如くなるべし。
若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はじ。
上行・無辺行と持国と、浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書くべし。
経の中の明文等心に任すべきか。

 一、仏滅度後と書くべしと云ふ事如何。

師の曰く、仏滅度後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。
 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。
師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。
 一、明星直見の本尊の事如何。
師の曰く、末代の凡夫幼稚の為に何物を以て本尊とすべきやと虚空蔵に御祈請ありし時、古僧示して言はく、汝等が身を以て本尊と為すべし、明星が池を見給へとの玉ふ。
即ち彼池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なりと@云云。
 此の事を横川の俊範法印に御物語りありしを、法印讃歎して言はく、善哉善哉、釈迦古僧に値ひ奉りて塔中に直授せるなり貴し貴し、と讃められたり。
日興は浪の上に婆れて見はれ給つる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり。
仍て本尊書写の事一向に日興が之を書写し奉るべきこと勿論なるのみ。
 弘安五@壬午十月十日                    日蓮@在御判
 右此七箇の大事は唯授一人の秘伝なり、聊爾に口外すべからず@云云。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無日蓮大聖人。
 御判形の貌一閻浮提のなりにて御坐すなり。
梵字は天竺、真は漢土、草は日本、三国相応の表事なり。
 一、日蓮の蓮の字に点一つ打ち給ふ事は天目が点一つ過ぎ候なりと申しつる間、亦た点を打ち給ひて後の玉ひけるは、予が法門に墨を一つ申し出すべき者なり、さてこそ天目とはつけたれと@云云。