● 念法真教 概説
● ネットの声
   潜入取材
● 小倉霊現の開教の矛盾

  @ 阿弥陀仏が産土神として応現する?
  A 久遠実成の阿弥陀如来?
  B 憑依妄想
  C 啓示宗教 創唱宗教 
  D 大正14年8月3日以前は?
● 産土神 について
● 教祖の神憑り
● 魔の通力
● 諸天は国土にいない
● 神社などは魔の棲家
● 法華経最第一
● 法華経以外は不可
● 阿弥陀仏は不可
  @ 女人蔑視
  A 娑婆国土に無縁の仏
  B 厭世思想
  C 48願など現実に不可能 妄想・綺麗ごと・口だけ
  D 五逆は救えない
  E 三種の阿弥陀仏

● 魔の眷属
● 文証ない者は用いではならない
● 末法の法華経弘教者は上行菩薩=日蓮大聖人 → 末法時代となった今は、仏教の事は日蓮大聖人の御指南に依って考えるべき。

参照

● 法華経・勧持品20行の偈
● 三千塵点劫 と 五百塵典劫

 「阿弥陀仏 が 産土神 となって応現する」? ← 根拠は?

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● およそ「仏教」と名乗るからには、仏の説いた経典を忠実に根拠としなければならないはずである。

→ 「阿弥陀仏が産土神として応現する」などとは一代仏教のどこにも説かれていない。

→小倉霊現の我見・妄想・妄執である。

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● 『久遠実成の阿弥陀如来』 などとは 念法真教が依経としている 法華経 他 浄土三部経の 阿弥陀経 無量寿経 観無量寿経 のどこにも説かれていない妄説である。

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● 『小倉霊現 という人物が 日本 の 大正14年8月3日 に 阿弥陀仏から念法を授かる 』 ← などとどの経典に予言されているのか?

例えばある精神疾患の患者が、あるとき 阿弥陀仏の夢を見て 突然 「阿弥陀仏に言われた!我こそ世を救う人間だ!」 と言い出すのとどう違うのか?

精神病理学で言うところの 「憑依妄想」 とどう違うのか?

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天理教・中山ミキ  

大本教・出口なおに降りた国祖・国常立尊(くにとこたちのみこと)   最初「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)

金光教 赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)  天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)

生長の家 谷口雅春 生命の実相甘露の法雨を基礎とする。なお、生長の家は、神道仏教キリスト教天理教大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」という思想を主張・布教している。

世界救世教 大本の幹部だった岡田茂吉  「大光明真神(みろくおおみかみ)」 昭和25年に「宗教法人世界救世(メシヤ)教」になったとき 「観音の衣(ころも)をかなぐり捨てて、メシヤ(救世主)へと衣替えをした」

などなど、全て教祖が神もしくは仏からの声を聴き、立教しているが、その本尊・教義内容・修行法など全て全く違う。

その中で、どうして 小倉霊現 だけが正しいと言えるのか?

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● 大正14年8月3日 以前の民衆を 阿弥陀仏 は救わなかったのか? なぜか? 
それでは衆生に対しての救済に差別があり、無慈悲であり、偏頗であり、そもそもが信用できる「仏」ではないではないか。

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●  産土神

産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神
あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神
単に産土ともいう。
日本人の郷土意識と強く結びついた信仰

● → これでは 世界中の人々を救えない 世界宗教とはなれない、狭量な土着の神ではないか。


古神道では、産土神は、その者を産まれる前から死んだ後まで守ってくれる神とされており、個人に固有のものである。
氏神、氏子の関係が血縁集団を基にして成立しているのに対し、産土神は地縁集団としての信仰意識に基づく
従ってその意識が強く表れ得るのは都市である。

例えば京都では同族集団の結合が薄れ、地縁意識が起こると共に、中世には稲荷神社、御霊神社、賀茂神社、北野神社などの有力な神社を中心に産土神を基にした産子区域の観念が発達した。
そして産土詣での語が一般に使われるようになり、生まれた子の初宮参りをはじめ、成年式、七五三等に産土詣でをする風習が盛んになった。

また、産土神は安産の神である産神とも無関係ではない。
今では古い形の同族神としての氏神が衰え、新たに起こった産土神に吸収されていく傾向が全国的に見られる。

江戸では日枝山王が徳川氏の産土神とされ、その祭礼は盛大を極めた。

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金光明(こんこうみょう)経に云はく

■「其(そ)の国土に於て此の経有りと雖(いえど)も未だ嘗(かつ)て流布(るふ)せず。
捨離(しゃり)の心を生じて聴聞(ちょうもん)せんことを楽(ねが)はず、亦(また)供養し尊重(そんじゅう)し讃歎(さんだん)せず。
四部(しぶ)の衆、持経(じきょう)の人を見るも、亦復(またまた)尊重し乃至(ないし)供養すること能(あた)はず。
遂に我等(われら)及び余の眷属(けんぞく)、無量の諸天をして此の甚深(じんじん)の妙法を聞くことを得ず、甘露の味(あじ)はひに背き正法の流れを失ひて、威光及以(および)勢力(せいりき)有ること無からしむ。
悪趣(あくしゅ)を増長(ぞうちょう)し、人天(にんでん)を損減して、生死(しょうじ)の河に堕(お)ちて涅槃の路(みち)に乖(そむ)かん。
世尊、『我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。
但(ただ)我等のみ是(こ)の王を捨棄(しゃき)するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。
既(すで)に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々の災禍(さいか)有りて国位を喪失(そうしつ)すべし。※1』
一切の人衆皆(みな)善心無く、但繋縛(けばく)・殺害(せつがい)・瞋諍(しんじょう)のみ有って、互ひに相讒諂(あいざんてん)して枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。
疫病(やくびょう)流行し、彗星数(しばしば)出で、両の日並び現じ、薄蝕恒(はくしょくつね)無く、黒白(こくびゃく)の二虹不祥(にこうふしょう)の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉(ききん)に遭(あ)ひて苗実成(みょうじつみの)らず、多く他方の怨賊(おんぞく)有りて国内を浸掠(しんりょう)せば、人民諸(もろもろ)の苦悩を受けて、土地として所楽(しょらく)の処(ところ)有ること無けん」已上(※『』筆者以下同)


大集経

■「是くの如き不善業(ふぜんごう)の悪王・悪比丘、我が正法(しょうぼう)を毀壊(きえ)し、天人の道(どう)を損減し、『諸天善神・王の衆生を悲愍(ひみん)する者、此の濁悪(じょくあく)の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん※2』」已上。

大集経

■「若(も)し国王有りて、無量世(むりょうせ)に於て施戒慧(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護(おうご)せずんば、是くの如く種(う)うる所の無量の善根悉く皆滅失(めっしつ)して、其の国当(まさ)に三(み)つの不祥の事(こと)有るべし。
一には穀貴(こっき)、二には兵革(ひょうかく)、三には疫病なり。
『一切の善神悉く之を捨離(しゃり)せば、※3』其の王教令(きょうりょう)すとも人随従(ずいじゅう)せず、常に隣国の為に侵(女偏+堯)(しんにょう)せられん。
暴火(ぼうか)横(よこしま)に起こり、悪風雨多く、暴水増長して、人民を吹(さんずい+剽)(すいひょう)せば、内外(ないげ)の親戚其れ共に謀叛(むほん)せん。
其の王久しからずして当に重病に遇(あ)ひ、寿終(じゅじゅう)の後大地獄の中に生ずべし。乃至王の如く夫人(ぶにん)・太子・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡守・宰官(さいかん)も亦復(またまた)是くの如くならん」已上。

要文

■『我等四王(しおう)並びに諸(もろもろ)の眷属及び薬叉(やしゃ)等、斯(か)くの如き事(じ)を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。但(ただ)我等のみ是(こ)の王を捨棄(しゃき)するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉(ことごと)く捨去(しゃこ)せん。既(すで)に捨離し已(お)はりなば其の国当(まさ)に種々の災禍(さいか)有りて国位を喪失(そうしつ)すべし。※1』

『諸天善神・王の衆生を悲愍(ひみん)する者、此の濁悪(じょくあく)の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん※2』

■『一切の善神悉く之を捨離(しゃり)せば、※3』

との如く、既に 「国土には諸天善神が棲んでいない」、と述べられています。

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悪鬼乱入  日本の「神」は全て天上界に去り、今は悪鬼乱入している。 → 産土神 はいない。 悪鬼魔神 である。

日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず。
適(たまたま)仏法を知る智者は、国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ、利正(りしょう)を止(や)め、此の国をすて他方に去り給ひ、悪鬼は便(たよ)りを得て国中に入り替はり、大地を動かし悪風を興(おこ)し、一天を悩まし五殻(こく)を損ず。
故に飢渇(けかち)出来し、人の五根には鬼神入りて精気を奪ふ。

是を疫病(やくびょう)と名づく。
一切の諸人善心無く多分は悪道に堕(だ)することひとへに悪知識の教を信ずる故なり。(唱法華題目抄 文応元年五月二八日 三九歳 224)


若し随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて、而も易行の中に取りても猶観経等の念仏往生は易行なりと之を立てらるれば、権実雑乱(ぞうらん)の失(とが)大謗法たる上、一滴の水漸々(ぜんぜん)に流れて大海となり、一塵積もりて須弥山(しゅみせん)となるが如く、漸(ようや)く権経の人も実経にすゝまず、実経の人も権経におち、権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留(とど)まり、国中に王なきが如く、人の神(たましい)を失へるが如く、法華・真言の諸の山寺荒れて、諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去れば、悪鬼便(たよ)りを得て乱れ入り、悪風吹いて五殻(ごこく)も成らしめず、疫病(やくびょう)流行して人民をや亡ぼさんずらん。(唱法華題目抄 文応元年五月二八日 三九歳 227)


世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。
是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。
言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。(立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳 234)


盲瞽(もうこ)の輩(やから)、迷惑の人、妄(みだ)りに邪説(じゃせつ)を信じて正教(しょうきょう)を弁(わきま)へず。
故に天下世上(せじょう)諸仏衆経(しゅきょう)に於て、捨離(しゃり)の心を生じて擁護(おうご)の志(こころざし)無し。
仍(よ)って善神聖人(しょうにん)国を捨て所を去る。
是(ここ)を以て悪鬼外道災(さい)を成し難を致(いた)すなり。(立正安国論 237)


謗(ぼう)を好んで正(しょう)を忘る、善神怒(いか)りを成さゞらんや。
円を捨てゝ偏(へん)を好む、悪鬼便(たよ)りを得ざらんや。
如(し)かず彼(か)の万祈を修せんよりは此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには。
(立正安国論 241)


叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王(さんのう)七社・国中守護の諸大善神、法味を喰(くら)はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。
悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘(かんが)ふる所なり。(安国論御勘由来 文永五年四月五日 四七歳 368)


天照太神・正八幡・山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふかの故に、悪鬼便(たよ)りを得て国すでに破れなんとす。(開目抄 文永九年二月 五一歳 528)


仏教に依って悪道に堕する者大地の微塵よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少なし。
此の時に当たって諸天善神其の国を捨離し、但邪天・邪鬼等のみ有って王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈毀辱(めりきにく)せしむべき時なり。(顕仏未来記 文永一〇年閏五月一一日 五二歳 678)


此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入りか(替)はりて多くの人を導く
仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)と成りぬ。(新池御書 弘安三年二月 五九歳 1458)

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佐々木慈啓師(日蓮正宗僧侶)の著書からの引用

1、教祖の神憑りから始まる

新興宗教は、教祖が関わっていた以前の宗教が大きく影響し、開教の縁になります。
それは、教祖が教祖になる前の生活苦・病苦等の熾烈な闘いが因となり、精神的異常の中で、神や仏を幻視したのです。
神仏と自分の二人、いわば精神的分裂が起こった時、幻聴としての声を、神仏の声と認識したわけです。
日頃の不幸や不満は身近なことだけに止まらず、社会全体を叱責するまでになります。
つまり世直し志向です。

世間には病人もいれば、生活で苦しんでいる人も沢山います。
「これを救うのは自分しかいない」、いや「おまえが救うべきだと神が命じた」といいます。
こうして、異常心理による人格変換の中で起こった出来事が、後に開教の神事として現実化し、定着します。

これを 「啓示宗教」、あるいは 「創唱宗教」 といい、神憑りによって誕生した多くの新興宗教はこの型です。
ですから、教義も本尊も初めは全くありません。
人助けが中心です。

では、どうやって助けたかといいますと、神のお告げとしての予言、及びマジナイによる病気治しでした。
時に、予言がはずれても、病気が治らなくても平気です。
あくまでも神のお計らいということで解決しているからです。
現証も文証もないところから出発し、後に信者が増加し、教団として整足する時になってはじめて本尊や教義を制定してきたのが実状です。
金光教・黒住教・念法真教等はその典型でありましょう。

最近はこのパターンを故意にマネたものも出てきました。
神仏の声を、死者の霊言などと誇張拡大し、自分はそれを伝える使者だと位置づけ、教祖に成り上がった幸福の科学の大川隆法。

あるいは自作自演しながら天の声だと豪語してきた法の華三法行の福永法源などは、いかのも過去の神憑りをマネたものです。

人を惑わすはすべての新興宗教に共通ですが、現代のこうした邪義は悪の中の極悪ともいえましょう。


2、現世利益を売りものにして発展

新興宗教はいずれも現世救済主義を柱に発展してきました。
その要因は色々あります。

その一つに過去の既成宗教が現世救済型でなかったことがあげられます。

例えば、キリスト教にしても仏教にしても、どちらかといえば未来幸福願望型であったといわれます。
天国思想、浄土思想、未来往生などがそれであります。

ところが、社会の変動時期、生活に追われ、病気に苦しめられていた人々にとっては、今すぐこれらの悩みを解決してくれる強い味方を望んでいた。
例えばそれが空しく甲斐なきワラ一本であれ、眼前の抜苦と与楽の宗教に走ったのです。又、それを与えようとした者も、宗教のプロではなく、いわば仲間の一人が救世主だったが故に、一層の親近感を持って集まりました。
求める側に呼応して出来上がったともいえます。
三世の生命論や、物よりも心が大事と教えてきた既成宗教では、もとめる側の意のままという訳にはいきませんでした。


二つめには教祖の体験が中心であることです。
現実に生活し、その中で生活苦、病苦にあえいできた当事者としては、教えも当然現実的なものになります。
自分はこのようにしたら物・金にも恵まれ、病気も治った。皆もきっとそうなると訴え、時に病気などは私(教祖)が一時身代わりになってあげるといって、皆の心を引きつけてきた教祖もいます。
たとえそれが単なる暗示であり、一時の慰めであったとしても、集まる人には最高の御利益のように思えたのです。
そして教祖への恋慕の念と信頼度は日々に増し、一生のきずなにまで発展してきました。そこには、何一つむずかしい教義などはいりません。
ただ現世の苦悩解決と、神仏に最も近い人としての教祖と結び合うことのできた満足感、これが新興宗教をして現世利益たらしめた大きな要因だということです。


3、すべて平易主義を旨とする

既成宗教は、まず教義(経典やバイブル)があり、その教えをもとにルールに則って布教したり修行したりします。
しかし、新興宗教は、前述したように教祖(人)が中心で、教え(法的なもの)は神仏の声として教祖が後に伝えたものですから、自ずと深い教義などはありません(教義を中心に異流義として誕生した教団もあることはあります)。
もっとも在家中心の教団がほとんどですから、深味のある教えのないのは当然といえば当然です。

ただ、それだけに皆には分かり易く、受け入れ易いことが利点となっています。
しかも、ほとんどが改宗を迫らず、むしろ今までの宗教、先祖からの宗教を大事にせよと教える教団もあるくらいです。
この点が入信入会を易しくしている要因でもありましょう。
しかし、その分、信者の信仰心の厚薄は量れないだろうし、脱会も簡単ですから出入りも激しいことになります。

教えも簡単なら朝夕のおつとめとしての修行も簡単です。
ところが、信者増員の為の指導やルールはかなり厳しいものがあるようです。(希には勧誘をよしとせず、本人の入会希望だけを受け入れる教団もあります)

なんといっても、新興宗教の教えとして目立つのは道徳論です。
人が人として生きるための道を模索している中で、発想の転換を計らせたり、当然すぎるほどの善行を勧めています。
特別な内容はなくとも、神仏の名のもとに諭されると至極神妙に、しかも素直に実行します。

例えば、親には孝行せよ、先祖供養は怠るな、親子兄弟嫁姑は常に仲良く、何事にも感謝の念を忘れるなと教えます。
あるいは、ひとには慈愛をもって接し、物を粗末にせず矯(おご)らず怒らず、常に神仏を敬って生きていくところに幸せはやってくる等と指導し、これらを教義としているのです。
平易は浅薄幼稚に通じています。

これを最高の教えだとしている新興宗教は、真の幸せ(三世の生命における)を阻害するところの謗法といわずして何といいましょうか


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魔の通力 利益らしきことがあったとしても全て「魔の通力」 後に悲惨な状況となる。

■ 実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。(日蓮大聖人 唱法華題目抄 233)

■ 「若し衆生生死を出でず仏乗を慕はずと知れば、魔是(こ)の人に於て猶(なお)親(おや)の想(おもい)を生(な)す」(種々御振舞御書 建治二年 五五歳 1063)
【通解】もしも、仏道修行している者たちが、そのやり方では絶対に成仏できないし、真の仏道=戒壇の大御本尊を渇仰せず修行をしないと分かれば、魔がこういう者たちに対して親のように想いになる)

■ 人善根(ひとぜんこん)を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王親のおもひをなして、人間につきて其の人をもてなし供養す。(1063)

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B、■「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其の身も檀那も安穏なるべからず。」(御書・諫暁八幡抄 1531n


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● 法華経最第一 の文証

法華経のみが真実の教え 浄土三部経を並び立て、依経としてはならない。

法師品第十

■ 「已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」

法師品第十

■ 「薬王、今汝に告ぐ、我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり」。

見宝塔品第十一

■ 我仏道の為に 無量の土に於て
始より今に至るまで 広く諸経を説く
而も其の中に於て 此の経第一なり

安楽行品第十四

■ 此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り

薬王菩薩本事品第二十三

■ 海為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て、最も為れ深大なり。

■ 須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。諸経の中に於て、最も為れ其の上なり。

■ 衆星の中に、月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も、亦復是の如し。千万億種の諸の経法の中に於て、最も為れ照明なり。

■ 帝釈の三十三天の中に於て王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

■ 仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

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● 法華経以外は不可

法華経開経・無量義経

■ 「四十余年未顕真実」 四十余年には 未だ真実を顕さず

方便品第二


■ 正直に方便を捨て 但無上道を説く 

方便品第二

■ 世尊は法は久しくして後要(かなら)ず当(まさ)に真実を説き給ふべし (→ 法華経以前は真実ではない)

■ 十方仏土の中には  唯(ただ)一乗の法のみ有り二無く亦(また)三無し (→ 法華経以外は真の法ではない)

■ 諸仏世に出でたもうには唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず (→ 諸仏の出世の本懐は法華経を説くためにあり)

■ 若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり
 (→法華経以外を「小乗」と断ず)

譬喩品第三
■ 今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ能く救護(くご)を為す (→ 阿弥陀仏では救われない)

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● 仏教は徹底した証拠主義であり、未来に仏・菩薩が出世する場合にも、予め経文上にそのことを予証として残しておくのです。
しかし、そうした予証もないのに、勝手に霊夢などを見て、経典にないことを言い出したとしたら、それは、まさしく

■ 「若し仏の所説に順(したが)はざる者有らば、当に知るべし、是れの人は是魔の眷属なり」 (涅槃経)」

仏の未来を定めて云く

● 「法に依て人に依らざれ」。

● 龍樹菩薩云く「修多羅(経典)に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり」。

● 天台云く「復修多羅と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」。
● 文証無きは悉く是邪謂なり (天台大師)

● 伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずることなかれ」。(日蓮聖人 『撰時抄』(真撰))

● 唯人師の釈計りを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。(日蓮大聖人)

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阿弥陀仏

女人不成仏 女性蔑視

参照

35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。 
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)

女人の身に生まれることを忌み嫌っている。
明らかに女性差別・蔑視 である。

こんな不平等な阿弥陀仏で救われる訳がない。

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● 阿弥陀仏 のこの現実世界における八相作仏はない。

@ 下天(げてん)       兜率天(とそつてん)からこの世に降下(こうげ)すること。
A 託胎(たくたい)      母摩耶夫人の胎内に宿ること。
B 出胎(しゅったい)     ルンピニー園に誕生すること。
C 出家(しゅっけ)      修行のため王宮を出ること。
D 降魔(ごうま)       悟りの障害となる魔を打破すること。
E 成道(じょうどう)     菩提樹の下において悟りを開き仏となること。
F 転法輪(てんぽうりん) 衆生のために種々の説法をし、教化すること。
G 入涅槃(にゅうねはん) 拘尸那掲羅(くしながら)において涅槃に入ること。

つまり、架空の仏であり、現実社会に実在しない。
実際にこの世に出でて衆生を教化したことがない。

一方、釈尊は

■ 法華経譬喩品第三

今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ 能く救護を為す
復教詔すと難も 而も信受せず

■「唯我一人のみ 能く救護を為す」 この現実社会で釈尊一人のみ一切衆生を救済する仏 と明言されている。 

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●教義
 
この世で救われず、現実改革できず、来世 西方十万億土に生ずる

厭離穢土 欣求浄土 この世を穢れた土と厭い、どこにあるかも証明されていない架空の土である、浄土 などという現実離れした理想郷に死んだら行ける。。。などと妄想する。

結果

厭世思想 諦めが強い 現実逃避 退廃的 優柔不断 ・・・・などの悪影響が顕れる。  

現実の様々な問題を解決・救済できない教えなど正しいはずがない。

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教義の矛盾

悪人往生 といいながら 「五逆」は救えない。

五逆罪  殺父 殺母 殺阿羅漢 出仏身血 破和合僧


ならば、親殺し、僧侶殺しは絶対に救われない。

現代で親殺しは頻繁に起きている。

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● 
四十八願など、およそ現実には全く不可能なことばかりである。

このような教えでは 妄想ばかり、空想ばかり、口ばかり、の現実離れした理想論ばかり、綺麗ごとばかりで 地に足の着いていない精神思考構造となる。


参照 四十八願

1 設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚

たとえわたし(法蔵菩薩)が仏になることができても、わたしの国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいるとするならば、わたしは決して仏になりません。 
(無三悪趣の願・むさんまくしゅのがん)

2 設我得仏国中人天寿終之後復更三悪道者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が命終後に再び地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥るならば、わたしは決して仏になりません。 
(不更悪趣の願・ふきょうあくしゅのがん)

3 設我得仏国中人天不悉真金色者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が金色に輝く身にならない限り、わたしは決して仏になりません。 
(悉皆金色の願・しっかいこんじきのがん)

4 設我得仏国中人天形色不同有好醜者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の姿や色が同じではなく、美醜の差があるならば、わたしは決して仏になりません。 
(無有好醜の願・むうこうしゅのがん)

5 設我得仏国中人天不識宿命下至不知百千億那由他諸劫事者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。 
(令識宿命の願・りょうしきしゅくみょうのがん)

6 設我得仏国中人天不得天眼下至不見百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、天眼通を得ずに、数限りない諸仏の国を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(令得天眼の願・りょうとくてんげんのがん)

7 設我得仏国中人天不得天耳下至聞百千億那由他諸仏所説不悉受持者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない諸仏がたの国の様子を見通すことができないならば、わたしは決して仏になりません。
(天耳遥聞の願・てんにようもんのがん)

8 設我得仏国中人天不得見他心智下至不知百千億那由他諸仏国中衆生心念者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、他心通を得ず、数限りない諸仏がたの心を知り尽くすことができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(他心悉知の願・たしんしつちのがん)

9 設我得仏国中人天不得神足於一念頃下至不能超過百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、神足通を得ず、一瞬間に数限りない諸仏がたの国々を飛び回ることができないなら、わたしは決して仏になりません。 
(神足如意の願・じんそくにょいのがん)

10 設我得仏国中人天若起想念貪計身者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が想念を陥ってわが身に執着するならば、わたしは決して仏になりません。 
(不貪計心の願・ふとんげしんのがん)

11 設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り必ずさとりを得ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(必至滅度の願・ひっしめつどのがん)

12 設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、光明に限りがあって数限りない諸仏がたの国々を照らさないならば、わたしは決して仏になりません。 
(光明無量の願・こうみょうむりょうのがん)

13 設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。 
(寿命無量の願・じゅみょうむりょうのがん)

14 設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が長い間、協力し計算してその数を知ることができるなら、わたしは決して仏になりません。 
(声聞無量の願・しょうもんむりょうのがん)

15 設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう、ただし願によりその長さを自由にしたいものは別でそうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(眷属長寿の願・けんぞくちょうじゅのがん)

16 設我得仏国中人天乃至聞有不善名者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、悪を現す言葉があるとでも耳にするならば、わたしは決して仏になりません。 
(離諸不善の願・りしょふぜんのがん)

17 設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、ずべての世界の数限りない仏が皆わたしの名をほめたたえないようならば、わたしは決して仏になりません。 
(諸仏称名の願・しょぶつしょうみょうのがん)

18 設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々が、 
○心のドン底からまこごろこめて 
○わたしに信仰のすべてをささげ 
○わたしの浄土に生まれたいと願うそうして 
○わずか十声でも念仏を称えるこのようでなければ、わたしは決して仏になりません。ただ五逆と謗法をおかした者だけは救うことはできません。 
(至心信楽の願・ししんしんぎょうのがん)

19 設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がさとりを目ざしもろもろの功徳を積み重ね心からわたしの国に生れたいと願うなら命終のとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(至心発願の願・ししんほうがんのがん)

20 設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心廻向欲生我国不果遂者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての人々がわたしの名である六字名号を聞きて、この国に思いをかけ、多くの功徳を積んで心からこの功徳により、わたしの国に生まれたい願うなら、その願いをきっと成就させましょう。そうでなければわたしは決して仏になりません。 
(至心回向の願・ししんえこうのがん)

21 設我得仏国中人天不悉成満三十二大人相者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、仏と同じ三十二相のすぐれた相を完全に備えなければ、わたしは決して仏になりません。 
(具足諸相の願・ぐそくしょそうのがん)

22 設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本願自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養
十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他方仏土の諸菩薩衆が、私の国に生まれてくれば必ず一生補処という菩薩最高の位を得るでしょう、ただしその菩薩の願によってはその限りではなく、人々を自由に導くため堅い決心で多くの功徳を積み、すべてのものを救い、諸仏の国に行き菩薩として修行し、数限りない人々を導き、最上の証りを得させようとするものは別で、菩薩通常の各段階の行をこえ出て即座に限りない慈悲行を行うこともできるのです。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(還相回向の願・げんそうえこうのがん)

23 設我得仏国中菩薩承仏神力供養諸仏一食之頃不能遍至無数無量那由他諸仏国者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けて、諸仏を供養するにあたり、一度食事の短時間にそれら無数の国々に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(供養諸仏の願・くようしょぶつのがん)

24 設我得仏国中菩薩在諸仏前現其徳本諸所欲求供養之具若不如意者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、諸仏の前で功徳を積むにあたり、供養の品を望みのままに得られないなら、わたしは決して仏になりません。 
(供養如意の願・くようにょいのがん)

25 設我得仏国中菩薩不能演説一切智者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が、この上ない智慧について自由に説法ができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(説一切智の願・せついっさいちのがん)

26 設我得仏国中菩薩不得金剛那羅延身者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強い体が得られないなら、わたしは決して仏になりません。 
(得金剛身の願・とくこんごうしんのがん)

27 設我得仏国中人天一切万物厳浄光麗形色殊特窮微極妙無能称量其諸衆生乃至逮得天眼有能明了弁其名数者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく色も形もくらべものなく極めてすぐれています。かりに多くの人々が天眼通を得てそのありさまを明らかに知り尽せるようであれば、わたしは決して仏になりません。 
(万物厳浄の願・ばんもつごんじょうのがん)

28 設我得仏国中菩薩乃至少功徳者不能知見其道場樹無量光色高四百万里者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩でもし功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝やき、百万里の高さであることを知らないなら、わたしは決して仏になりません。 
(道場樹の願・どうじょうじゅのがん)

29 設我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心に保ち、人々に説き聞かして、自由自在に弁舌をふるう智慧が得られないならば、わたしは決して仏になりません。 
(得弁才智の願・とくべんさいちのがん)

30 設我得仏国中菩薩智慧弁才若可限量者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるならば、わたしは決して仏になりません。 
(弁才無尽の願・べんざいむじんのがん)

31 設我得仏国土清浄皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、国土は清らかで明鏡に顔をうつすようにすべての諸仏の世界を照らし出して見ることができましょう、そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(国土清浄の願・こくどしょうじょうのがん)

32 設我得仏自地已上至于虚空宮殿楼観池流華樹国中所有一切万物皆以無量雑宝百千種香而共合成厳飾奇妙超諸人天其香普熏十方世界菩薩聞者皆修仏行若不如是者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、大地から天空まで宮殿・楼観・流水・美花など国内一切のものが宝物と芳香で成りその荘厳は天人の世界にすぐれその荘厳は天人の世界にすぐれその芳香をかいだ菩薩は皆、仏道に励みます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(妙香合成の願・みょうこうごうじょうのがん)

33 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界のものが、わたしの光明にてらされてそれを身に受けたなら身も心も和らぎ、天人や人々をこえすぐれるでしょう、もしそうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(触光柔軟の願・そっこうにゅうなんのがん)

34 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類聞我名字不得菩薩無生法忍諸深総持者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界の人たちが、六字の名号を聞きて、菩薩の無生法忍と、教えを記憶して忘れない力を得られないならば、わたしは決して仏になりません。 
(聞名得忍の願・もんみょうとくにんのがん)

35 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、六字の名号を聞きて、喜び信じさとりを開く心を起こし、女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、わたしは決して仏になりません。 
(女人往生の願・にょにんおうじょうのがん)

36 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸菩薩衆聞我名字寿終之後常修梵行至成仏道若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の菩薩が、六字の名号を聞き、命終後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名梵行の願・もんみょうぼんぎょうのがん)

37 設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸天人民聞我名字五体投地稽首作礼歓喜信楽修菩薩行諸天世人莫不致敬若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の天人や人々が六字の名号を聞いて、土下座してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら天の神や世の人々は残らず皆、うやまうでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(作礼致敬の願・さらいちきょうのがん)

38 設我得仏国中人天欲得衣服随念即至如仏所讃応法妙服自然在身若有裁縫擣染浣濯者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々が、衣服を欲せば、思いままにすぐに現れ、仏の心にかなった尊い衣服を自然に身につけているでしょう。裁縫、染め直し、洗濯の必要はありません。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(衣服随念の願・えぶくずいねんのがん)

39 設我得仏国中人天所受快楽不如漏尽比丘者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ちきった修行僧と同じでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(常受快楽の願・じょうじゅけらくのがん)

40 設我得仏国中菩薩随意欲見十方無量厳浄仏土応時如願於宝樹中皆悉照見猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が思いのままに、すべての数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願いどおりに明鏡に顔をうつすように、宝樹の中にそれらをすべて照ら出してはっきり見ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(見諸仏土の願・けんしょぶつどのがん)

41 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 
(聞名具根の願・もんみょうぐこんのがん)

42 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得清浄解脱三昧住是三昧一発意頃供養無量不可思議諸仏世尊而不失定意若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば、皆清浄解脱三昧を得て直ちに数限りない諸仏を供養ししかも三昧の心を乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名特定の願・もんみょうとくじょうのがん)

43 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字寿終之後生尊貴家若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞きけば、命終後に人々から尊ばれる家に生まれることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名生貴の願・もんみょうしょうきのがん)

44 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字歓喜踊躍修菩薩行具足徳本若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞けば喜び勇んで菩薩の修行に励み多くの功徳を完全に身に具えるでしょう。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名具徳の願・もんみょうぐとくのがん)

45 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得普等三昧住是三昧至于成仏常見無量不可思議一切諸仏若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩が六字の名号を聞いて皆、普等三昧を得て、仏になるまでの間、数限りないすべての諸仏の姿を身奉ることができます。そうでなければ、わたしは決して仏になりません。 
(聞名見仏の願・もんみょうけんぶつのがん)

46 設我得仏国中菩薩随其志願所欲聞法自然得聞若不爾者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の菩薩が聞きたく思う説法を自然に聞くことができないなら。わたしは決して仏になりません。 
(随意聞法の願・ずいいもんぽうのがん)

47 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至不退転者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号聞いて不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(聞名不退の願・もんみょうふたいのがん)

48 設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至第一第二第三法忍於諸仏法不能即得不退転者不取正覚

たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが、六字の名号を聞きて、直ちに音響忍、柔順忍、無生法忍を得ることができず。また諸仏の説法において不退転の位に至ることができないならば、わたしは決して仏になりません。 
(得三法忍の願・とくさんぽうにんのがん)

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三種の阿弥陀仏

@ 無量寿経 法蔵比丘の十劫成道の阿弥陀仏

A 法華経迹門化城喩品 大通智勝仏の十六王子として、西方極楽浄土に住して法華経を弘通する阿弥陀仏

B 法華経薬王品二十三 釈尊の垂迹・化身の一人としての阿弥陀仏


@ ■ 無量寿経

「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。・・・・ 成仏してより已来、おおよそ十劫を経たまえり。」

法華経寿量品 釈尊の 五百塵点劫成道(久遠成道)に遠く及ばない。
つまり、釈尊が元の仏で、阿弥陀仏は遥か後の仏。

念法眞教(浄土門)の言う 「久遠実成の阿弥陀仏」 など、全く根拠のない妄説である。


A 法華経化城喩品には、大通智勝仏 第9番目の王子、阿弥陀仏は、西方の衆生済度の任を受ける。
この現実世界の娑婆世界の衆生済度は第十六番目王子の釈迦如来。

阿弥陀仏など全く他土無縁の教主。
この娑婆世界の衆生の教主ではなく、信仰しても全く意味がない。


B 法華経薬王品 久遠実成が顕れ終わった後には、阿弥陀仏も久遠実成の釈尊の垂迹仏となることが示される。


もし、久遠実成の阿弥陀仏 の根拠が化城喩品の三千塵点劫 というのであれば、それは寿量品の五百塵点劫の釈尊の久遠実成に遠く及ばない、遥か以後の、最近の成道であり、垂迹応現の化仏である。


以上、阿弥陀仏を本尊とすることは明らかに邪義


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念法真教 概説

90-91年の「有害コミック」撲滅運動の中心勢力。関西に信者が多い、仏教系新興宗教。 
機関紙は『鶯の声』。
現在、「日本会議大阪」の有力団体。

民主党衆院議員・西村眞悟(西村真悟)の票田。
 小倉霊現は共産主義の脅威を訴え、国を愛することと国を守るべきことを強く主張。
苦しかった時代を忘れぬためにと、終生、戦闘帽をかぶって日本全国を巡教する。
教組の死後も、機関誌・紙において、北方領土返還、北の脅威、愛国心の涵養などが毎回訴えられている。

昭和五七年に小倉霊現が死去したのちは、息子の良現が灯主を継承し、名前も霊現を名乗る。
やはり各地において巡教活動を行う。
―(略)―
寺教会は全国に存在しているが、最近はとくに各地において、念法寺と称される独特な寺院の建設が相次いでいる。
その落成の際のおねり行列は有名である。

本部の男子職員は、頭を剃り髭を伸ばしているのが特徴。
教団員であることがすぐに分かるようにとのことである。

現世界極楽浄土づくりが巡教活動の中心であるが、それを通しての心の入れかえ、日常倫理の確立が説かれる。
家庭の円満や、幼児期からの情操教育を重視し、本部でも、昭和四一年、念法幼稚園を開園している。
最近は、父母を対象とする社会学級を開設、各大学教授などを講師に歴史教育に取り組んでいる。
   新宗教事典(弘文堂’90・3月発行)
http://www.linkclub.or.jp/~teppei-y/tawara%20HP/kaisetu.html#%81%99%89f%89%E6%81u%83v%83%89%83C%83h%81v%8A%D6%8CW

大阪の念法真教という宗教法人は信者に〔映画〕『プライド』の前売券を大量にばらまいた、という情報がある。
この宗教法人は、大阪に信者数が多く、日本会議大阪の有力な構成団体である。
また、超タカ派の衆議院議員・西村真悟(自由党〔当時〕)の支持母体にもなっているが、念法真教に西村支持を働きかけたのは田中正明だということである。

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念法眞教とは小倉霊現(1886-1982)なる者が創始者であるインチキエセ教団です。
大正14年(1925年)8月3日に小倉は夢の中で阿弥陀如来が現れてお告げがあり、「念法霊現 念力不可思議 感応神通」という14文字の「念法真言」を授かったという。
この14文字の言葉を唱えれば願いが成就するというのであります。


教団では天台宗系を名乗っていますが天台宗の教義は全くなく
阿弥陀如来を立てて念仏を指向しているかと思えば、天之御中主大神なる産土神と阿弥陀如来が一体であるなどと言い神道と仏教をごちゃまぜにしています。

そのような説は経典のどこにもありません
また仏である阿弥陀如来が仏教から見て低級信仰とみなしている外道の神である産土神に姿を変えて出現する必要があるのかという問題もあります。


教団の起こりを見てみますとこれは教祖小倉の精神病で言うところの「憑依妄想」つまり神がかり状態から出発しています。
狂った言葉を信じますと人生も狂ったものとなって行きます。


結論として念法眞教とは教祖小倉の思い込みと思いつきから生まれたいいかげんなインチキ教団であります。
信じる価値はありません。


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# 念法 『気になったので、突然お邪魔します。

推測は図星です。
そうです、念法眞教です。
私は本山の月例祭にも潜入したことがあり、そこでついでに「鶯乃声」という機関紙ももらいました。
機関紙には常に教育勅語が載っていますし、かなり右翼的な主張が展開されています。

青年会?が西村眞悟とともに北方領土視察研修したりと凄い教団です。

各地にある念法寺には天皇皇后の「御真影」が飾られたりもしてます。

教義は神仏習合のごった煮で、無茶苦茶

毎月3日と16日に月例祭が本山であり、神拝式と仏前式で儀式が執り行われます。

本山内部は豪華絢爛で、儀式の内容も、まるで「マルサの女2」で描かれているインチキ新興宗教のようです。

右翼系集会やら皇室の旅行の際の日の丸小旗を持っての歓迎などにも動員をかけています
実際私の目の前で動員かけてましたから。』

# 念法 『なおこの教団が規模の割には情報が乏しいのは、その閉鎖性と信者自身が「念法眞教」といきなりは言わないこともあるのかもしれません。

政治的主張以外に関しては、どこにでもある道徳訓を述べているに過ぎません。

もちろん教学体系など備えてはいませんし、特異な教義でもないために研究する人もいません。

月例祭が終了した後の法話では、間接的に「もっと金を出せ」というようなことが強調されています。

またその中で、「勧誘の際には念法眞教であることを出すな、世間には偏見を持っている人もいるだろうから、その人の本当の幸せのためには黙ってそれとなく勧誘することに努めるように」ということも述べます。

信者構成としては女性、それも中年以上の女性が多く、男性といえば、その女性のつれあいか、もしくは老人であり、若者は他宗教に比べて極端に少ないように思えます。』


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★仏教 大集経 五の五百歳広宣流布 勧持品20行の偈 

★『大集経』に

『大集経』分布閻浮提品

■「次の五百年は(※第五の五〇〇年)、わが法において、闘諍言訟し、白法隠没し損滅して堅固なり。」

■「我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没し損減すること堅固ならん」

と説かれ、釈尊の仏法が滅尽することが予証されています。

しかし『法華経薬王品』に

■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん」 (新編法華経 539頁)

と説かれ、釈尊入滅後、2000年から2500年の間に、「末法の法華経」が建立され、広宣流布することが預言されています。

更に『妙法蓮華経如来神力品第二十一』に

■爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。

と説かれ、釈尊の一切の仏法を上行菩薩を代表として、その他の眷属の菩薩方へも付嘱されたことが明示されています。

以上の教説から、釈尊の仏法は上行菩薩の再誕者によって再興されることは、釈尊の自らの言として明白です。


そして、末法に出現する上行菩薩の振る舞いとして以下のような予言がなされており、

■ 法華経勧持品二十行の偈

仏の滅度の後   恐怖(くふ)悪世の中に於て 我等当に広く説くべし
  諸の無智の人 悪口罵詈(あっくめり)等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん 我等皆当(まさ)に忍ぶべし
  悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  或は阿練若(あれんにゃ)に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)うて 人間を軽賎する者あらん
  利養に貧著するが故に 白衣(びゃくえ)のために法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること 六通の羅漢の如くならん
  是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮つて 好んで我等が過(とが)を出さん
  而も是の如き言を作さん 
「此の諸の比丘等は 利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
  自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑(おうわく)す 名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説く」と
  常に大衆の中に在って 我等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士
  及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 「是れ邪見の人 外道の論議を説く」と謂わん
  我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れに軽しめられて 「汝等は皆是れ仏なり」と謂われん
  此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし 濁劫(じょっこう)悪世の中には 多くの諸の恐怖(くふ)あらん
  悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱(めりきにく)せん 我等仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著(き)るべし
  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む
  我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん 世尊自ら当に知(しろ)しめすべし 濁世(じょくせ)の悪比丘は
  仏の方便 随宜所説の法を知らず 悪口して・蹙(ひんんじゅく)し 数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられ
  塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告勅(ごうちょく)を念うが故に 皆当に是の事を忍べし
  諸の聚落城邑(じゅらくじょうゆう)に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん
  我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし 

我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ
  我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て 是の如き誓言(せいごん)を発す 仏自ら我が心を知しめせ


中でも、法華経で予言されている時に、以下の経文を忠実に身に受けられたのは、古今東西で、日本の鎌倉時代に出現された日蓮大聖人御一人しかおられないのです。


○ 『諸の無智の人の 悪口罵言等し  及び刀杖を加うる者有らん』

○ 『濁世の悪比丘は仏の方便 随宜所説の法を知らずして 悪囗して顰蹙し 数数擯出せられ塔寺を遠離せん』


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五百塵点劫

五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。正しくは五百億塵点劫である。

法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我(われ)は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」とあり、

続けて

「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるまで)、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」

と弥勒菩薩に質問している。

これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。

「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。大きさ微塵の如し」

この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称される。
これに対し、寿量品(本門)の「五百千万億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりもはるかに長遠であるかが示されるようになった。