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    南条後家尼御前御返事 文永一一年七月二六日 五三歳

 鵞目(がもく)十連※1・かわのり(河苔)二帖・しゃう(薑)かう※2二十束給(た)び候ひ了んぬ。
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※1鵞目(がもく)五貫
 鎌倉時代には通貨のことを鵞目、鳥目(ちょうもく)、青鳧(せいふ)と呼んでいた。一貫文は銭千枚、千銭のことで、当時の記録によれば、銭一貫文で米一石(十斗)買えた。
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鵝目(がもく)
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。普通は銭といったが、鵞目(がもく)、鳥目(ちょうもく)、青鳧(せいふ)ともいった。当時流通していた孔(あな)のあいた通貨の形が鵞鳥(がちょう)の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代ころに輸入された唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝(けんげんじゅうほう)、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。なお、御真筆には「鵞」とあり、鵝と鵞とは字体は異なるが同字である。

五連
「連」とは、一つに連ねたものなどを数える時の単位。鎌倉時代には、鵝目などの穴のある通貨は、ひもなどを通して、複数個をひとまとまりにする風習があったことが知られている。一連のほか、一結(ゆい)、一さし、ともいわれた。妙密上人御消息には、御供養として「青鳧(せいふ)五貫文給い候い(中略)青鳧五連の御志」(一二三七n・一二四一n)とある。この御文からすると、一連には青鳧(鵝目)が千枚(千文・一貫文)束ねられていたと考えられる。すなわち本抄では、五連で五千枚(五千文・五貫文)となる。また、「青鳧二結(ゆい)(中略)銅銭二千枚」(乗明聖人御返事・一〇一二n)、つまり青鳧(鵝目)が千枚で一結とする御文がある。ただし、これに対して、当時は一連に百枚ずつ束ねられていた、とする説もある。
〈追記〉
 昔の銭の数え方では、十文を「一疋(いっぴき )」といい、百文を紐で束ねて「一連」または「一結(ゆい)」と称した。「一貫文」は、百枚(百文)ごとに束ね、十束(一千文)としたもの。
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※2 生薑のことと思われる。ショウガ科の多年草であるショウガの地下茎。辛味と香気があり、食用・香辛料にされる。また、発汗を促し胃腸を整える薬効がある。
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 ※3 かまくら(鎌倉)にてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をも(思)ひわす(忘)れさせ給はざりける事申すばかりなし。
こうへのどの(故上野殿)だにもをは(在)せしかば、つね(常)に申しうけ給はりなんとなげ(嘆)きをもひ候つるに、をんかたみ(御遺愛)に御みをわか(若)くしてとヾめをかれけるか。
すがた(姿)のたが(違)わせ給はぬに、御心さえに(似)られける事いうばかりなし。
法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はか(墓)にまいりて候ひしなり。
又この御心ざし申すばかりなし。
今年のけかち(飢渇)にはじめたる山中に、木のもとにこのは(木葉)うちし(打敷)きたるやうなるすみか(栖)、をもひやらせ給へ。
このほどよ(読)み候御経の一分をことの(故殿)へ廻向しまいらせ候。
あわれ人はよき子はも(持)つべかりけるものかなと、なみだ(涙)かきあえずこそ候へ。
妙荘厳王(みょうしょうごんのう)は二子にみちび(導)かる。
かの王は悪人なり。
こうえのどの(故上野殿)は善人なり。かれ(彼)にはに(似)るべくもなし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 七月二十六日               日  蓮 花押
御返事

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【南条後家尼御前御返事】
■出筆時期:文永十一年(1274年)七月二十六日 五十三歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大聖人が身延山中に草庵を設けたことを知った南条後家尼御前(故南条兵衛七郎の妻)が、家督を継いだ当時十五歳の時光に頼んで、ご供養の品々を届けたことへの返書となっております。大聖人は九年前の文永二年三月八日に南条兵衛七郎が亡くなると、鎌倉から駿河上野郷にわざわざ下向し、兵衛七郎の墓に参っておられます。そして当時幼かった時光が成長した姿をみて「すがたのたがわせ給わぬに、御心さえ・にられける」と記され、姿も心根も父兵衛殿にそっくりで言うことがないと称えられておられます。

 さらに文末では「あわれ人はよき子はもつべかりけるものかな」と記され、後家尼に対し貴女は良いお子に恵まれております、と称えられております。
 尚、時光は熱原の法難で日興上人とともに弾圧された信徒の農民を外護、大聖人から「上野賢人」の称号を賜り、日興上人が身延を離山したときは領地を提供し、富士大石寺の開基大檀那となっております。
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※3 「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事申すばかりなし」(御書 七四一n)
と、後家尼に対し、鎌倉でお目にかかったことははかないご縁かと思っていたのに、忘れずにいてくれたことは、まことに有り難いと仰せられています。