南条時光


 時光は正元元年(1259)駿河国富士郡上方庄上野郷の地頭南条兵衛七郎の次男として誕生した。
 時光の生涯は、鎌倉幕府の中期から後期にある。それは北条氏執権政治の安定期から、やがて内管領へ権力が移行し、幕府の支配体制である御家人制の崩壊、蒙古襲来以後の経済的破錠などが表面化していく激動の時代であった。
 時光は、幼少のころ父母について入信し、大聖人が身延に入山されてからはたびたび参詣をして、数多くの御供養を捧げて報恩の誠を尽くすなど、生涯、純真な信仰を貫いた鎌倉武士であった。大聖人も時光に期待されて指導に心をくだかれたことは、時光およびその一族への賜書が60編に達することからも拝することができよう。
 いま、時光の事績を概略すると次のようになろう。
   第一に、身延山中におられる日蓮大聖人のもとへたびたび参詣し、また数々の御供養をささげていること。
   第二に、大聖人が出世の本懐である本門戒壇の大御本尊御図顕になる機縁となる熱原法難に際して外護の活躍をしたこと。
   第三に、謗法の地となった身延を離山された日興上人をお守り申しあげたこと。
 などであり、晩年には入道し大行と称し、先立って没した妻・乙鶴の菩提を弔うために自邸を妙蓮寺とするなど、大石寺開基檀那としての任を全し、日興上人に先立つこと一年、正慶元年(1332)5月1日、74歳の生涯を終えた。
 ここで各編の講義に入る前に、序講として、南条時光の略伝を次の3点に分けて述べることにする。すなわち、
   第一に、南条家の家系や社会的地位、家族構成
   第二に、時光の信仰、熱原法難および大石寺創建の功績
   第三に、大聖人の御供養と、与えられた御書についての一覧
 である。
第一 南条家について
(一)本貫の地
 南条徳光の父・兵衛七郎の本貫の地は伊豆田方郡南条と伝えられる。年月は不明だが地頭に補任されてから駿河国富士郡上方庄上野郷に移住し、下条に屋敷を構えたと思われる。
 南条から狩野川に沿って1キロほど北上したところに北条がある。ここは鎌倉幕府の創設者である源頼朝の妻・北条政子の出生地でもあり、頼朝没後、代々の執権となっている幕府の実権を掌握した北条家の本領である。
 律令制下の田方郡には、新居、小河、直見、佐婆、鏡作、茨城、依馬、八邦、狩野、天野、吉妾、有弁、久寝の13郷があり、北条と南条は茨城郷の中にあった。
 「吾妻鏡」の文治5年(1189)6月6日の条には「北条殿の御願として、奥州征伐の事を祈らんがために、伊豆国北条の内に伽藍の営作を企てらる…名づけて願成就院と号す…当所は田方郡内なり。いわゆる南条・北条・上条・中条おのおの鏡を並ぶ」とあり、田方郡の中に南条・北条・上条・中条があったことを知ることができる。
 同じく、建保3年(1215)正月8日の条には北条時政が6日「北条郡において卒去す」と記述されていることから、田方郡にあった北条が、時政の死去までに北条郡となっていたと思われる。さらに年代が下って暦応2年(1339)4月5日付の「足利直義寄進状案」に「寄進 伊豆国円成寺。同国北条五箇郷原木・中条・山本・南中村・肥田とあるところから、鎌倉時代末期に原木・中条・山本・南中村・肥田の五郷が成立しており、南条はいずれかの郷に入っていたようである。
 南条が苗字本貫の地であったことは、その姓から知ることができる。当時は、居住地の名を頭において呼称する習慣があった。例えば北条家は桓武平氏の流れであるが、北条を本領としていたから北条氏を名乗り、さらに北条一族でありながら、その居住地名によって名越・金沢・江間氏などと称したのがそれである。日蓮大聖人から兵衛七郎の賜書が南条兵衛七郎殿御書であり、時光の賜書のあて名にも「南条殿」を使用されているものが5通ある。
 とくに、延慶2年(1309)2月23日の時光から子の左衛門三郎へ与えられた自筆の譲状からも、時光の領地が伊豆国南条にあったことが明らかである。
 富士修学要集には「ゆづりわたす南条三郎左衛門が所。いづの国なんでうの南方たけ正みやう内」とある。
 また日興上人の「弟子分本尊目録」に「南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光」とあるように、時光は平氏の流れである。
 北条氏が同じ平氏であることから、南条家は北条氏の同族か支族でなかったかと思われるが定かでなない。
 ここで、当時の幕府の公式記録である「我妻鏡」に登場する南条姓のものを挙げてみよう(括弧内の数字は我妻鏡の収録巻)
 南条次郎(15)南条平次(18)南条七郎二郎(27)南条七郎三郎(27)南条七郎左衛門尉時員(21・25・26・31・32)南条兵衛尉(31)南条太郎兵衛尉(31)南条兵衛次郎経忠(31)南条八郎兵衛尉忠時(33・46)南条平四郎(33)南条左衛門四郎(44)南条兵衛六郎(46)南条左衛門二郎(46)南条左衛門尉頼員(47・48・49)
 このなかで、七郎左衛門尉時員は承久3年(1221)5月、承久の乱の時に、北条泰時に従って上洛したことが記されている。また嘉禎2年(1236)12月19日の条にも将軍入御のため北条泰時が新第に移った時、御家人達が周囲の家屋を構えているが、七郎左衛門時員も家屋を構えた一人であることが記されている。
 ところで「吾妻鏡」から挙げられた南条姓の人々をみると、名前から父の兵衛七郎とつながりがあると思われるのは兵衛尉、太郎兵衛尉、八郎兵衛尉忠時、兵衛六郎等である。
 しかし、これらの人々が兵衛七郎とどのような関係があったかは不明であるが、南条一族として何らかのつながりがあったと思ってさしつかえあるまい。
(二)社会的地位
 七郎は鎌倉幕府の御家人であり、上野郷の地頭に補任されている。また御内人であったとの説もある。
 文永2年(1265)3月8日に兵衛七郎が病死した。その後、長男の七郎太郎が死去したこともあり、次男であった時光が家督を継いで惣領となり、後に任官して左衛門尉であったことは、延慶2年(1309)2月の譲状で「左衛門尉時光」と自署していることから明らかである。
 官については、律令制度の二官八省とは別に、軍事面を扱う衛門府、右衛士府、左衛士府、右兵衛府、左兵衛府の五衛府が設けられ、後にそれらの併合、変更があって左右衛門府、左右兵衛府、左右近衛府の六衛門府と称された。父の兵衛七郎が左衛門府のうち督・佐・尉・志の、いずれかは不明であるが、時光は左衛門尉であり、この左衛門尉の尉官を左衛門尉といったのである。
 しかし、武士の台頭による朝廷の実権の低下によって、鎌倉時代の中期には実際に職務にたずさわったわけではなく、官名のみが残ったようである。また任官といっても、本人が直接に朝廷から受けるのではなく、幕府が御家人の分をまとめて上奏し受領していた。
 鎌倉幕府は治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆国で挙兵後、文治元年(1185)11月朝廷から守護・地頭設置の勅許を得て、頼朝が軍事警察権を握る日本国総守護、総地頭となってから、その基盤が確立したといわれる。したがって、守護、地頭は幕府を支える重要な職であった。
 とくに守護には御家人のなかでも有力な関東武士が選ばれ、その国の治安警察権の行使を主な職務としていた。
 地頭の職権は領地内の管理権・警察権・徴税権がまとめられたようである。また地頭は任地に居住していることが多く、未開発の土地を開発していく開発領主の側面ももっていた。
 また、時光が御家人であったことは、時光から次男の左衛門次郎時忠への譲状のなかに幕府からの御家人に対して使われる「御下文」「御くうじ」の語があることからも理解できる。
(三)家族構成
(1)父
 日興上人の弟子分帳の「南条兵衛七郎の子息次郎平の時光」の御記述から兵衛七郎が平氏の流れであることがわかる。また七郎の名前から七男であったと思われる。「吾妻鏡」記される南条兵衛六郎などとつながりがあると思われるが定かではない。
 兵衛七郎に与えられた御書で現存するものは、文永元年(1266)12月13日の南条兵衛七郎殿御書であり、そこに認められた内容から兵衛七郎について知る意外にない。
 「御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず・」(1493−01)
 この御文から、恐らく当時、安房国におられたと思われる大聖人に、病気である旨の手紙を出したことがわかる。
 兵衛七郎の入信は、恐らく鎌倉で大聖人にお会いして教化されたことによるのであろう。
 大聖人は建長5年(1253)4月、清澄寺で立教開示し、文応元年(1260)7月16日に、立正安国論による第一回国主諌暁によって松葉ヶ谷の襲撃、伊豆伊東への流罪と法難にあわれ、弘長3年(1263)2月、御赦免になって鎌倉に帰られた。翌文永元年(1264)の秋に12年ぶりに故郷の安房に帰られ、「日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり」(0985−14)と御母妙蓮の病を治されたのである。
 したがって、兵衛七郎の入信は大聖人が鎌倉におられたであろう弘長3年(1263)2月から文永元年(12667)7秋までの期間であろうと推定される。また、文応元年(1260)から弘長元年(1261)の間であろうとの説もある。
 当時の御家人には奉行の義務があった。内容は京都の内裏や院の御所の諸門を警護する京都大番役、京都市中の警護にあたる篝屋番役、また鎌倉での将軍御所や幕府の諸門を警護する鎌倉大番役、そのほか平時の軍役、社寺の修造役、公事等である。このなかで鎌倉大番役は東国御家人特有の課役であり、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、下野、上野、信濃、甲斐、陸奥、出羽の15国に住む御家人がこれにあたっており、西国の御家人は京都御所の大番役にあたっていた。
 鎌倉大番役でも、常時鎌倉にいるのは北条一門や一門直属の御家人であり、地方の御家人は常に補任された領地にいて、1・2年に一度、1乃至2ヵ月ぐらい鎌倉に出て勤務していたようである。
 したがって兵衛七郎は、弘長3年(1263)から文永元年(1264)の間ごろ、鎌倉大番役の任につき、その時に大聖人にお会いしたのであろうと推測される。
 兵衛七郎はもと念仏の信徒であった。
 「但とのはこのぎをきこしめして念仏をすて法華経にならせ給いてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん」(1497−10)
 大聖人は兵衛七郎が法華経に帰依しても、入信が浅く念仏への執情を断ち切れないでいるのを、教・機・時・国・教法流布の先後の宗教の五義を説かれて、念仏は権教であり法華経こそ釈尊の本懐であることを御教示され「いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず」(1497−16)「但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな」(1498−13)と不退転の信仰に立脚するように御指導されている。
 「もし.さきにたたせ給はば」(1498−12)の御門から、この御書をいただいた時は兵衛七郎の病状はすでにかなり悪化していたようである。翌文永2年(1265)3月8日兵衛七郎は死去した。
 兵衛七郎が念仏を完全に捨て去り、成仏の相を現じたことは、後年の時光の書状に「法華経にて仏にならせ給い」(1507−04)「故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」(1508−13)とあり、また御家尼御前に「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし」(1506−08)とお述べになっていることからも明瞭である。
 兵衛七郎は屋敷に近い高土に葬られた。大聖人は兵衛七郎の死去を聞かれて、自ら鎌倉から上野郷まで出向かれ墓参されているのである。
 「故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふれて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひしに・よわひ盛んなりしに・はかなかりし事わかれかなしかりしかば・わざとかまくらより・うちくだかり御はかをば見候いぬ」(1510−01)。

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南条時光 母

 時光の母は大聖人からは「上野殿御家尼御前」「上野殿母尼御前」「上野殿母御前」「上野尼御前」などと呼ばれているが、夫の兵衛七郎が死去した後に尼となったものであろう。

賜書に
■「抑御消息を見候へば尼御前の慈父・故松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云」(上野尼御前御返事   弘安四年一一月一五日  六〇歳 1571)

とあるように、母御前は松野六郎左衛門入道の娘である。

 松野六郎左衛門入道は駿河国庵原郡松野に住んでおり、生年は不明だが、弘安元年(1278)11月に死去している。
松野一族に与えられた御書で現存するものは13編にのぼっており、その内容から一族は純真な信仰を続け、たびたび大聖人に御供養をさしあげていることがうかがえる。

■「子息多ければ孝養まちまちなり」(上野尼御前御返事   弘安四年一一月一五日  六〇歳 1574)

とあるように、松野六郎左衛門入道は子供が多かったようである。六老僧の一人蓮阿闍梨持時もその子とされる。日亨上人は「この母御前は年配より見て持師の姉ではなく叔母であろう」としているが、ここでは、他の資料の記述に従って六郎入道の次男、時光母御前の弟としておく。

 母御前が兵衛七郎に嫁いだのがいつかは不明だが、五男四女の多くの子供に恵まれている。

 夫を亡くした時には懐妊しており、これが七郎五郎であった。
弘安3年(1280)9月5日に七郎五郎が死去した時、末子であっただけに、母御前の悲嘆は並々ならぬものであったようで、大聖人からたびたび励ましの御言葉を賜わっている。

■ 「故七郎五郎殿は当世の日本国の人人には・にさせ給はず、をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・はたちにも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり、 乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや」(上野殿母尼御前御返事   弘安三年一〇月二四日  五九歳 1509)

■ 「二人のをのこごにこそ・になわれめと.たのもしく思ひ候いつるに・今年九月五日・月を雲にかくされ・花を風にふかせて・ゆめか・ゆめならざるか・あわれひさしきゆめかなと・なげきをり候へば・うつつににて・すでに四十九日はせすぎぬ、まことならば・いかんがせん、さける花は・ちらずして・つぼめる花のかれたる、をいたる母は・とどまりて・わかきこは・さりぬ、なさけなかりける無常かな・無常かな」(上野殿母尼御前御返事   弘安三年一〇月二四日  五九歳 1512)

 このほか大聖人が御入滅まで母御前に送られた御書のなかでは必ず七郎五郎の死去についてふれられて、母御前を慰められている。

 弘安4年(1281)12月8日の上野殿母御前御返事には温かい人柄が伝わってくるような御書である。

■ 「乃米一だ・聖人一つつ・二十ひさげか・かつかう・ひとかうぶくろおくり給び候い了んぬ。
 このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ、さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の山・出ずる事一歩も候はずただし八年が間やせやまいと申しとしと申しとしどしに身ゆわく・心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候上・ゆきはかさなり・かんはせめ候、身のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし、しかるに・このさけはたたかに・さしわかして、かつかうを・はたと・くい切りて一度のみて候へば・火を胸に・たくがごとし、ゆに入るににたり、あせに・あかあらい・しづくに足をすすぐ、此の御志は・いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに・両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候」(上野殿母尼御前御返事   弘安四年一二月八日  六〇歳 1579)

 身延に入山されて8年、すでに身体も弱まり、食事もすすまなくなられた大聖人を心配して白米や健胃剤となる“かっこう”を御供養しているのである。

 こうした純真な信仰を続ける母御前は熱原法難の時にも、時光とともに外護の働きをしたことであろうことは間違いないと思われる。

 弘安7年(1284)5月10日に死去し、夫の兵衛七郎と同じ高土の地に葬られた。

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(3)兄弟〈太郎〉

 兵衛七郎の長男であり、時光の兄である。御書のなかにも述べられている個所がなく、文永11年(1274)8月10日に水死したと伝えられているのみで、詳細は不明である。墓は下之坊の前の水田の中にある。

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〈三郎および四郎〉

 時光の弟である。七郎太郎と同じく、御書のなかに記述がなく詳細は不明である。
ただ弘安3年(1280)10月24日の上野殿母御前御返事に

■ 「二人のをのこごにこそ・になわれめと.たのもしく思ひ候いつるに」(1512)とあることから、弘安3年にはすでに死亡していたようである。

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〈七郎五郎〉

 兵衛七郎の末子である。
 上野殿母御前御返事に

■「故上野殿には壮なりし時をくれて歎き浅からざりしに・此の子を懐姙せずば火にも入り水にも入らんと思いしに」(1572−15)

とあるように、文永2年(1265)3月、兵衛七郎が死去した時に、母が懐妊していた子である。

■ 「此の子すでに平安なりしかば」(1572−16)

と仰せのように、大きな事故もなく成長していった。
 七郎五郎は兄の時光に似て信仰心の篤い人柄の良い青年となっていた。
 上野殿御返事には

■「いとをしき・てこご・しかもをのこご・みめかたちも人にすぐれ心も・かいがいしくみへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候)(上野殿御返事   弘安三年九月六日  五九歳 1496)

■ 「此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに」(同上)

 上野尼御前御返事には

■「故五郎殿はとし十六歳.心ね・みめかたち人にすぐれて候いし上.男ののうそなわりて万人に・ほめられ候いしのみならず、をやの心に随うこと・水のうつわものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし、いへにては・はしらとたのみ・道にては・つへとをもいき」(1野尼御前御返事   弘安四年一月一三日  六〇歳 1553)

 上野殿母御前御返事には

■「余所にても・よきくわんざかな・よきくわんざかな・玉のやうなる男かな男かないくせ・をやのうれしく・をぼすらむと見候いしに」(上野殿母尼御前御返事   弘安四年一二月八日  六〇歳 1580)

 これらの記述から、七郎五郎は豪胆で、かつ容貌もすぐれ親孝行の子であったようである。
大聖人は、弘安3年(1280)6月15日、時光とともに身延に参詣した七郎五郎の姿を
■「あれは肝ある者かな男や男や」
とめでられ、時光とともに日興上人のもとで広宣流布の戦いに活躍するであろうことを期待されていたにちがいない。

 しかし人間の寿命は推し量りがたいものであり、大聖人に御目通りしてから3ヵ月後に、七郎五郎は急逝した。死因の資料はない。

 大聖人は七郎五郎の死去の報を聞かれ直ちに筆をとられた。

■ 「南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」(上野殿御返事   弘安三年九月六日  五九歳 1496)

 七郎五郎の死を悼む御書は、この上野殿御書をはじめ、合計10編に及んでいる。

 一人の人間に、そのうえ16歳の若き信徒の死を、これほどまでに心に留められ惜しまれているのは、多くの信徒のなかでも、七郎五郎ただ一人である。

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(4)姉妹〈蓮阿尼〉

 時光の姉蓮阿尼は新田五郎重綱に嫁した、新田家は本領が陸奥国登米郡の上新田であるが、重綱は伊豆国仁田郡畠郷に住していた。一族の多くは北条氏の家人である。

 日亨上人の「富士日興上人詳伝」によれば、蓮阿尼は多くの男子に恵まれ、そのうち四男の四郎信綱は大聖人からの賜書もあり、大聖人の御本尊を授与されるほどの強信者であった。日興上人の弟子分帳にも「新田四郎信綱は、日興第一の弟子なり、仍って申し与うる所、件の如し」と記されている。

 また五男=五郎=日目上人は「御伝土代」に述べられているように、文永11年(1274)15歳の時に日興上人に値って弟子となり、建治2年(1276)11月24日、身延山に詣でて大聖人が御入滅されるまで、常随給仕されている。

 日興上人は「日興跡条条事」で次のように日目上人を讃えている。「右日目は十五歳日興に値いて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るまで敢て違失の義なし、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣りて御在七年の常随給仕し、御還化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如き書き置く所なり」と。

 次男の頼綱もまた時光の娘を妻とし、日目上人から相承を受け日道上人はその子である。