●序

 仏道修行に、大きく分けて、6つの修行法が有ります。
これを六波薙蜜(ろくはらみつ)と申します。

その6つの菩薩行、六波羅蜜とは、

第1に布施(ふせ)波羅蜜、
第2に持戒(じかい)波羅蜜、
第3に忍辱(にんにく)波羅蜜、
第4に精進(しょうじん)波羅蜜、
第5に禅定(ぜんじょう)波羅蜜、
第6に智慧(ちえ)波羅蜜であります。

 この第1番目に、なにゆえ布施波羅蜜が置かれているかと言え
ば、この布施波羅蜜が、最も簡単にできる菩薩行、仏道修行であ
るからです。

 布施波薙蜜とは、

お金や物を与える財施と、
説法をする法施と、
恐怖心を取り除いて、安心を与える無畏施

との3つが有ります。

 なお、この布施を、特に仏法僧の三宝に奉ることを「御供養」
と申し上げるのであります。

●無財の七施

 布施波羅蜜の修行の中に『無財の七施』というのがあります。
これは、財産を損なうことなくできる布施・御供養であります。
そして、その功穂は絶大であります。

 その無財の七施とは、『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に説
かれる

・眼施(げんせ)
・和顔悦色施(わげんえつじきせ)
・言辞施(ごんじせ)
・身施(しんせ)
・心施(しんせ)
・床座施(しょうざせ)
・房舎施(ぼうしゃせ)のことであります。


●眼施(げんせ)

 無財の七施の第1番目は「眼施」と申します。眼を施すという
ことであります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「常に好眼を以て父母・師長・沙門・婆羅門を視るに、悪
眼を以てせず。名づけて眼施となす。身を捨つるも身を受
けて清浄眼を得、未来成仏して天眼・仏眼を得ん。是れを
第一の果報と名づくるなり」 (国訳本線部1−241)

と説かれてあります。

 これは、自分の目を、他の目の不自由な人に差し上げるという
意味ではありません。やさしいまなざし、慈悲のまなざしで人に
接するということであります。

『法華経巻第八 観世音菩薩普門品第二十五』に、

「具一切功徳(ぐいっさいくどく)慈服視衆生(じげんじ
しゅじょう)一一切の功徳を具して 慈眼をもって衆生を
視(み)る」           (法華経571)

 菩薩が、衆生を見るときには、慈悲の眼をもって見るのであり
ます。親が子供を見るような目です。

 疑いの目・怒って人を睨みつける目・人をバカにして蔑すむ目・
人を軽蔑した目、仏法を信仰する者は、このような目をしては、
絶対になりません。

 常に、慈悲の眼をもって人に接していくならば、その人の眼は、
いつの間にか清浄の眼となって、しかも成仏した暁においては、
その人は仏眼を具える。仏の眼を、得ることができるのでありま
す。

 また、『法華経巻第三 化城喩品第七』の中にも、

「願得如世尊(がんとくにょせそん)慧眼第一浄(えげん
だいいちじょう)−願わくは世尊の如く 慧眼第一浄なる
ことを得ん」             (法華経284)

と説かれております。

 私たち仏法を信仰する者は、
 『仏様のようなきれいな服を持ちたい』
と願うことが、当たり前です。そのために眼施をするのでありま
す。


●和顔悦色施(わげんえつじきせ)

 第2番目は「和顔悦色施」と申します。人に対するとき、優しい笑顔をもって接するということであります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「父母・師長・沙門・婆羅門に於いて、悪色をもって顰蹙(ひ
んじゅく)せず。身を捨つるも身を受けて、端正色(たんじょ
うじき)を得、未来成仏して真金色(しんこんじき)を得ん。
是れを第二の果報と名づくるなり」(国訳本線部1−241)

と説かれております。

 怒った顔、しかめっ面、人を威圧する顔、これらは仏法を信仰
する者の顔ではありません。常に穏やかな、にこやかな、温かい
笑顔でもって、父母や、そしてまた、僧侶や同志や世の中の人々
に接していく。

笑顔と言っても、作り笑いはいけません。
人をあざけるような笑い、せせら笑い、バカにした笑いは、仏法者とし
て、絶対にしてはなりません。本当の穏やかな、人を安心させる
笑顔をもって、人に接するということが大切であります。

『法筆経巻第六 寿量品第十六』に、

「柔和質直(にゅうわしちじき)」   (法華経441)

と説かれております。柔和で正画な笑顔が大事であります。

 また、『法華経巻第五 安楽行品第十四』に、

「以微妙義(いみみょうぎ)和顔為説(わげんいせつ)一
微妙(みみょう)の義を以て 和顔(わげん)にして為に
説け」              (法華経389)

と説かれております。人に法を説くとき、その顔は、温かみのあ
る笑顔で法を説くべきであります。

 ただし、『同品』に、

「若為女人説法(にやくいにょにんせっぽう)。不露歯笑(ふ
ろししょう)一若(も)し女人の為に法を説かんには、歯
を露(あらわ)にして笑(え)・まざれ」 (法華経382)

とありますように、男性が、自分の家族以外の女性に、むやみに
白い歯を見せるべきではないことを付け加えておきます。

 日蓮大聖人様は、『上野殿御消息』に、

「親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事なくば一日
に二三度え(笑)みて向かへとなり」(平921・新1395)

と説かれております。

 『自分の父親・母親に対して何か差し上げたい』
と思って、何もないとするならば、1日に2度・3度、親に自分
の笑顔を見せる。それが親への孝行につながっているのだと御指
南されているのであります。

 家庭の中にあっても、職場の中にあっても、いかなる場所に
おいても、慈悲の心から顕れたにこやかな笑顔を皆に注いだなら
ば、必ず、その場は、和(なご)やかな雰囲気に変わっていくも
のであります。

 ましてや、人に法を説く、折伏を行ずるとき、そのときの自分
の顔、振る舞いというものは、そうした穏やかな笑顔に包まれて
いるということが大切であります。

 このような人は、未来において、必ず美人・美男子になると、
御経文に説かれております。外見だけの美人・美男子ではありま
せん。本物の、心身ともに美人・美男子であります。これを称し
て『法華美人』というのであります。

『論語 泰伯』に、曽子の言葉として、

「顔色(がんしょく)を正して、斯(ここ)に信に近づく」

とあります。顔色を正せば、本当の信義の人が近づき、悪人は、
自然に遠ざかるのであります。

 第1番目の「眼施(げんせ)」と、第2番目の「和顔悦色施(わ
げんえつじきせ)」とを合わせて、日蓮大聖人様は『六難九易抄』
に、

「人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面(おもて)
にあらはれ、一尺のかほのたましひも一寸の眼(まなこ)
の内におさまり候」      (平1243・新1850)

と仰せのように、私たちの心の.中は、顔に顕れ、眼に顕れます。
顔を見れば、眼を見れば、その人の心が判るのであります。如是
相に、すべて顕れる。ですから、成仏の相というのは、何も亡く
なった人だけに限るものではありません。生きている人にも通じ
るものです。

 信心をしっかりしていれば、自然、顔も眼も仏様に近づいてく
るものであります。また、そのようにならなければ、本当に信心
しているとは言えません。仏様の顔、仏様の眼になるように、常
に心掛けて下さい。

●言辞施(ごんじせ)
 第3番目は「言辞施」と申します。言葉の布施ということであ
ります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「父母・師長・沙門・婆羅門に於いて、柔軟(にゅうなん)
の語を出し、麁悪(そご=荒っぽい雑な言葉)の言(ごん)
に非ざれば、身を捨つるも身を受けて、言語の弁了を得る
こと言説すべからずして、人の為に信受せられ、未来成仏
して四弁才を得ん。是れを第三の果報と名づくるなり」
                (国訳本線部1−241)

と説かれております。

 やさしい柔軟な言葉をもって人に布施をするということであり
ます。無礼な言葉、心ないお世辞・二枚舌・ウソ・悪口、これら
は仏教者の言葉ではありません。この中の悪口は、一番いけませ
ん。人の悪口を言う人がいたならば、その人は仏教者ではありま
せん。特に『法華経』を信仰している僧俗の悪口は、最も恐ろし
い罰を受けます。

『法華経巻第四 法師品第十』の中に、

「若人以一悪言(にゃくにんいいちあくどん)。毀(「此」の下に「言」)在家出
家(きしざいけしゅっけ)。読誦法華経者(どくじゅほけきょ
うじゃ)。其罪甚重(ございじんじゅう)

一若(も)し人(ひと)一(いち)の悪言(あくごん)を以て、在家出家の法
華経を読誦する者を毀(「此」の下に「言」)(きし)せん、其の罪甚だ重し」
                    (法華経321)

と説かれております。

 日蓮大聖人様は『法蓮抄』の冒頭に、この御経文を引かれまし
て、

「法華経の末代の行者を心にもをもはず、色にもそねまず、
只たわぶ(戯)れての(罵)りて候が、上の提婆達多がご
とく三業相応して一中劫、仏を罵言(めり)し奉るにすぎ
て候ととかれて候」        (校954・平810)

と解釈されております。

 たとえ、心に思っていなくても、冗談であっても、『法華経』
を信仰する人の悪口を言うべきではありません。その罪は、提婆
達多の大罪にくらべて、百千倍以上であります。

 では、『法撃経』を信仰する者の言葉とは、どのようなものか、

『法華経巻第一 方便品第二』に、

「言辞柔軟(ごんじにゅうなん)。悦可衆心(えっかしゅし
ん)−言辞柔軟にして、衆(しゅ)の心を悦可せしむ」
                    (法華経89)

と説かれております。慈悲にあふれた、柔軟な言葉を発して、他
人の心を悦ばせるということが大切だと説かれております。それ
は、同時に、人を成仏させる言葉です。

 しかし、常に柔軟な優しい言葉だけが良いというものではあり
ません。ときには、強い言葉も必要です。

『善無良三蔵抄』に、

「仮令(たとい)強言なれども、人をたすくれば実語・軟語(な
んご)なるべし。設(たと)ひ軟語なれども、人を損ずる
は妄語(もうご)・強言なり」   (校510・平445)

と仰せです。

 日本中の人々は、日蓮正宗の僧俗以外は、すべて、諸法の人た
ちであります。このままでは、地獄に堕ちる人たちであります。
たとえば、皆さん近くに小さな子供がいて、その子供が、親か
ら離れて、赤信号を渡ろうとしていたならば、どのようにするで
しょうか。優しい声や、小さな声で、
 「渡ってはいけませんよ」
と言う人はおりません。だれでも、大声で、強い命令調に、
 「危ない。渡るな。そこを動くな」
と言うはずであります。

 謗法の人を折伏するときは、基本的には、優しい柔軟な言葉で
折伏します。しかし、時と場合においては、強い言葉も必要です。
たとえ、強い言葉を発しても、それは、相手を救うための言葉で
ありますから、『方便品』の「言辞柔軟」に当たるのであります。
相手の誘法を認めてしまったならば、それは、たとえ優しい言葉
であっても、強言であり、ウソであります。

 日蓮大聖人様も、師匠・道善房に対して、謗法を改めさせるた
めに、強い言柔をかけられたと『善無畏三蔵抄』に仰せであります。

 ただし、大勢の人たちの前で、法論や折伏をするときの心構え
として、『教行証御書』に、

「公場にして理運の法門申し候へばとて、雑言・強言・自
讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿(あさまし)き事
なるべし。弥(いよいよ)身口意を調へ謹んで主人に向か
ふべし、主人に向かふべし」  (平1110・新1166)

と仰せでございます。

 大勢の人の前では、法論の相手だけが折伏の対象ではありませ
ん。そこにいるすべての人たちが、折伏の対象であります。です
から、このようなときは、粗雑な言葉遣い、強い言葉遣い、自慢
するような言葉遣いは、絶対にすべきではありません。

 私たちの、普段の会話における言葉遣いは、『法華経』の行者
として、日蓮大聖人様の弟子・檀那として恥ずかしくないように、
柔軟な、優しい言葉遣いをすべきであります。

 大聖人様は『十字御書』に、

「わざわいは口より出でて身をやぶる」(平1551・新2224)

と仰せであります。『法華経』を信仰する者は、言葉を大切にし
なければなりません。

『崇峻天皇御書』に、

「されば王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ。
孔子と申せし賢人は九思一言とて、ここのたび(九度)お
もひて一度(ひとたび)申す」 (平1174・新1734)

とございますように、
 『思ったことを話すのは、正直だ』
と思われるかも知れませんが、それが、他人を悩ませたり、苦し
めたり、追い込んだりする言葉であるならば、言うべきではあり
ません。

 孔子の九思一言の中に、
「言(げん)は忠を思う」     (『論語 季氏』)

とあります。言葉というものは、口と心とが別々であってはなら
ないのであります。ところが、肝心の心が曲がっていれば、自然、
言葉も曲がってしまうものであります。
 人を成仏させる言葉、それは、私たちの一言・一句であります。

●身施(しんせ)

 第4番目は「身施」です。身を布施するということであります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「父母・師長・沙門・婆羅門に於いて、起き迎えて礼拝す。
是れを身施と名づく。身を捨つるも身を受けて、端正(た
んじょう)の身、長大(じょうだい)の身、人に敬わるる
身を得、未来に成仏しては尼拘陀樹(にくだじゅ)の如く
頂(いただき)を見る者なけん。走れを第四の果報と名づ
くるなり」        (国訳本線部1−242)

と説かれております。

 この身施とは、簡単に言えば、挨拶です。礼儀です。

『論語季氏』に、

「礼を学ばざれば、以て立つことなし」

とあるように、礼儀を学ばなければ、人間として、世に立つこと
はできません。また、仏法を信仰する人は、挨拶が、しっかりと
できなければなりません。
 『あの者は、仏法を信仰しているのに、満足に挨拶もできない
 のか』
と思われたならば、御法を下げてしまいます。

 家にあっても、仕事場にあっても、お寺であっても、挨拶をき
ちんと交わす。
 「相手が挨拶してから、こちらが挨拶したならば、負けであり、
 相手より先に、こちらが挨拶すれば、勝ちである」
 私たち僧侶は、小僧のときに、先輩より、このように教わりま
した。相手が挨拶をかえしてくれた、くれなかった、などの小さ
いことにこだわる必要はありません。挨拶をした方が、仏様に近
いのです。

『礼記 冠義』に、

「礼義(れいぎ)の始めは、容体(ようたい)を正しくし、
顔色(がんしょく)を斉(ととの)え、辞令(じれい)を
順にするに在(あ)り」

とあります。礼儀において、最初になすべきことは、まず、自分
の姿勢や態度を正しくすることであり、次に顔色をととのえて、
言葉を順当にしていくことであります。

ゆえに、この第四番目の「身施」と、
第二番目の「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」
・第三番目の「言辞旛(ごんじせ)」は、密接につながっております。

 日蓮大聖人様は『上野殿御消息』に、

「友達の一日に十度二十度来たれる人なりとも、千里二千
里来たれる人の如く思ふて、礼儀いささかをろか(疎略)
に思ふべからず」      (平922・新1395)

と仰せです。

「毎日のように、また、1日に何回も家に来てくれる人であっ
 たとしても、千里・2千里、はるばると訪ねて来てくれた人と
 同じような気持ちで、その人と礼儀をもって接しなさい」

ということを、御教示されているのであります。

 日蓮正宗の僧俗にとって、挨拶は、さらに、重要な意義があり
ます。

 すなわち『崇峻天皇御書』に、

「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて
候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊
の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」
               (平1174・新1735)

とありますように、常不軽菩薩の礼拝行に通じるのであります。

挨拶する相手を、単に、『人間』と思わず、『仏性を具えた人』・
『仏に成る人』と思って挨拶すべきであります。これが『法華経』
の修行、折伏行の精神であります。

●心施

 第5番目は「心施」と申します。心の施しであります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「上の事を以て供養すと錐も、心、和書ならずんば、名づ
けて施と為さず。善心にして和書ならば、深く供養を生ぜ
ん。是れを心施と名づく。身を捨つるも身を受け、明了心
を得て、痴狂の心ならず。未来に成仏して一切種智心を得
ん。是れを名づけて心施、第五の果報となすなり」
               (国訳本線部1−242)

と説かれております。

 無財の七施のうち、「心施」のほかの六施に、真心がこもって
いなかったならば、布施になりません。御供養になりません。

『白米一俵御書』に、

「ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へ
て仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(い
さい)にかんがへて候へば、親心(かんじん)の法門なり」
                (平1544・新1601)

と仰せです。御供養には、真心・志が、何よりも大事です。

『法華経巻第八 観世音菩薩普門品第二十五』に、

「慈意妙大雪(じいみょうだいうん)樹甘露法両(じゅか
んろばうう)減除煩悩焔(めつじょぼんのうえん)一慈
意の妙は大要のごとく 甘露の法雨を封(そそ)ぎ 煩悩
の焔(ほのお)を減除す」     (法華経570)

と説かれております。私たちの心の中は、貪瞋癡の三毒という煩
悩の炎が燃え盛っております。それが慈悲の心によって、煩悩の
炎を消すことができるのであります。

 日蓮大聖人様は『十字御書』に、

「さいわいは心より出でて我をかざる」
               (平1551・新2224)

と仰せであります。

 また、『崇峻天皇御書』に、

「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一
なり」          (平1173・新1733)

と御指南されております。この、心の財が、無財の七施の中心で
す。.これが無ければ、功徳は積むことができません。

『衆生心身御書』に、

「法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給ふ。
仏の御心はよき心なるゆへに、たといしらざる人も此の経
 をよみたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ(蓬)・
 つつ(筒)の中のくちなは(蛇)・よき人にむつ(陸)ぶもの、
 なにとなけれども心もふ(振)るま(舞)ひも言もなを(直)
 しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれども
 この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼ(思)すなり」
                  (平1212・新1945)

と仰せであります。第3番目の「言辞施(ごんじせ)」・第4番目
の「身施」、そして、この第5番目の「心施」に通じる御指南で
あります。
『法華経』を信じたならば、日蓮大聖人様の弟子・檀那となっ
たならば、1日1日と、心も、振る舞いも、言葉遣いも良くなっ
ていくものであります。また、良くなっていかなければなりませ
ん。信心している人は、毎日毎日、良い方に、良い方に、成長す
るものです。成長しない人は、本当に信心しているとは言えません。


●床座施(しょうぎせ)
 第6番目は「床座施」であります。
『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、
「若し父母・師長・沙門・婆羅門を見ば、為に床座を敷き
て坐せしめ、乃至自ら己(すで)に自ら坐せる所を以て、
請い坐せしむるなり。身を捨つるも身を受け、常に尊貴な
る七宝の床座を得、未来に成仏して師子法座を得ん。是れ
を第六の果報と名づくるなり」 (国訳本線部1−242)

と説かれております。

 バスに乗ったり、電車に乗ったとき、特に、長距離であった場
合、疲れていた場合、席に座りたいものであります。全員座るこ
とができれば、それで結構ですが、全員が座れない場合、特に、
自分より年上の人に座席が無い場合、迷わず、席を譲ってあげて
ください。それも、恩着せがましく、席を譲ってはいけません。
それでは、徳は積めません。
 「どうか、ここに、お座り下さい」
と、お願いする形をとって座ってもらうのです。

 何よりも、最も尊い席は、法座です。仏法の話・法話のときで
す。日蓮大聖人様の大仏法のお話をする席は、信心が有るならば、
だれでも、前の方に座りたいものであります。後ろに座りたい人
など、ひとりもいないはずです。

 その法座の最前列に、どっかり座るのではなく、半座を譲って、
お互いに仲良く聴聞することは、大きな功徳であります。また、
そのような法座に、人を連れてくることも「床座施(しょうざせ)」
であります。だからと言って、みんなが譲り合って、全員が後ろ
の方へ下がってはいけません。これは謙虚と言うより、無信心と
言うべきです。

 お寺には畳が敷かれていますが、1番後ろの畳、後ろから2番
目の畳は、「無信心の畳」、「薄い信心の畳」と言えます。参詣者
が満杯の場合は、そのような名称は、不適当ですが、そうでない
場合は、そのような後ろに座るべきではありません。御本尊様に
失礼です。だいたい、お寺に参詣者が座っている姿を見て、そこ
のお寺の御信徒の信心が判るものであります。

『法華経巻第六 随喜功徳品第十九』に、

「若し復(また)人有って、講法の処に於いて坐せん。
更に人の来たること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、
若しは座を分かって坐せしめん。是の人の功徳、其の福限るべからず」
 (法華経468・473)

と説かれてあります。

法座を譲り合う功徳は、仏様ですら、その功徳・福徳は量り知れないと仰せになっているのであります。


●房舎施(ぼうしゃせ)
 最後、第7番目は「房舎施」と申します。休養する家を施すこ
とであります。
『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、
「前の父母・師長・沙門・婆羅門をして、屋舎の中に行来
坐臥することを得せしむ。即ち房舎施と名づくるなり。身
を捨つるも身を受け、自然の宮殿(くでん)・舎宅を得、
未来に成仏して諸の禅屋宅を得ん。足れを第七の果報と名
づくるなり」        (国訳本線部1−242)
と説かれております。
 自分の家を他人のために使うことを「房舎施」と申します。特
に、座談会・宅御講・唱題会等に自分の家を利用させていただい
たならば、その功徳は莫大です。座談会・宅御講・唱題会等を行っ
たならば、その家は、そのままお寺の出張所であります。多くの
人のお題目によって、家そのものに、福徳がついてきます。また、
そのような人は、未来において、大きな家を得ると御経文に説か
れているのであります。

 以上が無財の七施であります。

『雑宝蔵経巻第六 七種施の因縁』に、

「之を七施と名づく。財物を損せずと錐も、大果報を得
るなり」          (国訳本線部1−242)

とありますように、1円のお金もかけず、布施波羅蜜・御供養が
できて、さらに、成仏という大果報を得ることができるのであり
ます。

 また、「無財の七施」とは、「お金をかけずにできる、7種類の
布施・御供養」という意味だけではなく、「お金には代えられない、
7種類の布施・御供養」という意味でもあります。この無財の七
施を、常に心掛けて、常に大功徳を積んでいただきたいと思いま
す。