【精師舜師矛盾書付け】

正本がない。

以下のタイプ者不明のワープロ文書があるだけ

妙観文庫目次

大遠日是/文雅日照 写 とあり、精師・舜師双方の直筆文書はない。

この文書の原本が書かれたとする慶安4年(1651)からこれが書写さ
れたとされる享保4年(1719)まで、実に68年が経っているのである。


精師舜師矛盾書付(仮題)

大石寺十九代日舜、自筆を以て無実を言い懸け申し候に付き、返答書を以て申し上げ候事

一、大石寺、住物・道具共盗み取る等之事、某、旦那と親子之契約仕り候に依りて、大石寺入院の砌、

旦那従り道具共之を給う目録二冊御座候を、正保二年九月、某病中に物の本二駄、大石寺代々相伝之血

脈並に証文その外、右之目録共相渡し候。某拝領之道具共に候上は余人之いろい有る間敷く候処、盗み

取る之由に申され候事、不審千万に候。何とて其の方入院の始め五三年之中には申し上げらず候や。何

樣其方之代に申し上げらるべき事を、隠居致し次之代に申され候事は偽り歴然に候。其の道具拝領の時

に見申す衆、餘多(あまた)御座候、御尋ねにおいては隠れ有る間敷く候事。

一、先年大旦那従り大堂客殿以下造営に付き算用の帳相違の事。此の書面に就き偽り露見仕り候。其の

故は寛永八年十月十二日夜大石寺諸堂炎焼仕り候。先師日就大願をおこされ候へ共、翌年二月に終焉の

故某師に替り再興仕り候。大旦那より之を奉加、前後合わせて八百両餘り、其の外は十方の旦那之助成

を以て造営仕り候。千五百八十両余り金子皆旦那より出でたるにては無く御座候。此の段富士之衆徒旦

那皆存じて候。
炎焼之跡にて候へば御推量成され候いて下さる可く候。御趣を以て今之書面を見申し候へば偽り分明に

候。又某材木二割を掛け申し候はば其の時に申されず候いて二十年過ぎ去りて何とて申され候や。又其

の方入院之始め申さるべき事を今年迄引き延ばす、不審に候。証文之れ在りて候へば某割を掛け申し候

はば材木屋之手形に加判之証文(?)又人に申し付け候はば其の趣状候や。

一、血脈伝授之事、日舜入院之初め衆徒旦那を集め、某と永代不通之起請文を取り為し書きて候。不審

に存じ日舜の心底を見定め候迄と存じ、他家之血脈を渡し申し候。然れ共、正保二年九月、某之病中に

当家之血脈並に証文書・書籍とも相渡し申し候。某手前に毛頭之を残さず由、起請文を仕るべく之由其

の外色々之を扱う様子候へ共合点参らず候。

一、秘密之書籍之事、何等之書にて候や、存ぜす候。某所持之本は師匠之相伝或は又遺物其の外、都鄙

(とひ)(都会と田舎=江戸と大石寺)にて書写之本にて候間、世に隠れ無く候。代々削等候事、血脈

伝授之落居仕り候共返答に及ばず候。

慶安四年   卯の霜月 日精 判

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大石寺無住の事

現時でも御法主上人が御親教や御入院時には、御代理僧により丑寅勤行が勤修されている。
事情により御法主上人が大石寺に居られない時があっても、何か問題か?