日達上人の許された「大法弘通御本尊」の件

 記録によれば、この日(四十九年九月二日)の宗門・学会の連絡会議において、学会側が、「本部の常住御本尊」を板御本尊にお願いしたい、と申し出ており、翌三日、この申し出を知られた日達上人は、「いいでしょう」との御意向を宗務役僧に示されている。

 その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊御下附願が正式に出てくるもの、とばかり思っておられたというが、学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約四ヶ月が経過した。

 そして年を明けた昭和五十年の一月一日、突如(まさに突如として)、池田は、学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊から模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部三階に入仏してしまったのである。


 当時の聖教新聞(※資料@の写真を参照)は、これを次のように報じている。
 
「板御本尊に参加者はお目通り。
これにより『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。
なお、これまでの紙幅の常住御本尊は学会の重宝として永遠に保存されることになった。」

 およそ、紙幅の御本尊を板御本尊に替えるとすれば、通常は新たな板御本尊の御下附を申請するものであるが、かりに紙幅の御本尊を板に御謹刻申し上げるとしても、こと大事の御本尊に関するかぎりは、まず宗門にお納めし、御謹刻から開眼・入仏まで、すべて宗門の定めに従って行なわれるべきである。
それを池田創価学会は、あいまいな口頭での願いだけして、自ら模刻・開眼・入仏まで行なってしまったのである。

 これが物議(ぶつぎ)をかもさぬわけはない。
この新聞報道をきっかけに次第に問題視する声が出始めたためであろう、学会は同年十月二十三日、早瀬日慈御尊能師に願って、再び「大法弘通・・」の板御本尊の開眼入仏法要をやり直している(十月二十四日付・聖教新聞)。

 そして、これをもって、

 「この日に、常住御本尊が日達猊下の御認可を得て板御本尊に謹刻・荘厳され」
(五十一年十月二十四日付・聖教新聞『入仏一周年記念の儀式』報道より)

たことにしてしまおうとしたが、これはかえって、一月一日の時点で池田によって行なわれた模刻・開眼・入仏が、ほとんど独断で行なわれたものであることを、自ら証明する結果となった。

 結局、この「大法弘通・・」の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和五十二年十一月七日、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立四十七周年記念と併(あわ)せて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられたのである。