1、こうして、『   』の部分を浮き彫りにして、我田引水・牽強付会の希望的推測・推量の部分を粗粗抜き出して、俯瞰してみると、この妄犬モゴモゴ君の「考察」がいかに我意に満ち満ちたものであるかが容易に理解出来る。

『  』内は全て、全く教義的根拠のない、妄犬モゴモゴ君の単なる希望・願望の類である。

こいうものをまともな論述とは言わない。

大聖人様はこのような無慙な代物を、斯く破折されている。

 

■「初めに聖道門とは之に就いて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就いて顕密・権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す。故に歴劫迂回の行に当たる。之に準じて之を思ふに、まさに密大及び実大をも存すべし」已上選択集の文なり。此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て、聖道・浄土の二門を分かつと雖も、我私かに法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す。準之思之の四字是なり。此の意に依るが故に亦曇鸞の難・易の二道を引く時、私かに法華・真言を以て難行道の中に入れ、善導和尚の正・雑二行を分かつ時も亦私かに法華・真言を以て雑行の内に入る。総じて選択集の十六段に亘りて無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起こる。誤れるかな、畏しきかな。(守護国家論   正元元年  三八歳)

 

日寛上人もである。

■一、之に准(準)じ之を思うに文。(二二n)

 これ法然私の准望なり。

 国家論十 二十八に云く「此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり」と。(安国論愚記   正徳五乙未六月二十四日)

 

● つまり、大聖人様は、法然の撰択集内にある「之に準じて之を思ふに」との四字は、仏説による根拠のない、私見で結論を導き出すような論述の方法であり、■「無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起こる。誤れるかな、畏しきかな。」と呵責せられておられる。

一方、妄犬モゴモゴ君の恥論にある、

『考えられる。』、『言えよう。』、『考えても不自然であるまい。』、『敷衍して考えるに、』、『更に敷衍するに、』

などの言辞は、まさに法然の 「之に準じて之を思ふに」 との語句と、思考方法と全く同じである。

であるから、妄犬モゴモゴ君がモゴモゴ幾ら何を書いてみても、■「無量の謗法を作す」のみであり、■「誤れるかな、畏しきかな。」なのである。

妄犬モゴモゴ君、全くやり直し、である。

どうせ、自らの不明を羞じて、読者の皆様のご叱正を仰いでいるのであるから、”全くだめ!謗法の言ですね”と言われても、別に傷つきはしまい?